FC2ブログ

日本人の縄文思想と稲作のルーツ

最近のDNA報告や遺跡等の物的情報から日本古代の虚構と真相に迫ります。
2019 12123456789101112131415161718192021222324252627282930312020 02

古代王国の人口と稲作開始時期


古代王国の人口と稲作開始時期(西日本の古代)

水田稲作は余剰農産物が多く人口増大と関係していることから、人口が停滞から増加に向かう時期を稲作開始時期と拙ブログでは観てきました。

また、日本には4~5世紀頃の古代王国として、倭国(福岡県+佐賀県+長崎県+熊本県)、吉備国(岡山)、出雲国(島根県+鳥取県)、大和国(奈良県+大阪府+滋賀県+京都府)の4か国があったと言われております。これら古代王国は弥生時代の発展、すなわち生産性の高い水田稲作発展の後に人口が増加し、形成されたと思われます。

関連し、今回は、これら古代王国稲作の稲作開始期について検討します。

推定に用いたデータは、「文化庁の参考資料(2012): 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数」の各県データ、および、先の報告「古代人口推定は改訂が必要だ」と同方法です。すなわち、1遺跡数当たり人口は、縄文時代が8人、弥生時代が18人、古墳時代が129人です。

これらのデータを用いた各王国の人口は下表の通りです。

古代国の遺跡数と人口

次に、これらの人口と年代を基に各古代王国の人口増大曲線を求めますと下図の通りです。この図では、これまでの報告とほぼ同じです。すなわち、人口が先に進んだのが倭国、次いで吉備、大和、出雲へと続きます。

古代国の人口変動

次に、人口増大時期と邪馬台国時代(1750年前)の人口を観るために、上の図を拡大しますと下図の通りです。

古代国の稲作開始時期と人口

この図から、人口が停滞から増大に向かう時期は、倭国は3000年前、次いで吉備が2200年前、次いで大和が2150年前、出雲が2100年前(BC100年)となります。

また、邪馬台国があった1750年前(西暦250年)頃の人口は、倭国は11万人、次いで大和と吉備が5万人、出雲3万人です。

これらの結果をまとめますと下表のとおりです。


古代国の稲作開始時期と人口(表)

以上の水田稲作開始時期と邪馬台国時代の人口から推察しますと、魏志倭人伝にあります邪馬台国は北九州にあり、その地域は後の倭の5王時代に向かって発展していったと思われます。



日本史ランキング
スポンサーサイト



[ 2020/01/20 08:38 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(2)

水田稲作は鉄器導入が早かった北九州だけが先行した


水田稲作は鉄器導入が早かった北九州だけが先行した(西日本の古代)

前回、地域では九州だけが水田稲作が先行したことを指摘しました。拙ブログでは、それは九州の中でも北九州だけのことであることを指摘してきました。

関連し、今回は、倭国の地域と言われる北九州(福岡、佐賀、長崎、熊本)とその他の九州(大分、宮崎、鹿児島)に分け、これらの地域の人口変動の違いを検討し、北九州の先行性について愚考します。

方法は、「古代人口推定は改訂が必要だ」と同方法です。すなわち、1遺跡数当たり人口は、縄文時代が8人、弥生時代が18人、古墳時代が129人を使い、人口を推定し、水田稲作開始時期を人口が停滞から増大に転じる時期にしました。

まず、人口推定に用いた遺跡数データと推定人口は下表のとおりです。

北九州と南九州の古代遺跡数と推定人口

次に、人口変動は下図の通りです。

北九州と南九州の人口変動と稲作開始時期

この図から、北九州はBC1000年から人口が増加し、この時期から水田稲作が開始されたと思われます。一方、南九州の人口増加はBC300年頃で、北九州より700年の遅れがあります。

この結果と前回の結果をまとめますと、下表の通りです。

各地域の稲作開始時期と九州

まとめますと、南九州も水田稲作開始は遅れ、中国地域と変りません。すなわち、水田稲作に関し、北九州だけが先行し、その他の地域は約700年以上の遅れがあったことになります。

この遅れの要因は、前回と同じく、水田開発に必要な鉄製農具の導入の遅れと思われます。おそらく北九州だけが、大陸に近い関係から鉄製農具を独占できたこと、さらには、中国南部稲作地域由来のマレー系民族が多かったことも関係していると思われます。


