2017 081234567891011121314151617181920212223242526272829302017 10

神武東征の出発地の状況(邪馬台国と日本人)

邪馬台国時代の日本(3世紀)


神武東征の出発地の宮崎の状況(邪馬台国と日本人)

前回(2日前)、邪馬壱国(邪馬台国)は九州にあったことを愚考しました。一方、九州は日本の初代天皇の神武天皇(カムヤマトイワレビコ)の発祥地としても知られております。関連し、今回は、神武東遷の地の日向(宮崎)の状況について愚考します。

ウイキペディアによりますと、『日本書紀』では ,
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、・・・遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。とあります。

そして、『古事記』では、
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。とあります。

その神武天皇(神日本磐余彦天皇)発祥地の日向ですが、「日向三代のころ、この地は既に現鹿児島県南部から日南・宮崎・延岡に渡る広い国であった。そして西都原古墳群、茶臼原古墳群、新田原古墳群などが残る西都は、投馬国の中心地であったのではなかったか。」(https://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/30372388.html?__ysp=44OI44Km44Oe5Zu9IOaXpeWQkQ%3D%3D)という記事があります。

この記事にある「投馬国」とは魏志倭人伝に出てくる国で、伊都国(福岡県糸島)から南へ水行20日の場所から推定し日向あたりにあったと言われている国です。その人口は、5万余戸の戸数から20万人(5万戸×4人)と推測できますので、九州では邪馬台国の7万余戸に次ぐ大勢力と思われます。

したがって、この記事の説でいけば、日向(投馬国)というのは、邪馬台国に次ぐ九州の大国であり、神武天皇発生地として相応しいと思われます。

日向の地が何故発展していたのか想像しますと、中心は西都市辺りと思われますが、暖かで平坦な地が多く、当時の稲作栽培に適しており、コメの生産が他地域より優れていたと思われます。さらに、稲作農耕に必要な鉄器も朝鮮半島に近く導入しやすかったためと思われます。

一方、拙ブログでは、九州地域はマレー系言語の邪馬台国連合グループ、アイヌ系言語のグループがあったことを前回(2日前)紹介しました。当時、邪馬台国連合は、マレー系言語を武器に、同じマレー系の言語を話す朝鮮半島と活発な交流をしていたと推察されます。

神武天皇発祥地の日向は、アイヌ系言語グループの中では進んでいましたが、このマレー系の邪馬台国連合と比較しますと、やや遅れていたと思われます。

そして、邪馬台国時代の日本国の様子をまとめますと、邪馬台国は先進国、投馬国(日向)は中進国と言えます。そして、投馬国と同じように中進国だったのが、吉備国、出雲国、大和国だったと思われます。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の日本の様子を上の地図に示しました。


日本史ランキング
スポンサーサイト
[ 2017/09/21 06:56 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

古代九州には2種の民族が住んで居た(邪馬台国と日本人)

女王国の範囲


古代九州には2種の民族が住んで居た(邪馬台国と日本人)

前回(4日前)、邪馬壱国(邪馬台国)はマレー系集団の国であったことを紹介しました。関連し、今回は、九州に、そのマレー系を中心するグループとアイヌ系を中心とするグループの2系統があったことについて愚考します。

私は仕事の関係から、北九州の築後市に4年、南九州の宮崎に7年居住しました。そして、同じ九州でも北と南では大きな違いがあることを感じました。その違いの一部を「博多美人のルーツ」で先日(8月30 日)紹介しました。

顔形の違いだけでなく、言葉も違うことを実感しました。例えば、北九州の築後では「そうやろ」、「ばってん」、「かたらんと」など、優しい感じの言葉が多かった感じがします。そして、こうした言葉がマレー系の言語に由来するとなると、北九州の倭人=マレー系というのが明確になっていくと思われます。

一方、宮崎ではアイヌの地名が残っていることを前回紹介しました。そして、平均的な日本という印象を受けました。

そして、男ですが、北九州は髭(ひげ)が薄く小柄な人が多くマレー系の特徴がありましたが、南九州は髭が濃く、彫りの深い美男子が多く、アイヌ系の特徴がありました。

これらのことから推察しますと、移住の少なかった古代においては、北九州と南九州の間にはもっと大きな開きがあったと思われます。すなわち北九州はマレー系の多い地域、南九州はアイヌ系の多い地域になります。そして両者は別々の言語を使い、弥生時代後期に国が作られるようになると、別々の国になっていったと推察されます。

例えば、魏志倭人伝では、邪馬壱国(邪馬台国)の南に狗奴国(くなこく)があり、そこはアイヌ系の熊襲(くまそ)の国で、邪馬台国とは違った人々が住んでいて敵対していた可能性があります。

また、魏志倭人伝に「奴国は国の境」という言葉が出てきます。奴国は、漢の倭の奴国王の金印で有名な国ですが、伊都国(福岡県糸島)の南方100里にあったとありますので、奴国の場所は福岡市の南当たりと推察されています。 

この国の境という意味は、女王国(邪馬台国連合)とその他の国の境と思われますが、邪馬台国連合はマレー系言語の国でまとまっており、その他の国にはアイヌ系の言語の国と考えることもできます。

さらに、伊都国から南に水行20日で投馬国という国が出てきますが、投馬国は宮崎(日向)という説が有力です。投馬国の戸数は5万で、邪馬台国の戸数7万に次ぐ大きさですが、倭国の外にある国として紹介されています。

これらの情報から推察しますと、マレー系の集団の邪馬台国連合は、熊襲などアイヌ系グループに囲まれ、その助けをもとめて中国(魏)に朝貢し助けを求めていたとも考えられます。

関連し、魏志倭人伝にみる女王国(邪馬台国連合)とその他の国の関係を上の地図で示しました。


日本史ランキング

[ 2017/09/19 07:03 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

邪馬台国と朝鮮半島はマレー系の言語で結ばれていた(邪馬台国と日本人)

弥生時代の言語マレー系など

邪馬台国と朝鮮半島はマレー系の言語で結ばれていた(邪馬台国と日本人)

邪馬壱国(邪馬台国)がマレー系の多い地域であったことから推察しますと、マレー系の言語が当時使われていたと思われます。今回は、この可能性について愚考します。

私は仕事の関係から、北九州の築後市に4年居住しました。そして、北九州は顔形や言語に特徴があることを感じました。その特徴の一部を「博多美人のルーツ」で前回(8月30日)紹介しました。

また、マレー系の人々が南方から移住してきたとき朝鮮半島と北九州に最初に居住したことを紹介してきました。その移住理由は、それらの場所が人口希薄地帯であったためです。例えば、1万年前頃の状況ですが、日本列島に多数の縄文遺跡が確認されているのに、朝鮮半島では遺跡が極めて少ないことが分かっています。

そして、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、マレー系(ハプログループO1b)は、韓国で32%(Kim 2011)、日本で32%(Hammer 2005)となっています。さらにNonakaら(2007)によれば、そのマレー系の割合は西日本で37%、関東で31%となっており、西日本に多いことが分かっています。

当然のことですが、彼らの言語はマレー系の言語になります。そして、朝鮮半島と北九州はマレー系の言語で結ばれ、水田稲作技術や関連する鉄器農具導入についても同じ状況であったことが推察されます。例えば、弥生時代初期の韓国遺跡に松菊里遺跡というものがありますが、同時代の日本の北九州遺跡と類似点が多く、稲作韓国由来説の根拠となっている遺跡です。

そうした文化的類似点から、弥生時代当時、朝鮮半島と北九州には頻繁に交流があり、言語は通訳なしで意思疎通ができたと推察している記事を見かけることがありますが、それは、マレー系の民族が両側に住んで居て同じ言語を使っていたためと思われます。

また、言語の性質ですが、マレー系と中国系はDNAが近い関係から言語(文法)が似ており、マレー系住民にとって中国語は近い言語であり、倭国が中国に朝貢するときの通訳は簡単に見つけることができたと推察されます。

因みに、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)ですが、マレー系がO1b、中国系がO2で、両者は同じOグループに属します。拙ブログではOグループの言語の文法が同じであることを指摘してきました。

これらのことから、朝鮮半島南部と九州北部(倭国)ではマレー系の言語が使われていたと推察されます。そして、そうした言葉の優位性から、倭国は先進的な中国の文化を吸収し、中国に朝貢するような大国に発展したと推察されます。

しかしながら、このマレー系の言語は、朝鮮半島においては新羅などツングース系の民族に統一されることにより消え、一方、日本においては大和政権が九州にあった倭国を統合した結果、消えてしまったと推察されます。

関連し、上の地図は、弥生時代の朝鮮半島と九州の言葉の様子です。


日本史ランキング

[ 2017/09/15 08:09 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

邪馬台国の人々はマレー系の集団であった(邪馬台国と日本人)

各民族のマレー系の割合(地図)


邪馬台国の人々はマレー系の集団であった(邪馬台国と日本人)

前回(2日前)は邪馬壱国(邪馬台国)の卑弥呼のルーツについて想像しました。関連し、今回は、邪馬台国の人々のDNAについて、その生活習慣から推察します。

魏志倭人伝には倭国の人々の生活や習慣についても記してあります。何度も指摘しておりますが、倭人というのは低身長の人々に対する蔑称です。中国人に比較し、倭国は低身長の人々の国だったことになります。

