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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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前方後円墳体制はあったのか愚考


大和の支配地外の前方後円墳


前方後円墳体制はあったのか愚考(古墳と日本人)

前回、前方後円墳のルーツについて検討しました。

前方後円墳については、近畿で最初に生まれた大和政権が、その王墓として前方後円墳を作り、それを全国に広めたという「前方後円墳体制説」があります。その説には、前方後円墳は大和政権支配の象徴であり、大和政権の許可の基に建造され、大和政権の支配が及んでいた場所という意味があります。

この説については、「古代史つれづれブログ」が「古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!?」で論理的に検討し、否定しております。

この報告を参考に、今回は、「前方後円墳体制はあったのか」、さらに検討します。

拙ブログでは、ツングース系民族が朝鮮半島から鉄製農具をもって日本へ移住してきたこと、その結果、農業生産による食料が増え、人口が2000年前頃から急激な上昇が認められることを検討してきました。

当時、富を持ち最初の王となった者は、鉄を持ち農業生産で優位に立ったツングース系と思われます。その結果、彼らは、その富を基に、故郷の朝鮮半島と同じ方墳という王墓様式をベースに、前方後方墳を作り出し、さらには類似系の前方後円墳を作り出しました。

前方後方墳も前方後円墳も、形だけでなく外部の石垣構造も似ていることから類推しますと、前方後方墳の最初の設計者は朝鮮半島から来たツングース系民族と思われます。

これらの観点から検討しますと、前方後円墳の建造経過は次のようになります。

まず、前方後円墳は、鉄製農具で豊かになったツングース系の王や関係者が建造したことになります。

このため、前方後円墳は、ツングース系がリーダーとなった地域で多く作られ、それは鉄器伝来とも関係し、全国で認められています。

例えば、関東地方に前方後円墳が多いのはツングース系の王か関係者が多く居たためと思われます。古墳時代、関東地方は大和の支配を受けていませんので、大和政権とは関係がありません。大和政権との関係を示す三角縁神獣鏡が関東でも発見されていますが、配られただけであり、大和政権の支配下にあったかは不明です。

古代の関東地域は、大和政権の中心地の奈良とは遠く離れており、支配下にあった証拠は出ておりません。むしろ、中国の旧唐書によれば、奈良時代以前、関東は毛の国と呼ばれ、別の民族が住んでいたとあります。この情報は、初期の遣隋使または遣唐使の情報を基に中国側(唐)が書いたものと思われます。

さらに、朝鮮半島にも前方後円墳がありますが、大和ではなく北九州倭国の影響が大きいと判断されます。詳しくは「朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係」を参照願います。

一方、最初の前方後円墳ですが、前回紹介しましたが、日本最古の前方後円墳として奈良の「纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)」 が指摘されています。これが最古と認められますと、大和の地域が前方後円墳発祥の地になると思われます。

奈良(大和)は、弥生時代からツングース系の多いところと指摘してきましたが、その意味で前方後円墳が大和から建造され始めたというのは不思議でありません。

このため、前方後円墳は近畿地域から広がり、特に、巨大な前方後円墳も奈良に多いことから、前方後円墳体制が奈良の王権によってはじめられたような印象を与えたと思われます。

まとめますと、前方後円墳は、その建造を始めたツングース系民族と関係があり、この結果、大和のツングース系王家と関係があるような印象があります。しかし、詳しく観ると、大和王家と直接の関係はない関東等にも多数建造されており、冒頭の「古代史つれづれブログ」指摘のとおり、前方後円墳と大和政権は直接の関係は無い、と結論されます。

関連し、古墳時代(5世紀)の様子、特に、大和支配外の前方後円墳の場所を上トップ図に示しました。



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[ 2020/09/29 07:02 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(2)

巨大古墳建造を続けた大王の末路愚考

新勢力継体王(6世紀)


巨大古墳建造を続けた大王の末路愚考(古墳と日本人)

日本の巨大古墳建造について検討してきました。そして、その巨大古墳建造を続けた大王の末路がどうなったのか、今回はクライマックスになります。

前回、民衆を疲弊させた巨大古墳建造が、3~4世紀には1地域(奈良)、5世紀には3地域(奈良、大阪、岡山)で行われたことを紹介しました。

また、奈良と大阪には居住者が少なかったことから、巨大古墳建造には他地域から多数動員され、民衆が疲弊したことも指摘しました。

関連し、これら巨大古墳建造を止めた大王と思われる継体王(在位:507-531年)の登場と、巨大古墳を建造し続けた大王(旧勢力)の末路について今回は愚考します。

まず、大阪の5世紀の巨大古墳従事者の数ですが、4世紀の奈良以上だったと思われます。

因みに、墳丘長が200m以上の巨大古墳数と合計墳丘長ですが、4世紀の奈良は11古墳、合計墳丘長が2532mです。一方、5世紀の大阪は10古墳で合計3005mです(前々回の資料参照)。

そして、5世紀の大阪は大仙陵古墳などのような超巨大なものも有り、かつ平地建造が多く、全体として4世紀の奈良地域よりかなり大規模な土木工事が行われたものと推察されます。

因みに、大仙陵古墳は「建造に15年間680万人の労力」という大規模なもので、動員された人数は年当たり45万人以上と推定されています。

以上のことから、これらの大王に支配されていた3~5世紀の民衆の疲弊はたいへんなものだったと予想されます。

そして6世紀になり、そこへ、北陸(福井県)出身のアイヌ系の新大王「継体王」(在位:507-531年)が現れました。継体王の誕生年は450年頃とされていますので、おそらく、5世紀後期のこれら巨大古墳作りに熱心な大王と疲弊した民衆の対立を見たと思われます。

継体王は、実在を確認できる天皇(大王)の始まりとして拙ブログで指摘している大王ですが、初めて外交を行った大王、初めて文書を導入した大王、国造制度など初めて地方管理の制度を作った大王として知られております。詳しくは「新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行」を参照願います。

そして、継体王の陵墓は「今城塚古墳」と分かっています。場所は、奈良でもなく大阪湾岸でもなく、大阪府北側、滋賀・京都寄りのところ、その墳丘長は190mで、従来の大王墓より小さくなっています。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。

また、継体王は奈良・大阪の旧勢力とは別の「今城塚古墳」の近くに王宮を構えました。以上の経過から、おそらく、奈良・大阪の旧勢力とは対立していたと思われます。

そして、継体王治世の6世紀前期ですが、大阪、奈良、岡山から巨大古墳建造が突然として消えます。これらのことから、大阪、奈良、岡山の旧勢力は没落し、継体王単独の政権になっていった感じを受けます。おそらく、民衆は旧勢力から離反し、このため、継体王は労せずして権力を得た感じです。

そこで、それら巨大古墳建造を続けた旧勢力の末路ですが、次のようになったと思われます。

1. 奈良と大阪の旧勢力は民衆の支持を失い没落し、新勢力の継体王が支配者になった。
2. 旧勢力は継体王と対立していたこともあり、それらの王家の歴史は否定され不明になった。
3. 旧勢力没落200年後に日本書紀と古事記(記紀)が編纂され、継体王家(天皇家)の歴史を長く見せるため、旧勢力が残した巨大古墳は継体王家由来のものとして描かれた。このため、記紀の内容は史実を改竄したものとなった。

以上の関係から、巨大古墳については、その主の王名はすべて不明となってしまったというのが真相と思われます。

因みに前回紹介の世界最大の大仙陵古墳は仁徳天皇陵と指定されていますが、実際は誰の陵墓か分かっていません。詳しくは「世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か」を参照願います。

関連し、現在指定されている巨大古墳の陵墓名のほとんどがでたらめということが指摘されています。詳しくは、「日本古代史つれづれブログ」の「古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎」を参照願います。

まとめますと、日本の歴史では、空白の4世紀~5世紀という言葉がありますが、この原因は、この時代は大規模古墳建造の時代で、その支配者(大王)の治世を新勢力の継体王が徹底的に否定した結果と思われます。このことについては後にさらに検討します。

関連し、継体王時代(6世紀前期)の勢力図を上トップに示しました。

また、巨大古墳建造~日本書紀編纂の歴史を下表にまとめました。


巨大古墳建造~日本書紀編纂の経過


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[ 2020/06/15 06:53 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(2)

世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考

最大古墳建造悔過



世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考(古墳と日本人)

奈良の地域では、4世紀、度重なる巨大古墳建造に民衆が疲弊したことを先に指摘しました。

そして、5世紀、世界最大規模の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が、大阪の地に建造されました。民衆を疲弊させる巨大古墳建造を諦めず、さらに巨大な古墳がなぜ建造されたのでしょうか。

因みに、大仙陵古墳は「建造に15年間680万人の労力」 という大規模なもので、動員されたのべ人数は年当たり45万人以上(1日当たり1000人以上)と推定されています。

そして、先に検討しましたように、奈良と同じく大阪も人口は少なく、巨大古墳建造のためには他地域からの動員は不可欠でした。

今回は、そのような地域に大仙陵古墳が建造された経過を愚考します。

まず、5世紀の新大王は、前々回指摘のように、支配地域が、北九州倭国を除く西日本地域、すなわち、これまでの近畿、東海、中国に加え、四国、九州東岸まで広がり最大勢力となった可能性があります。このため、これらの地域の中心により近い大阪に王宮を移した可能性があります。

そして、新大王は、巨大化した新支配地を背景に奈良よりも大きい古墳、さらには先に建造された誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を超える古墳を建造し、新支配者としての権威を示したくなった可能性があります。

因みに、最大古墳との関連で巨大古墳建造の流れを見ると上表のとおりです。

次に動員態勢ですが、最大勢力となった最強の大王が大阪に居て、全国から動員したと思われます。大阪は海に面しており、動員に船を利用できるので、古墳建造用の人員を瀬戸内方面から集めやすくなった可能性があります。

この海洋活動いついては、吉備国とリンクしていた瀬戸内の海族マレー系の協力があったことを前回紹介しました。ブログ「東国の古代史」が「海人族の末裔「海部氏」の遺跡」について最近紹介しておりますが、それは大仙陵古墳建造と同時代の遺跡であり、大仙陵古墳建造と関わりのある遺跡と思われます。

また、関連し、ブログ「3D京都」が「なぜ、前方後円墳でなければならなかったのか? 仁徳天皇陵をめぐる3D的考察 後編」で大仙陵古墳建造物の内部の様子を再現しています。その豪華さは圧倒的です。

この画像を見ると、その建造物は、特に古墳の外壁の石の使い方ですが、朝鮮半島のツングースの影響が強く感じられます。この方面は後に検討したいと思います。

一方、大仙陵古墳の主ですが、記紀では「仁徳天皇」となっていますが、本当の大王名は不明です。この謎についても後程検討します。

関連し、大阪の巨大古墳建造のために動員された人々の予想地域範囲を下図に示しました。


大阪巨大古墳建造のための動員経路


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[ 2020/06/10 07:02 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(1)

5世紀の頃、大阪、奈良、岡山の3地域に大王が居たと思われる

大阪、奈良、岡山の5世紀の巨大古墳


5世紀の頃、大阪、奈良、岡山の3地域に大王が居たと思われる(古墳と日本人)

先に、墳丘長が200mを超える巨大古墳が38古墳建造されたことを紹介しました。それらは、3~4世紀は奈良を中心に建造され、続いて、5世紀には、奈良、大阪、岡山等に建造されました。

関連し、今回は、5世紀に、北九州倭国とは別に、奈良、大阪、岡山の地域に大王が居たことと、それらの力関係について愚考します。

まず、それぞれの地域の巨大古墳ですが、上表のとおりです。

5世紀を前・中・後と分けますと、それぞれの地域に連続して古墳が建造されており、それぞれ一つの王家(支配者)が続いていた可能性があります。

これら5世紀建造の古墳の合計墳丘長を見ますと、大阪は10古墳で3005m、奈良は7古墳で1603m、岡山は3古墳で852mです。これらの数値をそれぞれの王家の勢力と観ますと、最強は大阪、続いて奈良、そして岡山の順になります。

これらの力関係から、奈良も岡山も大阪には抵抗できず、従っていたことになります。その意味で、大阪の大仙陵古墳古墳などの巨大古墳建造には、全地域から動員されていたと思われます。

そして、大阪と奈良の関係ですが、前回紹介しましたように、奈良の地域で4世紀に続き5世紀も巨大古墳建造が続けられていたことから想像しますと、王家の断絶は無く、大阪に本家が移り、奈良は分家として続いていたと思われます。

一方、岡山(吉備)の王家ですが、岡山は縄文時代から人口が多く、弥生遺跡も多い地域でした。縄文時代に陸稲栽培が行われ、弥生時代遺跡も多く、マレー系民族の影響の大きい地域でした。詳しくは「弥生時代最大墳丘墓のある岡山県の「楯築遺跡」と邪馬台国」を参照願います。

また、奈良の纏向遺跡からは吉備の影響のある土器が発見されております。さらには、マレー系民族は海洋系民族でもあり、四国や離島部を支配するために彼らの協力が必要でした。その意味で、大阪・奈良とは別の王家ですが、岡山は先進地域でもあり、協力を条件に共存が認められていたのではないかと思われます。

なお、マレー系は稲作民族だけでなく海洋系民族であることについては「古代海人族のルーツは海洋系マレーと思われる」 を参照願います。

関連し、これら3大王の支配地域の様子を下図に示しました。

大阪、奈良、岡山の大王の拠点と勢力(5世紀)

次回は大仙陵古墳の謎に迫ります。



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[ 2020/06/05 10:02 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(2)

巨大古墳王権は5世紀に最盛期を迎えたと思われる

巨大古墳王家の4~5世紀の支配地域(推定)


巨大古墳王権は5世紀に最盛期を迎えたと思われる(古墳と日本人)

前回、奈良の王権は、4世紀に度重なる巨大古墳を建造し、民衆を疲弊させたことを指摘しました。その結果、奈良の地域では巨大古墳が建造しにくくなった事情を指摘しました。

しかし、一方、次の5世紀には場所を変え、さらに大きな古墳が建造されました。

関連し、今回は、奈良の巨大古墳王権は、さらに支配地を広げ、巨大化した結果、王宮や王墓陵を大阪に移したことについて愚考します。

まず、奈良と大阪の関係ですが、巨大古墳の数と規模(墳丘長)について下表に示しました。

奈良と大阪の巨大古墳建造の時期と数

この表から、奈良の巨大古墳の数は4世紀(4C)に頂点を迎え、その後、減っていきます。一方、大阪は5世紀に頂点を迎えます。

そして、その後の6世紀、両者の巨大古墳建造は突然無くなります。6世紀に古墳が各1建造されていますが、これらは6世紀後半の建造であり、断絶が感じられます。

そして、この表から見えてくることは、奈良から大阪へ王朝が変わったというより、奈良の王権が支配地を広げ巨大化し、その結果、それらの新しい地域支配に便利な場所、すなわち大阪に王宮や王墓陵を建造した印象を受けます。

そして、巨大古墳王家の新支配地域ですが、大阪が海に面していることから推定しますと、その新支配地は、四国や九州沿岸の可能性があります。

そして、奈良ですが、分家となり、本家は大阪に移動した感じを受けます。奈良に分家を残したことについては、その王権にとって奈良は歴史的に重要な場所だった可能性があります。この方面は後に検討します。

そして6世紀になり、両地域で巨大古墳がまったく建造されなくなったことから推定しますと、これらの王家は5世紀に頂点になり、6世紀に没落したと思われます。

その没落の原因は2点考えられます。1点目は古墳建造で疲弊した民衆の怒りが絶頂になったこと、2点目は6世紀に現れた新勢力の継体王(在位:507-531年、現天皇の祖先)の登場です。この方面も後に検討します。

そして、世界遺産の世界最大の大仙陵古墳の例ですが、新支配地からの動員も可能になり、巨大古墳は奈良の地よりも建造しやすくなったと思われます。この方面も後に検討します。

関連し、この巨大古墳王家の4~5世紀の支配地を上トップ図で示しました。


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[ 2020/06/01 07:30 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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