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北海道にも12万年前に人類が辿り着いていた

旧石器時代12万年前の北海道と人類移住


北海道にも12万年前に人類が辿り着いていた(縄文時代と日本人)

前々回、石器でえぐられて建造された丸木船が旧石器時代からあったことを愚考しました。拙ブログでは、この船で日本の旧石器時代人がアメリに渡ったと愚考しております。

関連し、今回は、そのアメリカへの出発点と思われる北海道の旧石器時代を観てみたいと思います。

まず、「旧石器時代の北海道」の記事の一部を紹介しますと次のとおりです。

 北海道で3万年を超える石器は、断片的にいくつかの遺跡で知られています。
 その一つは、昭和45年秋に、十勝の虫類村で発見されたおよそ12万年前のナウマン象の化石とともに採集された石器です。
 散乱する周囲の自然礫の中から人工品の可能性がある石として、吉崎昌一らが採集したものです。
 この石器については、石器と認めるか否か、研究者の間では意見が分かれるところです。
(引用終了)

この記事は、北海道には3万年前から人類の足跡が確実にあり、さらには、最古の石器は十勝の虫類村(ちゅうるいむら、現在は幕別町に編入)で発見され、その時代は12万年前の可能性があるということを指摘しています。

12万年前というのは、すでに紹介しましたが、「島根県出雲市砂原遺跡」と同時代です。その時代は、リス~ウルム間氷期に当たり、やや温暖な時代でした。拙ブログでは、この間氷期に、旧石器時代人が南方から、島根県砂原遺跡に辿り着いたと推察し、これを日本海ルートとしました。

一方、拙ブログでは、日本海ルートよりも太平洋ルート(黒潮ルート)が多かったと推察しました。北海道も黒潮ルートですが、12万年前頃はやや温暖な時代でしたので、北海道に旧石器時代人が住み始めることは可能な時代と思われます。

以上のことから、12万年前から旧石器時代人が北海道にも住んで居た可能性があると思いますが、これから、さらなる遺跡が出ることを期待しています。

そして、その後、7万年前から再度、氷河時代に入りますが、人類の活動は停滞し、人類が本格的に活動を始めるのは氷河期が終わり始める2万年前頃と推察されます。

関連し、これらの様子を上トップの図に示しました。


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[ 2019/02/23 10:31 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

黒曜石発見前後で旧石器時代を分けることができる

旧石器時代の流れと黒曜石利用


黒曜石発見前後で旧石器時代を分けることができる(縄文時代と日本人)

縄文時代以前の旧石器時代の様子について検討してきました。私たちが学校で学んだ旧石器時代というのは、家は無く洞窟などで夜露をしのぎ狩りと採集に明け暮れる日々、すなわち、飢餓と隣り合わせのような暗い印象を受けます。一方、縄文時代になると、竪穴住居と土器があり、安定した生活に入っていったという明るい印象を受けます。

しかし、その暗かった旧石器時代の様子を見ると、5万年前頃から遺跡の数は増え、明らかに人口が増えています。長野県でナウマンゾウ狩りが行われていたのもこの頃です。関連し、今回は、その5万年前頃、何があったのか愚考します。

まず、重要な衣食住で最も重要な食ですが、Wikipedia によると次のように紹介されております。

日本列島の狩猟採集時代の食事を説明する。主に旧石器時代から縄文時代を経て、弥生時代までの食事である。旧石器時代には、主に狩猟によりシカ、ゾウ、ノウサギなど野生の動物が食された。約1万年前縄文時代になると人々は採集することが増えた。食事の中心になったのは木の実やイモであり、クリ、クルミ、ドングリ、ヤマイモ、マメといったものである。縄文人のゴミ捨て場は貝塚と呼ばれており、貝や魚介類をふんだんに食べていたことがうかがえる。ハマグリ、アサリ、カキを中心としイワシ、サバ、マグロなどを漁労によって、イノシシ、シカ、クマなどを狩猟によって獲得していた。縄文晩期になると水田で稲作するようになる。(引用終了)

ここから想像しますと、動物性たんぱく質、植物性炭水化物(でんぷん)は身近にあり、人口密度が少なかった旧石器時代は、食糧確保は大きな困難でなかった印象を受けます。特に、黒曜石が発見された後は、鋭い矢じりを作ることが出来、魚や獣の狩りはしやすくなったと思われます。

続いて、衣ですが、毛皮をまとって寒さをしのいだ感じを受けます。そして、鋭利な黒曜石が発見された後は、例えば上記Wikipediaの鹿ですが、肉と皮を割くこと(表層剥離)がしやすくなり、良質の毛皮が得やすくなったと思われます。

最後に住ですが、Wikipediaには次のように紹介されています。

日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。

旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうした中にあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。

住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。

調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことが分かる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。
(引用終了)

引用が長くなりましたが、このWikipediaの記事をまとめますと、2万年前の大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で竪穴住居もあったことが紹介されています。その屋根は草や皮で覆っていたとありますから、皮はかなりあったことが伺えます。また、材木は黒曜石の石器で切り出していたと思われます。