そして、その書では、倭人は入れ墨(分身)をしていたこと、海に潜り海産物を取るのが得意だったこと、裸足で暮らしていたこと、手で食べていたこと、南方系の貫頭衣を着ていたことなどが書いてあり、総じて、中国南東部にある海南島の人々に似ている、とあります。

一方、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類 Hammer 2005)を見ますと、日本人は、おおよそアイヌ系が35%、南方マレー系が30%、北方ツングース系(モンゴル系と中国系の混血)が30%、フイリピン系等その他が5%、となっています。

このDNA情報から日本に来た民族の中で倭国の人々に似ている民族を推察しますと、南方系のマレー系の人々以外には考えられません。

拙ブログで指摘してきたことですが、マレー系民族は、南方(インドネシア当たり)が故郷、海洋系民族、稲作民族、低身長の特徴があり、当時人口密度の低かった朝鮮半島南部から北九州当たりに1万年前頃から移住してきました。

そして、マレー系の人達は北九州に居住し、縄文時代以降、江南地方の水田稲作を導入し、発達させ、邪馬台国を建設したと推察されます。

一方、邪馬台国は畿内にあったという説もありますが、そのマレー系の容貌や生活様式からみて、このマレー系の集団が畿内に居たと想像することは困難です。

関連し、最近のDNA調査(Y染色体ハプログループ分類)のマレー系(ハプログループO1b)の人々の各国の割合について上の地図に示しました。また、そのもとになったデータを下表に示しました。

マレー系が中国南部のヤオ族に40%、ベトナムに33%と多数認められますので、倭人が海南島の人々に似ているという魏志倭人伝の記述とこのデータは一致します。

このことは、稲作民族の倭人のルーツは江南より南だったこと、照葉樹林文化の導入にも関係していたことを示唆します。また、マレー系民族の故郷がインドネシア当たりですが、彼らは、中国南部を経過し、日本に来たことになります。

さらに、これらの情報を総合しますと、古代の日本は低身長の人々が住む倭国と中国から言われていましたが、倭国は日本というよりも九州にあったと判断するのが妥当と思われます。

各民族マレー系のY染色体ハプログループの割合(表)


日本史ランキング

[ 2017/09/13 06:50 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

卑弥呼は北方系色白美人であった愚考(邪馬台国と日本人)


ツングースとマレー系と邪馬台国

邪馬壱国(邪馬台国)の場所はどこか、九州か機内か、未だに論争している感じがします。

今回は、その邪馬台国と関連し、素人ながら女王卑弥呼のルーツに迫ります(笑)。

卑弥呼は邪馬台国の女王ですが、「卑弥呼は鬼道に通じ人を惑わす」とあります。これは、卑弥呼が女性シャーマン(祈祷師)であり、その才能があり、女王として祭りあげられたのだと思います。

この女性シャーマンについて先日(2日前)、北方(韓国)にルーツがあることを紹介しました。一方、北方と関連し、秋田美人のルーツは色白長身の北方系であることも紹介しました。これらのことから愚推しますと、直感ですが(笑)、卑弥呼は北方系の色白長身美人の女性シャーマンであったことを想像させます。

倭国は倭人の国の呼称ですが、倭人とは低身長の人の蔑称で、倭国にはそのような人達が多く居るので倭国と言われていたと思われます。拙ブログでは、その低身長倭人のルーツは稲作民族のマレー系であり、彼らは当初は北九州に居住した、と紹介してきました。

低身長で色黒のマレー系の人達が多い倭国において、長身色白美人の卑弥呼は目立った存在、憧れの存在であったような感じがします。そして、マレー系の倭人にはない鬼道に通じており、多数の国をまとめるカリスマ性があったと想像できます。

なお、卑弥呼の鬼道について、呪術を用いることもある中国の道教と同じという説もありますが、卑弥呼が居た3世紀には道教は日本に入ってきた様子はなかったことから推察しますと、卑弥呼の鬼道はツングース由来と思われます。

まとめますと、卑弥呼は北方系の祈祷師であり、その能力とカリスマ性によって倭国を統合していたと思われます。一方、大和政権ですが、女性祈祷師の存在は弱く、祈祷師(神主)のほとんどは男性であります。女性に巫女という役柄がありますが、祈祷はまかされておりません。この意味において卑弥呼の倭国は、畿内の大和政権とは違う系統であり、その場所は九州にあったと思われます。

関連し、上の地図はその邪馬台国の場所と卑弥呼のルーツです。

また、下の写真は記事と関係ありませんが、我が有機菜園の隅に自生している秋の花の様子です。

菜園の雑草と花9月


日本史ランキング
[ 2017/09/11 06:52 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR