日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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海洋文化のルーツはマレー系 [2023/02/10]
日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある. [2023/01/13]
白村江の戦いの内容は虚構 [2022/12/23]
北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した [2022/11/11]
継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代) [2022/03/17]
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海洋文化のルーツはマレー系
海洋文化のルーツはマレー系
天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 4)海洋文化のルーツはマレー系
日本語、日本宗教(神社)、稲作のルーツについて検討してきました。
日本語はアイヌ語がルーツであることが明らかです。神社信仰はアイヌの自然との共生思想がベースになり、これに東南アジアから持ち込まれた鳥居、さらには中国様式の境内が導入され、荘厳な神社ができあがりました。また、日本農業(生産力)のベースになった水田稲作は、中国南部に居た稲作民族のマレー系が持ち込み、朝鮮半島由来ツングース系が鉄器を持ち込み普及させました。
これらの他、日本には海洋系の文化が縄文時代遺跡から覗えます。それらは、山内丸山時代の海洋交易、関東地域の巨大な貝塚遺跡等です。
関連し、今回は、これら海洋交易文化がどのように持ち込まれ発展したのか検討します。
結論から入りますと、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系が25%、その他10%の混合混血民族であることがDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果明らかになっていますが、上記の海洋文化と関連する民族はマレー系以外には考えられません。すなわち、日本の海洋文化のルーツはマレー系民族にあることはほぼ間違いないと判断されます。
マレー系が日本に来た経過については、2回の波がありました。1回目の波は6000年前の縄文時代です。縄文時代人骨調査によれば、マレー系らしい小柄な人骨が多数発見されていますが、これらはマレー系民族の人骨と思われます。
これらの流れの中で、マレー系は海洋交易の遺跡を至る所に残しました。三内丸山遺跡と関連し、網走の黒曜石や富山の宝石(翡翠)の分布はそれらを物語っています。また、関東の居住地からは多数の貝塚が残されていますが、これらも海洋系マレーの生活跡と想われます。
極めつけは、岡山市の彦崎貝塚です。ここからは貝塚の他に6000年前の地層から稲プラント・オパールも発見されています。この時期の稲は陸稲ですが、稲を持ち込んだのはマレー系以外には考えられないことから推察しますと、マレー系が貝塚と併せて残した稲遺跡と思われます。
マレー系、第二の流れは弥生時代の稲作導入時期です。このことは前回紹介した通りです。
これらの様子を上トップ図に示しました。
以上のことから、マレー系の日本渡来については、縄文時代と弥生時代の2回に分かれますが、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、それぞれDNAの違いが明らかになっています。
日本と朝鮮半島には、約30%のマレー系がいますが、縄文時代マレー系(マレー系A)は日本に20%と多く(韓国で10%)、一方、弥生時代マレー系(マレー系B)は日本で10%と少ない(韓国で20%)状況です。
次に、日本に古来より居る海の民と言われる海族や隼人族ですが、以上の経過からして、そのルーツは縄文時代のマレー系と結論されます。彼らは、縄文時代、海岸に居を構え、貝を主食としの日本の海を自由に航海し、交易したのではないかと想われます。
その関係から想像しますと、古墳時代末期、アイヌ系継体王(在位:507-531年)が現れ、巨大古墳を建造したツングース系王家を滅ぼしましたが、海洋系マレーは同じ縄文時代からの仲間のアイヌ系に協力して新時代王家の仲間入りをしたのではないかと思われます。
その1人が大化の改新(乙巳の変 645年)で有名になった中臣鎌足です。彼は、継体王が王家を開いたとき、海洋系の代表として新政権の有力者(豪族)の1人となり、歴史に名を残すようになったと想われます。なお、中臣鎌足が縄文時代からのマレー系であることはDNA研究から分かったことです。
