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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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日本書紀の評価は時代とともに変わった


日本書紀と日本人のアイデンティティ


日本書紀の評価は時代とともに変わった(日本書紀は創作)

DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であること、このため、日本語のルーツはアイヌ系、日本人の思考様式や宗教もアイヌ系になったと判断されることを拙ブログでは検討してきました。

関連し、前回、日本の正史と言われる日本書紀は、縄文時代、弥生時代、古墳時代の歴史遺物と関係の無い創作物だったこと、それは、継体王(在位:507-531年)以来の新王朝、すなわちアイヌ系天皇を称える創作書だったためと検討しました。

こうした日本書紀に対する評価は、上記の2016年頃に分かったDNA研究結果から自信を持って言えることですが、それ以前は、日本書紀は日本の正史と言われるほど、信じられていた時代もありました。

関連し、今回は、日本書紀の評価は時代と共に変わったことについて、日本人のルーツ研究と関連し愚考します。

日本書紀の一般的評価についてはWikipediaに詳しくあります。それを参考に、日本書紀の歴史経過について検討しますと次のような感じになります。

まず、日本書紀は漢文で書かれており、刊行された奈良時代(720年)には、大仏建立と関連し、国際都市になった奈良に来るようになった外国人に日本紹介書として用いられたと言われます。評価は不明ですが、平安時代ともなると、増刷され、前回紹介しましたように紫式部も読んだことが分かります。

そして、江戸時代後期となりますと、日本学(国学)の影響が大きいと思われます。その代表的研究者は本居宣長でした。そこで、本居宣長のWikipedia記事(概要)ですが、次のとおりです。


概要
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し[注 1]、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる[5]。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し[注 2]、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[注 3]。
また、そのような儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判し、神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだと主張した。そして、日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきたとして、日本には言挙げをしない真の道があったと主張し、逆に儒教や仏教は、国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道であると批判した[6]。また、儒教の天命論についても、易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為であると批判した[6]。さらに、朱子学の理気二元論についても、儒学者達が推測で作り上げた空論であると批判、世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだと主張し、世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬であるとした[6]。
ただし、本居宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、時々の社会体制も全て神が司っているので人は時々の社会体制に従うべきだとも主張している。漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた神により司られているため重んじるべきだとし[注 4]、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した[7]。そして、道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道であると主張した[8]。・・・
(引用終了)

引用が長くなりましたが、まとめますと、本居宣長の発見や評価は次のとおりと思われます。

古事記など日本の重要古典を調べると、日本人固有の思考の拠り所は、導入された仏教や儒教でなく、古来からの神道であることが分かった。そのことは古事記や源氏物語にも描かれている。特に、古事記は、日本書紀の副読本扱いだったが、日本国家の成り立ちがやまと言葉(日本語)で詳しく描かれており、それを研究することによって、日本国家や日本人の本質に迫ることができる。

すなわち、本居宣長は、日本人の心や精神には独自のルーツがあることを発見したと思われます。さらには、本居宣長の到達点は、日本書紀(古事記)には、現天皇家はアマテラス(太陽神)の子孫であることが描かれており、天皇が政治を行うことが古(いにしえ)からの在り方と思うようになった感じがします。

こうした考えは、日本人のアイデンティティに迫るものであり、外国と対峙せざるを得なかった江戸末期にはもてはやされました。そして、それは尊王攘夷思想となり、神の天皇を抱く日本国という明治維新の精神的支柱となり、太平洋戦争が終了するまで、日本人の重要な精神的支柱となってきたと思われます。

しかし、その後、日本書紀(古事記)は、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究」を初め、創作であることが多くの研究者によって指摘されるようになりました。

しかし、古事記研究における本居宣長の発見、すなわち、日本人には独自の文化あるということは、その後の日本人論のベースになった感じがします。

関連し、哲学者の梅沢猛の研究があります。彼は北海道アイヌと直接接触し、アイヌの習慣や言葉は日本人と同じであることを最初に明らかにした哲学者と思われます。例えば日本語ですが、魂はタマ、神はカムイなど、重要な基本単語が日本語と同じこと、また死後(あの世)のことですが、そのとき行われる通夜の儀式はアイヌと同じであることを明らかにしています。

これらの結果、通夜は縄文時代からあるアイヌ系や日本人の儀式であると推察されるようになりました。通夜について詳しくは「通夜は縄文時代の葬式」および「北海道の葬式に見るアイヌ風習の影響」をお願い致します。