日本史ランキング
[ 2020/01/15 08:35 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(2)

水田稲作開始は鉄器導入と一致する


水田稲作開始は鉄器導入と一致する(稲作と日本人)

これまで、稲作が始まると弥生時代が始まり、それは急速に全国に拡大したと言われてきました。最近では、その稲作は3000年前に始まったが普及は遅れたという指摘も出ております。

弥生時代の始まりと関連し、水田稲作開始時期は重要な課題ですので、整理も含めて、全国的視点から今回は再度検討します。

まず、稲作開始時期を人口が増大する時期とする例を、関東地域をモデルに紹介しますと、関連する人口増加関係は下図のとおりです。

人口動態から見た水田稲作開始時期も出る
この図は先に紹介しましたKoyama(1978)のデータを用いた関東地方の例ですが、人口停滞期はBC200年頃まで続き、人口増加開始時期はBC100~50年です。関東最古の水田稲作遺跡は「中里遺跡」ですが、この時期はBC100年で、人口増大時期を稲作開始時期とするモデルに合っていると思われます。

そして、東北、北陸、関東については「東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた」で紹介したとおりです。

同じくKoyama (1978) のデータを用い、同様な観点から、その他の地域を検討しますと、下図のとおりです。

中部、東海、近畿の稲作開始時期

中国、四国、九州の稲作開始時期

これらの結果をまとめますと下表の通りです。

各地域樹の水田稲作開始時期

まとめますと、人口が増大し始める時、すなわち水田稲作開始時期は、東北は1850年前、北陸は1950年前、関東は2050年前、中部は1800年前、東海は900年前、近畿は2100年前、中国は2200年前、四国は1900年前、九州は2900年前となります。

なお、九州以外の地域で2200年前より以前の水田稲作遺跡が見つかっておりますが、人口増大に結びついていないことから、これは試作であって、人口増大を可能にするような水田稲作栽培では無かったと思われます。

そして、九州以外の地域で水田稲作開始が遅れた理由ですが、鉄製農具が不十分であったことが最大の理由と思われます。因みに、Wikipediaによれば、鉄の輸入は青銅器と一緒でBC300年(2300年前)と言われています。このことから、鉄製農具の普及は早くても2300年前以降となり、以上の水田稲作開始時期と一致します。

拙ブログで何度も指摘していますが、鉄製農具は水路造成など水田稲作に不可欠です。その意味で、西日本で本格的に稲作が普及するのは2300年前以降となり、この鉄器導入時期は稲作開始時期と一致します。

一方、北九州は、大陸と接しており、鉄器導入が他の地域よりも早かったことが知られておりますが、このため、水田稲作開始も早かったのが真相と思われます。



日本史ランキング
[ 2020/01/10 08:25 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(4)

魏志倭人伝の倭国の戸数は実態の10倍に誇張されていた

魏志倭人伝時代の倭国と中国の状況


魏志倭人伝の倭国の戸数は実態の10倍に誇張されていた(西日本の古代)

発見遺跡数が増えた現在、古代人口推定に関して、1遺跡当たり人口については、Koyama(1978)の推定は使えないことを先に指摘しました。詳しくは「古代人口推定は改訂が必要だ」を参照願います。

しかし、拙ブログでは、Koyama(1978)の1遺跡当たり人口を使い、邪馬台国の人口を推定したことがあります。

関連し、それを修正する意味で、今回は邪馬台国の人口を再検討します。

まず、文化庁の参考資料(2012): 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数を用い、前回指摘の「弥生時代1遺跡数当たり人口は18人」を使いますと、九州各県の弥生時代人口は下表のとおりです。

九州各県の弥生時代遺跡数と人口

魏志倭人伝の内容から、邪馬台国連合の範囲は福岡県、佐賀県、長崎県、そして対立していた南部の狗奴国は熊本県当たり、また、南へ水行20日の投馬国は宮崎当たり、と予想されます。

また、戸数は、魏志倭人伝の情報では、邪馬台国7万、奴国は2万、その他周辺国約6万としますと、邪馬台国連合は戸数15万と予想されます。一方、投馬国は5万となっています。次に、これらの国の人口、戸数、1戸当たり人口をまとめますと、下表のとおりです。

邪馬台国連合、狗奴国、投馬国の一戸当たり人口

この表から、1戸当たり人口は、邪馬台国連合で0.5人、投馬国で0.6人となります。当時の1戸当たり人口は5~6名程度と予想されますので、この0.5~0.6人という数値は実態と合っていません。すなわち、実態の戸数が10倍に誇張され報告されていたことになります。

そこで、この誇張の理由について調べますと、多くの指摘がありますが、まとめますと次のような感じかと思われます。

まず、邪馬台国ですが、自国を大きく見せ、魏の支援を得るために人口(戸数)を誇張して魏の使者に報告した。

一方、魏ですが、当時、魏は南部の呉と対立しており、そのため、倭国など南方の国々を魏の味方に付けようとして倭国に使者を送った。倭国の人口(実は誇張)は魏の使者には「大国」に見えるため、その目的に合致しており、そのまま報告し、魏志倭人伝に記述されるに至った。

そして、従来のこれらの指摘は矛盾が少なく当たっていると思われます。そして、今回の指摘では、さらに踏み込み、人口が10倍に誇張されていたことになります。この10倍という誇張は、いかにも誇張らしく、本当かもしれません。

関連し、当時の状況を、上トップに示しました。



日本史ランキング

[ 2020/01/05 09:13 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(2)

邪馬台国はどこにあったのか


邪馬台国はどこにあったのか(古代史の問題)

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

拙ブログは、2017年4月に始まりましたので、今年は4年目に入ります。記事アップ数は300回を越え、ブログ「日本人の縄文思想と稲作のルーツ」の目標としているところについては、ほぼ書き終えた感じがします。そこで、これからは、さらに内容を豊かにし、そのエッセンスについては書籍化を目指したいところです。

一方、昨年の新年の挨拶では、令和元年に因み、邪馬台国の所在地論争の決着を期待しましたが、残念な結果になりました。奈良(大和)に邪馬台国があったという説は破たんしておりますが、それを認めようとしない人たちがなんと多いことか(笑)、これは簡単ではないと感じたしだいです。

この問題は、古代史が教科書などに事実に基づいて記されているのかと関係しており、深刻で重要な課題です。そこで、今年は、この問題を引き続き検討して行きたいと思っています。関連し、拙ブログで特に検討したい課題は、次の6点です。

1. 水田稲作の始まりで人口が増え始める時期は、奈良の地域で2200年前、一方、北九州は2900年前であるが、この700年の差異をどう見るのか。

2. 魏志倭人伝では、倭人は分身(入れ墨)をしていて海南島の人達に似ているとあるが、奈良説ではそうした倭人社会の様子を説明できていない。

3. 中国に朝貢するには文書が必要であり、関連し、北九州奴国の遺跡で硯が発見されている。一方、奈良説では硯など文書があったことを証明するものがまったく無い。調べると、ヤマト政権で文字が使われるようになったのは継体王(在位:507-531年)からである。

4. 継体王以前のヤマト政権の王については証明する王宮跡等の物的証拠がまったく無い。すなわち、物的証拠のない歴史となっているが、これで良いのか。

5. 北九州の倭国の存在については、中国、高句麗、百済、新羅の歴史書や遺跡に残されている。しかし、ヤマト政権の歴史書(記紀)では北九州倭国の存在を無視しているが、これで良いのか。

6. 北九州では、大宰府に条里制に基づいた都(倭京)が5世紀(430年頃)に建造されたことが炭素同位体年代推定で明らかになっている。一方、大和政権の都は7世紀末(694年)の藤原京からである。倭京を無視しても良いのか。


アケビの実

なお、上の写真は、縄文思想に因んで、自給自足の菜園を楽しんでいる我が菜園の様子で、縄文人も食べていたアケビです。たいへん甘くてジュウシイ、美味しいです。

一方、下の写真はクコです。不老長寿の薬草をもとめて中国の徐福が日本に来たという徐福伝説がありますが、クコは、その不老長寿の薬草ではないかとも言われています。

小生は、それを集め、乾燥させ、クコ茶にして飲んでおりますが、その薬草効果なのか、ここ10年はカゼひかずです(笑)。今年も、こう行きたいところです。


クコの実


日本史ランキング
[ 2020/01/01 07:45 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(9)
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR