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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、天皇家はアイヌ系と分かりました。このことから、朝鮮半島由来のツングース系王家がヤマトに創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。関連し、古代史の真相に迫ります。

これからの(12月)の記事アップ予定

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古代の真相(ツングース系王家からアイヌ系王家へ)

これからの(12月)の記事アップ予定

現天皇家はアイヌ系継体王によって507年に始まったこと、それ以前は朝鮮半島由来ツングース系王家であったことをまとめてきました。

そのツングース系王家の実在については、日本古代史では無視され、代わりに大和朝廷と呼称されていますが、現在ある天皇家はアイヌ系であり、それ以前にあったツングース系王家とは明らかに異なり区別されるべきです。

この違いは、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)や多数の遺跡から確実な歴史事実と判断されます。この様子を上トップ図に示しました。

このことがなぜ公表されないのかについてまとめますと、おそらく日本古代史学会の怠慢です。これまでの学説を変えたくないという学問とは言えないものが学会のなかに満ちあふれている、という感じでしょうか。おそらく、若手研究者は、教授に背くと危険なので、焦燥感を感じながら黙っているのでしょう。

このため、新聞テレビでも「現アイヌ系王家の前に朝鮮半島由来ツングース系王家があったこと」が公表されるそのようになるには、さらに10年以上かかると思われます。

しかし、拙ブログでは、微力ですが、このことについては、さらに検討していきます。

そして、拙ブログの次の予定ですが、「北九州倭国の繁栄と滅亡」について、来年1月からまとめる予定です。この「北九州倭国」の実在も一部の研究者が認めるだけで、日本古代史主流派から無視されていますが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果も踏まえ、真相に迫る予定です。

一方、来年までの1ヶ月(12月)予定ですが、次の4小課題について紹介する予定です。

① 「天皇家はアイヌ系」が無視されている現状(来週12月14日頃)
② 神武東征は本当だった愚考(12月21日頃)
③ 十五朗穴横穴群(横穴古墳)に葬られた人々(12月28日頃)
④ 年末のご挨拶(12月30日頃)

なお、下の写真は我が菜園のコスモス(10月)です。小生は家庭菜園を楽しんでいますが、歴史ブログの閑話休題として、ときどき、その様子を写真で紹介しています。

コスモス10月菜園(歴史ブログ)


終わりに 日本書紀はなぜツングース系王家を無視

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日本書記はツングース系王家を無視、歴史改竄

終わりに 日本書紀はなぜツングース系王家を無視

朝鮮半島由来ツングース系王家の繁栄と滅亡について9回に分けて報告しました。ヤマトに創られたツングース系王家は西日本に創られた最初の巨大な古代国家だったと思われます。

しかし、ツングース系王家については日本古代史では無視されています。最後に、このことについて検討します。

まず、日本古代史は、日本の正史と言われる日本書記を基本にしています。しかし、津田左右吉等の多くの研究者が指摘していますように、日本書記は現天皇家を偉大に見せるために創られた書であり、一部に史実が見え隠れしていますが内容は創作です。

一方、遺跡等による古代史研究も進んでいます。日本は、縄文時代(新石器時代)を経て弥生時代になり、弥生時代に高生産性の水田稲作が導入されました。そして、遺骨調査の結果、弥生時代は朝鮮半島由来の長身の民族が中心になって創られたことが明らかになっています。

そして、弥生時代の後に、小国家が創られ、それらがまとまり古墳時代となり、墳長200mを超える巨大な古墳も建造されるようになりました。このような巨大な古墳建造には100万人以上の動員があったことが試算されていますが、これから巨大な国家があったことが推測されています。そして、古墳時代を創ったの民族は朝鮮半島由来ツングース系であったことがほぼ定説になっています。

一方、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%であること、さらに、天皇家はアイヌ系であることが明らかになっています。

「天皇家はアイヌ系であること」、この事実は、その後、王家はアイヌ系に変わったことを如実に示しています。言い換えますと、天皇家は万世一系ではなく、ツングース系王家からアイヌ系王家に替わったことが冷厳な事実になります。

しかし、日本古代史関係の学会は、相変わらずで、この事実を公表しません。

そこで、日本書紀の「ツングース系王家の無視」という創作問題について検討しますと、次のとおりです。

日本書紀は「万世一系の偉大な天皇家」を目標に書かれています。このため、これに反することは無視するという手法が採られました。

例えば、現天皇家の前にツングース系王家があったとは「万世一系」の方針から書けません。このため、例えば、代わりにツングース系王家の古墳は現王家の古墳に変えて表現したという感じになります。

関連し、日本に北九州倭国があったことも無視されています。これも「万世一系」に反するため無視されました。さらには「邪馬台国」の存在も同じ理由から無視されています。

まとめますと、朝鮮半島由来ツングース系王家が現天皇家の前にあったことは事実であるが、天皇家は天照大神の子孫で万世一系という執筆方針があり、現天皇家の前にも別の国家があった事実については日本書記では書けないことであったこと、になります。

そして、最近のDNA研究は、「天皇家はアイヌ系」であること、さらには日本書記の「天皇家は万世一系」ということは創作であることを明らかにしました。

これらの関係を上トップ図に示しました。


ツングース系王家の繁栄と滅亡 9.王家の腐敗と滅亡

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ツングース系王家王家の生成と滅亡

ツングース系王家の繁栄と滅亡 9.王家の腐敗と滅亡

「権力は腐敗する」と言われますが、これはイギリス歴史家ジョン・アクトンの言葉です。

Wikipediaによればその説明は次のとおりです。

「権力は腐敗する傾向があり、絶対的な権力は絶対的に腐敗する」と言いました。 彼がこの言葉を選んだ理由は、人間が権力を持つと、その権力が彼らの性格を変え、彼らを腐敗させる可能性があるからです。 権力がある人々は、自分たちが支配することで自分たちの利益を追求するようになり、他の人々の利益を無視することがあります。

この言葉のとおり、朝鮮半島由来ツングース系王家も腐敗し、滅びました。おそらく、滅んだ年は502年頃です。その理由として、百済の武寧王が継体王(在位:507-531年)に王位就任祝いの鏡を503年に贈っていることから推察されます。

すなわち、502年に滅び、そのことが国際的に認知され、503年の継体王に就任祝いの鏡が贈られたことになります。そして、継体王が王(後の天皇の呼称)に就いたのは507年ですが、ツングース系王家滅亡(502年)から継体王就任(507年)までに5年間のブランクがあるのは次のためと思われます。

まず、ツングース系王家は北陸・東海から東九州を支配した広大な王家で、管理のための多数の文官が居ましたが、革命の結果、文官を含め支配者はすべて追い払われたため、国家を運営する体制がなくなってしまいました。そこで、急遽、百済から文官を派遣してもらい、507年に王権を始めることができたことになります。

このとき百済から派遣されたのが蘇我であり、彼は王に次ぐ大臣という破格の役職で迎えられました。詳しくは「蘇我家の繁栄と滅亡 1.蘇我氏のルーツは百済」を参照願います。

次に、ツングース系王家の腐敗ですが、日本書紀によれば、アイヌ系継体王の直前のツングース系王家の最後の王と推察される武烈王について次のようです。

日本書紀による記述

長じて罪人を罰し、理非を判定する事をお好みになった。法令にお通じになり、日の暮れるまで政治をお執りになって、世に知られずにいる無実の罪は必ずお見抜きになり、それをおはらしになった。訴訟の審理はまことに当を得ておられた。また、しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった。さまざな酷刑をご覧にならないことはなく、国内の人民は、みな震え怖れていた[2]。(以下略)

古事記による記述

『日本書紀』における武烈天皇によるこれら悪虐非道の記述は、『古事記』には一切見られない。日本書紀と比較すると、古事記の記事は極めて簡潔なものになっている。(以下略)

日本書紀における悪虐非道の記述について、古事記では記述が少ないこともあり、これらが本当かどうか確認できませんが、ツングース系王家の最後の王に問題があり、次の王として継体王(在位:507-531年)が選ばれたという内容にしたいという創作の意図の可能性があります。

おそらく、ツングース系王家は古墳建造時代を通じ民衆を苦しめた問題があり、総じて残虐非道の行いが多かったが、日本書記ではこれらのことを最後の王でまとめて示したと思われます。なお、最後の武烈王は18歳の若さで無くなっており、このことは継体王によって滅ぼされたことを暗示しております。

ツングース系王家の盛衰をまとめますと、次のような感じになります。

ルーツは日本に渡来してきた朝鮮半島由来のツングース系民族の集団ですが、稲作が発展し、2世紀に出雲王家を創りました。

しかし、出雲の地域は狭く発展性がないため、3世紀に日本の中心地と推定されるヤマトに移動しヤマト王家を開始しました。

次いで、馬と構造船を持ち、北陸・東海から東九州まで支配地を広げ、新しく大阪(河内)に王家を移動し、5世紀には世界最大と言われる大仙陵古墳を建造しました。このときが絶頂期と思われます。

しかし、それら古墳建造は民衆の不満をかい、さらには王家の腐敗があり、5世紀末にアイヌ系の継体王によって滅ぼされた、という感じでしょうか。

これらの様子を上トップ図に示しました。



ツングース系王家の繁栄と滅亡 8.アイヌ系継体王の台頭

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古墳時代における九州の状況


ツングース系王家の繁栄と滅亡 8.アイヌ系継体王の台頭

弥生時代の後、古墳時代が来ました。このとき西日本の大半を支配したのが朝鮮半島由来のツングース系王家です。その巨大な王家が滅びるという大事件が、5世紀末期に起きました。その背景は、巨大古墳建造の強行というツングース系王家の残酷な政治に民衆の怒りが高まったことは間違いありません。

今回は、その滅亡と関連し、主役の継体王(在位:507-531年)の登場について検討します。

まず、継体王のルーツですが、現天皇家のルーツであることがほぼ明らかです。そして、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、アイヌ系であることも明らかです。さらには、継体王のルーツはアイヌ系で南九州の熊襲であったこと、その後援者は北九州倭国の「倭王武」(後の百済武寧王)であったことも、最近、分かってきました。

まず、継体王のルーツは南九州の熊襲であったことですが、最近、ズッコケオジサンがブログ「健康オタクの目移り」で「大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(7)肝等屯倉(かとうのみやけ)」を紹介しています。

その記事では、大隅半島の肝付町宮下(上トップ図参照)に継体天皇の子の安閑天皇の屯倉(天皇領)があったことを紹介し、継体王は熊襲(アイヌ系)であったことを示唆しております。

また、近くの宮崎県高千穂は天孫降臨の地として有名ですが、南九州一帯はもともと縄文遺跡の多いところで、アイヌ系が多かったことも事実です。

一方、弥生時代、ツングース系民族が朝鮮半島から平野部に移住し、水田稲作で発展しました。この結果、人口が増え、ツングース系王家が西日本を支配するようになりました。

そして、その王家は、民衆を動員し、多数の前方後円墳を建造しました。因みに、九州では、先に報告しましたように、その前方後円墳が、大分に2基、宮崎に6基、鹿児島に2基あります。これらの古墳建造と動員数の関係を宮崎の例で検討しますと次のとおりです。

宮崎では、古墳建造最盛期の5世紀前半に、100m以上の大古墳が、女狭穂塚古墳(墳長176m)、男狭穂塚古墳(墳長176m)、児屋根塚古墳(墳長110m)の3基が西都原古墳群で建造されています。これらを先に紹介しました墳長と動員数の関係(100mで約10万人の動員)から計算しますと、3基合計で約72万人の動員数となりました。

この頃の人口を、鬼頭宏(1996)の情報をもとに南九州地域の人口を算出しますと下図のとおりです。

南九州地位金も年代と人口の関係

南九州には古墳建造最盛期の400年頃12万人いたと推定されます。このうち宮崎には古墳時代遺跡数から約6万人居たと推定されます(下表参照)。

南九州地域における古墳製造最盛期の遺跡数と人口

この6万人から古墳3基建造に72万人動員できるのか検討しますと、次のとおりです。

まず、3基の古墳建造期間を50年としますと、1年当り1.4万人の動員となります。農閑期に一人50日だけの動員とすると、実際の1年当りの動員数は約300人弱だけとなります。人口6万人のうち壮健な男性を2万人とすると300人を動員するというのは可能な数値と思われます。

どのような対象者だったのかが問題になります。対象者は中山間地に居るアイヌ系だけだったとすると、アイヌ系が40%の場合、2.4万人が対象者になります。このときはアイヌ系居住地の中山間地から平野部の西都原古墳への移動となり、移動手段や宿泊関係が問題になります。

特に、対象者がアイヌ系で中山間部から平野部(西都原)に移動しなくてはならなかった状況から推定しますと大変な事業だったと想像されます。

また、建造された古墳は上記の大古墳3基だけではありません。Wikipediaによれば、西都原古墳群は全体で、「高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている」、とあります。

そこで、ここに、アイヌ系の継体王がツングース系王家の横暴に抵抗する民衆の代表者(軍の将)として登場することに矛盾はありません。彼は、南九州のアイヌ系をまとめたと思われます。

また、北九州に倭王武が居ました。前回報告のように、彼は、朝鮮半島では百済と連携し、大国の高句麗と対立しました。一方、日本では、東側のツングース系王家と対立しました。

そして、倭王武が百済の武寧王となり、継体王の大王就任祝いの鏡を502年に送ったことが知られていますが、その前から二人が共同の敵のツングース系王家と対立し協力していたことは想像できます。

さらには九州の海岸部には海族の隼人(ハヤト)が居ました。ハヤトは縄文時代から居たマレー系で、海族とも呼ばれ、継体王に協力したと思われます。その最大の理由は、ツングース系王家が滅んだ後、宮崎を支配していたのはハヤトだったことです。詳しくは「古墳王家は宮崎から滅びた」を参照願います。

以上のことを総合しますと、継体王はアイヌ系の仲間をまとめ、北九州倭王武の支援を受け、さらにはマレー系隼人と連携し、宮崎・鹿児島のツングース系王家を滅ぼしたと理解されます。

そして、その後の経過は、日本書紀に準ずることができます。すなわち、神武天皇(実は継体王)は宮崎から東征し、ヤマトにアイヌ系王家を創ったことになります。

なお、継体王は福井出身という報告があります。しかし、これは、日本書紀の内容を反映したものです。拙ブログで何度も指摘していますように、日本書紀は現王家の都合のよいように創作したものです。

アイヌ系と関連し、縄文遺跡数を福井と南九州について下図に示しました。縄文人は、主として中山間部にアイヌ系、海岸部にマレー系が居たと推定されますが、その縄文時代遺跡数から、アイヌ系は福井に少なく南九州に多かったことが推察されます。

福井近辺と南九州の縄文時代遺跡数

以上のことからまとめますと、アイヌ系継体王はアイヌ系であるが、そのルーツは熊襲のアイヌ系であり、現天皇家の初代にあたります。このことは、日本書記の神武天皇(実は継体王)の東征と矛盾なく理解することができます。

関連し、この5世紀の九州の様子を上トップ図に示しました。



ツングース系王家の繁栄と滅亡 7.北九州倭国の台頭

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朝鮮半島と日本の状況(5世紀)


ツングース系王家の繁栄と滅亡 7.北九州倭国の台頭

前回、大阪(河内)のツングース系王家は200m以上を超える巨大古墳をいくつも建造し、5世紀前半に頂点に達し、この結果、民衆が疲弊したことを紹介しました。そして、それら古墳の建造は5世紀後半になると著しく低下しましたが、このことは民衆の怒りも頂点に達したことを意味します。
 
当然のことですが、それらの怒りは権力者への反抗に発展します。その結果、6世紀前半にはツングース系王家は滅び、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が権力者になりました。その意味で5世紀後半は、民衆の不満が高まり、革命前夜であったと思われます。

その革命の主役は継体王ですが、マレー系の百済と連合していた北九州倭国の存在も無視できません。因みに、百済の武寧王は、継体王の即位お祝いの鏡を502年に贈っています。この鏡では継体王は男弟王と呼ばれています。詳しくは「北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した」を参照願います。

関連し、今回は「北九州倭国台頭」について検討し、次週は「アイヌ系継体王の台頭」について検討します。

まず、前方後方墳は、その様式はツングース系王家関連の墳墓と推定されています。このことを前前回記事「ツングース系王家の繁栄と滅亡 5」で紹介しましたが、この前方後方墳の100m以上の大型のものが九州地域では大分・宮崎・鹿児島の東九州地域に認められます。

このことは、ツングース系王家の影響は東九州まで達していたことが分かります。

一方、百済王家の歴史を記した「百済本記」によれば、百済と北九州倭国は連合しており、百済王家が北九州倭国に派遣した王子が倭王武となったことが示唆されております。そして、百済は大国の高句麗から圧迫を受けており、この百済を救うため、倭王武は中国南朝(宋)上表文を贈ったとあります。

関連し、倭王武については、中国南朝の歴史書(宋書倭国伝)にも書いてあり、倭国の五王が朝貢し、最後の倭王武に朝鮮半島南部を支配する「征東大将軍」の称号を478年に与えたとあります。

このことは、日本古代史における重要な事実ですが、日本の正史と言われる日本書記には言及されていません。その理由として何度も指摘しておりますが、日本書記は「万世一系の偉大な天皇家」を主題にしており、倭王武は天皇家とは関係ない王であったため無視されたものと思われます。

なお、日本の古代史では、この倭王武をヤマト朝廷の天皇の一人だという説がありますが、物的証拠は何もなく、この説は妄想の類いと思われます。因みに、当時のヤマト朝廷はツングース系王家であり、中国の南朝に百済の救済を求める理由はまったくありません。

以上のことをまとめますと、北九州には倭国があり、当然のことですが、ヤマトのツングース系と九州で対立していたことになります。そして、上記の前方後円墳建造地が示すように、ヤマト王家の支配は大分・宮崎・鹿児島の九州の東側だけだったと理解されます。

次に、百済と倭国の関係ですが、朝鮮半島北部の広開土王碑文によれば、4世紀末、倭国と百済の連合軍が高句麗を攻めてきたとありますので、この頃から倭国と百済は連携していたことになります。

百済と倭国の民族ですが、どちらもマレー系です。もともとは中国南部にいた稲作民族(越族)が北上し、朝鮮半島西部と北九州北部に水田稲作を広め発展してきたグループです。南朝に朝貢したのも、百済と倭国はもともと中国南部と関係があったためと思われます。

また、倭国の「倭」とは低身長民族への蔑称です。マレー系の多くは低身長であり、倭国の人々が倭族と中国人から言われていたのはそのためと思われます。この意味で、倭族は一般の日本人とは異なります。

一方、百済を「クダラ」と読むのは、「クダラ」はマレー語で兄弟という意味で、おそらく北九州のマレー系が百済の住民を「クダラ」と呼称するようになったためと推察されます。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。

そして、5世紀になると、百済は南朝とさらに関係を強め、南朝仏教を導入するようになり、朝鮮半島で仏教先進国となりました。因みに隣国の新羅に仏教を伝えたのは百済です。日本の継体王(在位:507-531年)に仏教を伝えたのも百済です。

そして、北九州倭国のマレー系とヤマトのツングース系王家の関係ですが、朝鮮半島におけるツングース系とマレー系の対立が、そのまま日本にも持ち込まれたことになります。

まとめますと、ヤマトのツングース系王家と北九州のマレー系倭国は対立しており、その境は東九州と西九州の間であったと結論されます。

関連し、5世紀末の様子を上トップ図に示しました。