2017 101234567891011121314151617181920212223242526272829302017 12

稲荷山古墳出土鉄剣の万葉仮名愚考(邪馬台国と日本人)

稲荷山古墳の場所と古代の周辺


稲荷山古墳出土鉄剣の万葉仮名愚考(邪馬台国と日本人)

前回(10月1日)、万葉仮名のルーツがマレー系の言語の発音にあることを紹介しました。関連し、今回は、我が国で最初に万葉仮名が使われたと言われる埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の碑文について愚考します。

まず、その碑文の意味ですが、「獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-」http://www.lun.ac/history/wa/wuekkatachilo.phpによれば、次のとおりです。

鉄剣に銘文を記銘させた者が 乎獲居臣 で あり、・・・獲加多支鹵大王寺(大王)に代り左治天下(王に代る宰相)と言う輝かしい名誉が あって、これを端緒として この事蹟を家系と併せて記念として残したいと言う 乎獲居臣 の意思が働いて、この鉄剣を鍛造鍛冶させたので あろう。・・・しかも銘文は、金錯銘と言う豪奢で非常に手の込んだ特殊な手法を用いて記録として残して おり、しかも類を見ない程 の長文で ある。この被葬者は余程左治天下の事蹟が嬉しかったので あろう。(引用終了)

鉄剣作成時期は辛亥年(西暦471年か531年)のようです。

そして、ここでも諸説があり論争が続いている感じがします。論点は、鉄剣持ち主(乎獲居臣)が宰相として仕えた獲加多支鹵大王寺という大王が誰なのか、に集約されます。

上記の専門家によれば、「獲加多支鹵」の「獲と鹵」は万葉仮名になくワカタケルと読めない、とあります。無理に読めば「エツカタシロ」となるようです。

そして、通説の「ワカタケル」と読めれば大和朝廷の雄略天皇を指していることになり、一方、「エツカタシロ」となれば、関東地方の大王となります。

拙ブログでは、6世紀当時、関東地方は毛の国と呼ばれ、大和朝廷の支配下に無かったことを紹介してきました。また、大王(天皇)に代り宰相ともなった乎獲居臣については古事記や日本書紀に記述がありません。

それらから考えると「エツカタシロ大王」は、稲荷山古墳辺り、すなわち現在の群馬、栃木、埼玉を支配していた蝦夷の大王と思われます。その鉄剣の発見された古墳の場所は、関東平野の真ん中です(上の地図参照)。5世紀以降となると、この広大な大地に蝦夷の大王が居てもおかしくはありません。

そして、大王名が「「エツカタシロ」」とすると、何か蝦夷(アイヌ系)の名前の感じがします。最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)、Nonakaら(2007)の報告によれば、今でもアイヌ系の割合は関東では半分(48%)近くあります。また、近くの群馬は毛野国と呼ばれていました。当時はもっとアイヌ系の割合が高かったと思われます。

これらの状況から想像しますと、5~6世紀に関東地方に蝦夷のエツカタシロ大王が居て、その宰相を務めた男が碑文入り鉄剣を作ったような感じがします。そして、その人名は万葉仮名にない発音の蝦夷の名前であり、新漢字を使わざるを得ない状況であったと推察されます。

そして、その碑文入り鉄剣を誰が作ったかですが、作った時期が531年の場合、当時、北九州で栄えていた倭国が磐井の乱で528年に滅んでいる関係から、そこに居た技術者が関東地方にも流れてきて、関東でも高度な碑文入り鉄剣の作成が可能になった、と考えることができます。



日本史ランキング
スポンサーサイト
[ 2017/10/13 08:22 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(4)

古代国家「くだら」の国名由来(珍説紹介)(邪馬台国と日本人)

百済と倭国は兄弟国


古代国家「くだら」の国名由来(珍説紹介)(邪馬台国と日本人)

百済の意味は、『三国史記』「百済本紀」によれば“多くの人に国造りを済けられた”、すなわち、多くの人(百人)が建国した国の意味のようです。韓国では漢字のとおり「ペクチェ」と読んでいます。

しかし、日本では百済を「くだら」と読み、「ひゃくさい」とは読みません。この謎について、いくつかの仮説がありますが、まだ、すっきりとした説明は得られておりません。素人ながら、今回は、新説(珍説)を提案し、この謎にせまります(笑)。

拙ブログでは、百済は、北九州にあった倭国と同じマレー系民族の国で、マレー系の言語を話す国であったと紹介してきました。そこで、「くだら」を現代マレー語辞典で調べるとどうなるのか調べてみました。すると、Kudara(クダラ)=Brother(兄弟)、という言葉に翻訳されて出てきました。

ということは、百済は兄弟の国であったことになります。日本人は、なぜ百済を兄弟と読んだのか、次のことが考えられます。

倭国(日本人)は、中国がその国を百済と呼称する前から知っており、同じマレー系の兄弟民族の国として「クダラ」(兄弟)と読んでいたと思われます。すなわち、百済建国後、表記は百済でも呼び方は「クダラ」のまま変わらなかった、ということになります。

そして、その「クダラ」という呼称は、倭国から大和朝廷に引き継がれ、現在に至ったと思われます。

関連し、倭国が朝鮮半島で百済と組んで高句麗と戦ったことを前回(2日前)紹介しましたが、倭国と百済はマレー系民族の兄弟国として連合を組んだのだと思われます。

また、日本語に「くだらない」という言葉がありますが、これがマレー系言語由来となると、「兄弟でない」という意味になり、「価値がない」という現代語に通じることになります。

以上のことから考えますと、クダラの呼称は、倭国と百済はマレー系民族の兄弟国家だったため、日本人は百済を以前からクダラ(兄弟)と読んできたことに由来すると推察されます。

なお、この説は新説ですが、珍説でもあります(笑)。

関連し、上の地図はマレー系民族の兄弟国であります倭国と百済、その他の民族の関係を示した地図です。


日本史ランキング
[ 2017/10/09 07:13 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

倭の5王の漢字名由来愚考(邪馬台国と日本人)

倭の五王の時代(地図)

倭の5王の漢字名由来愚考(邪馬台国と日本人) 

倭の五王が大和政権の王なのか、倭国(北九州)の王なのか、まだ論争がある感じがします。関連し、今回は、倭の五王の漢字名について愚考します。

まず倭国については、その人々が中国最南端にある海南島の人々に似ているという魏志倭人伝の記述を重視し、マレー系民族の国であったことを拙ブログでは先日紹介しました。

さらには、マレー系の倭国が中国に朝貢できたのは、マレー系の言語は中国語と文法が同じであり、倭国の人にとって通訳は簡単に見つかること、さらには、マレー系の人々は朝鮮半島南部にも多数居たこと、さらに、マレー系民族が稲作民族であることから朝鮮半島南部の稲作地帯にも多数居たこと、百済はその中心であり、倭国は朝鮮半島とマレー系言語で結ばれていたことを紹介してきました。

また、倭国は399-404年に高句麗と戦ったとあります。それは倭国の五王時代ですが、倭国は邪馬壱国(邪馬台国)以前の時代から中国に朝貢するなど日本の先進地域として発展してきており、朝鮮半島については同じマレー系民族のいる地域であり、同じ民族が居る地域として出兵しやすい環境にあったと思われます。

そして、倭の五番目の武王が、「東征大将軍」と中国から位を得たのは、中国と対立している高句麗に対し東方(反対側)から戦った倭の実績が評価されたものと推察されます。しかも名前が強そうな「武王」ですから、中国からの推薦もあった名前なのかもしれません(笑)。

以上の関係から、倭国では、外交上漢字が使われており、当然のことながら中国に朝貢するときは、王の名前に漢字を使ったと思われます。

そこで、当時のそれらの状況から判断しますと、倭の五王は倭国(北九州)の王であった、と推察されます。これらの状況を上の地図に示しました。また、関連の事件を、下表にまとめました。この表は、週刊スモールトーク (第161話) 邪馬台国と大和朝廷(2011.10.10)http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-161/にある表をベースに拙ブログで朝鮮半島の状況等を加え、簡略化したものです。

また、「卑弥呼は漢字を知っていた」http://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e6cdba43c1edbfec6862584f107bf66eという記事がありますが、卑弥呼の倭国では漢字の使い方が進んでいたようで、倭の五王の名前と関連し、たいへん興味深い記事です。

