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継体王より前の天皇は創作か(邪馬台国と日本人)

継体天皇前後の天皇の年代と王宮場所


継体王より前の天皇は創作か(邪馬台国と日本人)

畿内政権の王ですが、6世紀初頭に現れた継体王は、実在が確認できる王、初めて行政と地方の制度を作った王、初めて外交を行った王、百済の五経博士を受け入れ文書を作ることができるようになった王、その意味で、王宮は小さいながらも、初めての国らしい組織と制度を持った王として位置付けられることを紹介してきました。

このことは、それ以前の王(天皇)は、行政組織、地方組織も持たない王であり、政権があったのかも疑わしいことになります。このため、実際の初代天皇は継体天皇という見解がありますが、この見解を拙ブログでも支持しているところです。

そこで、継体王以前の王(天皇)は、どのように観たらいいのでしょうか。今回は、この問題について愚考します。

まず、継体王以前の王は日本書紀と古事記に記載されている王ですが、彼らの存在を確認できる証拠は見つかっておりません。

因みに、中国の歴史書で5世紀後半に登場する倭王武は雄略天皇にあたると推定され、例外的に実在が確認できる王という見解がありますが、確かな証拠はありません。まず、雄略天皇が何処に居て、何処に王宮があり、どのような政治を行い、なぜ中国に朝貢したのか、まったく分かっていないのです。

逆に、雄略天皇でないかと言われている倭王武ですが、彼は畿内政権の王ではなく、倭国の王として北九州に居て、5世紀後半、歴史的関係から百済と連合して、高句麗に対抗するため中国に救いを求めていたことが分かっています。それを裏付ける証拠として、中国に手渡した上表文があります。また、王宮跡として大宰府が推定されています。

関連し、北九州の倭国を除くと、その頃(雄略天皇時代、5世紀後半)の日本はまだ文字はなく、文書をもって中国に朝貢する能力がなかったと拙ブログでは指摘しております。

これらのことから、6世紀初頭の継体王より以前の王は、記紀だけに現れる王であり、実在を証明されていないと思われます。また、実在したとしても、大規模古墳を作った地域の大王としての意味があるだけで、日本の歴史の中心に居たとは考えられません。

そこで、日本書紀成立の意味について愚考しますと、次のようなことが考えられます。

まず、日本書紀の完成したのは720年、当時は奈良時代です。中国の唐をモデルにした奈良の都に外国の要人も多数来るようになり、外国人のために日本紹介の書として日本書紀が作られました。このため、外国人が読めるように漢文で書かれており、かつ日本が中国と同じように長い歴史を持っている大国であるかのように見せるねらいがありました。

このため、紀元前の時代から天皇が居るという荒唐無稽のことが書かれております。さらに、この荒唐無稽の創作を本当のことのように見せるため、北九州にあった倭国は大和政権の国(日本)だったかのように書かれております。ウソの上塗りが行われたことになります。日本書紀の内容が歴史的事実と異なるのは、このためと言われますが、拙ブログでも、そのような観点から日本書紀を観ています。

まとめますと、継体天皇以前の歴代天皇は実在が不明と結論されます。関連し、上の表は、継体天皇前後の天皇です。Wikipedia の記事をまとめたものです。継体天皇の前の天皇については、在位期間と王宮場所について推定はありますが、証拠はまったく発見されていないことから、現状では不明とするのが正しいと思われます。


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[ 2018/04/28 08:09 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(4)

百済と倭国の滅亡、7世紀は新旧交代の激動の時代であった(邪馬台国と日本人)

新羅と日本の国家統一


百済と倭国の滅亡、7世紀は新旧交代の激動の時代であった(邪馬台国と日本人)

日本は百済と倭国のおかげで大陸の先進文化を導入することができました。しかし、日本の国内統一が始まると、百済と倭国は歴史的役割を終えたかのように7世紀後半、滅びました。関連し、今回は、7世紀は新旧交代の激動の時代であったことについて、愚考します。

日本は、朝鮮半島南部を経て、水田稲作を導入し、かつ、中国の先進文化を導入した、ということは一般的歴史的知見となっています。

先進稲作導入については、日本では5000年以上前から陸稲稲作が行われていたことから考えますと、水田稲作を可能にする鉄製農具の導入の影響が大きかったと思われます。この稲作には、南方系の稲作民族(マレー系民族)が中心となって関わってきたと思われます。

そして、この稲作をベースに、朝鮮半島では百済、そして北九州では倭国が建国されましたが、その中心民族はマレー系民族で、言葉もマレー系の言語が使われたことが地名や王の名等から推察されます。

そして、倭国は、5世紀後半になると倭王武が新羅を含む朝鮮半島南部から北九州を支配する大王(安東大将軍)として中国から認められます。

この時代に作られた鉄剣碑文が、九州の熊本と埼玉県で発見されましたが、エカタシロ(獲加多支鹵)大王の世(寺=時?)という言葉がそれらの碑文に掘られていました。エカタシロ大王とは慈悲深い大王とマレー語では解釈されますが、おそらく倭王武がその大王であったことを意味すると思われます。

一方、日本は、継体王の時代(6世紀前半)になると、文字、文書の作り方、国家の制度、仏教文化等の導入を百済の援助で成し遂げることができました。これを機会に、日本は国家統一に向かい、発展します。倭国も、百済の先進文化導入の中継地点として、日本国の発展に寄与しました。

しかし、その恩を忘れ、大和(畿内)政権は、倭国が百済支援(白村江の戦い 663)に失敗し弱体化したときをねらい倭国を滅ぼし、日本統一を成し遂げました。

一方、百済を滅ぼしたのはツングース系の新羅ですが、その新羅も、また、日本と同じように、稲作、そして仏教文化を百済から取り入れています。しかし、その恩を忘れ、新羅は唐と組んで百済を滅ぼし、朝鮮半島の統一に成功しました。

以上の結果、朝鮮半島と日本ではそのマレー系民族の国家と言葉は消えてしまいました。しかし、DNAは残り、百済と倭国を作ったマレー系民族の存在は、そのDNAから分かります。因みに、朝鮮半島と日本ではマレー系民族のDNA(Y染色体ハプログループ O1b)の割合は、それぞれ約30%です。

関連し、上の地図は百済と倭国の滅亡と新羅と日本の国家統一の様子です。まさに、7世紀の朝鮮半島と日本は、古くからあった国が滅び、新しい国ができた激動の時代であったと思われます。


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[ 2018/04/24 07:59 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

なぜ倭国は日本統一の事業をしなかったのか(邪馬台国と日本人)

マレー系民族の日本移住と倭国


なぜ倭国は日本統一の事業をしなかったのか(邪馬台国と日本人)

倭国は北九州にあり先進地域でしたが、北側の朝鮮半島への関心が強く、東側の日本には関心が薄かった印象があります。因みに、倭国は、朝鮮半島に行き、399~404年に大国の高句麗と戦ったことが高句麗の好太王碑文で明らかになっております。また、早くから文書を作る能力があり、国書を作り中国に朝貢していたことが分かっています。

また、白村江の戦い(663年)前後では唐軍と新羅軍に攻められた百済を救うため、倭国は数万の兵を送ったと言われております。

一方、4~5世紀における倭国を除く日本は、地方の大王が大きな前方後円墳を作っていた時期でした。国の統一が始まったのは6世紀のことで、継体王が百済の武寧王の支援を受けて始めたと思われます。

そこで、もし、倭国が、こうした兵力と先進文化を日本統一に使ったら、継体王以前の時代に日本統一も可能だったと思われますが、なぜしなかったのでしょう。今回は、この問題について愚考します。

拙ブログを系統的に読んできた方は分かっていると思いますが、それは民族(言葉)の違いにあったと思われます。

すでに何度も紹介していることですが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類) によれば、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系20%、モンゴル系10%、その他5%の混血民族です。

マレー系の人々は、現在でもインドネシアのバリ島あたりに多数住んでおりますが、その容ぼうは小柄、そして生業として稲作を古くから行っており、かつ、アフリカのマダガスカルまで移住するような海洋系民族でもあります。

古代においても混血はあったと思われますが、アイヌが蝦夷と呼ばれ東北に多く住んで居たことは事実です。同じようにマレー系民族は北九州に集中して住んで居たと思われます。このことは、マレー系が江南地方から持ち込んだ水田稲作を北九州から始めたことからも推察されます。

また、マレー系民族は、朝鮮半島南部においても稲作を行い、百済建国の原動力になったと思われます。すなわち、朝鮮半島南部と北九州にはマレー系民族が居て、お互いに同じマレー系の言葉を使い交流していたと思われます。

魏志倭人伝には、倭国の人々は中国南部の海南島の人々に容貌や習慣が似ていることが紹介されています。このことも倭国は南方系の人々、すなわちマレー系の民族の国であったことを示唆します。

さらに拙ブログでは、ヨカ、ソウヤロ等の北九州の筑後弁はマレー語由来であることを解明してきました。そして、北九州には、小柄で丸顔の可愛らしい女性が目に付きますが、これらの容貌はマレー系の容貌であることも指摘してきました。

まとめますと、北九州の倭国はマレー系民族の国であり、同じ言葉を話す民族の百済など朝鮮半島南部と関係が深かったと判断されます。一方、東側の日本は、アイヌ系言語地域と推察されますが、言葉が異なり、別民族の国です。この民族の壁は厚く、日本統一の情熱は弱かったと判断されます。

「奴国は女王国の境」という言葉が魏志倭人伝にありますが、このことから推察しますと、奴国は現在の福岡市辺りですので、その東側の日本は女王国(倭国)とは別の民族か女王国に属さない人々が住んで居たことが予想されます。

関連し、上の地図は、マレー系民族の日本と朝鮮半島(百済)への移住経路です。

下の地図は、古代における日本民族の形成過程です。北方のツングース系民族は、モンゴル系と中国系の混合混血民族で、満州で発生し、言葉はモンゴル系に近いツングース語を話す民族です。現在の朝鮮半島の民族は言葉からツングース系と判断されます。

古代の民族分布と日本


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[ 2018/04/16 08:13 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(2)

倭国はいつ滅びたのか(邪馬台国と日本人)

白村江の戦いと国際関係


倭国はいつ滅びたのか(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、稲作民族のマレー系民族が南方からきて北九州に住み着き、早くから水田稲作を行い、その結果、食糧が豊かになり人口が増えて国ができ、そこは中国から倭国と呼ばれていたことを紹介してきました。

今回は、その倭国がいつ滅びたのかについて愚考します。

調べますと、「「倭国」は滅亡していた 白村江の戦の結末」に、倭国が滅びた様子が分かりやすく紹介されていました。一部を引用しますと次のとおりです。

「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末

663年、朝鮮南西部の白村江(はくすきのえ)で、東アジアを揺るがす一大決戦が行われました。決戦の名は「白村江の戦」。唐・新羅(しらぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの連合軍による、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦は、唐・新羅連合軍の勝利によって幕を下ろしました。この戦いにより、百済は名実共に滅亡し、新羅による朝鮮半島統一へと時代は動き始めます。この教科書でも習った白村江の戦が、実は日本にも多大な影響を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鮮半島有事にも少なからぬ示唆を与えるこの戦いの結末について、書いてみたいと思います。

倭国(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句麗と朝鮮半島で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鮮半島に古代から関わらなければならなかったのかと言う問題は、この際は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事ある毎に朝鮮半島に一定のプレゼンス(影響力)を行使してきました。その帰結が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で負けた倭国・百済連合の一方の当事者・百済は名実共に滅亡し、その領土は新羅に併合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国にはどの様な結末が待っていたのでしょうか?

「倭国は滅亡していた」。ずばり、それがこの答です。国が滅亡したと言う証拠は、「日本書紀」671年の条の、「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要約)と言う記事です。

「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝廷(日本国)側からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の滅亡の証拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それが、証拠になるのです。

白村江の戦で、戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。一国の王(現代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実。更に、倭国・百済連合が「敗戦国」だったと言う事実。これらが物語るものは一つ。それは、倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う事です。

敗戦国の元首(王)が戦勝国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった愛新覚羅傅儀(ラストエンペラー)がソ連、更に中国の撫順収容所に「戦犯」として収監された事実を見ても、明らかです。倭王の場合も、おそらく、傅儀同様、戦後、唐に抑留されていたものと思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を許されたのでしょう。しかし、帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。(引用終了)

引用が長くなりましたが、663年の白村江の戦で敗れ、その過程で倭国の王は唐軍に捕らえられ、倭国は百済と同じく滅びたことになります。

倭国は、中国と新羅に攻められた百済支援のために兵を661年から3回派遣し、合計5万人近い兵を送ったと言われています。しかし、倭軍は大敗し、これを機会に百済滅亡となりました。

そして、このとき、上記記事によれば、戦争を指揮していた倭王の筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐軍に捕らえられ、倭国は国王不在となりました。このとき、大和朝廷は、かねてから対立していた倭国を取り込んだものと思われます。倭国は、白村江の戦いに敗れた後遺症もあり、抵抗もなく滅んだことが予想されます。

まとめますと、663年に倭国は、白村江の戦で大敗し、そのとき戦いに参加していた国王が唐軍に捕らえられ、倭国は国王不在となり、その後、倭国(北九州)は畿内政権に取り込まれ、現在に至ったと思われます。

これらの関係を上の地図に示しました。

以上の結果、マレー系民族の倭国は畿内政権に取り込まれ、現在では、その民族や言葉も見えなくなってしまったのが歴史の深層と思われます。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、日本人に、30%程度のマレー系のDNAがあることを明らかにしました。

さらに、拙ブログでは、そのマレー系民族の言葉は、ヨカ、バッテンなど北九州の方言として今でも残っていることを紹介してきました。

関連し、上の地図は、白村江の戦い(663年)と国際関係です。このときの大和政権の日本ですが、遣唐使を送っている関係から唐とは対立せず、立場は中立だったと思われます。


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[ 2018/04/12 07:55 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(4)

倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係(邪馬台国と日本人)

磐井王と継体王と部寧王の関係


倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係(邪馬台国と日本人)

継体王が行政と地方管理の制度を作った最初の実在の天皇(在位 507~531年)であったことを紹介してきましたが、当時強国であった百済の武寧王(在位 502~523年)の支援がそれを支えたと思われます。

一方、倭国の王であった倭王武が百済に帰国し502年に部寧王となったことを紹介しましたが、倭王武の後の倭王は磐井(在位 502~527年?)と思われます。筑後国風土記では筑紫君磐井と呼ばれ、この筑紫君磐井の「君(きみ)」は王という意味で、このことから、磐井は倭国の王と推察されています。また、当時、畿内の大王(天皇)に匹敵する大きさの北九州最大の墓(岩戸山古墳)を作ったことは有名です。

そして、百済に502年に帰国した部寧王ですが、倭国の磐井王、そして畿内の継体王の両方を支援していたと思われます。強国になったとはいえ、百済は領土は小さな国で、困ったときのために日本からの支援を期待していたものと推察されます。

九州熊本産の石で作られた「阿蘇のピンク石棺」が知られておりますが、継体王時代、このピンク石棺が畿内の墳墓から多数見つかっています。この「阿蘇のピンク石棺」の流れは、倭国王の磐井の協力があって実現するものと思われます。その意味で、磐井と継体王の仲は協力関係にあったと思われます。

しかし、倭国の磐井王と畿内の継体王は527年に対立します。教科書では「磐井の乱」として有名です。なぜ対立したのか、すっきりと解明した記事はありませんが、両者をまとめていた部寧王が523年に崩御したのが大きいのではないでしょうか。すなわち、重しがなくなり、両者は利害対立した。

その対立原因にはいろいろと考えられますが、一番の対立は、継体王が、倭国王を国造として地方の王と位置づけようとしたのに対し、磐井は反対した。その結果、倭国と畿内政権の間で大きな争いとなったが、いろいろな情報を総合しますと決着は付かなかった、という感じでしょうか。

なお、上の図は6世紀前半の百済、倭国、畿内政権の様子です。


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[ 2018/04/04 07:34 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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