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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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蘇我家は6世紀最大の権力者愚考


継体天皇以降の天皇と有力豪族


蘇我家は6世紀最大の権力者愚考(古代史の問題)

前回、奈良で最大、かつ、6世紀最大の「丸山古墳」の埋葬者は、時の権力者の蘇我稲目の墓ではないかと推察しました。

関連し、今回は、その6世紀の時代背景や「丸山古墳」の埋葬者が不明になった理由について愚考します。

まず、その時代の継体天皇(大王)と家来(有力豪族)の関係は上トップ図のとおりです。当時の政権運営は、大王と豪族の合議によって行われていました。

6世紀の大王(天皇)は8名居ますが、10年以上の在位者は、継体(507~531、24年)、欣明(539~571、33年)、敏達(571~585、14年)、推古(592~627、37年)の4名です。

そして、蘇我家は、天皇から財務担当大臣に任命されていて、高麗(こま)→稲目(570年没)→馬子(626年没)と代を重ねました。さらに、稲目は妃を欣明天皇と用明天皇に出し、かつ、それら孫は用明天皇と推古天皇となっています。

一方、当時の有力豪族は、蘇我の他に物部と大伴が大連(役軍事担当)として知られておりますが、6世紀にいずれも失脚しております。大伴氏は北九州磐井との戦い(磐井の乱 527年)で失敗し失脚したと言われています。一方、崇仏派の蘇我と廃仏派の物部の仏教導入に対する対立は有名で、この対立から戦争になり、物部は587年に滅びました。

以上の経過から、丸山古墳建造時代(6世紀後半)の権力構造を見ますと、天皇(当時は大王)に次ぐ権力者は蘇我家以外には考えられません。また、天皇と蘇我家の関係は、崇峻天皇(在位:587~592)が蘇我馬子に暗殺された経過をみても、蘇我家の方が権力者だったと見ることができます。

拙ブログでは、継体天皇は、ツングース系王家を滅ぼし、507年にアイヌ系新王家を始めたことを検討してきました。しかし、その王家は小さく、豪族の支えによって支えられてきました。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。

そして、大王家が名実ともに最高位になったのは天武天皇(在位:673~686年)からです。詳しくは「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。

そこで、6世紀後半の巨大な丸山古墳の埋葬者ですが、以上の経過から、この時代の権力者は蘇我稲目であり、丸山古墳の埋葬者は彼以外に考えられません。

そして、丸山古墳は破壊され盗掘に会っていますが、その理由を考えますと、次のことが考えられます。

まず、天皇家を超えた振る舞いの結果、蘇我家(入鹿)は乙和の変(645年)で中大兄皇子らに滅ぼされました。このためか、その入鹿の埋葬場所はまだ特定できていません。

その前の馬子と蝦夷の墓は有名な石舞台古墳と言われております。これは、巨大な石室がむき出しになっていることで有名ですが、おそらく、蘇我家を恨む者がした仕業と思われます。

そして、その前の時代が蘇我稲目で、彼の墓は当時最大の丸山古墳で間違いないと思われますが、さらに検討しますと、その古墳は盗掘に会い、かつ、方墳部分がかなり破壊されていることが指摘されます。

この破壊は、彼の古墳は時の大王(天皇)の墓を超えており、蘇我家が滅びた後、石舞台古墳と同じように蘇我家を恨む者に破壊され、その後、管理するものは無く放置された結果と思われます。

まとめますと、6世紀最大の古墳は、6世紀最大の権力者の蘇我稲目の墓と推察されます。その墓が盗掘や破壊を受けたのは、後に蘇我家は滅び、管理者がいなくなった結果と思われます。


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[ 2022/03/31 10:32 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

古墳埋葬者は何故不明なのか愚考


埋蔵者が分かっている古墳


古墳埋葬者は何故不明なのか愚考(古代史の問題)

DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であることがわかりました。そして、初代のアイヌ系大王は継体王(在位:507-531年)であることがほぼ確実です。そのことから、古墳時代のツングース系王家(3~5世紀)は継体王によって滅ぼされたと判断されます。

一方、DNA以外にそのことを示す根拠の一つとして、近畿では継体王以前の陵墓は埋蔵者不明であることが指摘されます。王陵があったことは確かですが、埋葬者関連の資料がまったく残っていないのです。

例えば、日本書紀や古事記に王名が書いてありますが、それら王の実在を示す資料がありません。例えば、世界遺産「仁徳天皇陵」がありますが、世界最大の規模の王陵ですが、記録がありません。詳しくは「世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か」を参照願います。

関連し、古墳埋葬者が何故不明なのか、このことについて今回は愚考します。

埋蔵者不明の理由としてこれまで指摘してきたとおり、2点あると思われます。

1点目は、ツングース系王家があったことを隠すためです。日本の正史と言われる日本書紀ですが、万世一系の偉大な天皇を主題として描かれていますので、これ以外のこと、すなわち、ツングース系王家があったこと等は書けない背景がありました。この方面は、古事記や関連する地方の歴史書(風土記)にも一貫しており、完璧です。

2点目は、ツングース系王家はアイヌ系等の豪族に滅ぼされましたが、その過程で、勝者が財産や土地(農地=水田)を強奪したことがあります。これらのことは恥ずべき行為であり、表に出せないことだったと思われます。

例えば、関東にもツングース系王家由来と思われる多数の古墳が知られていますが、すべて埋蔵者不明です。関連し、地方の古代史を著述した常陸国風土記がありますが、古墳埋葬者のことは不明です。おそらく、中央の指示で書いてはならないことだったと判断されます。

一方、古墳埋葬者が分かっている例があります。それらは著者の知る限りですが上トップの表の通りです。

まず、磐井の乱で知られている筑紫君磐井です。彼は筑紫国風土記に記載されていて、古墳建造時期も矛盾なく、ほぼ間違いないと思われます。彼はツングース系王家とは別の王家(北九州倭国)でしたが、倭国の王ではなく、筑紫君磐井としての古墳として残ったものと思われます。

次に、拙ブログで現天皇家の初代として紹介している継体王です。彼の陵墓は今城塚古墳ですが、多くの研究者の支持があり、これも間違いないと思われます。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。

最後に、丸山古墳です。丸山古墳は全長318mで奈良では最大の古墳で、かつ、建造年は6世紀後半、古墳時代最後の巨大古墳です。その横穴式石室は日本最大、強大な権力者が葬られた感じがします。しかし、埋蔵者は不明と言うから驚きです。

そこで、Wikipedia(丸山古墳 (橿原市) )を見ますと、斎藤忠(『古墳文化と古代国家』至文堂、1966年)の説として、蘇我稲目説が紹介されております。その埋葬者を6世紀後半の最大の権力者、かつ埋葬地域を支配していた者として推察しますと、蘇我稲目というのは妥当と思われます。このことについては、次回、さらに検討します。

以上の3名の古墳(前方後方墳)は、ツングース系王家が滅びた後に建造されたものです。ヤマト朝廷に認められた者だけが前方後円墳建造が認められたという説(前方後円墳体制)がありますが、ツングース系ヤマト王家が滅びた後にも丸山古墳(前方後円墳)が建造されていたことになります。これは、拙ブログで何度も指摘していますが、前方後円墳体制は無かったことを意味します。

前方後方墳体制については「前方後円墳体制はあったのか愚考」を参照願います。

まとめますと、ツングース系王家が滅びた後の古墳については埋蔵者が分かっていて、それ以前の古墳埋蔵者がまったく分からないことは、ツングース系王家がアイヌ系継体王によって507年に滅ぼされたとき、その歴史も抹殺された結果と結論されます。

関連し、日本書紀は、万世一系の偉大なアイヌ系天皇を命題に8世紀に創られましたが、そのアイヌ系天皇家の前にツングース系王家があったことを示す巨大古墳については、日本書紀の命題に合わないので無視するという大執筆方針があったものと思われます。



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[ 2022/03/24 08:23 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(4)

日本古代史は三元史観で観るべきだ


日本の三大民族と古代史


日本古代史は三元史観で観るべきだ(古代史の問題)

これまで、日本古代史の問題について検討してきました。今回は、そのまとめとして「日本古代史は天皇制一元史観でなく三元史観で観るべきだ」について愚考します。

まず、日本古代史を歪める最大問題として日本書紀の天皇家は万世一系という一元史観が挙げられます。この一元史観は、天孫降臨の天皇家が、日本誕生以来、鉄器と水田稲作で弥生時代を造り、古墳時代には大規模な前方後方墳を建造し、日本を統治してきたというものです。

この中心民族は、遺骨が長身であることや、大陸由来の鉄器と稲作を普及し巨大古墳を建造したという特徴から、朝鮮半島由来のツングース系民族であろうと思われてきました。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来のツングース系が25%、その他10%であることを明らかにし、かつ、現天皇家のルーツはアイヌ系であることを明らかにしました。

すなわち、従来の「天皇家朝鮮半島由来説」を否定しました。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

また、日本書紀には、外国(主として中国)の歴史書に描かれている邪馬台国や北九州倭国の武王についての言及はありません。日本書紀は一元史観の方針があり、一元史観に合わないこれらの存在を認めないという強い方針があって執筆されたものと思われます。

なお、邪馬台国の卑弥呼は日本書紀の〇〇皇后に当たるとか、北九州倭国の倭王「武」は〇〇天皇に当たるとかの当てはめ報告がありますが、それらのことは、日本書紀の執筆者が漢文に精通していたことから推察しますと、知らなかったことではなく、日本書紀の一元史観を分かりやすくするため、故意に無視したというのが真相と思われます。

そこで、日本の古代史研究は、創作の疑いのある日本書紀に頼るのではなく、DNAや遺跡などの物的資料を基にすべきと思われます。

因みに、これらの物的情報を基に検討しますと、我が国の古代史の概要はつぎのようになります。

縄文時代を造ったのは先住民族のアイヌ系と渡来系のマレー系(マレー系A20%)、弥生時代を造ったのが水田稲作を導入したマレー系(マレー系B10%)と鉄器を持ってきたツングース系になります。

関連し、マレー系Bが中心となって北九州に水田稲作が始まり、その後、邪馬台国が生まれました。続いて倭国が生まれ、倭国は同胞(マレー系B)の百済と連携しました。詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

一方、古墳時代に東九州~近畿~東海を支配し巨大古墳を建造した民族王家はツングース系王家になります。しかし、巨大古墳建造に従事させられた人々(おそらく縄文系の人々)の怒りは大きく、ツングース系王家は滅ぼされました。その対立した中心人物はアイヌ系の継体王(在位:507-531年)だったと推察されます。

そして、継体王は現天皇家の祖先となりましたが、そのことが最近のDNA研究で判明したことになります。なお、同じく縄文系のマレー系Aですが、その祖先に藤原家(もと中臣鎌足)が居ることが分かっております。

おそらく、ツングース系王家が滅びたとき、アイヌ系とマレー系(マレー系A)が同じ縄文系として協力して戦った可能性があります。詳しくは「藤原家のルーツはマレー系A愚考」を参照願います。

関連し、上トップに、日本3大民族の歴史的役割について表に示しました。

まとめますと、日本古代史の全貌を観るには、一元史観の日本書紀という書物では不十分であり、日本には3大民族のルーツがあり、DNA研究と遺跡研究という物的証拠の結果をベースに、三民族を中心とした三元史観て検討すべきと思われます。


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[ 2021/12/02 20:36 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

聖徳太子は実在したのか愚考


聖徳太子は何故天皇になれなかったのか


聖徳太子は実在したのか愚考(古代史の問題)

聖徳太子は日本古代史の英雄です。しかし、聖徳太子は実在したのか、数年前から疑問に持たれるようになりました。最大の疑問は、「聖徳太子は普通の天皇以上の業績があったのに何故天皇になれなかったのか」と思われます。

関連し、最近、いくつかの日本史関係ブログでも同様な問題を取り上げています。例えばブログ「邪馬台国探訪」の「聖徳太子は蘇我善徳である」です。聖徳太子は天皇家の系譜に無かったため天皇になれなかったことを指摘していますが、かなり説得力があります。

関連し、この記事に刺激され、今回は、拙ブログでもこの問題について愚考します。

まず、ウエブ検索しますと、最近の記事に「聖徳太子は本当に存在したのか?」があります。一部を引用しますと次のとおりです。


(前略)
Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?

厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?〜686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。

そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。

こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

ここまでの話を整理してみましょう。

★聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。

★ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
(1)冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
(2)憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
(3)遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、彼自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。

★少なくともこの時代に、彼が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきました。

歴史は絶えず進化する
後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、さまざまな歴史的事実が明らかになりました。歴史は絶えず「進化」を続けています。

今回のリニューアル出版にあたっては、まだ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これらは彼の成した功績として記述していますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王(聖徳太子)」としました。
・・・・・
(引用終了)

引用が長くなりましたが、以上の引用記事をまとめますと、次のような感じです。

まず、壬申の乱に勝ち巨大な実権を握った天武天皇が現れました。詳しくは「天武天皇が日本を統一した初めての天皇」を参照願います。

そして、天武天皇は、「ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとした(引用文)」とありますが、ここが天武天皇が日本書紀を発案したポイントと思われます。

関連し、日本書紀の内容ですが、聖徳太子の例からも、創作の部分が多いとしております。

そして、実績は天皇以上なのに何故天皇になれなかったかへの疑問も、創作だからということになります。そして、初めての女系の推古天皇が現れ、聖徳太子が補佐したという話も創作の可能性大となります。

しかし、何故天皇になれなかったかの疑問には、日本書紀の創作というだけで、説得力に欠けます。

一方、初めに紹介した「聖徳太子は蘇我善徳」ですが、この記事は説得力があります。聖徳太子は実在しなかったことに、この記事ではなります。

しかし、実際は聖徳太子の子孫が居ることが分かっています。例えば、拙ブログでは、聖徳太子には子孫が居て、そのY染色体ハプログループは現天皇家と同じハプログループであることを紹介しております。すなわち、聖徳太子は蘇我善徳(蘇我家)と別系統です。詳しくは、「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

そこで、この問題について慎重に検討しますと、蘇我家も天皇家の系譜と同じことが分かれば解決します。例えば、拙ブログでは、巨大古墳を多数建造したツングース王家を滅ぼしたのは現天皇家祖先の継体天皇(在位:507-531年)としていますが、その時から、蘇我氏は継体天皇とはたいへん近い関係にありました。蘇我氏と天皇家が同じ祖先という可能性はあり得ます。詳しくは「蘇我家のルーツ愚考」を参照願います。

結論として、聖徳太子が天皇になれなかったことについては、諸説ありますが、まだ解明されていないと言えましょう。

関連し、聖徳太子の真相について、上トップ図に示しました。



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[ 2021/06/18 12:42 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

倭国の大乱で人口は変動したのか


邪馬台国候補地(北九州・大和)の古代遺跡数


倭国の大乱で人口は変動したのか(古代史の問題)

邪馬台国の女王「卑弥呼」登場の前に倭国の大乱があったことが知られています。その時代の北九州の人骨に負傷者が多数発見されていることから、その大乱は激しい戦いであったことが想像されています。

その激しい争いの原因は、水田土地争いに加え、多数派の稲作民族(マレー系)を少数派の朝鮮半島由来ツングース系が支配していた問題、すなわち民族対立が背景にあったと拙ブログでは推測しています。詳しくは「倭国の大乱の原因は民族対立だった」を参照願います。

その大乱の結果、邪馬台国では人口増大に影響があったことが想像されます。関連し、今回は、「倭国の大乱で人口は変動したのか」について、北九州と大和地域を比較してみたいと思います。

方法は、邪馬台国候補地の畿内(奈良、三重、大阪、滋賀、京都)と北九州(福岡県、佐賀県)の古代人口の変動比較です。古代人口は、県別古代遺跡数を基に推定しましたが、具体的な方法は「古代王国の人口と稲作開始時期」を参照願います。

まず、県別の古代遺跡数を上表に示しました。

続いて、この表を基に畿内と北九州の古代人口を推定し、下表に示しました。

邪馬台国候補地(北九州・大和)の古代人口

続いて、この人口を基に、古代の人口変動を下図に示しました。

邪馬台国候補地(北九州・大和)の古代人口変動

倭国の大乱の時期を200年前後としますと、それ以降の人口変動に大きな違いが認められます。すなわち、北九州は人口増大が少なく、一方、畿内は人口増大が大きく経過しました。

この違いから、倭国の大乱は北九州で発生し、その大乱の結果、人口増大が抑制されたと推察されます。

そして、その後の倭国ですが、朝鮮半島で、マレー系稲作民族の仲間の「百済」と連合し、北の大国の高句麗と戦い、国は疲弊し、その後も人口はあまり増大しなかったと拙ブログでは見ています。なお、高句麗との戦いついては「空白の時代があったのか」を参照願います。

以上のことから、倭国の大乱は北九州で発生したことが古代人口の経過からも裏付けられたと思われます。

なお、関連し、邪馬台国所在地論争ですが、邪馬台国は北九州にあったことが99%以上の確率で証明されています。その意味で、本記事は、ダメ押しになります。詳しくは「誤りと偽りの考古学・纏向」を参照願います。


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[ 2021/06/11 10:52 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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