倭国日本の古代と朝鮮半島


日本史ランキング
[ 2017/10/07 08:02 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

魏志倭人伝にある地名はマレー系言語か(邪馬台国と日本人)

魏志倭人伝の中の日本語地名

魏志倭人伝にある地名はマレー系言語か(邪馬台国と日本人)

万葉仮名のルーツがマレー系言語の発音に由来することについて、前回(2日前)アップしました。関連し、今回は、魏志倭人伝に記されている日本地名とマレー系言語の関係いついて愚考します。 

魏志倭人伝には、日本の地名が多数出てきます。それは漢字で表記されていますが、読みは万葉仮名風です。ということは、万葉仮名のルーツが3世紀の邪馬台国まで辿れることになります。

専門家によると、それらのなかで読み方で確実な地名は、ツシマ(対馬)、イキ(一支)、マツラ(末盧)、イト(伊都)のようです。

拙ブログでは、倭国はマレー系言語の国であったと推察しておりますが、今回は、これらの地名がマレー系言語から生まれた可能性について検討します。

まず、当時の背景となる言語状況を見ますと、日本(アイヌ系)、マレー系、中国系、ツングース系の言語があったと考えられます。そして、古代の言葉は、先住民族のアイヌ系か、北九州においては例外的にマレー系であったと推察されますが、その観点から見ますと、対馬等これら地名は、すべてマレー系言語と思われます。

そこで、これらの言葉をマレー系言語と仮定し、現在のマレー語に訳しますと、ツシマ(tuma)は虱(シラミ)、イキ(Ikki)は一騎当千、マツラ(Matsura)は祭、イト(itoo)は余りに、という意味で、発音と似たような言語がマレー語にあります。

また、私がマレーシアに居た時(1983-1986)のことですが、マレーシア初の国産車がプロトン・サガという名前で売り出されました。このサガは、マレー人の説明では、輝かしい(Sagah)というマレー語に英語の英雄物語(サガ)の意味を含ませたようです。日本人には日本の佐賀と同じ発音でしたが、このサガから考えると、佐賀県は邪馬壱国(邪馬台国)のあったところ、輝かしい国だったのかもしれません(笑)。

ということは、魏志倭人伝に出てくる日本の地名はマレー系言語の可能性が高いと思われます。

拙ブログでは、邪馬壱国(邪馬台国)の住民の容貌や生活習慣が海南島の民族に似ているという魏志倭人伝の記述から、倭国はマレー系民族の国であったと推察しましたが、言葉の様子からもマレー系の民族であった、と推察されます。

関連し、これらの地名を上の地図に示しました。

また、「魏志倭人伝に出てくる国名、人名の発音」https://blogs.yahoo.co.jp/ainomori_snow/6873762.html という記事がありました。参考までに一部を紹介しますと、次のとおりです。

 発音が確定できる文字
(1)確定された国名と職名の発音
 魏志倭人伝の訳音文字の中で、「対」、「馬」、「一」、「支」、「末」、「廬」、「伊」、「都」、「奴」、「卑」、「母」、および「離」の12文字はその音の同定がほぼ確実です。それは北九州の「対馬(つしま)」、「一支(いき)」、「末廬(まつら)」および「伊都(いと)」の国名と後代まで残った「卑奴母離(ひなもり)」という官職名から確定できるからです。この12文字を「確定文字」とよび、ここから発音の推定を議論します。
 魏志倭人伝の「対馬国」は現在の「対馬(つしま)」地方を指すことは確実で、「つ(し)」にたいして「対」を、「ま」にたいして「馬」という漢字を当てていることがわかります。次に「一支国」は現在の「いき」(壱岐)を指し、「い」にたいして「一」、「き」にたいして「支」を当てたことになります。「末盧国」は、奈良時代の「まつら(松浦)」(現在は唐津市)を指し、「ま(つ)」にたいして「末」、「ら」にたいして「廬」を当てています。伊都国は奈良時代の「いと(伊都)」(現在の前原市)を指し、「い」にたいして「伊」、「と」にたいして「都」を当てています。奴国は上代の「儺(な)」(現在の福岡市)を指し、「な」に対して「奴」が当てられています。他に比較的確実な国防的官職名に「卑奴母離(ひなもり)」があり、奈良時代になっても夷守(ひなもり)としてその官職が使用されています。ここから「卑」は「ひ」、「奴」は「な」、「母」は「も」、「離」は「り」と発音したことが推定できます。(引用終了)


