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宮崎の古墳群とツングース系王家滅亡愚考

宮崎の古墳群とツングース系王家滅亡愚考(西日本の古代)私こと、宮崎には仕事の関係で7年間滞在しました。そのとき見たのが西都原古墳群です。多数の小古墳のなかに100mを超える大古墳もあり、なぜ、古墳時代の中心地のヤマトから離れた宮崎の地に古墳群があるのか謎でした。関連し、今回は、東九州(大分、宮崎、鹿児島)に大古墳を建造したのはヤマトと同じツングース系王家だったこと、関連し、宮崎の王家滅亡について愚考し...
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学研まんが「NEW日本の歴史」で訂正された鉄器伝来

学研まんが「NEW日本の歴史」で訂正された鉄器伝来(古代史の虚像と書籍)小学生向き「学研まんが」の新版「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。その新版では、旧版の第1巻「日本のあけぼの」(1982年発行)の内容で訂正されている箇所があります。今回は「鉄器伝来の真実」について検討します。旧版では、稲と鉄は漂流者が弥生時代の始まりに持ってきたように描かれています。その様子は上のマンガ絵のとおりです。弥生時代...
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田植え開始と武士の出現関係愚考

田植え開始と武士の出現関係愚考(稲と鉄)前回、稲移植栽培(田植え)は、田植え前に水と土を混ぜるという代搔き(しろかき)作業があるため、漏水が少なくなり、この結果、水が温まり、稲の成長が早まる多収技術であること、それは平安時代中期頃(900年頃)に始まったことを指摘しました。また、その増収効果は、人口増大からみると、200年当たり1.7倍近くあったことを人口増大曲線から推察し、その効果が大きかったことを推察...
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人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる

人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる(稲と鉄)前回、田植え(移植栽培)は平安時代中期に始まったことを検討しました。田植えは稲増収技術ですので、水田稲作導入時と同じように、人口増大が予想されます。そこで、今回は、田植え技術により平安時代中期以降に人口が増えたのか検討します。まず、データですが、「近代以前の日本の人口統計」がWikipediaに出ております。5例の人口推定値が紹介されています...
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田植えの始まりは平安時代中期と思われる

田植えの始まりは平安時代中期と思われる(稲と鉄)ヤマト朝廷の日本統一に関し、これまで平安時代中期の蝦夷の英雄アテルイの降伏まで見てきました。この頃、東北は低温のため水田稲作は東北南部までしか普及していません。アテルイの地域は東北北部に当たり、貧困な畑作地帯だったと推察されます。ところが、田植え稲作が普及すると、稲作は東北北部まで可能になり、その結果、平泉黄金文化時代が始まるなど、東北北部は急速に変...
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