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寒冷化時代、関東の縄文人は何処に住んで居たのか

縄文時代晩期の関東と日本人


寒冷化時代、関東の縄文人は何処に住んで居たのか(縄文時代と日本人)

前回は、縄文晩期、寒冷化による植生の変化、そして火山灰の影響で食料が減少し、関東縄文人が激減したことを紹介しました。関連し、今回は、関東縄文人は何処に住んで居たのか愚考します。

まず、関連する「縄文時代後期 の関東地方における漁労活動(著者:内山純蔵)」の報告の一部(考察部分)を紹介しますと次のとおりです。

内因的理由。漁労活動の比重を高めなければならなくなるような社会内的状況が当時の関東地方にあり,その結果として外海漁場への進出が行われた可能性がある。この問題を生業の観点から解決するためには,漁労活動 のみではなく,狩猟・採集など,他の生業との関連を今後の研究で追及する必要がある。ここでは,人口の問題を提示しておきたい。

  従来から,縄文文化の中心であった東日本で遺跡数が中期を頂点に減少に転じ,晩期には中期の10分の1以下にまで落込む ことが知 られてい る。小山修三は遺跡の数が全体とし当時の人口の多寡を反映している と考えてよいと論じている【KOYAMA 1978;小 山 1979]。小山に よると,人口の減少は縄文中期以降に気候が寒冷化して,食料資源,なかでも植物資源などの陸上資源が減少したことに起因する可能性があるという【 小山1979:176-199】。

  図11は中部地方(長 野県,13585平 方 キ ロ)と関東地方の海岸部(茨城県・千葉県,11244平 方キ ロ)の1平方キロあたりの縄文時代遺跡密度の変化を示したものである。これによると,中 期から後期にかけて,海 のない中部地方では遺跡密度が急減しているのに対し,海 のある関東地方の海岸部ではそれほどの減少ではなかったために,後期には中部地方を上回る結果 になったことがわか る。遺跡の増減が人口の増減とほぼ比例するものであるならば,関 東地方の海岸部が中部地方ほどの人口減に見舞われなかった原因を考えなければならない。筆者は,陸上資源の不足分を漁労活動に比重を移すことで海産資源によって補充しえた可能性を,今後検討すべき選択肢のひとつとして提示しておきたい。陸上 資源 の減少が,漁 労の必要性を増大させることとなり,結果として漁労活動の外海への拡大を促した一要因となったのではなかろか。
(引用終了)

以上の引用の内容をまとめますと、次のような感じかと思います。すなわち、縄文晩期、長野県など内陸部では寒冷化などの影響で食料不足となり、遺跡数が激減した。一方、海岸のある茨城県は漁労で食料を確保し遺跡減は長野県より少なかった。そして、さらに食料をさらに確保するため漁労活動を進歩させ、その活動範囲を外界まで広めた。

そして、前回報告を含めて検討しますと、関東の縄文人の生活場所は次のような感じであったと思われます。

縄文時代、関東地方は5000年前に黄金時代(最高期)を迎えましたが、その後、寒冷化による植生の変化、さらには火山灰の影響で、特に主食であった栗が激減し、人口は、5000年前の9.5万人から3000年前の0.8万人に激減した。残された人々は主に海岸部で漁労により食料を得て生き延び、かつ漁業活動を活発に行い、その範囲を外界まで行うことができるようになった。一方、内陸部に残された人々は、僅かな食料を頼りに細々と生き抜いた。

関連し、この様子を上トップ地図に示しました。


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[ 2018/12/14 21:09 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

縄文時代の富士山噴火の影響は栃木と埼玉で大きかったようだ

関東の縄文人への火山灰の影響


縄文時代の富士山噴火の影響は栃木と埼玉で大きかったようだ(縄文時代と日本人)

縄文時代後期、4000年前~3000年前、関東では、地球寒冷化による植生変化、そして富士山爆発による火山灰の影響で人口が激減したことを紹介しました。関連し、今回は、富士山噴火の影響は栃木と埼玉で大きかったことについて愚考します。

文科省の参考資料(平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数)のデータを使い、火山灰の影響を縄文時代から弥生時代の遺跡数減で見ますと下表のとおりです。

関東の縄文と弥生の遺跡数

この表では、弥生時代の遺跡数が縄文時代の遺跡数よりもすべての県で減少していますが、この原因は、縄文時代晩期の寒冷化による植生の変化と火山灰の影響で縄文時代の人口が減り、その結果、弥生時代の遺跡数が減ったためと推察されます。すなわち、縄文時代に人口の減った県は弥生時代に入っても回復は直ぐにはできなかったと考えられます。

そして、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の割合で特に数値が低い県は、寒冷化だけでなく火山灰の影響が特に強く、このため弥生遺跡の数も少なかったと見ますと、このような県として栃木の15%と埼玉の13%があげられます。

栃木県については火山灰土に由来する黒ボク土地帯として有名ですが、この火山灰が縄文時代晩期に降ったのか文献では分かりませんが、検討中です。

そして、埼玉は最も減少した県ですが、埼玉の中心部は関東平野で最も低い場所にあり、火山灰の影響、さらには植生の変化の影響などいろいろな悪影響が特に強く、人の住める場所が少なかった可能性があります。

関連し、埼玉のように低地の多い東京、千葉も18%と低くなっています。一方、茨城は25%で、千葉の北側にありますが、ここまでは火山灰は届かなかった可能性が高かった、と思われます。

そして、神奈川は36%と高く、ここは植生の変化も火山灰の影響も最も少なかった地域と観ることができます。

一方、内陸部の群馬は茨城と同じ25%で、ここは、植生の変化の影響だけだったという感じでしょうか。

以上、関東各県の縄文時代晩期の植生の変化と火山灰の影響愚考でした。関連し、それらの状況を上トップの図で示しました。


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[ 2018/12/11 11:22 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

関東の縄文時代晩期は寒冷化による栗林の激減に痛められた

関東、東北、九州の古代人口変動


関東の縄文時代晩期は寒冷化による栗林の激減に痛められた(縄文時代と日本人)

前々回、関東の稲作は2200年前頃から始まったことを紹介しました。稲作の前は縄文時代と言われますが、今回は、関東の縄文時代が、どのように弥生時代に向かっていったのか愚考します。

まず、遺跡の数から古代の人口を推定しました小山修三(1984)のデータを用いて縄文時代の関東を、東北および九州と比較しますと上の図のとおりです。

5000年前(BC3000)、関東は日本で人口最大、縄文時代黄金期と思われます。この時代、縄文遺跡では青森県の三内丸山が有名ですが、関東も似たような状況であったと思われます。

そして4000年前~3000年前の寒冷期に食料不足時代に入り人口が減少します。特に関東の減少には著しいものがあります。

拙ブログでは、「東北の縄文人は縄文カレンダー(ストーンサークル)で寒冷時代を乗り切ったこと」を紹介しました。しかし、関東の人口が激減したことは、関東が東北よりもさらに厳しい状況であったと推察されます。

そこで、その要因について調べますと、寒冷化による植生の変化と富士山噴火による火山灰の影響が出てきました。

まず、植生の変化ですが、例えば「気候の寒冷化と縄文社会の崩壊」によれば、次のとおりです。

 環境考古学の安田喜憲によると、6000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は縄文後期に入る4000年前ごろ、縄文晩期に入る3000年前ごろ寒冷化・乾燥化に見舞われた。

 縄文文化は周知の通り、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の生産力が気候の寒冷化により大きなダメージを被り、縄文人は生活の基盤を失うことになった

 たとえば中部山岳の八ヶ岳文化とも言える縄文中期の繁栄は突然崩壊し、巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄された。このように気候の寒冷化によって集落が廃絶した例は枚挙にいとまがない。(引用終了)

すなわち、それまで主食としていた栗などの落葉広葉樹が無くなり、食糧不足になってしまったことになります。

次いで、富士山噴火による火山灰の影響ですが、一般に、火山灰が厚く積もると、覆われた森林は死に絶え、復活するまでに長期間要します。例えば、拙ブログでは、「7300年前の鬼界カルデラ爆発」について紹介し、この結果、九州の縄文時代が停滞したことを指摘しました。

因みに、関東には、関東ローム層という厚い火山灰地層がありますが、それは、富士山噴火によると言われております。Wikipediaによれば富士山は100万年前から噴火を繰り返しており、3000年前には4回の噴火が認められています。

そこで、植生の変化と富士山噴火による火山灰の影響のどちらが大きいのか検討しますと、次のとおりです。

下の図は、縄文時代、寒冷化前(5000年前)と寒冷化後(3000年前)の地域別の人口の変化です。この図では、富士山噴火の影響の少なかったと思われる北陸と中部でも関東と同じように人口が激減してります。

縄文時代寒冷化前とと後の関東などの地域別人口変動

すなわち関東における人口激減は寒冷化による植生変化、特に主食であった栗の激減が第一要因と思われます。そして、富士山噴火による火山灰の影響が追い打ちとなり、関東の人口は激減したというのが真相かと思われます。

なお、縄文時代、栗が主食であったことについては、拙ブログで「山栗は縄文時代の主食であった」で紹介しております。


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[ 2018/12/07 09:51 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

水田稲作で人口が何故増えるのか

森は水田に栄養を供給の図解


水田稲作で人口が何故増えるのか(稲作と日本人)

前回、関東で水田稲作導入の結果、食糧が増え、人口が増大したことを紹介しました。関連し、すでに一般に知られていることですが、今回は、古代の水田稲作で何故、食糧が増えるのか愚考します。

まず、古代の水田作と畑作の栽培法の違いですが、一番の違いは、水田作は連作できるのに対し、畑作は連作できないことと思われます。

森から流れてくる水には栄養豊富な養分が含まれていますので、水田栽培に適した稲はその養分を吸って生育することができます。さらに、水には土壌病害抑制効果があり、連作障害は起きません。また、水田からは魚を取ることもできます。すなわち、用水路を作り水田を作ると、毎年栽培が可能になり、魚も採れることになり、人間に必要な栄養は水田から採ることができるようになります。

一方、畑作の場合、養分不足問題が起きます。例えば、アフリカやアジアで今も行われている焼畑ですが、1年目は焼畑の地力を使って作物は育つことができます。しかし、2年目には生育が劣るようになり、3年目からは養分が不足し良い生育は期待でません。

また、畑で稲を作る場合、陸稲栽培と呼ばれてもおりますが、陸稲は、連作障害問題や干ばつ害の問題があり、簡単ではありません。

以上の様に、水田は一度作ると、森―川―水田の関係が安定していれば永遠に使うことができます。このため、アジア水田稲作地帯の人口密度は高いことが明らかになっています。そして、日本には、鎮守の森信仰がありますが、これは、森は豊かな水を水田にもたらすことと関係があるという人もいます。

しかし、水田を作るのは簡単でありません。水田だけでなく用水路の造成も必要となります。そして、それらの開発のためには鉄器が必要となります。

拙ブログでは、「本格的な水田造成は鉄器の導入の後であること」について指摘しました。すなわち、2500年前の鉄器農具導入後、水田稲作が始まったと見ることができます。

関連し、上トップに水田稲作栽培と陸稲栽培の違いについて図解しました。また、下の写真はアフリカではマダガスカルだけに見られる棚田です。水路造成を省略できることから想像しますと、おそらく、棚田は最も簡単な水田造成方法と思われます。

マダガスカルの棚田と禿山


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[ 2018/12/03 13:04 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(6)

関東にも弥生人は来たのか

関西人と関東人のルーツ


関東にも弥生人は来たのか(稲作と日本人)

前回は、関東の水田稲作の始まった時期について検討しました。人口増加の様子を見ると、その人口増加は急激であり、稲作民族が来て人口が増えた印象があります。関連し、今回は、関東に稲作民族が来たのか愚考します。

まず、人口増加率ですが、古代の遺跡の数から人口を推定しました小山修三(1983)のデータを用い、前回の水田稲作開始時期を考慮して計算しますと、下表のとおりです。

水田稲作導入後の人口増加と増加率

すなわち、関東の稲作開始時期のBC200年からAD500年(700年間)の人口増加は8000人から943,300人で118倍、年当たり人口増加率は1.007です。これは、年当たり100人に1人以下の増加ですので、自然増で可能と思われます。

一方、稲作民族が関東に来た場合ですが、日本における稲作民族はマレー系ですので、この割合は高いことが予想されます。そこで、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)のデータを検討しますと、下表のとおりです。

関東人のルーツ

まず、縄文人と言われるアイヌ系ですが、関東では48%、関西では27%です。一方、弥生系と言われる稲作民族のマレー系は関東で31%、関西で37%です。

この結果から、水田稲作を関東に持ち込んだのは稲作民族のマレー系であると思われますが、縄文人と言われるアイヌ系の割合が稲作民族のマレー系よりも明らかに多く、関東では縄文人が稲作を受け入れたと見るのが普通と思われます。

まとめますと、関東人のルーツに縄文人と言われるアイヌ系が半数近くあることは、稲作を縄文人が受け入れたと見ることができます。また、水田稲作導入による関東の年当たり人口増加率は1.007であり、自然増加と見るのが妥当と思われます。

関連し、関西と関東のルーツの違いをNonakaら(2007)のデータを使い、上トップに示しました。

なお、関東だけでなく西日本でも弥生人が来なかったことを拙ブログで主張しておりますが、その理由は次のとおりです。

 1) 稲作は、陸稲栽培ですが、九州熊本で4000年前からあったことが明らかになっている。
 2) 稲作を導入したと思われるマレー系民族は中国南部や朝鮮半島にも高い頻度で居ることが分かっているが、インドネシアバリ島当たりにルーツがあることが明らかになっている。そして、マレー系民族の故郷には日本稲の祖先型があり、それをマレー系民族は中国江南地方に持ち込み稲作を始めた可能性が高い。
 3) 中国に居たマレー系民族が水田開発に必要な鉄器農具を朝鮮半島と北九州で陸稲栽培をしていたマレー系民族に伝えた。
 4) 九州に水田稲作導入されたと推察される2500年前頃に関し、多数のマレー系民族の日本移住があったという歴史的事件は間接的にも直接的にも確認されていない。

なお、このような稲作の歴史に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「稲作と日本人」をクリックしますと、今までの記事を見ることができます。 
  

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[ 2018/11/29 10:34 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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