以上のことをまとめますと、日本に人類が12万年前頃から住むようになりましたが、黒曜石が発見された後、おそらく5万年前頃から、鋭利な黒曜石を生活に使い衣食住は安定してきたことが伺えます。事実、旧石器時代遺跡数は、その頃から急に増え始めます。

そして、2万年前頃から土器が作られ縄文時代に入っていきますが、黒曜石発見後の旧石器時代と縄文時代を比較しますと、違いは土器があるかないかだけになっていきます。すなわち、旧石器時代と縄文時代は連続し繋がっていると思われます。

したがって、旧石器時代は、5万年前の黒曜石発見前と後では大きな違いがあり、旧石器時代を観る場合、黒曜石発見の前と後に分けて扱うと理解しやすくなります。

関連し、旧石器時代を黒曜石発見の前と後に分け、旧石器~縄文時代の流れを上トップの図に示しました。


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[ 2019/02/19 10:49 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考

三内丸山天然の良港鳥浜貝塚と


鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考(縄文時代と日本人)

前回、旧石器時代、ヒョウタンと船はセットであったことを愚考しました。そして、福井県鳥浜貝塚でヒョウタンの種遺物が発見されたことを紹介しました。福井県鳥浜貝塚は古代の船が発見された所でも有名です。

すなわち、航海に必要な船と水筒(ヒョウタン)がセットで発見されたことになりますが、関連し、今回は、鳥浜貝塚のヒョウタンと船について愚考します。

まず、船に関する詳しい情報は、「Wikipedia(鳥浜貝塚)」によれば次のとおりです。

鳥浜遺跡から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。

前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。(1998年に京都府舞鶴市浦入遺跡でも同時期の丸木舟が出土している。)保存状態は良好であるが先端部分が失われている。船尾はとも綱を巻き付けたものか浅いくぼみが残っていて、長期間使用されたことが窺える。舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を 竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6.08メートル、最大幅63センチメートル、厚み3.5〜4センチメートル、内側の深さ26〜30センチメートル。

後者は縄文時代後期(約3000年前)のもの 船底のみが残っていた。現在の長さ3.4メートル、最大幅48セントメートル、厚みは4センチメートルで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものかは不明だが、凸型の彫り出しがあった。材は第一号と同じくスギで造られており、第二号丸木舟と名付けられた。スギ材で造られている丸木舟は縄文時代では非常に珍しく、東日本で見つかっている舟は、イヌガヤ、ムクノキ、クリ、からなどで造られていた。丸木舟は、鳥浜の人の活躍の範囲を拡げたことであろうし、食料獲得に果たした効果も大きかったと推定される。
(引用終了)

この引用記事を参考に、古代の船についてまとめますと、次のようになります。

鳥浜貝塚では、12000年~5500年前の遺跡で、日本最古の船が見つかっており、その全長は6.08mだった。

関連し、別の記事によれば、鳥浜遺跡の隣の舞鶴市千歳の浦入遺跡からは全長が8mの船が見つかっておりますが、こちらの方は弥生時代の遺跡で、外洋航海用と推定されています。さらに、その周囲には縄文時代~弥生時代の船が多数見つかっており、若狭湾一帯は縄文時代から海洋交易として栄えていた、と思われます。

そこで、福井県の鳥浜遺跡辺りを観察しますと、入り組んだ地形で、穏やかな海に面したところが多く、天然の良港であった思われます。そうした環境を背景に、縄文時代早期からの丸木船が多数発見されており、古代から海洋交易の拠点であったと思われます。

5000年前は、三内丸山遺跡を代表に縄文時代最盛期と言われますが、福井県の鳥浜遺跡もその一つとして、三内丸山遺跡と結ばれていたと思われます。関連し、そこでヒョウタンの種が発見されていますが、それが、その航海を支える必需品として利用されていたことは想像に難くありません。

関連し、鳥浜貝塚と山内丸山の場所を上トップの図に示しました。


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[ 2019/02/15 11:04 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

航海の必需品であったヒョウタンのルーツ愚考

ヒョウタン日本への道


航海の必需品であったヒョウタンのルーツ愚考(縄文時代と日本人)

前回、旧石器時代(縄文以前)から船があったことを推察しました。今回は、その航海のための必需品と言われる水筒(ヒョウタン)のルーツについて愚考します。

ヒョウタンは縄文時代から作られていたことが知られております。「この国のすがたと歴史」(網野善彦・森浩一 2005)という書籍(下記写真参照)によれば、ヒョウタンは、縄文時代、水筒として使われ、海洋航海に最も重要な容器であった、と紹介されています。

この国の姿と歴史(書籍表紙)

また、ヒョウタンはWikipedia によりますと次のようにあります。

日本では、縄文時代草創期から前期にかけての遺跡である鳥浜貝塚から種子が出土している。文献史学上では『日本書紀』(720年成立)の中で瓢(ひさご)としてはじめて公式文書に登場する。

古代のヒョウタンは現在のような括れた形態ではなく通常の植物の実のような筒のような形をしていたことがわかっており、突然変異で今日知られているような特徴的な形が発現し、それが人伝に栽培されて世界中に広まった、とされる。
(引用終了)

そこで、縄文時代のヒョウタンですが、現在のようなくびれた形でなく、寸胴型で、たくさんの水を入れることができたようです。

そして、ヒョウタンのルーツは西アフリカですが、アフリカを起源に持つアイヌ系民族は、生活用品の一部として利用していた可能性は高いと思われます。特に、アジア南部の海岸沿いから日本に来るには不可欠の用品、逆にヒョウタンがあったから日本への旅を続けることができたものと思われます。

関連し、ヒョウタンの日本への道について、上トップに示しました。


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[ 2019/02/11 09:23 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

旧石器時代から船はあったのか

人類日本への道(12万年前)


旧石器時代から船はあったのか(縄文時代と日本人)

前回のWikipediaの記事に、伊豆諸島の神津島の黒曜石が旧石器時代の2万年前から利用されていることが紹介されていました。この黒曜石の利用には船運搬が必須です。

関連し、今回は、旧石器時代の船について愚考します。

まず、「第 35 回 -古代の船と航海 その1-」によれば次の通りです。

すでに、縄文時代の丸木舟は百数十艘が出土しているが、その代表的発見例として長崎県大村湾奥出土、東京都中里遺跡出土、及び千葉県多胡町出土の丸木舟について本稿の連載第8回の中で詳述した。

最も丸木舟が出土数の多いのは千葉県下であるが、その市川市雷下で2013年に道路工事の現場から縄文早期(7千5百年前)の丸木舟が出土した、これが現時点の最古の丸木舟である。

しかし、出土品の古さの記録はそれほど問題ではない、なぜなら丸木舟はそれよりも遙か以前から存在していたと推定出来る証拠があるからである。

第一は鹿児島県加世田市栫ノ原遺跡から、新石器時代(1万2千年前)の丸ノミ形石斧が出土していることである。丸ノミの楕円で深く湾曲した刃先は、片刃で木を削るのに適した構造であり、これが世界最古の「舟を作るための石斧」であると鑑定された。丸木舟は木を刳りぬく際に、焼石で焼き焦がして繊維をもろくし、そこを石斧で削ってはまた焼き焦がしという風に作り進めていくのであるが、そこで丸太の内側を細密に均等に削り、微妙なバランスの安定した舟を作るための必須の工具として、丸ノミ形の磨製石斧が使われたのである。

第二は古代の貴重品であった神津島の黒曜石の存在である。神津島は伊豆半島の約60kmの沖合にあり、本島とそこに付属する支島に複数の産地が存在する。神津島の黒曜石が旧石器時代から本州に渡っていた事実は、旧石器から縄文時代にかけての遺跡出土の石器を、蛍光 X 線分析した結果、神津島の黒曜石と同定されていることから確かである。舟がないと神津島に到達することが出来ないため、これは世界的にもこの時代に船の存在を示す古い証拠となっている。加えて伊豆半島と神津島の間には黒潮分流が平均時速4kmで流れており、それを刳舟で越えるのはちゃんとした舟、熟練した航海術とかなりの漕力を必要としたと考えられている。
(引用終了)

また、「琉球列島の旧石器時代の遺跡」によれば、次のとおりです。

琉球列島にホモ・サピエンス即ち「ヒト」がやって来たのは、約三万七千年前とみられます。 奄美大島、徳之島、沖縄島で、この現世人類の遺跡が報告されています。その中で、最も古いのが、那覇市の山下町第一洞穴遺跡で、其処では約三万六千五百年前の日本最古の人骨が発見されている由です。この例を始め、石灰岩は人骨を守ると謂われており、各地で化石人骨が多く見つかるようになりました。併せて、ヒトが食した魚貝類や動物の遺骸も多く発見されています。確かに旧石器人が暮らしていたのです。(引用終了)

これらの記事をまとめますと、丸木船は旧石器時代からあったことかと思われます。また、海に囲まれた沖縄では、約3.7万年前以上前から人類が居たことが確認されています。すなわち、旧石器時代から海を渡る方法があったことになります。

関連し、拙ブログでは、「最初に日本に到着した人類」はアイヌ系民族で、インドネシア辺りにあったスンダランドを経由して12万年以上前に沖縄を経由して日本に来たと観ています。

12万年前、人類はどのように海を渡ったのか、それは謎に包まれていますが、12万年前というのは、人類誕生を最新情報の30万年前としますと、18万年という気が遠くなるような年数が過ぎていて、石器で削った丸木舟があったと観てもおかしくないと思われます。特に、アフリカを出た後はアジア南方の海沿いを移動してきたアイヌ系民族は、当然のことですが、海に慣れた民族と思われます。

これらの記事をまとめますと、石器から作られた丸木船は10万年以上前からあり、それを使って旧石器時代人は日本に移住し、さらに、鋭利な黒曜石を発見すると、丸木舟建造はより容易になったと推察することができます。

関連し、上トップの図は旧石器時代12万年前頃の人類の日本への道です。海路が多く、移動のための船があったと推察できます。


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[ 2019/02/07 10:40 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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