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伽耶はマレー系民族の国(邪馬台国と日本人)

伽耶は日本のルーツ(書籍)


伽耶はマレー系民族の国(邪馬台国と日本人)

澤田洋太郎氏が「伽耶は日本のルーツ」(改定新版 2006)を発表しております(上の写真参照)。そして、伽耶は、鉄も産し、古代においては重要な鉄の供給源であったこと、さらには、王冠とか古代遺跡の埋蔵品では日本の古代遺跡と同じものが産出しており、日本と密接な関係があったことを紹介しております。

一方、拙ブログでは前回(4日前)、日本および朝鮮半島を含む東アジアの稲作地帯においてマレー系民族が現在も多数住んでいることを最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から指摘しました。

関連し、今回は、伽耶はマレー系民族の国であったことについて愚考します。

まず、伽耶ですが、伽耶も稲作を行っていたことは明らかですので、百済や倭国と同じくマレー系民族の一地域と判断されます。そして、伽耶をマレー語のkayaにすると、カヤ=kaya = rich=豊か、です。「伽耶は日本のルーツ」(改定新版 2006)では、伽耶は稲を産し、鉄を産し、たいへん豊かな地であった、とありますので、この言葉からも伽耶はマレー系民族の国であったと思われます。

そして、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から推察しますと、これまでの拙ブログの検討から、朝鮮半島と日本の民族と言語の状況は下表のような感じになります。

伽耶、百済、倭国の民族と言語
すなわち、伽耶はマレー系民族をベースに新羅からきたツングース系民族との混合民族、百済はマレー系民族をベースに中国系やツングース系の混合民族、そして、日本の倭国(北九州)はマレー系民族をベースにアイヌ系と新羅由来のツングース系民族との混合民族であった、と推察されます。

以上のことから、百済、伽耶、倭国(北九州)はマレー系民族を主体とした国ですのでマレー語が使われていた、と推察されます。古代において、朝鮮半島では日本人と現地人の区別はなく、言葉が通じていたという推察記事が散見されますが、それは、このようにマレー系民族が居た事情のためと思われます。

まとめますと、伽耶は、百済や倭国と同じマレー系民族を主とする国家であり、同じ民族の地域として古代においては積極的に交流し、このため争いは少なく、むしろ、ツングース系の高句麗や新羅に対しては共同して対応していた、と思われます。関連し、その様子を下の地図で示しました。

伽耶、百済、倭国と主要民族(地図)


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[ 2018/02/19 08:29 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(2)

エカタシロ(ワカタケル)大王の意味(邪馬台国と日本人)

5~6世紀の日本とエカタシロ大王


エカタシロ(ワカタケル)大王の意味(邪馬台国と日本人)

前回(4日前)、埼玉古墳で見つかった「稲荷山古墳出土鉄剣の碑文」について、そこに記されている王の名前はワカタケルでなくエカタシロであったことを紹介しました。

今回は、エカタシロ大王の意味について愚考します。

まず、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の碑文の「獲加多支鹵」大王ですが、これは、万葉仮名では「ワカタケル」と読めない。あえて読めば「エカタシロ」、あるいは「エツカタシロ」であることを、「獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-」の情報から指摘しました。

一方、「獲加多支鹵」大王の名前については、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘文にも同じ名前があることが知られております。古墳の時代が5世紀末~6世紀初ですので、埼玉古墳と同時期のものと思われます。そして、これも「ワカタケル」と読み、幼武(わかたける)と呼ばれていた雄略天皇のことでないかと言われております。

しかし、当時の5世紀後半の状況は、熊本(九州)も埼玉(関東)も畿内の支配が及んでいなかったことが明らかです。因みに、拙ブログでは、熊本は倭国の大王(武)の支配下にあったという説を支持しております。また、関東には別の大王が居たと考えています。

一方、鉄剣碑文文字は万葉仮名が使われていますが、当時、北九州の倭国に居たマレー系の民族がマレー語の万葉仮名を使い、中国と交流していたことを拙ブログでは指摘してきました。

そこで、「エカタシロ」大王の意味をマレー語で翻訳しますと次のようになります。

エカ(eka)=一つ(single)、タシ(tasih)=愛(love)、ロ(roh)=精神(spirit)、すなわち、エカタシロ=愛の精神をもった者=慈悲深い者(大王)

そして、この解釈を取るなら、「エカタシロ」大王は、個人を表す固有名詞でなく、偉大な大王を表現するときの枕言葉となります。すなわち、九州にも、関東にも、それぞれの固有名詞を持った慈悲深い(エカタシロ)大王が居たと思われます。

そして、なぜ、エカタシロというマレー語表現が関東でも使われたのかですが、それは、稲作拡大とともに、稲作を担っていたマレー民族が関東にも拡大し、九州の倭国のエカタシロ大王が関東にも知られていたからと思われます。詳しくは後ほど紹介したいと思います。

なお上の地図は、それらの状況を示した5世紀末~6世紀初頭の日本の状況です。


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[ 2018/01/22 08:24 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(3)

関東地方に大王が居たのか(邪馬台国と日本人)

エカタシロ大王と古墳


関東地方に大王が居たのか(邪馬台国と日本人)

ブログ仲間が「古墳は語る(13)~前方後円墳の一番多い県はどこ?」で、1位が千葉、4位が奈良と、関東が畿内より前方後円墳が多いこと、関連し、前方後円墳が畿内政権(大和政権)の管理の下に作られたとは言えないことを紹介しておりました。

巨大な前方後円墳が作られた4世紀後半が畿内政権の確立した時期とみられますが、それ以前にも前方後円墳が各地で作られていることから推察しますと、前方後円墳というのは、地域大王の象徴であり、畿内政権とは独立した存在という指摘は、そのとおりの感じがします。

関連し、今回は、前回と同じく、遺跡の数から古代の人口を推定した小山(1984)のデータを用い、畿内と関東の古代の人口変化から、「関東地方に大王がいたのか」について、愚考します。

まず、それぞれの古代の人口変化を示しますと、下の図のとおりです。関東と畿内、それぞれ同じような変化ですが、弥生時代開始、すなわち、稲作が確立し人口が増加し始めるのは僅かに畿内が早く、2300年前頃、そして、50年遅れて関東で増加が始まる、という感じかと思います。

古代における関東と畿内の人口変動

ということは、人口が増え、国ができるときの年代差はわずか、関東においては50年遅れで大王が出現していた、と思われます。そこで、古墳時代初期の大王墓と思われる20m以上の前方後円墳をまとめますと、下表のとおりです。すなわち、畿内で最も古い前方後円墳はホケノ山古墳(奈良)で3世紀前半の建造、関東で最も古い前方後円墳が神門(こうど)15号墳(千葉)で3世紀中頃の建造です。 ここでも50年の遅れがある感じです。

最古の前方後円墳(全長20m以上)

一方、拙ブログでは、埼玉古墳で見つかった「稲荷山古墳出土鉄剣の碑文」から、そこに記されている王の名前はワカタケルでなくエカタシロで、6世紀に畿内政権に支配されていないことからエカタシロ大王が関東に居たと推察しました。

関連し、古墳数を入れた関東地図を作りますと上図のとおりで、埼玉古墳は畿内よりも多い古墳に囲まれていた地域であります。まさに、関東にエカタシロ大王が居たとすれば、畿内の大王と同じくらい大きな大王であったことを思わせます。

まとめますと、畿内と関東における弥生時代以降の古代の人口増加はほぼ同じで、畿内がわずかに早く、弥生時代と古墳時代が始まった。そして、それぞれの地域に大王が居て、関東にはエカタシロ大王が居た、と思われます。


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[ 2018/01/18 08:31 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(4)

弥生時代開始が北九州は畿内より200年早い(邪馬台国と日本人)

古代における北九州と畿内の人口変動


弥生時代開始が北九州は畿内より200年早い(邪馬台国と日本人)

邪馬壱国(邪馬台国)がどこにあったのか、まだ論争している感じがします。

拙ブログでは、倭国の風俗が中国の海南島の風俗に似ているという魏志倭人伝の指摘から、海南島近辺に居たマレー系の稲作民族が、北九州に住み始め、邪馬台国を作ったと指摘しております。

今回は、遺跡の数から古代の人口を推定した小山(1984)のデータを用い、邪馬台国候補地の九州と畿内の当時の状況について愚考します。

まず、それぞれの地域の人口変化は上の図のとおりです。この図で見ますと、九州では、畿内より先に人口が増加し、その増加時期は2500年前(BC500年)頃から始まったと推察されます。言い換えますと、水田稲作が本格的に始まったのが、その時期と推察されます。

一方、畿内ですが、人口が増え始めるのは2300年前(BC300年)と推察されます。すなわち、九州より200年遅れていることになります。邪馬台国のあった3世紀は、人口が増え、国が形成される激動の時代ですので、この200年の差は大きいと思われます。

そして、このデータは九州については全域のデータですので、菜畑遺跡や板付遺跡という弥生時代の先進地であった北九州だけについて考慮するならば、その差はもっと大きかったと予想されます。

この差を踏まえ、邪馬台国のあった3世紀の状況を考察しますと、北九州は先進地域、畿内は後進地域であったと推察されます。例えば、邪馬台国には文字があり、万葉仮名を使って、国名を邪馬壱国(意味はマレー系移住者第一の国)と称し中国に朝貢していました。そして、絹織物などの宝物をもらうなど先進文化に接していた時代でした。

一方、畿内ですが、統一されておらず、多くの大王が各地域にいて、前方後円墳を作り始めた時代でした。

まとめますと、九州北部は、畿内より200年早い2500年前という時期に弥生時代(水田稲作)が始まり、人口が増加し、1世紀には倭国として中国に認められ、そのなかの奴国が中国に朝貢し金印を授与されるなど、日本で先進地域となりました。そして、3世紀には邪馬壱国(邪馬台国)の女王「卑弥呼」が現れた、と結論されます。


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[ 2018/01/14 08:17 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(5)

奴国の意味は豊かな国(邪馬台国と日本人)

マダガスカル女性銀行員


奴国の意味は豊かな国(邪馬台国と日本人)

日本で初めて中国に朝貢した国として奴国が知られております。Wikipediaには、「『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。」とあります。

この奴国ですが、西暦250年頃の倭国の様子を記述した魏志倭人伝では、二万余戸(2万戸X3人=6万人?)もあり、邪馬台国に次ぐ倭国の大国としても出てきます。場所は現在の福岡市南部辺りと言われています。

拙ブログでは、倭国はマレー系民族の国でマレー系言語が使われていたと推察しておりますが、今回は、この奴国の由来をマレー語で読むとどうなるのか検討します。

まず、マレー語の意味ですが、ナ(Nah)=良い(well)ですので、奴国=良い国または豊かな国、となります。

奴国の周辺は弥生時代の水田稲作遺跡が多数あり、そこから推察しますと、最初に稲作で豊かになった国と推察されます。その意味で、中国に朝貢するときに、自分の国を、奴国(豊かな国)と呼称したと推察されます。

次いで邪馬壱国(邪馬台国)が現れますが、250年頃のことで、この時期となると、倭国の中心は、より稲作が発展した筑紫(つくし)平野の方に移ったと推察されます。

一方、金印では、倭の奴国とありますが、これを、匈奴と同じように倭奴国(ワド国)と読む説があります。しかし、後の魏志倭人伝に奴国が再度登場することから考えても倭の奴国(なこく)とするのが妥当かと思います。

すなわち、奴国の奴(な)は奴隷の奴(ど)でなく、マレー語のナ(Nah 豊)という意味で使われたと推察されます。言い換えますと、奴(な)は万葉仮名であり、中国に朝貢するときの奴国の自称だったことになります。彼らは、そのとき、すでに中国との交流を通じ万葉仮名を使っていた、と拙ブログは推察しております。

また、倭国の意味ですが、小柄な人の蔑称であると言われておりますが、マレー系の人々は小柄な人が多いので、彼らが中国から倭人と呼ばれても違和感は無かったと思われます。

関連し、後に大和政権が中国に朝貢した時、倭国でなく日本国と改めるように要望した、とありますが、大和政権は、アイヌ系、マレー系、ツングース系の混血民族となっており、小柄な人が多い倭国でない、という意味もあるかと思います。

関連し、上と下の写真はマダガスカルの人々です。マダガスカルの大半の人々はマレー系民族と言われますが、小柄な人が多い特徴がありました。


マダガスカル露店売店の女性

また、参考までに、下の地図は奴国の場所です。

奴国の場所


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[ 2017/12/23 08:36 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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