すなわち、本居宣長や梅原猛の研究は、日本人は独自のルーツを持っていること、そのルーツは縄文由来のアイヌ系の文化にあることを明らかにしたと思われます。しかし、何故そうなったのかは明らかにできませんでした。

一方、最近のDNA研究から、天皇のルーツはアイヌ系であることが明らかになりました。その事実を基に拙ブログでは、日本語のルーツや日本人の考え方がアイヌ系と同じとになったことを検討してきましたが、より明確な結論に達したと感じています。

まとめますと、本題の「日本書紀」(古事記)の評価ですが、戦前までは高く評価されましたが、津田左右吉等の研究の結果、それは創作であり、そのような観点から評価されるようになりました。一方、それら「日本書紀」(古事記)の研究は日本人のアイデンティティに迫ったと思われます。

関連し、上トップに、日本書紀(古事記)と日本人のアイデンティティについて紹介しました。



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[ 2022/05/26 12:35 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(4)

神武天皇は継体王だった


ツングース系王家滅亡の経過


神武天皇は継体王だった(日本書紀は創作)

これまで、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家のルーツはアイヌ系、初代は継体王(在位:507-531年)、その継体王が日本書紀の神武天皇に当たることを検討してきました。

なお、現天皇家のルーツについては「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

関連し、今回は、神武天皇=継体王について、さらに検討します。

まず、壬申の乱(672)に勝利し、日本を最初にほぼ統一した天武天皇の命により、偉大で万世一系の天皇家をテーマ(主題)に日本の正史と言われる日本書紀は作られました。

この天皇家を褒めたたえるという目標のため、巨大古墳を多数建造した朝鮮半島由来のツングース系王家、さらには北九州にあった邪馬台国や倭国の存在は無視するという方法が取られました。詳しくは「歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと」を参照願います。

また、偉大な天皇家とするため、天孫降臨という方法を用い、天皇家はアマテラスという太陽神の子孫であることとし、その天孫降臨の場所を宮崎県高千穂としました。その流れは、アマテラス(神話)・・・山彦(神話)・・・神武(現世)という流れです。

また、ツングース系王家には、本家のヤマトのほか吉備と日向に分家があり、継体王が大王となるためには、これら本家と分家を滅ぼす必要があったことを拙ブログでは検討してきました。

まず、日本書紀では、神武東征の始まりは宮崎でした。

何故、宮崎の山間地(高千穂)なのかですが、おそらく現天皇家と同じアイヌ系が多く居たところ(山彦の名前の由来とも関連)、一方、平地は古墳が多くツングース系王家の分家があったところであり、宮崎はその分家が最初に滅びた場所だったため、神武東征の始まりの場所としてふさわしい場所に選ばれたことと思われます。

しかし、宮崎のツングース系王家が滅びた後、先に紹介しましたように南九州の隼人が支配していた可能性が大で、ヤマト朝廷の宮崎支配は8世紀になってからになります。

また、この宮崎のツングース系王家滅亡には、縄文系の多かった南九州のアイヌ系や隼人の人びと、さらには北九州倭国が加わった可能性もあります。

当時、北九州倭国は、朝鮮半島南部をも支配する倭王「武」の時代でした。次の目標として、隣にあった宮崎のツングース系王家滅亡があったと思われます。

倭王「武」について、詳しくは「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。

その北九州倭国と継体王の連合の可能性として、継体王はマレー系の百済と最初に外交したことが挙げられます。当時、北九州倭国と百済はマレー系で、両者は兄弟の関係にありましたので、継体王と北九州倭国と百済の3者連合があったことになります。

この連合を示すものとして、百済「武寧王」が継体王即位(507年)前の503年に継体王に贈った鏡があります。さらには、熊本産のピンクの墓石があります。ピンクの墓石は当時流行だったようで、熊本からヤマトに運ばれました。それを可能にしたのは上記の三者連合だったと思われます。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。

残念ながら、倭王「武」については日本書紀に書いてありません。これは、冒頭で紹介しましたように、万世一系という天皇像に合わないため、倭国を故意に無視して日本書紀は創られたためです。

そして、宮崎のツングース系王家が滅びた後、神武東征の次の目標地は吉備(岡山)の支配になりました。吉備については、巨大古墳の多いことから、これもツングース系王家の分家があったところと拙ブログでは観ています。詳しくは「吉備国はツングース系王家の本家だった」を参照願います。

日本書紀では、神武天皇は吉備に長期間(8年)滞在したとありますが、吉備は大国であり、その征服は簡単でなかったと読み取れます。

おそらく、継体王=神武天皇は出身地の福井から仲間を集め吉備を攻め、さらには、倭王「武」はマレー系であり、吉備はもともとマレー系居住地であったことから推察しますと、吉備の攻撃にも協力した可能性があります。すなわち、吉備は、東から継体王、西から倭王武に責められ、滅亡したと思われます。

ついで、継体王はヤマトに向かいました。ツングース系王家の都のあったところで、神武東征によれば、最初は西側から向かい撃退されます。次に、紀伊半島南端を回り、熊野に上陸し、ヤマト支配に成功します。

三重など東海地域は縄文遺跡の多いところですが、そのことから推察しますと、アイヌ系の仲間も多く、アイヌ系の継体王は戦いやすかった可能性があります。さらには、岐阜・長野など縄文勢力を集め、総攻撃をした可能性もあります。

以上、神武天皇=継体王がツングース系王家を滅ぼし、新アイヌ系王家を創った経過について愚考しました。しかし、神武東征(日本書紀)では、宮崎での戦いもなく、かつ、吉備での戦いもなく、神武東征のほとんどは創作だったことになります。

関連し、それらの経過について上トップ図に示しました。


図では、倭王「武」の協力があったことを紹介しております。また、薩摩を含む南九州の隼人は宮崎(日向)のツングース系王家を滅ぼすことに協力したとしております。強大なツングース系王家を倒すには、継体王だけではできなかった戦争と思われます。


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[ 2022/03/10 08:49 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(0)

神武東征の時代背景の矛盾


神武東征時期の西日本(3世紀)


神武東征の時代背景の矛盾(日本書紀は創作)

拙ブログでは、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)を基に、現天皇家のルーツはアイヌ系であることが分かったことを紹介しています。

日本の正史と言われる日本書紀では神武天皇が初代天皇となっていますが、万世一系の天皇家ですので神武天皇もアイヌ系になります。

また、日本書紀では、神武天皇は、宮崎県の高千穂に降臨し、東征し、奈良(ヤマト)の反対勢力に打ち勝ち、奈良に都を建設したと述べています。

当然のことながら天孫降臨は創作ですが、このストーリイは時代背景にも矛盾が多い内容となっています。

関連し、今回は、神武東征の時代背景の矛盾について検討し、古代史の真相に迫ります。

まず、神武東征の時期ですが、ヤマト(奈良)に最初の巨大古墳(箸墓古墳)が建造されたのが3世紀ですので、この古墳を最初の天皇の陵墓、すなわち神武天皇の陵墓と見ることが一般的な感じです。

また、3世紀は邪馬台国大乱の時期で、北九州では争いごとが多いが、東に争いのない平和な地があるので、神武天皇はそこに都を構えようとしたと日本書紀から読みとれます。その意味で神武天皇東征時期は3世紀と見ることができそうです。

しかし、その後の内容が歴史的事実と合致しません。

まず、宮崎(日向)から船で大分に向かったとありますが、当時3世紀は、まだ多数の人数を乗せることができる構造船はできていません。構造船が現れるのは5世紀からです。詳しくは「馬とツングース系王家」を参照願います。

次に、吉備国(岡山)を経てヤマト(奈良盆地)に向かい、旧ヤマト勢力と激しい戦いになります。この戦いでは、兄が戦死し、やむを得ず後退しました。そこで、戦術を変え、紀伊半島南岸を通り、東の三重に上陸し、そこから攻め入り、激しい戦いをし、勝利しました。

この場面での問題は、3世紀に、神武天皇が激しく戦わなければならない巨大な勢力がヤマトにあったかどうかです。

3世紀は、ヤマトではツングース系王家が多数の人員を動員し巨大古墳を建造し始めた時代です。すなわち、神武天皇が戦った相手はツングース系王家になります。

しかし、史実から見て、アイヌ系の神武天皇が3世紀あるいはそれ以前にツングース系王家と戦って勝利したというストーリイはあり得ません。その後に建造された古墳の中にある遺跡物は朝鮮半島由来のものばかりで、それらのことが、アイヌ系王家が3世紀には無かったことを物語っています。

以上、まとめますと、アイヌ系の神武天皇が3世紀にツングース系王家と戦い勝利し、ヤマトで新王家を始めたというストーリイはあり得ません。

そこで、この神武東征の時期を、大勢の人が乗ることのできた構造船が開発された5世紀としますと、それはアイヌ系の継体王(在位:507-531年)が王家を開いた直前のこと、かつ、日向(宮崎)、吉備(岡山)、ヤマトでそれらの王家が滅びた時期であり、史実と一致します。すなわち、神武天皇=継体王になりますが、この続きは次回に報告します。

なお、神武東征と関連し、3世紀の状況について、上トップ図に示しました。


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[ 2022/03/03 09:47 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(4)

出雲の国譲り神話と出雲大社の関係愚考


オオクニヌシの国譲り神話と出雲大社の関係


出雲の国譲り神話と出雲大社の関係愚考(日本書紀は創作)

前回、出雲はヤマトのツングー系王家発祥の地であったことを検討しました。

一方、出雲には、多数の神話が古事記や日本書紀に残されています。特に、古事記には、その30%が出雲関係と言われ、日本古代史を検討する上で重要な地であると言われております。

関連し、今回は、「出雲の国譲り神話と出雲大社の関係」について愚考します。

なお、本記事については「葬られた王朝、古代出雲の謎を解く」(梅原猛 2010、下写真参照)を参考にし、さらに踏み込みました。

葬られた王朝(梅原猛著)

まず、古代史関係主要神社として、高千穂、伊勢、出雲が知られております。高千穂は天孫降臨の地、伊勢は神武天皇が旧ヤマト勢力を攻めるために上陸した地、また、天皇と初めて名乗った天武天皇が壬申の乱で勝利を祈願した地として知られております。そのためか、伊勢神宮には現天皇家の祖神のアマテラスが祭られています。

関連し、ヤマト(奈良)の地には大和(おおやまと)神社があり、この神社も同じくアマテラスを祭っていますが、伊勢神宮に次ぐ神社とされています。おそらく、ヤマトの神社はツングース系王家の都があったところの神社であり、伊勢神宮の方が現天皇家ゆかりの地としては相応しい位置にあるためだと思われます。

しかし、出雲大社については、実際の歴史的事件は無く、歴史的意味は不明です。

そこで、出雲大社について調べますと、祭っている神様は、因幡の白兎で有名な大国様(オオクニヌシ)です。そして、オオクニヌシ(大国主神)について調べますと、Wikipediaによれば次のとおりです。

須佐之男命から大国主神までの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。

須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が同意したことにより、このときの名を杵築大神(きづきのおおかみ)ともいう。

大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。 また山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東など広範囲における地方伝承にも度々登場する。
(引用終了)

以上、オオクニヌシについて、まとめますとつぎのような感じと思われます。

オオクニヌシは農業の神であり、日本をコメの実る豊かな国にした。しかし、アマテラス(現天皇家)に、その国を譲れと要求され、譲らざるを得なかった。そして、国譲りをした後は、出雲大社を建ててもらい出雲の国に残り、亡くなった。

一方、アマテラスですが、その後を継いだのがニニギ、その三男が山彦、その2代目が天孫降臨をして神話の世界から抜け出した神武天皇です。すなわち、アマテラスの末裔(現天皇家)は、国譲りをしてもらい、かつ、繁栄しているというのが神話の結末になります。

そこで、この神話が、何か歴史的事件を暗示しているのではないか検討しますと、オオクニヌシは日本で農業を始めたツングース系王家、それを譲ってもらったアマテラスは現天皇家とすると歴史的事実と合致します。

まず、日本国は、ツングース系民族が農業(特に稲作)を開始し、人口が増え、国作りをしました。その国をアイヌ系が奪い、新たなアイヌ系王家(現天皇家)を作りました。そのアイヌ系王家の始まりは継体王(在位:507-531年)であることが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から明らかになりました。

しかし、ツングース系王家を滅ぼし、農地を含め略奪したことはアイヌ系王家にとって恥ずべき行為でした。そこで、せめて、神話の世界になるが、国譲りは大きな争いもなく行われたことにしたいということが日本書紀には感じられます。しかし、その恥ずべき行為が許されるわけではなく、ツングース系王家の恨みは残ったままで、祟りが起こる可能性が否定できません。

関連し、上記書籍の梅原猛の解説ですが、神社は鎮魂の場所、死んだ者が現世を恨んで生き返って来ないように魂を癒す場所として設立されている場合が多いとあります。

その典型的事例が太宰府天満宮です。大宰府に流され亡くなった菅原道真ですが、菅原道真が亡くなった後、いろいろな転変地変が起こり、菅原道真の祟りと畏れられました。そこで、彼の鎮魂のため大宰府天満宮を建てたと言うのは有名な話です。

この梅原猛の解説を当てはめますと、出雲のオオクニヌシはツングース系王家のことであり、その祟りを畏れ、出雲大社を造り鎮魂することになった。場所は、ツングース系王家誕生の地である出雲にしたというのが真相でないかと思われます。

以上、まとめますと、アイヌ系王家はツングーケイ王家を滅ぼし、その財産を略奪しましたが、このことから、祟りを畏れ、ツングース系王家鎮魂のためにツングース系王家発祥地の出雲に出雲大社を作ったのが出雲大社の由来と思われます。

関連し、出雲大社の由来を上トップ図に示しました。


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[ 2021/12/23 17:25 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(8)

海彦・山彦神話の山彦はアイヌ系


海彦・山彦神話のモチーフは実際の古代史


海彦・山彦神話の山彦はアイヌ系(日本書紀は創作)

前回、現天皇家はアイヌ系であること、一方、日本の古代にはアイヌ系の他に朝鮮半島由来ツングース系民族、南方由来のマレー系民族の三大民族が居たこと、それぞれ歴史的役割があったこと等から、日本の古代史は、日本書紀にある日本民族一元史観ではなく、三大民族史観(三元史観)の立場から観るべきであることを検討しました。

関連し、この三元史観の観点から日本書紀の「海彦・山彦神話」について、その暗示する内容について、今回は検討します。

神話の内容は、天皇家の祖先のアマテラスには3人のひ孫兄弟がおり、長男の海彦と三男の山彦は争い、弟の山彦が長男の海彦を打ち破り、その勝った弟(山彦)の孫が天孫降臨し、現存の神武天皇になるというストーリイです。

しかし、日本書紀と言う日本の正史に、何故、海彦や山彦と言った名前があるのか、さらには名前の無い次男がいるのか、また、この話は山彦が海彦を打ち負かすという内容で、何故、弟の山彦が勝つのか、日本の古代史と関連し、何かを暗示していることが感じられます。

そこで、その暗示の内容ですが、長男の海彦は巨大な王家を近畿に創ったツングース系王家、次男は北九州マレー系王家(倭国)、三男の山彦は現アイヌ系王家とすると、この神話は古代史と合致します。

海のかなたから来たツングース系王家(海彦)に山間に居たアイヌ系民族(山彦)はいじめられてきました。しかし、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が現れ、血みどろの戦いの結果、アイヌ系は勝利し、ツングース系王家を滅ぼしました。一方、次男(北九州マレー系王家)はこれらの戦いとは関係なかったので脇役にもなれなかった、と観ることができます。

一方、これら海彦(ツングース系王家)と次男(北九州マレー系)の存在については神話世界の話であったことにしているので、現世では、日本民族は日本民族だけの話になっています。

さらには、山彦の孫は、天孫降臨し、神武天皇となりました。すなわち、ここに、天皇の万世一系が完成します。見事な万世一系の創作です!そして、現天皇家はアイヌ系であることが分かっていますので、その祖先の山彦はアイヌ系と判断されます。

まとめますと、海彦・山彦神話では、古来より山間部に住んでいた山彦が海外から移住してきた海彦に勝ち、その孫が天孫降臨し神武天皇になったことが暗示される内容になっています。

このことは、日本書紀の神話の内容は、古代史を間接的に表現していると観ることができます。その意味で、前回、天皇家が日本民族の頂点に立っているという一元史観で日本書紀は創られているとしましたが、それは編集方針であり、実際は、海彦・山彦神話のように、神話の世界ではあるが、実際の史実が暗示されている内容になっていると思われます。

関連し、これらの関係を上トップ図に示しました。

なお、拙ブログでは先に「「海彦」は何故「山彦」に負けたのか」で海彦を北九州倭国、山彦を大和国 次男を吉備国としてきましたが、今回の観方の方が史実に近く、分かりやすい見方になっていると思われます。


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[ 2021/12/09 21:33 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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