日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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2023 04
カテゴリー [ 縄文時代と日本人 ]
北海道旧石器時代の海外交易 [2019/02/27]
北海道にも12万年前に人類が辿り着いていた [2019/02/23]
黒曜石発見前後で旧石器時代を分けることができる [2019/02/19]
鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考 [2019/02/15]
航海の必需品であったヒョウタンのルーツ愚考 [2019/02/11]
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北海道旧石器時代の海外交易
北海道旧石器時代の海外交易
(縄文時代と日本人)
先に、旧石器時代から船があったことを愚考しましたが、今回は、旧石器時代の北海道における海外交易について愚考します。
北海道の旧石器時代ですが、「
北海道(先史時代)
」によると次のとおりです。
北海道に人が住みはじめたのは、約2万年前の氷河期と推定されている。人類はシベリアからマンモスなどの大型哺乳動物を追って宗谷海峡を南下し、さらに氷河期が終わると本州からも渡来したと考えられている。道内で最も古い遺跡は、千歳市の祝梅三角山遺跡や上士幌町の嶋木遺跡などで、旧石器時代の遺物は道内各地で見つかっている。道南の知内町(しりうちちょう)湯の里4遺跡では、1万4000年前の国内最古の墓跡と多くの石器が発見され、墓跡と163点の石器が平成3年、国の重要文化財に指定された。本州では縄文時代が終わると弥生時代へと移行するが、北海道は気候の面から稲作が不可能で、今までと同じ漁や狩猟を中心として生活していたことから続縄文時代と称される。
(引用終了)
また、「
湯の里4遺跡
」の土壙出土品の様子は次のとおりです。
湯の里4遺跡土壙出土品は、日本列島における墓制の起源を旧石器時代にまでさかのぼらせた点で重要である。しかし、それのみでなく北海道と大陸側の旧石器時代石器群の具体的な比較の手がかり、人や物資の交流・交易(玉類の原材であるダナイトはバイカル湖周辺の蛇紋岩【じやもんがん】地帯の原産と考えられている)、副葬品からうかがうことのできる習俗の実態を考えるうえでも貴重な学術資料といえよう。
(引用終了)
以上の遺跡情報のほか、国内最大の黒曜石産地で有名な白滝遺跡群は、2.7万年前~1.0万年前の遺跡で、その黒曜石は、北はサハリン(樺太)、南は三内丸山遺跡(東北)まで運ばれていたことが分かっています。
前回報告の情報を含め、これらの情報をまとめますと、次のようです。
12万年前頃、北海道に住み始めた旧石器時代人は、氷河期が一時的に明ける2万年前頃から活発になり、1万4000年前の国内最古の墓跡と指摘されている湯の里4遺跡からはバイカル湖周辺と交易があった様子が伺える。また、白滝遺跡群産の黒曜石は遠く樺太まで運ばれていた。
以上のことから、北海道では、氷河期が明ける14000年前頃から海外交易が行われていたと観ることができ、その頃から北米など遠方に渡る準備ができていた、と思われます。
関連し、これらの遺跡の様子を上トップの地図に示しました。
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[ 2019/02/27 09:51 ]
縄文時代と日本人
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北海道にも12万年前に人類が辿り着いていた
北海道にも12万年前に人類が辿り着いていた
(縄文時代と日本人)
前々回、石器でえぐられて建造された丸木船が旧石器時代からあったことを愚考しました。拙ブログでは、この船で日本の旧石器時代人がアメリに渡ったと愚考しております。
関連し、今回は、そのアメリカへの出発点と思われる北海道の旧石器時代を観てみたいと思います。
まず、「
旧石器時代の北海道
」の記事の一部を紹介しますと次のとおりです。
北海道で3万年を超える石器は、断片的にいくつかの遺跡で知られています。
その一つは、昭和45年秋に、十勝の虫類村で発見されたおよそ12万年前のナウマン象の化石とともに採集された石器です。
散乱する周囲の自然礫の中から人工品の可能性がある石として、吉崎昌一らが採集したものです。
この石器については、石器と認めるか否か、研究者の間では意見が分かれるところです。
(引用終了)
この記事は、北海道には3万年前から人類の足跡が確実にあり、さらには、最古の石器は十勝の虫類村(ちゅうるいむら、現在は幕別町に編入)で発見され、その時代は12万年前の可能性があるということを指摘しています。
12万年前というのは、すでに紹介しましたが、「
島根県出雲市砂原遺跡
」と同時代です。その時代は、リス~ウルム間氷期に当たり、やや温暖な時代でした。拙ブログでは、この間氷期に、旧石器時代人が南方から、島根県砂原遺跡に辿り着いたと推察し、これを日本海ルートとしました。
一方、拙ブログでは、日本海ルートよりも太平洋ルート(黒潮ルート)が多かったと推察しました。北海道も黒潮ルートですが、12万年前頃はやや温暖な時代でしたので、北海道に旧石器時代人が住み始めることは可能な時代と思われます。
以上のことから、12万年前から旧石器時代人が北海道にも住んで居た可能性があると思いますが、これから、さらなる遺跡が出ることを期待しています。
そして、その後、7万年前から再度、氷河時代に入りますが、人類の活動は停滞し、人類が本格的に活動を始めるのは氷河期が終わり始める2万年前頃と推察されます。
関連し、これらの様子を上トップの図に示しました。
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[ 2019/02/23 10:31 ]
縄文時代と日本人
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黒曜石発見前後で旧石器時代を分けることができる
黒曜石発見前後で旧石器時代を分けることができる
(縄文時代と日本人)
縄文時代以前の旧石器時代の様子について検討してきました。私たちが学校で学んだ旧石器時代というのは、家は無く洞窟などで夜露をしのぎ狩りと採集に明け暮れる日々、すなわち、飢餓と隣り合わせのような暗い印象を受けます。一方、縄文時代になると、竪穴住居と土器があり、安定した生活に入っていったという明るい印象を受けます。
しかし、その暗かった旧石器時代の様子を見ると、5万年前頃から遺跡の数は増え、明らかに人口が増えています。長野県でナウマンゾウ狩りが行われていたのもこの頃です。関連し、今回は、その5万年前頃、何があったのか愚考します。
まず、重要な衣食住で最も重要な食ですが、Wikipedia によると次のように紹介されております。
日本列島の狩猟採集時代の食事を説明する。主に旧石器時代から縄文時代を経て、弥生時代までの食事である。旧石器時代には、主に狩猟によりシカ、ゾウ、ノウサギなど野生の動物が食された。約1万年前縄文時代になると人々は採集することが増えた。食事の中心になったのは木の実やイモであり、クリ、クルミ、ドングリ、ヤマイモ、マメといったものである。縄文人のゴミ捨て場は貝塚と呼ばれており、貝や魚介類をふんだんに食べていたことがうかがえる。ハマグリ、アサリ、カキを中心としイワシ、サバ、マグロなどを漁労によって、イノシシ、シカ、クマなどを狩猟によって獲得していた。縄文晩期になると水田で稲作するようになる。
(引用終了)
ここから想像しますと、動物性たんぱく質、植物性炭水化物(でんぷん)は身近にあり、人口密度が少なかった旧石器時代は、食糧確保は大きな困難でなかった印象を受けます。特に、黒曜石が発見された後は、鋭い矢じりを作ることが出来、魚や獣の狩りはしやすくなったと思われます。
続いて、衣ですが、毛皮をまとって寒さをしのいだ感じを受けます。そして、鋭利な黒曜石が発見された後は、例えば上記Wikipediaの鹿ですが、肉と皮を割くこと(表層剥離)がしやすくなり、良質の毛皮が得やすくなったと思われます。
最後に住ですが、Wikipediaには次のように紹介されています。
日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。
旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうした中にあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。
住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。
調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことが分かる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。
(引用終了)
引用が長くなりましたが、このWikipediaの記事をまとめますと、2万年前の大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で竪穴住居もあったことが紹介されています。その屋根は草や皮で覆っていたとありますから、皮はかなりあったことが伺えます。また、材木は黒曜石の石器で切り出していたと思われます。
以上のことをまとめますと、日本に人類が12万年前頃から住むようになりましたが、黒曜石が発見された後、おそらく5万年前頃から、鋭利な黒曜石を生活に使い衣食住は安定してきたことが伺えます。事実、旧石器時代遺跡数は、その頃から急に増え始めます。
そして、2万年前頃から土器が作られ縄文時代に入っていきますが、黒曜石発見後の旧石器時代と縄文時代を比較しますと、違いは土器があるかないかだけになっていきます。すなわち、旧石器時代と縄文時代は連続し繋がっていると思われます。
したがって、旧石器時代は、5万年前の黒曜石発見前と後では大きな違いがあり、旧石器時代を観る場合、黒曜石発見の前と後に分けて扱うと理解しやすくなります。
関連し、旧石器時代を黒曜石発見の前と後に分け、旧石器~縄文時代の流れを上トップの図に示しました。
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[ 2019/02/19 10:49 ]
縄文時代と日本人
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鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考
鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考(縄文時代と日本人)
前回、旧石器時代、ヒョウタンと船はセットであったことを愚考しました。そして、福井県鳥浜貝塚でヒョウタンの種遺物が発見されたことを紹介しました。福井県鳥浜貝塚は古代の船が発見された所でも有名です。
すなわち、航海に必要な船と水筒(ヒョウタン)がセットで発見されたことになりますが、関連し、今回は、鳥浜貝塚のヒョウタンと船について愚考します。
まず、船に関する詳しい情報は、「
Wikipedia(鳥浜貝塚)
」によれば次のとおりです。
鳥浜遺跡から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。
前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。(1998年に京都府舞鶴市浦入遺跡でも同時期の丸木舟が出土している。)保存状態は良好であるが先端部分が失われている。船尾はとも綱を巻き付けたものか浅いくぼみが残っていて、長期間使用されたことが窺える。舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を 竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6.08メートル、最大幅63センチメートル、厚み3.5〜4センチメートル、内側の深さ26〜30センチメートル。
後者は縄文時代後期(約3000年前)のもの 船底のみが残っていた。現在の長さ3.4メートル、最大幅48セントメートル、厚みは4センチメートルで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものかは不明だが、凸型の彫り出しがあった。材は第一号と同じくスギで造られており、第二号丸木舟と名付けられた。スギ材で造られている丸木舟は縄文時代では非常に珍しく、東日本で見つかっている舟は、イヌガヤ、ムクノキ、クリ、からなどで造られていた。丸木舟は、鳥浜の人の活躍の範囲を拡げたことであろうし、食料獲得に果たした効果も大きかったと推定される。
(引用終了)
この引用記事を参考に、古代の船についてまとめますと、次のようになります。
鳥浜貝塚では、12000年~5500年前の遺跡で、日本最古の船が見つかっており、その全長は6.08mだった。
関連し、別の記事によれば、鳥浜遺跡の隣の舞鶴市千歳の浦入遺跡からは全長が8mの船が見つかっておりますが、こちらの方は弥生時代の遺跡で、外洋航海用と推定されています。さらに、その周囲には縄文時代~弥生時代の船が多数見つかっており、若狭湾一帯は縄文時代から海洋交易として栄えていた、と思われます。
そこで、福井県の鳥浜遺跡辺りを観察しますと、入り組んだ地形で、穏やかな海に面したところが多く、天然の良港であった思われます。そうした環境を背景に、縄文時代早期からの丸木船が多数発見されており、古代から海洋交易の拠点であったと思われます。
5000年前は、三内丸山遺跡を代表に縄文時代最盛期と言われますが、福井県の鳥浜遺跡もその一つとして、三内丸山遺跡と結ばれていたと思われます。関連し、そこでヒョウタンの種が発見されていますが、それが、その航海を支える必需品として利用されていたことは想像に難くありません。
関連し、鳥浜貝塚と山内丸山の場所を上トップの図に示しました。
日本史ランキング
[ 2019/02/15 11:04 ]
縄文時代と日本人
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航海の必需品であったヒョウタンのルーツ愚考
航海の必需品であったヒョウタンのルーツ愚考
(縄文時代と日本人)
前回、旧石器時代(縄文以前)から船があったことを推察しました。今回は、その航海のための必需品と言われる水筒(ヒョウタン)のルーツについて愚考します。
ヒョウタンは縄文時代から作られていたことが知られております。「この国のすがたと歴史」(網野善彦・森浩一 2005)という書籍(下記写真参照)によれば、ヒョウタンは、縄文時代、水筒として使われ、海洋航海に最も重要な容器であった、と紹介されています。
また、ヒョウタンはWikipedia によりますと次のようにあります。
日本では、縄文時代草創期から前期にかけての遺跡である鳥浜貝塚から種子が出土している。文献史学上では『日本書紀』(720年成立)の中で瓢(ひさご)としてはじめて公式文書に登場する。
古代のヒョウタンは現在のような括れた形態ではなく通常の植物の実のような筒のような形をしていたことがわかっており、突然変異で今日知られているような特徴的な形が発現し、それが人伝に栽培されて世界中に広まった、とされる。
(引用終了)
そこで、縄文時代のヒョウタンですが、現在のようなくびれた形でなく、寸胴型で、たくさんの水を入れることができたようです。
そして、ヒョウタンのルーツは西アフリカですが、アフリカを起源に持つアイヌ系民族は、生活用品の一部として利用していた可能性は高いと思われます。特に、アジア南部の海岸沿いから日本に来るには不可欠の用品、逆にヒョウタンがあったから日本への旅を続けることができたものと思われます。
関連し、ヒョウタンの日本への道について、上トップに示しました。
日本史ランキング
[ 2019/02/11 09:23 ]
縄文時代と日本人
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
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Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
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