さらには、海の神を祭っている宗像大社があります。Wikipediaによれば宗像大社は次のとおりです。
宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡県宗像市に在る神社。式内社(名神大社)、八神郡の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社であり、『日本書紀』では、一書に曰くとして「道主貴」と称される。玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神域とし、沖ノ島で出土した古代祭祀の奉献品の多くは国宝に指定されている。裏伊勢とも称される。
(引用終了)
すなわち、宗像大社は海族を守ってきた巨大な神社であり、沖ノ島という神域まであり、アイヌ系の現王家を海から支えてきた神社と理解されます。
一方、日本以外のマレー系ですが、彼らがアフリカのマダガスカル移住したことは有名です。彼らは1世紀頃からマダガスカルに居たこと、バナナや稲作をアフリカに導入したこと、マダガスカルの多数派民族になったことが知られています。
どのように、彼らはマダガスカルに移住したかについての詳細は分かっていませんが、遺跡調査によれば、彼らは、まず対岸の東アフリカ(タンザニア)に居住し、その後、マダガスカルの北部海岸に移住し、1年中温暖な山間部に移住したことが分かっています。
このマレー系のマダガスカル移住については下図に示しました。
一方、日本とアメリカ大陸先住民族の関係もあります。5000年前の縄文土器がペルーで発見されたのは有名な話です。これが、日本に居た海洋系マレーが持ち込んだのかは興味あるところです。
また、関連し、日本人がアメリカ大陸に移住したことについては多くの日本人研究者が指摘しています。
最近の研究によれば、現在の北米インデアンは1~5世紀頃に移住したトルコ系民族(Y染色体ハプログループQ等)であることが分かっています。しかし、中南米の民族のY染色体ハプログループ分類については報告がありません。
この様子を、想像ですが下図に示しました。
下の写真(2枚)は著者がマダガスカルの先住民族の人たちを写したものです。アフリカ人に混じってマレー系の老婦人が見えますが、彼女はインカ先住民族に似ている感じがしています。
関連し、Web検索情報ですが、古代インカの人々のDNAについては、ミトコンドリアDNA情報はありますが、Y染色体ハプログループについては、報告を見ることはできません。
Y染色体ハプログループが分かれば、古代インカ人のルーツは分かりますが、まだ関連の報告を見ることができないのは不思議です。何か大きな力が陰で動いている感じがします。
背景に、日本人が中南米に移住し、インか文明等を残したことを認めたくない勢力があるものと想われます。
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[ 2023/02/10 07:32 ]
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CM(4)
日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある.
日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある
天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツは縄文・弥生時代にある(第5章の序文)
これまで、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%の混合混血民族であること、現天皇家は継体王(在位:507-531年)に始まるアイヌ系であることを検討してきました。
そして、これらの民族は、日本語や宗教等の日本文化の形成に大きく関わってきました。関連し、ここ第5章では、日本文化と日本民族の関係について検討します。
おそらく、これらの方面での第一人者は梅原猛と思われます。彼は、日本文化のルーツを調べ、北海道アイヌ古老と話したとき、日本語や日本人の死生観(あの世観)がアイヌと同じことを発見しました。
例えば、アイヌ語では神はカムイ、魂はタマであり、アイヌ語には日本語とまったく同じ単語が使われています。このような精神に関わる単語は外国から導入されたとは考えにくい、すなわち、日本語の自生の基本単語として、もともとあった単語と観ることができます。
また、日本には、死後の世界として「あの世」があると信じられてきました。「あの世」は「この世」とあべこべの世界で、「この世」の夜は「あの世」では昼に当たります。このため、死人を「あの世」に送るための儀式に「通夜(つや)」がありますが、この儀式は「あの世」では明るい昼にあたる夜に行なわねばならない異紹介しました。
小生はいくつかのアジアの国をあるきましたが、このような儀式があるのは日本だけです。おそらく、梅原猛指摘のとおり、これは縄文時代から続いていた葬式で、仏教が入る前の葬式は「つや」だけだったことになります。
これらアイヌと同じ言葉と宗教が現代まで続いていることの理由を検討しますと、日本の支配者(天皇家)が同じアイヌ系だったためと観ると当然のことと思われます。そして、このことは最近の、天皇家はアイヌ系というDNA研究結果により確実になったと思われます。
また、日本の宗教は神社宗教(神道)と言われます。この宗教は多神教であり、アイヌの自然との共生思想と同じであり、神道のルーツもアイヌ系にあることは確実でしょう。
一方、アイヌ系の文化では説明できていない遺跡や文化があります。例えば、稲作、照葉樹林文化、巨石文化、海洋交易ですが、これらの実例は南方に認められます。
南方系の人々として、日本には30%のマレー系の人々がいますが、これらの文化はマレー系の人々がもたらしたものと思われます。
一方、日本は稲作の拡大により発展しました。稲作には陸稲様式と水田様式がありますが、この稲作で生産力が高いのは森から流れてくる養分を含んだ水を利用する水田稲作です。
この水田稲作には、水路や水を貯める畝を作るための鉄器農具が不可欠ですが、この鉄器を導入し稲作を発展させたのは、朝鮮半島由来ツングース系民族です。そして、水田稲作を拡大し、弥生時代と古墳時代の覇者となったのはツングース系民族でした。
本章では、これらの民族との関係から、日本文化のルーツに迫ります。
なお、本章の副題(節)は次のとおりです。
1) 日本語のルーツはアイヌ語
2) 神社信仰のルーツはアイヌの自然信仰
3) 稲と照葉樹林文化はマレー系が持ち込んだ
4) 海洋文化のルーツはマレー系
5) 巨石文化はマレー系が主として作った.
6) 鉄器はツングース系が持ち込んだ
関連し、日本文化と日本三大民族(アイヌ系、マレー系、ツングース系)の関係を上トップ図に示しました。
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[ 2023/01/13 07:55 ]
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CM(6)
白村江の戦いの内容は虚構
白村江の戦いの内容は虚構
天皇家はアイヌ系 4.日本書紀は創作、3)白村江の戦いの内容は虚構
継体王(在位:507-531年)以前の日本書紀の記述は創作であったことを検討してきました。しかし、継体王以後の歴史的事件でも、それが認められます。それは百済滅亡経過にある白村江の戦いです。
日本古代の最大の対外関係事件は、663年の白村江の戦いと言われますが、これに関する日本書紀の内容は明らかに創作です。
すなわち、事実は北九州倭国と唐軍の戦いであったが、これを認めると北九州倭国があったことが明らかになり、天皇家は万世一系でなくなってしまう問題があり、事実は書けなかったことと思われます。
そこで、白村江の戦いの真相を探りますと次のとおりです。
まず、ヤマト政権が白村江の戦いに参加しなかったことは遣唐使の記録からも分かります。
白村江の戦いがあった時、ヤマト政権は、遣唐使を派遣し、唐の先進文化を積極的に導入しようとしていました。すなわち、ヤマト政権は唐と友好関係にあり、唐と戦う理由はありませんでした。
「遣唐使全航海」(上田雄著 2006)を参考に、白村江の戦いでヤマト政権が本当に戦ったのかについて検討しますと次のとおりです。
第4回遣唐使(659~661): 人数は240人ぐらい、船2隻に分乗し出発したが、東シナ海で逆風を受け、1隻は漂着した後、南海の島で島民の攻撃に合い、5人だけが逃げることができた。一方、残りの1隻は、都(長安)に659年に無事着いた。
当時、唐は660年に百済への総攻撃を予定していたため、百済の隣国である日本に情報が洩れることを恐れ、使節一行は唐の都に幽閉され、百済征討が終わった翌年(660年)に開放され、帰国した。
第5回遣唐使(665~667): 唐が百済を攻め滅ぼした後の663年、唐は百済に占領軍を置き、664年に唐の鎮将は部下を戦後処理のため百済から北九州に派遣した。さらに665年に唐の使節254人が北九州に再来した。そして、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣そして、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣唐使であった。
(書籍解説終了)
これら遣唐使の内容から見ますと、白村江の戦いで日本側が唐と戦ったことは、まったく触れられていません。すなわち、唐と戦ったのは北九州の倭国軍であり、日本書紀にある倭国軍(日本軍)で無かったと判断されます。
また、665年に唐の使節254人が来ましたが、場所は北九州です。すなわち、彼らが来た理由は実際に戦った北九州倭国の戦後処理であったと推察されます。
関連し、当時倭国は「阿毎王権」でしたが、白村江の戦いの後、北九州倭国政権は中国の歴史書から消えました。また、倭国王だった「倭王の筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」が唐軍に捕らえられたことも知られております。
すなわち、白村江の戦いで唐軍と戦ったのは北九州の倭国となります。
次に、白村江の戦いにおける海戦の真相です。
まず、日本書紀をベースにしたWikipedia(白村江の戦い)によれば次のとおりです。
軍事力
唐・新羅連合軍
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[1]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[4]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)。
(引用終了)
また、このときの唐軍の指揮官「劉仁軌」ですが、Wikipediaによれば次のとおりです。
龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。
(引用終了)
また、「白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?」(ブログ記事)によれば次のとおりです。
奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。
(引用終了)
これらから白村江の戦いの真相を探ると次のとおりです。
1. 唐軍は7000余人、船舶170余隻また、船の大きさは、単純計算で40人乗り、大~中型船という感じです。
2. 一方、日本書紀の記述ですが、日本軍は1万余人。船舶は唐軍と同じく170余隻ですが、唐軍と同じ船数となっているのは作為的と思われます。また、船の大きさですが、単純計算で60人乗り(1万人/170隻)で唐軍よりも大きな船です。そこで、そのような多数の大きな船をどのように作ることができたのか、疑問が残ります。当時は、そのようなサイズに遣唐使船がありますが、数隻準備するだけで精いっぱいだった時代、170隻はあり得ません。
3. また、唐軍指揮官「劉仁軌」の記事によれば、「400余隻の軍船を焼き払って大勝」とあります。さらに関連記事を見ますと倭国軍は小舟のため唐軍の船に挟まれ苦戦したとあり、日本書紀記述のような大きな船は出てきません。
4. また、日本書紀の別のところでは「北九州筑紫国の農民兵が690年に帰国した」とあります。これは、白村江の戦いの主役は北九州倭国の兵士だったことを示唆しております。
5. さらには、捕虜の帰還に関し、Wikipediaによれば、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の名前があります。彼らは、北九州倭国の高僧、王、豪族です。
6. 以上のことをまとめますと、白村江の戦いは唐軍(中型船)と北九州倭国(小型船)との戦いであったと見ると矛盾がなくなります。
これらをまとめますと、白村江の海戦いで唐軍と戦ったのは北九州倭国であったことになります。
次に、白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったことです。
まず、白村江の戦いの経過は次のとおりです。
659年: 日本(ヤマト政権)第4回遣唐使派遣(661年帰国)。
660年: 唐・新羅連合軍に百済が敗れ、残党が北九州倭国と日本に復活のための支援を要請する。
663年: 北九州倭国軍が支援に向かい、唐・新羅連合と対戦し、白村江の戦いで大敗し、陸上の戦いでは指揮官(倭国王)等多数が捕虜となる。
665年: 唐の劉徳高が戦後処理の使節として北九州に来て、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、日本は第5回遣唐使(665~667)を派遣した。
そこで、その経過を詳しく検討しますと、不思議なことに665年の戦後処理の内容が日本書紀では明らかになっていません。
一般に、敗戦国は戦勝国に何らかのものを提供しなければなりません。しかし、日本(大和政権)は何も失っていません。
また、捕虜になったのは倭国王初め北九州倭国関係者ばかりです。日本書紀に、「指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津」等、大和の指揮官の名前が入っていますが捕虜になった者は居ません。
そこで、前後関係から想像しますと、665年の戦後処理では、次のようになったと推察されます。
1. 今回の戦争は北九州倭国が起こしたもので、日本(ヤマト政権)は関係がない。
2. 百済を支援してきた北九州倭国は抹殺、その領土(北九州)は日本のヤマト王家の帰属とする。(関連し、白村江の戦いの後、日本は日本統一を果たしたと旧唐書にあります。)
3. 日本は引き続き唐の属国として扱われる。
4. 百済の残党には厳しく対処する。例えば、日本に逃げてきた百済文化人の関東流刑です。
これらをまとめますと、「白村江の戦い」は唐・新羅連合軍と百済残党・倭国の戦いであり、ヤマト政権は中立で、その結果、漁夫の利を得たと結論されます。
そして、日本書紀はなぜ歴史を改竄したかですが、理由は簡単です。「日本は万世一系の天皇家」という執筆方針があり、これに反する北九州倭国の実在は書けなかったこと、と思われます。
関連し、海戦の様子を上トップに示しました。
また、白村江の戦いの真相を下表にまとめました。
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[ 2022/12/23 08:22 ]
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北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した
北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した
天皇家はアイヌ系 3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 2)北九州倭国王と百済武寧王の継体王支援
前回は、継体王が百済と北九州倭国の支援を得て、ツングース系王家を滅ぼしたことを検討しました。今回は、百済と北九州倭国が継体王を支援したことについてさらに検討します。
まず、百済ですが、建国の経過は不明ですが、首都があった漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538年から)の三時代に大きく分類されます。
現在のソウルにあった漢城が高句麗との戦いで落城し、その後、百済は山間部にある熊津に再建されました。熊津時代の始まりですが、502年に武寧王が即位し、高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復しました。
このとき百済を支援していたのが北九州倭国です。高句麗から国を守るため百済は北九州倭国に支援を要請し、その支援の関係で百済王子の1人(後の武寧王)は、北九州倭国の交換捕虜となっていました。
捕虜となっていた百済王子は、北九州倭国で抜擢され倭王武と名乗り、中国南朝から「征東大将軍」の称号を得て、百済を除く朝鮮半島南部を支配する強大な国家にしました。このとき、新羅は倭国の属国となり、北九州倭国に朝貢するようになりました。
倭王武は、万世一系の偉大な天皇家という執筆方針と合わないため日本書紀では無視されたと思われます。しかし、偉大な倭王武を示す歴史的遺物は中国南朝の資料のほか、日本にもいくつかあります。
まず、一つは、海に面した倭国の都の太宰府建造です。その都の建造時期は5世紀で、日本で初めての条里制に基づいて建造された都で仏教寺院も建造されていました。5世紀は倭王武の時代で、倭国全盛時代であり、そこに都があったこととは歴史的事実とも合致します。
また、北九州の古墳には、ヤマトの古墳と異なり、装飾古墳が多いことが知られております。この装飾古墳のルーツは中国南朝にありますので、中国南朝と北九州倭国の関係があったことは確実です。
また、埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文があります。鉄剣碑文が創られた年代は471年(辛亥年)、そこには「天下の倭国の大王が居た」と書いてあります。また、北九州倭国領域の熊本県の江田船山古墳からも同内容の鉄剣が出土しております。
この時代、日本には、北九州倭王武、ツングース系ヤマト王家の王、関東王家の三王が居ましたが、ヤマトの王は継体王(在位:507-531年)に攻められ滅亡寸前、関東王家はまだ小国です。すなわち、鉄剣に記されている大王は、天下の倭国の大王という意味で、中国の南朝から「征東大将軍」と認められた倭王武以外には無いと判断されます。
一方、北九州倭国には隣国の敵として、ヤマトにツングース系王家があり、その王家は、岡山(吉備)を支配し、さらには東九州の大分・宮崎・熊本まで勢力を拡大していました。そこで、倭王「武」は、同じツングース系王家と関係のある宮崎をまず滅ぼしたと思われます。この方面は後に詳しく紹介します。
そして、偉大な業績を残した倭王武は、もともとは百済の王子であったことから、百済に戻り502年に王位に就き、武寧王と名乗りました。そして、503年に日本の継体王に王位就任祝いの鏡を贈りましたが、その鏡には、継体王は武寧王の男弟王(弟)と記されていて、継体王が百済の支援を受けていたことは確実です。
一方、その北九州倭国の始まりですが、その建国経過は不明です。高句麗王「広開土王碑文」によれば、399年に倭国が海を渡り、百済を臣民としたとありますが、その頃から倭国があったことになります。
そして、倭王武が百済に帰って武寧王となった後、倭国王(君)となったのは筑紫君(つくしのきみ)と呼ばれた磐井王でした。筑紫国風土記によれば、磐井王は筑紫の君(王)と呼ばれ、527年に継体王と戦った(磐井の乱)とき大分の方に逃げたとありますから、磐井王時代、筑紫国の領土は大分を含む北九州全域になっていと思われます。
また、百済と北九州の地域的特徴ですが、中国南部から北上してきた稲作民族マレー系Bの移住した地域で、稲作関係の弥生時代遺跡が多数ある地域です。その意味で、北九州倭国と百済はマレー系民族の国で、もともと言葉が通じ、兄弟関係になります。
関連し、百済は日本語読みで「くだら」と読みますが、「Kudara」はマレー語で兄弟という意味です。おそらく、同じマレー系の仲間ですので百済のことを北九州の人々が「くだら」と呼んだのが、その読みのルーツと思われます。
そこで、まとめますと、百済・北九州倭国と継体王の関係ですが、次のような関係になります。
1. 百済・北九州倭国は中国南部(越国)から渡来してきたマレー系民族の国で、北のツングース系の高句麗と戦ってきた。また、日本では、東方にツングース系のヤマト王家があり、その勢力は東九州まで迫ってきていた。
2. 一方、継体王はアイヌ系であり、アイヌ系はツングース系王家の巨大古墳建造に動員され、怒りに満ちていた。
3. これらの背景から、北九州倭国の倭王武は、継体王と連携し、まず、東九州とくに宮崎のツングース系王家を攻め、続いて、東に向かい、吉備の古墳王家を攻めた。
4. 継体王が、大阪・奈良のツングース系王家を滅ぼすと、百済の王になった武寧王がお祝いの鏡を603年に贈った。
関連し、これらの経過を上トップ図に示しました。
また、継体王を支援した武寧王(もと倭王武)の姿は下図のとおりです。
なお、以上の百済・北九州倭国と継体王の関係は、日本書紀では無視されています。理由は簡単で、現天皇家は継体王(在位:507-531年)から始まりますが、一方、それ以前からあった北九州倭国については、天皇家は万世一系という執筆方針とは合わないため、無視されたと思われます。
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[ 2022/11/11 09:17 ]
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継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代)
継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代)
最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、現天皇家のルーツはアイヌ系継体王(在位:507-531年)であることを明らかにしました。
これは、天皇家のルーツは朝鮮半島由来の弥生人(ツングース系)であったという通説を否定するもので大発見と思われます。
拙ブログでは、このアイヌ系継体王の登場は、古墳建造に従事させられてきたアイヌ等の縄文系の人びとの反乱の結果と観てきました。
一方、北九州倭国は百済と合同して北のツングース系大国「高句麗」と戦ってきたことは知られているところです。北九州倭国と百済は同じ中国南部由来のマレー系稲作民族です。両国が協力関係にあるのは、同じ民族ですので不思議なことではありません。
因みに、百済は一般に「ひゃくさい」と読みますが、日本読みでは「くだら」です。なぜ「くだら」なのか謎に満ちていましたが、拙ブログでは、その呼称はマレー語に由来し、意味はKudara(同胞、兄弟)、すなわち、百済と倭国は「くだら」(同胞、兄弟)だったと理解しました。詳しくは「
古代国家「くだら」の国名由来
」を参照願います。
一方、ヤマトのツングース系王家に対しては、アイヌ系の継体王とマレー系北九州倭国の倭王「武」が共同して戦い、百済が陰で両者を支援していたことを拙ブログでは検討してきました。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、継体王と百済の関係について検討します。
これらの関係について「
倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係
」で拙ブログで紹介したことがありますが、今回はさらに踏み込みます。
まず、関連の記事として、「
古代史の謎「継体天皇新王朝説」を追う!(最終回)[百済王からの鏡]
」がありますので、紹介しますと次のとおりです。
隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ=和歌山県橋本市)に伝わる鏡には「癸未(みずのとひつじ)年八月」で始まる四八文字が刻まれています。
「癸未年」を西暦503年とし、そこにある「男弟王」を「ホド王=継体」と解釈しますと、503年に百済(朝鮮)の武寧王(ぶねいおう)が大和の忍坂宮(おしさかのみや=桜井市)にいた継体にその鏡を贈ったと理解できます。
ここで問題になるのが癸未年です。
その年は武烈天皇の父とされる仁賢(にんけん)天皇の治世だからです。
百済の王が外交交渉相手として鏡を贈っているくらいですから、継体はその時点で皇位継承者とみられていたと考えられます。
そうなりますと、継体が地方豪族であるはずはなく、仁徳朝の皇統のどこかに繋がる王だったという話になるのです。
ただし、皇族の一人とはいえ、傍流に位置し、近江や越前などの地方豪族に養育される立場であったと考えられます。
仁賢の次に武烈が即位しますが、『日本書紀』に凶暴性が記載されるとおりの天皇であったのだとしたら、早くから、その次の天皇として継体に期待がかかり、だからこそ百済の王が彼に接近を図ろうとしたともいえます。
そうして武烈の崩御後、政権内の派閥争いなどがあって皇位継承は順調にいかず、混乱が生じた――そう結論付けることはできますが、あくまで仮説にすぎません。
仁徳朝と継体朝の間に皇統の断絶があったのかどうか、邪馬台国論争とともに大きな古代史の謎といえるでしょう。
(引用終了)
本記事は、503年に部寧王が継体王に鏡を送った記事ですが、このことは、継体王が大王となる507年以前から両者には関係があったことを示します。拙ブログでは、継体王を百済と初めて外交したヤマト朝廷の王として紹介してきましたが、大王になる前から百済と関係があったことになります。
また、このとき、継体王は男弟王と部寧王から呼ばれております。これは、部寧王の弟の扱いです。すなわち、継体王は部寧王の弟分であり、応援を得ていたことになります。そして、507年に大王となる前に、大王になる予定であったこと、あるいは、ツングース系王家を滅ぼし、すでに大王となっていたことが伺えます。
当時、北九州倭国と百済は同盟関係にあり、同盟の使者として部寧王は北九州倭国に滞在し倭王「武」と名乗っていたことが知られております。詳しくは「
倭王武は百済の武寧王になった
」を参照願います。
これらのことから想像しますと、倭王「武」は、継体王と共謀しヤマトのツングース系王朝と戦い、その王朝が滅亡されるのを見て、本国(百済)に帰り、502年に部寧王を名乗り、503年に仲間の継体王に鏡を送ったのではないかと思われます。
まとめますと、継体王はツングース系王朝を滅ぼしヤマトの新大王と507年になりましたが、その陰には北九州倭国と百済の支援があったものと思われます。強大なツングース系王朝を倒すためには継体王単独の力では不可能だったと思われます。
関連し、何度も指摘していることですが、このことは日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。その理由は、万世一系の偉大な天皇を題に日本書紀は描かれていますので、それに反すること(北九州倭国の存在等)のことは書けない背景があったことと思われます。
関連し、上トップ図に、倭王「武」、百済「部寧王」、継体王の関係について紹介しました。
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[ 2022/03/17 08:52 ]
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