日本史ランキング
[ 2017/10/03 07:28 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

神武天皇の日本統一の夢愚考(邪馬台国と日本人)

神武東征の状況と日本


神武天皇の日本統一の夢愚考(邪馬台国と日本人)

神武天皇については、神話の人物なのか、実在した人物なのか、まだ論争のある感じがします。しかし、日本国を統一した最初の英雄として位置づけられること、日向(宮崎)という実在の発祥地名があること、その周辺背景や移動経路も明らかであることから、特段の矛盾はなく、そのような人物が実在した、と拙ブログでは理解しています。

関連し、前回(2日前)、その神武天皇が宮崎県の日向(もと投馬国)に現れたことを紹介しました。今回は、神武天皇がどのような夢と情熱をもって東征を始めたのか、当時の状況から愚考します。

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)ですが Hammer (2005)によれば、おおよそ、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、北方系が30%(中国系20%+モンゴル系10%)、その他5%になります。

そして、拙ブログでは、日本の人類遺跡が10万年前からあることから推察し、日本に最初に来た民族は10万年前に来たアイヌ系であり縄文文化を作ったと観ています。次いで、南方から1万年前頃マレー系が、そして、北方から4000年前頃、モンゴル系と中国系の混血民族のツングース系北方民族が少しずつ来たと観ています。

そして、言語ですが、マレー系民族が多数であった北九州を除き、日本語は先住民族のアイヌ系の言語をベースに形成されてきました。

拙ブログでは、太平洋側はアイヌ系の多い地域として紹介しておりますが、宮崎もその一部と思われます。そして、宮崎の地は、このアイヌ系を中心にマレー系、そして北方系のツングース系も加わり、稲作の普及に伴い人口が増大すると、新天地など同じ仲間の居る東側への興味が強くなっていったと思われます。

一方、北九州にはマレー系の言語を話すマレー系を主体とする邪馬台国があり、中国に朝貢するという大国でした。当然のことながら、日向(もと投馬国)より一歩先んじていました。

これらの情報から判断しますと、神武天皇は、日本語の集団の中では日向の地(投馬国)という先進地から出た王族ですが、九州という地域事情から、邪馬台国に対する対抗心もあったと思われます。そのため、先進地の邪馬台国を訪問したと思われます。

そのとき、その先進文化や中国からの賜物、さらには文字や書類を初めて見て、感動したと思われます。さらには、その文明国の中国に行ったこともある通訳を通し、中国で三国時代があり、今でも争いが絶えない事、さらには高句麗という国が現れ、中国を圧倒するような勢いがり、朝鮮半島を南下してきていることも知ったと思われます。

彼は、それらに刺激をうけ、自分の歴史上の役割を自覚したのではないかと思います。すなわち、日本全国にいる日本語を話す仲間をまとめ、その中心と思われる大和地方に政権を作りあげようとした。これができるのは自分しか居ないと思った。

例えば、ウイキペディアによりますと、『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、・・・遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。とあります。

この「遠くの地では争い事が多く」は、当時の状況から判断し、中国の三国志の争いや朝鮮半島の高句麗と新羅や百済の争いを意味する可能性があります。その情報は邪馬台国から得たと推察されますが、そこで神武天皇は、当時の日本の中心の大和に行き、そこで国をまとめ、軍事的に強力な高句麗などの支配から日本を守ろうという高い志があったのではないかと推察されます。

関連し、神武東征の様子を上の地図で示しました。

余談ですが、ウェブサイトのいくつかの神武天皇画像を見ますと、その容姿は髭が濃く鼻は高くアイヌ系です。個人的には、最初に日本を統一した勇者であったこと、出身地が南九州であることから、西郷隆盛のようなカリスマ性のあるアイヌ系の顔立ちのリーダーであったと想像しております(笑)。


日本史ランキング

[ 2017/09/23 07:55 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR