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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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関東の貝塚はマレー系Aが作った愚考


上高津の貝塚


関東の貝塚はマレー系Aが作った愚考(関東・東北の古代)

前回、「弥生系渡来民が来たとき、弥生系の人々は水田稲作のため平地を選んで居住しましたが、縄文系のアイヌ系は従来と同じく中山間に住み、また、縄文系のマレー系Aも従来と同じく海岸に住み海洋交易に関与していたのではないかと思われます」と結論しました。

関連し、今回は、縄文系のマレー系Aは、縄文時代、海岸に住み貝塚を作ったことについて、さらに検討します。

まず、貝塚については、東京湾岸、特に千葉に多いことが知られています。詳しくは「貝が関東の縄文人を救った」を参照願います。

また、東京湾の隣の霞が浦周辺も、同じく貝塚が多いことが知られています。我が家の近くの上高津貝塚(茨城県土浦市)もその一つで、そこには上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)があり、実物を見ることができます。

その場所は下図のとおりで、海岸(霞ヶ浦)から離れた陸地にあります。縄文時代は、縄文海進があり、この辺までが海岸だったようです。近くに荒川沖というJR駅がありますが、この地名は、この辺りが海岸だったことを示すようです。

上高津貝塚の場所

そして、この辺りは、関東平野の森からの水が流れ込み、栄養豊富で貝の育つには最適な環境だったようです。

貝塚の様子は上トップの写真のとおりで、資料館の画像を写したものです。

そこで本題の「関東の貝塚はマレー系Aが作った」ですが、その根拠は次の通りです。

1. 現代人のY染色体ハプログループ分類で、縄文時代の民族として、関東ではアイヌ系とマレー系Aが多数と認められるが、彼らの生活習慣から、アイヌ系は中山間に住み、海洋系のマレー系Aは海岸に住んでいた可能性が高い。

2. 茨城・千葉の人々の容貌は、マレー系に似て低身長や丸顔の傾向が認められる。

まず、1ですが、縄文時代の民族のアイヌ系とマレー系Aですが、前回資料を基にすると、地域別分布は下図のとおりです。関東では、アイヌ系は37%、マレー系Aは25%です。縄文時代、関東地方は人口が多かったことが知られていますが、その中で、マレー系Aも相当な人口があったと推察されます。

アイヌ系とマレー系の地域別分布


関連し、マレー系の人々の特徴ですが、故郷のインドネシアからアフリカのマダガスカルに移住したことは有名です。彼らは小柄であり、小さな小舟を操つることが得意な海洋系であり、海に親しい民族だった感じがします。詳しくは「古代海人族のルーツは海洋系マレーと思われる」を参照願います。

以上のことから想像しますと、縄文人のマレー系Aは海岸に住み、貝を主食に多数の人口があったのではないかと思われます。すなわち、マレー系Aは海の民と分類されます。

一方、アイヌ系ですが、栗を主食に中山間を中心に住んでいたことが知られていますので、アイヌ系は山の民と分類されます。

また、縄文晩期、寒冷化と火山噴火の影響で関東の人口は急減したことが知られております。こんななか、関東の海岸部では漁業の改善が見られます。これもマレー系Aの残したものと思われます。詳しくは「寒冷化時代、関東の縄文人は何処に住んで居たのか」を参照願います。

次に、2の茨城・千葉の人々の容貌です。

まず身長ですが、「北九州にマレー系民族が居たのか、現在の身長差から検討する」で紹介したことがありますが、北九州はマレー系の影響で低身長であることが明らかになりました。そこで、今回も同様な結果が得られるのか、同表を用い調べてみました。

茨城・千葉に対し、同じ海岸部にある北陸2県(新潟・富山)の2006年と2014年の身長(17歳男女)を比較しましたが、結果は下表のとおりです。

関東(茨城・千葉)と北陸(新潟・富山)の身長

本表から、茨城の身長は、男女とも、全国平均と同等か低い傾向が認められます。また、隣県の千葉も同様な傾向が認められます。この身長の特徴は低身長のマレー系の影響なのか断定はできませんが、可能性はあるという感じでしょうか。

なお、北陸(新潟・富山)の高身長は朝鮮半島由来ツングース系の影響と思われます。詳しくは「色白高身長、秋田美人のルーツ愚考」を参照願います。

おそらく、長い歴史経過の中で、貝塚を作った関東のマレー系の人々は、混血を繰り返し、マレー系の低身長という身体的特徴は明確には見えなくなってしまったのかもしれません。

一方、貝塚の多い霞が浦周辺の人々の容貌と関連し「霞が浦美人」でウエブ検索しますと、丸顔で可愛らしい顔立ちが多く出てきます。これは、マレー系美人の博多美人と同じ特徴です。このことは、霞が浦周辺はマレー系の人々が多かった地域であった可能性を示すものと思われます。

なお、博多美人については「丸顔、博多美人ルーツ愚考」および「秋田美人と博多美人のルーツの違い、身長差から」を参照願います。

まとめますと、縄文人には主要民族としてアイヌ系とマレー系Aが居ますが、アイヌ系は山の民、マレー系Aは海の民と分類されます。すなわち、茨城・千葉の貝塚は海の民のマレー系Aが作った可能性が高いと結論されます。事実、関東の人々はマレー系AのDNAの割合が比較的高く、かつ、茨城・千葉の人々に関しては、マレー系に似て低身長の傾向あり、また、茨城の霞が浦周辺にはマレー系に似て丸顔で可愛らしい顔だちが多い傾向が認められます。


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[ 2022/07/07 19:58 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

関東とヤマトの埴輪の違い愚考


埴輪と古墳時代国家(5世紀)


関東とヤマトの埴輪の違い愚(関東・東北の古代)

関東には100m超える大古墳が多数あることや、古墳建造に関係した関東の弥生系の人びとは新潟方面から来たことから、ヤマト(奈良)とは別に朝鮮半島由来のツングース系王家が関東にあったことを検討してきました。

従来は「前方後円墳体制説」があり、ヤマトと同じ前方後方墳が関東にもあるので、関東もヤマト王朝の一部(一地方)だった、と観られてきました。

しかし、ヤマト王朝がアイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって滅ばされた後も関東の王家は存続しており、拙ブログでは、ヤマトとは別に独立した王家が関東にあったと観ています。

一方、埴輪ですが、関東とヤマトには違いがあることが指摘されてきました。

例えば、「捏造の日本古代史」(相原精次 2017)は、関東には西日本にない独特の個性的な埴輪が多数あることを紹介しています(下写真参照)。また、本著は、日本の古代史はヤマト中心で、関東の古墳や埴輪については軽視の傾向があることを指摘しております。

捏造の日本古代史(表紙)

関連し、今回は関東の埴輪の様相から、関東に独特の古墳時代分化があったこと、ヤマトの王家とは別の王家があったことを検討します。

まず、埴輪は陶器で、円筒埴輪と形象埴輪の2種類に大別されます。

円筒埴輪は、古墳の上に飾られた置物です。弥生時代末期の吉備(岡山)がルーツで、これがヤマト(奈良)に広がったと言われます。この意味でヤマトの埴輪は吉備国の影響が強いと言われるゆえんです。

一方、形象埴輪は人物、動物、船、家等の物を表現したものです。これら形象埴輪は、関東に出土例が多い傾向があります。関連し、Wikipedia には、国宝級の形象埴輪2点(すべて関東)、重要文化財41点(28点は関東)、その他著名な埴輪3点(2点は関東)、合計46点を紹介しております。

これら合計46点のうち、関東には32点(67%)があり、特に群馬には22点(国宝2点、重要文化財18点、その他著名2点)があり、形象埴輪は群馬に集中しております。(下図参照)

国宝等埴輪46点と地域

これらから見て、関東は形象埴輪の中心地、特に群馬には国宝など特徴ある埴輪が半数近くあることになります。まさに、群馬は形象埴輪文化の中心地であり、その文化の違いから、ヤマトとは別の王家があったと観てもおかしくありません。

関連し、「復元!日本最古級の出雲の人物埴輪展」によれば、人物埴輪について、「とくに石屋古墳出土の力士・椅子に座る人・武人形埴輪などは、人物埴輪成立初期のセットとしては、日本国内最古であることが判明しました」とあります。

古墳を建造した関東のツングース系王家は、出雲がルーツで日本海を北上し新潟当たりから南下し関東に来たと拙ブログでは予想しておりますが、人物埴輪のルーツも出雲となると、出雲―新潟―群馬(関東)は古代から道ができており、ヤマトよりも交流があったものと思われます。

一方、古代における関東とヤマト(奈良)をつなぐ道ですが、東海道と東山道を通る道が知られております。

東海道は、静岡辺りから多くの大小河川が道を遮り、関東に行く道は開けていない。一方、東山道は長い山道ばかりで道は開けていない。結論として、ヤマトから関東へ行くには、東山道の方が確実だが、遠い関係にあったことが知られております。詳しくは「大宝律令(701年)に関東は含まれていなかった」を参照願います。

なお、群馬にはヤマト朝廷から贈呈されたと思われる鏡「三角縁神獣鏡」が多数出土しております。「三角縁神獣鏡」は4世紀に製造され、ヤマト朝廷と臣下の関係を示す証として全国に配られたものと言われております。しかし、群馬は遠く、その後、系統的な関係は続かず、ヤマトと関東の王家は、それぞれ、独自の道を進んだのではないかと思われます。

なお、「三角縁神獣鏡」については、「三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考」を参照願います。

まとめますと、埴輪の種類や発展経過から観ても、ヤマトと関東の王家は、それぞれ独立して発展した可能性が高いと思われます。その一つの理由として、両者の間に道が整備されていなかった問題が考えられます。

関連し、埴輪の流れと古代国家の関係について、上トップ図に示しました。



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[ 2022/02/03 10:46 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(4)

埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文と関東の5世紀愚考


関東のツングース系王家と関連遺跡、鉄剣碑文など


埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文と関東の5世紀愚考(関東・東北の古代)

ヤマトの王家とは別に関東にもツングース系王家あったことを検討してきました。このことは古墳等の遺跡物調査から明らかですが、残念ながら、日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。

何度も指摘してきましたが、日本書紀は万世一系の偉大なアイヌ系天皇家を主題に書かれたものであり、その前にツングース系王家があったことや北九州に倭国があったことは主題に合わないことから無視されたものと思われます。

関東の王家もその流れにあり、日本書紀には何の記述もありません。しかし、人骨や埴輪等の遺跡物はその真相を語っています。

埼玉の稲荷山古墳出土鉄剣碑文の内容もその一つと思われます。

関連し、今回は、「埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文と関東の5世紀」について上記の観点から再度愚考します。

まず、Wikipedia によれば、その鉄剣碑文は次のとおりです。

特色
115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。

また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]。
(引用終了)

そこで、引用(Wikipedia)の内容ですが、科学的根拠の無い俗説を中心にまとめられている感じです。まず、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」について、万葉文字の専門家によれば、ワカタケルと読めないこと、あえて読めば「エカタシロ」となることです。

また、雄略天皇が幼少の頃に幼武と呼ばれていたからワカタケルは雄略天皇だ、とするのはこじつけで根拠がありません。近著「日本国紀」(百田尚樹 2018)でも、そのようなことが指摘されています。

拙ブログでもそれらの批判は正しいことを指摘してきました。詳しくは「学研まんが「NEW日本の歴史」、鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題」を参照願います。

そこで、改めてその真相に迫りますと次のとおりと思われます。

まず、鉄剣碑文が創られた年代は471年(辛亥年)ですが、この時代は、ヤマトのツングース系王家の巨大古墳建造もほぼ終わり、その巨大古墳建造に対する民衆の怒りが頂点に達していた時期です。すなわち、ヤマトのツングース系王家がアイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって滅ばされる前の頃です。

また、北九州倭国領域の熊本県の江田船山古墳から同内容の鉄剣が出土しております。

以上のことから推察しますと、鉄剣に記されている大王は、天下の倭国の大王という意味で、ヤマトの王はあり得ない感じになります。

そこで、このときの大王と言えば、日本の歴史上、北九州の倭王「武」が第一候補に挙げられます。倭王「武」偉大さについては「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。

そこで、北九州倭国の倭王「武」の名が、なぜ埼玉県から出てきたのかですが、次のように考えられます。

当時、彼は、478年に「六国諸軍事安東大将軍」となり、新羅を含む朝鮮半島南部を支配する大王となりました。このことは、倭王「武」は朝鮮半島南部をも支配する大王であることが中国南朝から認められたことになります。また、百済と連合し、北の大国ツングース系「高句麗」と戦っていました。

一方、北九州倭国には隣国の敵として、ヤマトのツングース系王家がありました。そこで、倭王「武」は、同じツングース系王家と関係のある宮崎と吉備(岡山)をまず滅ぼしたと思われます。この方面は後に紹介します。

最後の攻撃場所はヤマトだけになりましたが、ヤマトのツングース系王家は強大で簡単には勝利できません。そこで、このとき、東からも攻めるため、関東に行き、関東の仲間の支援を得ようとしたのではないかと思われます。

事実、倭王「武」が関東に来たことが常陸国風土記にも書いてあります。詳しくは「北九州の倭王「武」は関東に来ていた」を参照願います。関連し、この5世紀の時期は、大きな構造船の開発も進み、海洋移動がしやすくなった時期でもあります。

おそらく、朝鮮半島南部をも支配する倭王「武」は関東でも知られた存在で、埼玉出土の碑文入り鉄剣は、このとき創られたのではないかと思われます。その内容の「治天下エカタシロ大王」の意味は、まさに、「エカタシロ大王(倭王「武」)の天下のもと」となります。

なお、関東と北九州の歴史的関係については、碑文入り鉄剣だけでなく装飾古墳もあります。詳しくは「関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国」を参照願います。

関連し、5世紀後半の関東の様子を、「鉄剣碑文出土の稲荷山古墳」、「ツングース系墳墓吉見百穴」「関東のツングース系王家本家太田市」をキーワードに上トップ図に示しました。

本図によれば、鉄剣碑文出土の稲荷山古墳は王家のあった太田市から20㎞しか離れておりません。鉄剣碑文を作らせた者はこの王家に勤めていた者と思われますが、倭王「武」の関係者が関東に来た時に鉄剣作成を依頼したものと思われます。また、前回紹介のツングース系関係の吉見百穴もすぐ傍にあることから、この辺一帯には関東のツングース系王家と関連した者が多数住んでいたと思われます。



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[ 2022/01/27 10:11 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

埼玉の吉見百穴はツングース系王家終末の墓愚考


吉見百穴のルーツ


埼玉の吉見百穴はツングース系王家終末の墓愚考(関東・東北の古代)

前回、関東に、ヤマトとは別のツングース系王家があったこと、その中心地は群馬・埼玉であったことを検討してきました。

関連し、私ことですが、埼玉県には8年間(1973~1980)住んだことがあります。そして、近くの古代遺跡、鉄剣碑文の出た有名な「稲荷山古墳」や、謎の洞窟で有名な「吉見百穴」を何度か訪問しました(下写真参照、小生の青年時代の姿が映っています)。

吉見百穴と著者1973頃

特に、「吉見百穴」については、小さい丘山に巨大な横穴や無数の穴があり、圧倒されました。そして、なぜ、このような洞窟があるのか、理解しようとしても理解できないものがありました。

そこで、今回は、最近の情報を基にその謎に迫ってみたいと思います。

まず、「吉見百穴」が建造された時代ですが、古墳時代後期(6~7世紀)とあります。これは、関東のツングース系王家の滅亡時期に合致します。

また、穴は、一般の横穴式古墳の内部の通洞と同じ様式で、洞窟内部に多数の遺体安置場があるため、集団墓地であると結論されたようです。

その墓様式のルーツは、「出雲を原郷とする人たち」(岡本 雅享 2016)によれば出雲になるようです。すなわち、朝鮮半島由来の人びとは出雲に初めに移住し、さらに一部の人びとは北上し、新潟当たりから南下し、関東に住み着いたことになります(上トップ図参照)。

本著の指摘は、関東の王家は朝鮮半島由来のツングース系(新潟経由)という意味で、拙ブログの内容と一致します。

そして、建造時代(6~7世紀)とルーツ(出雲)から想像しますと、「吉見百穴」について、次のことが考えられます。

まず、関東のツングース系王家の王は大古墳に葬られました。その他の王家関係者は、小古墳、あるいは初期の「吉見百穴」に葬られました。

そして、6世紀後半、王家はヤマトのアイヌ系新王家・関東のアイヌ系豪族連合に滅ぼされ、古墳の建造はできなくなりました。その結果、残されたツングース系王家関係者に残された場所は「吉見百穴」だけとなり、次々とそこに葬られました。しかし、そこがいっぱいとなると、利用は終わり、時代も変わり、放置されてしまった、と思われます。

何故、放置されたのかですが、7世紀まで墓として利用されてきた百穴ですが、8世紀となると、奈良時代です。アイヌ系王家が奈良に都を定め、本格的に関東・東北支配を始めた時期です。残されたツングース系人々も、その時代の流れに抵抗できなくなっていった時代と思われます。

すなわち、「吉見百穴」は関東のツングース系王家関係者の横穴墓であり、かつ、ツングース系王家終末を示す墓と思われます。

関連し、上トップに、「吉見百穴」のルーツと時代について示しました。



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[ 2022/01/20 19:19 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

群馬に別のツングース系王家があった愚考


関東のツングース系王家と分家の大古墳数


群馬に別のツングース系王家があった愚考(関東・東北の古代)

前回、墳長100mを超える大古墳建造には25万人以上の人員が動員されること、これらの人員を集めるには大きな権力者すなわち王が居たことが推察されることを指摘しました。事実、王冠が群馬や茨城の古墳から出土しております。

関連し、今回は、さらに検討し、関東地域には西日本とは別のツングース系王家があったこと、中心は群馬だったことについて愚考します。

まず、関東は、河川の関係から3地域に分かれること、その地域分類は地方言葉と一致することが知られております。それらは、群馬・埼玉、栃木・茨城、千葉・東京・神奈川の3地域になります。詳しくは「大河が古代の関東を分けた」lを参照願います。

そこで、前回の表を基に、これら3地域ごとに墳長100m以上の大古墳を整理しますと下表のとおりです。

関東3地域の100m以上大古墳数

関東3地域の世紀別100m以上大古墳数

合計建造数は、茨城・栃木9基、群馬・埼玉23基、千葉・東京・神奈川11基、また、それらは、4世紀、5世紀、6世紀と連続して建造されています。おそらく、それぞれの地域に王家があり、それぞれの王家は続いていたと観ることができます。

そして、それぞれの王家が続いていたということは、争いはなく、平和な時代が続いていたと観ることができます。このことは、強力な本家があり、他に従属する2分家があったことを示唆します。

また、西日本と同じような墳長200m以上の巨大古墳ですが、墳長210mの太田天神山古墳(5世紀建造)、および209mの古丸山古墳(建造時期不明)が群馬県太田市にあります。

以上のことをまとめますと、群馬・埼玉に本家があり、その中心地は群馬県太田市だったと推察されます。

その太田市ですが、関東平野北部の中心部に当たる地域で、山裾の広大な平野部は稲作に適し、コメ生産量も多く、これらをベースに人口が増え、発展した地域と思われます。

そして、弥生時代後期に入りますと、その生産力を背景に王家が生まれ、その王家は、茨城・栃木と千葉・東京・神奈川の2地域に分家を作り、その王家が滅ぶ6世紀後半まで続いたと想像されます。

最後に、これら関東の大古墳43基を建造した王家ですが、前回指摘したとおり、西日本のヤマト王家とは別のツングース系王家と思われます。

西日本ヤマトでは、6世紀初頭(507年?)に朝鮮半島由来ツングース系王家がアイヌ系の継体王(在位:507-531年、現天皇家)によって滅ばされたことを検討してきました。当然のことですが、継体王は、次の目標に、関東のツングース系王家を滅ぼすことを考えていたと思われます。

そのときの関東のアイヌ系ですが、おそらく、彼らは中山間地に居て、畑作を受け入れ部族社会を形成し、ツングース系王家と付き合っていたと思われます。

そして、それらアイヌ系の部族長は、ヤマトのアイヌ系新王家と共同し、関東のツングース系王家を滅ぼしたと想像されます。この結果、関東のツングース系王家の王宮は破壊され、水田は奪われ、奈良・大阪と同じような道を歩んだと思われます。

以上の結果、関東の王家の遺物は古墳だけ、しかも埋蔵者不明となったと想像されます。もし、争いが無かったとするなら、例えば常陸国風土記がありますが、それら古墳建造者のことが残されていてもおかしくありません。

ツングース系王家を滅ぼした関東のアイヌ系豪族は、強奪者でした。その恥ずかしい内容は風土記に書けない内容だったのが真相と思われます。

また、関連し、継体王(在位:507-531年)に始まったアイヌ系新ヤマト朝廷による関東・東北の支配ですが、それは、阿倍 比羅夫の蝦夷征服(北征、658年)に始まりますが、これには関東の地域は入っていません。この時代(7世紀初頭)、すでに関東には国造(後の国司)が置かれ新ヤマト朝廷の支配下にあった感じです。

これらことは、新ヤマト朝廷と関東の蝦夷豪族が、協力して関東のツングース系王家を6世紀後半に滅ぼし、その報償として関東の豪族は国造の地位が保証されたことを示唆します。


関連し、6世紀の関東のツングース系王家の様子について上トップに示しました。

なお、群馬に、朝鮮半島由来の王家があったことを、遺跡出土物から紹介しているブログ記事「甲冑王とかみつけの里」がありましたので、参考までに紹介しますと、次のとおりです。

嘘みたいな本当の歴史話㉝

皆さん、今から6年前、群馬県渋川市の榛名山(はるなさん)の麓で国道工事に伴う遺跡発掘調査が行われました。そこから大変珍しい古代人の人骨が出土した事はご存知でしょうか?何が珍しいかと言うと、前例のない日本で初めて鉄の甲冑をまとった人骨が出土したからです。では、この鉄の甲冑をまとった人物はいったい何者なのか?武人?貴族?はたまた農民?ここに大きな秘密が隠されておりました。今日はこの人物像のお話をしようと思います。

この人物は男性で、西暦500年代初頭に大噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれて亡くなった事がわかりました。規模は長崎雲仙普賢岳で起きた火砕流の30倍とも言われております。では一体どんな人物だったんでしょう?その謎を解くカギがとある古墳にありました。

この遺跡から南に16km離れた所に、「上毛野はにわの里公園(かみつけのはにわのさとこうえん)」がありますが、その公園内に「保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)」と言う大型の前方後円墳があります。この古墳は既に盗掘されており被葬者の人骨はありませんでしたが、発掘調査を行った結果大量の埴輪が出土しました。その埴輪を復元してみると、生前の古墳の被葬者(王様)の生活の姿を現した物であった事がわかりました。

埴輪は狩猟をする王、神事をする王、隊列を組む王、鳥を方にのせた王他、様々な王の生活の場面を表したもので、その服装が極めて珍しく朝鮮半島の騎馬民族スタイルに酷似しており、諸説色々ありますがこの古墳の被葬者は朝鮮半島から来た騎馬民族の王様だった可能性が極めて高いと言う事がわかりました。そしてここには、甲冑をまとった埴輪もありました。関東付近で多く出土する甲冑をまとった武人の埴輪(NHKのはに丸くんや特撮映画の大魔神の様な埴輪)、元々王に仕えた武人と思われておりましたが、鎧が決まって出土するのは古墳の石室、つまり鎧をまとう者は武人ではなく王だと言う事が近年わかりました。つまり鎧をまとった埴輪も王だと言う事です。

では火砕流で亡くなった甲冑男性はと言いますと、古墳の王の埴輪と甲冑がきわめて似ており、男性はやはり武人ではなくこの付近を治めていた王と言う事がわかりました。そしてその後の科学的な調査の結果、この人骨は成人男性で年齢は40代前半、身長は164cmだと言う特徴がわかり、また歯の成分から長野付近で幼少期を過ごした人物、つまり長野県付近で生活経験があった事がわかりました。更に大腿骨が太かった事から馬に常時乗っていた事もわかり、結論からこの男性は、朝鮮半島渡来人で長野付近を経て群馬に移住してきた騎馬民族の王様だったと言う事が判明しました。

実は群馬県には古代、多くの渡来人がやってきて、その痕跡を現代にも多く残してくれております。(
引用終了)。

以上の記事は、まさに、群馬に朝鮮半島由来のツングース系王家があったことを示すものと思われます。


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[ 2022/01/13 18:59 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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