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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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邪馬台国の真相 おわりに


菜園の花2


邪馬台国の真相 おわりに

「邪馬台国の真相」について記事アップを続けてきましたが、早いもので今回が最後です。ここで言いたかったことは、次の4点です。

1. 邪馬台国は大分にあったという説が妥当である。
2. 日本書紀は邪馬台国を故意に無視した。
3. 邪馬台国はツングース系民族支配の国であった。
4. 邪馬台国は魏志倭人伝にあるような戸数7万の大国では無かった。


まず、1の大分説ですが、魏志倭人伝を素直に読めば、ほぼ間違いないと想われます。多くの指摘が示すとおり、ヤマト説は矛盾だらけで論外です。

そして、その論外のヤマト説が残った理由として、邪馬台国(原本名:邪馬壹国やまいちこく)をヤマトに近い発音(やまたいこく)と混同したことに始まる感じがします。その後、「邪馬台国は無かった」(古田武彦 1971)という書籍が発表され、完全に否定された感じがします。

さらに、関連し、2の日本書紀の扱いです。日本書紀は「偉大な万世一系の天皇家」をテーマに創られた書物です。このため、現天皇家の前にあったツングース系王家、倭の武王で有名な倭国を無視するという方法が採られました。同じ理由で邪馬台国も無視されています。

次に、3の邪馬台国を支配した民族の推定です。福岡・佐賀は南方由来のマレー系が多く、一方、大分は朝鮮半島由来のツングース系が支配していたことが、その後の歴史経過や現在のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から推察されます。女王卑弥呼が使った鬼道もツングース系由来であったことが推察されます。

すなわち邪馬台国は大分にあり、ツングース系民族が支配した国と思われます。

最後に、4の戸数の問題です。当時の人口は九州全体で40万人と推定されています。邪馬台国の戸数7万というのは、7万戸×4~5人=28~35万人になり、これはあり得ません。おそらく、大国に見せるために誇張して報告された感じがします。

すなわち、邪馬台国は、もともと大国ではなかったため、4世紀に百済の支援を受けたマレー系主体の北九州倭国が創られると、維持できなくなり、消えていったと思われます。

関連し、九州地域の前方後円墳建造(4~5世紀)が東九州に偏っていることから想像しますと、ツングース系は、4世紀、西九州のマレー系倭国と別れ、ヤマトのツングース系王家の一部となり、大分等の東九州の支配者になっていったと想われます。

なお、上と下の写真は我が菜園の花です。最近は花も楽しんでいます(笑)。

菜園の花1


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[ 2023/05/26 07:29 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

邪馬台国の真相 9.邪馬台国は大分にあった


邪馬台国は大分辺り


邪馬台国の真相 9.邪馬台国は大分にあった

邪馬台国の所在地について著名な説として、近畿ヤマト辺り、北九州博多辺り、北九州筑後辺り、北九州大分辺りがありますが、原文(魏志倭人伝)の内容に最も適合している女王国の場所を検討しますと、「はじめに」で紹介しましたように大分辺りになります。

そこで、大分で良いのか、今回はさらに検討します。一部繰り返しになりますが、要点は以下の6点です。

① 女王国は伊都国の南方、水行で10日、または陸行で1ヶ月の地にある。
② その女王国の東に海があり、その東に陸地がある。
③ 邪馬台国の住民は入れ墨をし、習俗が海南島の人々に似ている。
④ 南方にある女王国に従わない狗奴国の特徴。
⑤ 卑弥呼はツングース系
⑥ 邪馬台国と関連した地名が残っているか。

まず、「①の北九州からの南方水行10日」ですが、これに従うと、佐賀南部、福岡県筑後地方、大分しか残りません。

次に、「②東に海がある」ですが、この説明では、上記4場所のうち大分しか残りません。大分となると、北部の宇佐、あるいは南部の大分になりますが、宇佐説を支持している人が多い感じがします。

次に、「③の分身(刺青)をしている」ですが、習俗は海南島の人に似ているともあります。日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系25%、そのた10%の民族です。この人たちで分身をし、かつ海南島の人に似ているのはマレー系だけです。事実、中国南部の越族資料館にその姿が下の画像に残されていています(下図参照)。

越人像

なお、本図については、ブログ仲間の邪馬台国探訪様が「古代倭人の姿」でも紹介しております。

次に、「➃の南方にある女王国に従わない狗奴国の特徴」ですが、邪馬台国を北九州一帯の連合した国と見ますと、熊本辺りが有力と思われます。熊本辺りは、弥生時代末期となり、稲作も導入され、豊かな地帯の一つだったと推定されます。また、熊本以南の山間部には縄文時代遺跡が多数残されており、アイヌ系の人たちも多かったところです。

すなわち、狗奴国は、弥生人のマレー系とアイヌ系の連合国であり、熊本の隣の鹿児島を含めて考えると、相当大きな勢力だったと推察されます。

そして、狗奴国が女王国に参加しなかった理由ですが、縄文系のアイヌ系とマレー系でまとまっており、もともと大乱はなく、女王国に参加する必要なかったことが挙げられます。

「⑤の卑弥呼はツングース系」ですが、卑弥呼は朝鮮半島由来のツングース系の女性シャーマンだったことを先に検討しました。すなわち、邪馬台国の支配者はツングース系となります。関連し、ツングース系の勢力分布について検討しますと、西九州よりも東側で勢力があったと推察されます。事実、その後の経過を見ても、大分、宮崎はツングース家王家のシンボルとも言える前方後円墳が多く認められます。

関連し、女王の居た邪馬台国の都を大分とすると、投馬国の場所がより明確になります。魏志倭人伝では、水行10日で邪馬台国、そして水行20日で投馬国、とあります。すなわち、邪馬台国の南に投馬国があったことになります。当時、宮崎は福岡に次いで弥生時代遺跡の多い地域で、南九州の中心地であったことは明白で、当時の状況と一致します。

最後に、「⑥邪馬台国と関連した地名が残っているか」ですが、大分を邪馬台国とすると、近くに耶馬溪(やばけい)という景勝地があります。Web検索しますと、「大分の耶馬溪と邪馬台国は関係がないのですか」という記事が出てきます。そしてWeb回答があり、「関係ない」という記事が出てきます。しかし、次のように考えることもできます。

先に漢字の読み方に北方読みと南方読みがあることを紹介しましたが、邪馬台国時代は、北方の魏と交流があり、北方読みとなります。そして、「やばけい」の「やば」は北方読みですので、邪馬台国時代からある名前の可能性があります。その意味で、耶馬溪と邪馬台国は関係しています。すなわち、「やばけい」も邪馬台国大分説の応援になる感じがします。その関係から観ると、大分のなかでも宇佐辺りが妥当と思われます。

以上の経過から、邪馬台国は大分の宇佐辺りにあったと結論されます。しかし、小国だったため、女王卑弥呼の死後、再度、領地争いの大乱が起きた感じがします。

事実、4世紀になると、マレー系は、朝鮮半島の同胞の百済の支援を受け、福岡・佐賀・熊本を中心とし倭国を創りました。

一方、女王国だったツングース系の末裔は、同じツングース系のヤマトの王家と連携し、大分・宮崎・鹿児島の東九州を支配し、ヤマト政権と連携し、その権力の象徴である前方後円墳を建造したと想像されます。

まとめますと、魏志倭人伝を普通に読みますと、北九州には弥生時代以来の多数の国があり、その中心となる邪馬台国は大分宇佐辺りにあったのが妥当となります。そして、大分にあった邪馬台国は、4世紀には西九州で新たに創られたマレー系倭国と別れ、ヤマトのツングース系王家の一部となり、東九州の支配者となっていったと想像されます。

関連し、以上の関係を上トップに示しました。


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[ 2023/05/19 07:20 ] 邪馬台国の真相 | TB(-) | CM(4)

邪馬台国の真相 8.邪馬台国が消えた理由、福岡と大分の違い


九州における古代の人々のルーツ


邪馬台国の真相 8.邪馬台国が消えた理由、福岡と大分の違い

先に、「邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった(戦乱の要因)」(3月31日アップ)では、北九州には、南方由来の稲作民族マレー系、朝鮮半島由来ツングース系、中山間部には縄文時代由来のアイヌ系が居て、民族対立問題があり、これが倭国の大乱の要因であったことを検討してきました。

一方、前回、邪馬台国(女王国)は、大分辺りにあり、北九州の諸国を支配していたが、その後、北九州は4世紀には邪馬台国は消え、北九州はマレー系の倭国に支配されるようになったことを検討しました。

関連し、今回は、福岡と大分の違いから、邪馬台国が消えた理由について検討します。

まず、北九州に倭国が生まれた理由ですが、朝鮮半島由来南部に居た同胞のマレー系「百済」の存在が大きいと思われます。

百済は4世紀に建国され、同胞の多い中国南部から仏教導入をするなど、朝鮮半島の先進国になったことが知られております。その先進国の支援を受け、同胞の多い北九州で倭国が創られたと思われます。

倭国の「倭」は低身長を意味し、マレー系民族に対する中国人の差別用語です。それだけ、北九州倭国は低身長の「倭人」が昔から多かったと予想されます。

この倭国建設の流れのなかで、邪馬台国は大分辺りにあった小国でしたので、倭国に近い部分は倭国に取り込まれ、残りは、同じツングース系ヤマトの支援を受け、東九州地域を支配するようになった想像されます。

次に、大分のツングース系の人数について検討します。

マレー系は低身長、ツングース系は高身長であることが知られています。例えば、DNA(Y染色体ハプログループ分類)と身長の関係です。

「邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった(戦乱の要因)」で、Satoら(2014)のDNA研究結果を紹介しましたが、これを用い、男子身長とDNAの関係を調べますと下表のとおりです。

福岡、大阪、石川(金沢)の身長とDNA

福岡、大阪、石川(金沢)の比較ですが、福岡はマレー系のDNAが多く、かつ低身長、一方、大阪と石川はツングース系のDNAが多く、かつ高身長の特徴が確認されます。言い換えますと、マレー系が多い地域は低身長、ツングース系が多い地域は高身長になります。

拙ブログでは、同様な関係を、「秋田美人と博多美人のルーツの違い、身長差から」で紹介したことがあります(下図参照)。すなわち、秋田美人のルーツは色白・高身長のツングース系、博多美人のルーツは丸顔で可愛らしい顔立ちの低身長のマレー系です。

身長、秋田県と福岡県の差

次に、これらと同様な関係が、福岡と大分に認められるのか、同じように調べますと、下表のとおりです。

福岡、佐賀、大分、宮崎の身長

ここでは、北九州の佐賀、東九州の宮崎を加えています。平均値で見ますと各県164cmで、男女とも、各県に差異はまったくありません。言い換えますと、福岡・佐賀はマレー系が多く低身長、大分・宮崎はツングース系が多く高身長の傾向があることが予想されましたが、そのような傾向はありません。

この結果から、北九州古代の様相を想像しますと、次のとおりです。

まず、大分にツングース系の邪馬台国があったことを推定しましたが、支配者のツングース系は他の地域と変わらず、特に多いということは無かったことになります。

おそらく、弥生時代末期は、それぞれの県でマレー系、ツングース系、アイヌ系が混在していて、地域によって、マレー系、ツングース系、アイヌ系の首長が居た。その結果、民族対立問題もあり、争いが絶えず、これが倭国の大乱と思われます。

例えば、最近の発見では、吉野ヶ里遺跡で、ツングース系首長と思われる前方後円墳が発見されています。これなどは、佐賀平野という地域から見てマレー系が多かった地域と想像されますが、ツングース系が首長(王)であった可能性があります。

こんななか、鬼道を得意とする女性シャーマン(卑弥呼)が邪馬台国(大分)に現れ、北九州をまとめたと思われます。しかし、その力は北九州全域を圧倒するような力はなく、一時的で、4世紀となると歴史から消えたと推察されます。

そして、4世紀の覇者となったのはマレー系倭国でした。マレー系は、もともと多数派であり、かつ、北の同胞の百済の支援を受け、北九州倭国を創ったと想像されます。

一方、邪馬台国を創ったツングース系ですが、彼らは多数派ではなく、邪馬台国が滅びた後、大分・宮崎・鹿児島という東九州のツングース系をまとめ、かつ、同じ仲間のヤマトのツングース系(王家)の支援を受け、100m以上の巨大な前方後円墳を多数創り、古墳時代を創ったと思われます。

関連し、3~5世紀にツングース系が建造したと思われる九州地域の100m以上の大古墳を下表に示しました。すべて東九州だけにあります。

九州地域の全長100m以上の大古墳(3~5世紀)

しかし、東九州のツングース系は多数派ではなく、このため、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)時代、九州のマレー系倭国やアイヌ系に攻められると、大きな抵抗もなく滅んだと想像されます。詳しくは「古墳王家は宮崎から滅びた」を参照願います。


関連し、3~5世紀の民族の様相を上トップ図にしましました。



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[ 2023/05/12 07:36 ] 邪馬台国の真相 | TB(-) | CM(2)

邪馬台国の真相 7. 邪馬台国後の東アジアの様相


邪馬台国時代後の様相(4世紀)


邪馬台国の真相 7. 邪馬台国後の東アジアの様相

日本の古代史では、1~2世紀は倭の奴国王などの小国分離時代、3世紀に邪馬台国時代、5世紀は北九州で倭の五王時代、6世紀は継体王(在位:507-531年)の時代が知られています。そして、4世紀は、日本(倭国)のことは中国の歴史書から消え、空白時代とも言われます。

今回は、この空白の時代と言われる4世紀の古代史を、邪馬台国との関連で検討します。

まず、関連の歴史経過表を地域別に下表に示しました。
古代の朝鮮半島と日本の歴史

そして、空白の4世紀ですが、朝鮮半島南部では百済と新羅が建国されています。

一方、倭国については、高句麗の広開土王碑文があり、4世紀末に倭国が百済と連合し高句麗と戦ったとあります。百済と倭国が連合したのは、両者は中国南部の越族に由来する同じマレー系の稲作民族のためだったと思われます。

このことは、北九州では邪馬台国が滅び、多数派のマレー系倭国が建国されたことを示唆します。

次に、朝鮮半島の古代の民族と古代国家について検討しますと、次のとおりです。

まず、現在のDNA(Y染色体ハプログループ)分類ですが、Wikipedia情報を下表に示しました。比較に日本と満州の結果も入れてあります。

朝鮮半島と日本のY染色体ハプログループ分類

朝鮮半島の多数派は中国系40%、続いてマレー系30%、モンゴル系10%、その他20%になります。なお、現在の朝鮮半島の民族はツングース系と分類されますが、ツングース系は中国系とモンゴル系の混合混血民族ですので、ツングース系50%(中国系+モンゴル系)、マレー系30%、その他20%と分類することもできます。

これらのデータと周囲の情報から古代4世紀の状況を推察しますと、下記のようになります。

まず、マレー系ですが、この民族には、縄文時代に渡来した海洋系(マレー系A)と弥生時代に渡来した水田稲作系(マレー系B)の2種が知られていますが、朝鮮半島では水田稲作系のマレー系Bが多数派です。

水田稲作系のマレー系Bは、3000年前頃、江南地方から山東半島を経て朝鮮半島に渡来してきました。このことは、朝鮮半島の弥生遺跡「松菊里遺跡」等から分かっています。北九州に渡来した弥生系もこのグループだったと推察されます。

朝鮮半島において、彼らは南西部に居住し、水田稲作を広げながら少しずつ南部に居住地を広げていったと思われます。そして、4世紀初頭頃に百済が建国されました。

百済建国に関しては、ツングース系の夫余が建国したと言われますが、その後の経過を見ると支配者は少数派のツングース系から多数派のマレー系に変わっていったと推察されます。そして、4世紀後半には、北九州倭国と連合し、北の強国の高句麗と戦いました。因みに、広開土王碑文によれば、倭国は朝鮮半島に出撃し399~404年に高句麗と戦ったことが分かっています。

一方、ツングース系ですが、彼らは、中国東北部の満州でモンゴル系と中国系が混合混血した民族で、1万年前頃、ツングース系民族となりました。言葉はモンゴル系、生業は半農半猟と言われます。

その後、寒冷化に伴い、彼らは、南下し、朝鮮半島北部と東部に居住し、居住地を広げていきました。7000年前にはツングース系と見られる高身長の人骨が日本で認められていますので、彼らの朝鮮半島への渡来時期は8000年前、日本への渡来時期は7000年前頃と思われます。

ツングース系民族については、中国東北部にいくつか認められますが、朝鮮半島北部に1世紀に建国されたのが高句麗、続いて、朝鮮半島南西部に4世紀に建国されたのが新羅となります。

新羅の慶州は2300年前頃から鉄生産の中心地になり、農業に革命を起こしました。その結果、鉄と畑作農業で発展し、4世紀に新羅建国になったものと思われます。

以上のことから、4世紀には、朝鮮半島北部はツングース系の高句麗、南東部はツングース系の新羅、南西部はマレー系の百済、という3国体制になり、3国の争いが7世紀の新羅統一まで続きました。

一方、北九州では、マレー系の倭国が4世紀に建国されました。倭国と百済は同じマレー系の同胞であり、連携しました。関連し、倭の五王最後の倭王「武」(後の百済武寧王)が現れ、5世紀に朝鮮半島南部の中心地(伽耶地方)も支配する大王となりました。

以上のことから、朝鮮半島は、現在は朝鮮民族だけですが、古代にはツングース系とマレー系が対立した時代が続きました。現在の朝鮮民族はツングース系に分類されますが、上記DNA表のようにマレー系が30%含まれております。

関連し、朝鮮半島の3国時代の4世紀の状況を上トップ図に示しました。この時期、日本では、鉄を持参し農業で優位に立ったツングース系民族が畿内(ヤマト)で建設した王家の時代で、巨大な前方後円墳が多数建造されました。

以上、4世紀頃の朝鮮半島と北九州の様相を外観しましたが、邪馬台国は完全に消えています。そこで、想像しますと、邪馬台国のその後の経過は、次のようだったと推察されます。

 1. 邪馬台国は、大分辺りにあり、過渡的なツングース系の国であり、北九州全体を支配するような大国には発展しなかった。
 2. 邪馬台国の後に北九州を支配したのは、多数派のマレー系倭国であった。
 3. 邪馬台国の末裔は東九州の大分、宮崎方面で残存し、その後、同じツングース系の関係からヤマトのツングース系王家と連携し、東九州を支配した。関連し、宮崎の西都原古墳群は、ヤマトのツングース系王家と連携した遺跡と推察される。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の様相を下図に示しました。


邪馬台国時代の様相(3世紀)


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[ 2023/05/05 07:21 ] 邪馬台国の真相 | TB(-) | CM(2)

邪馬台国の真相 6.人口(戸数)は10倍に誇張されていた


魏志倭人伝における倭国と周辺状況


邪馬台国の真相 6.人口(戸数)は10倍に誇張されていた

魏は、当時、南方の呉国と対立しており、倭国を取り込み、倭国を使い呉国を攻めようとしていた計画があり、このため魏は使いを出し、倭国の状況を調査しました。そして、それらの結果を記したのが魏志倭人伝とも言われています。

その意味で、倭国の実力を見る上で、人口(戸数)は、たいへん重要で、魏志倭人伝にも各国の戸数がいくつか紹介されています。

一方、古代人口推定については、Koyama (1978)が有名で、1978年に発表されてからまだ訂正されていないことから観ますと、この推定はほぼ妥当と判断されている感じがします。これらの情報はWikipedia「近代以前の日本の人口統計」で見ることができます。

そして、このKoyama (1978)の人口推定を基に、「九州地域の弥生時代人口」を推定しますと下図のとおりです。邪馬台国時代を250年頃としますと、約40万人が九州地域の邪馬台国時代の人口と推定されます。

九州地域の古代人口

次に各県の人口ですが、関連し、弥生時代遺跡数「文化庁の参考資料(2012)」があります(下表参照)。各県の遺跡数が人口に比例すると仮定し、1遺跡辺り人口を推定しますと、九州地域の遺跡数は合計7893個ですので、1遺跡辺り人口は、40万人/7893=50.7人と推定されます。

九州地域の弥生時代遺跡数と250年頃人口

次に、これらの数値を用いて、邪馬台国と推定される大分県の人口を推定しますと、大分の県の弥生時代遺跡数は585ですので、当時の大分県だけの人口は、遺跡数×1遺跡当から、585×50.7人=29,660人で、約3万人です。

次に、魏志倭人伝にあります戸数と人口の関係ですが、魏志倭人伝の情報では、邪馬台国の戸数が7万とあります。邪馬台国戸数(7万戸)から邪馬台国1国の人口を計算しますと、1戸辺り人数は約5人と推定されていますので、戸数(7万)×1戸辺り人数(5人)=35万人となります。

大分県全体を邪馬台国の支配地と仮定しますと、大分県(邪馬台国)の当時の人口は3万人と推定されますで、魏志倭人伝の戸数(人口35万人)は、実態の10倍以上という数字になります。

また、人口35万人という地域は、上記の計算のように、九州地域全体の40万人とほぼ同じです。

すなわち、実態の戸数が10倍以上に誇張され報告されていたことになります。

そこで、この誇張の理由について推察しますと、邪馬台国ですが、自国を大きく見せ、魏の支援を得るために人口(戸数)を誇張して魏の使者に報告した感じがします。

しかし、実態は、今回の推察で示されたように、人口(戸数)が10倍以上に誇張されていたことになります。この10倍以上という誇張は、いかにも誇張らしく見えます(笑)。

関連し、当時の状況を、上トップに示しました。


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[ 2023/04/28 08:43 ] 邪馬台国の真相 | TB(-) | CM(3)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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