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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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アイヌ系天皇と日本書紀の関係愚考


書籍「古事記・日本書紀の研究」


アイヌ系天皇と日本書紀の関係愚考(天皇家のルーツと日本文化)

DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であること、このため、日本語のルーツはアイヌ系、日本人の思考様式や宗教もアイヌ系になったことを拙ブログでは検討してきました。

一方、最近の著作物は、この重要な情報に言及していないこと、すなわち無視していることも検討してきました。

今回は、「アイヌ系天皇と日本書紀の関係」について愚考します。

日本の正史と言われる日本書紀ですが、それは、万世一系の偉大な天皇家を主題にした創作であることが多くの研究者によって指摘されています。

拙ブログでも創作であることを「歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと」で指摘しましたが、その指摘では「アイヌ系天皇」との関係の視点が弱かった感じがしています。言い換えますと、アイヌ系天皇だから、そのような創作品となったことが指摘できれば、日本書紀の理解も進むのではないかと思われます。

そこで、日本書紀の内容ですが、Wikipedia情報の他、「「古事記」「日本書紀」の解明」(赤城毅彦 2006年)を参考にしました(上記写真参照)。

その中身ですが、上記著書によれば、天武天皇は日本書紀作成の発起人ですが、壬申の乱(672年)で現天皇(弘文天皇)を殺害し、天皇になったことを和らげることに力点があったとあります。それは、指摘のとおりと思われますが、さらに、万世一系の偉大な天皇の日本史という狙いもあったことは内容のとおりです。

次に、本題の「アイヌ系天皇と日本書紀の関係」ですが、重要なこととして次の2点が挙げられます。

1. 縄文時代から弥生時代になったこと、すなわち水田稲作の発展の視点が日本書紀は弱い。
2. 巨大古墳建造に多大な労力をかけたことに日本書紀は言及していない。


まず、1の弥生時代のことです。大陸から弥生人が来て、水田稲作を始めて豊かな国になったことは遺跡物から見て明らかです。しかし、日本書紀は曖昧です。日本書紀から垣間見えることは、その豊かな国を作ったオオクニヌシ(出雲の大黒様)から豊かな国を譲り受けたことが神話として描かれているだけです。

オオクニヌシについて詳しくは「出雲の国譲り神話と出雲大社の関係愚考」を参照願います。

このことは、現天皇家は弥生時代の水田稲作に直接は関与していないこと、すなわち、現天皇家は大陸(朝鮮半島)由来ないことを自ら述べていることになります。

次に、2の古墳時代ですが、古墳時代、ヤマト王朝は多数の巨大な古墳建造を行いました。因みに、200m以上の古墳建造には100万人以上の動員があったことが推定されています。世界遺産となった仁徳天皇陵は400m以上ですが、これには600万人以上の動員があったと推定されます。

巨大古墳建造について、詳しくは「世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考」を参照願います。

このような大規模事業について、日本書紀には記述がありません。そして、それぞれの巨大古墳について天皇陵として位置付けしていますが、建造時期などは矛盾だらけです。

これらのことから推察しますと、現天皇家はアイヌ系であり、支配された側であり、このため、古墳建造については日本書紀には書けないことだったことになります。

以上ことをまとめますと、日本の古代には、水田稲作で豊かになり人口が増え、その結果、新王朝が造られ、巨大古墳が建造されたことが明らかですが、日本書紀には、こうした重要な歴史経過は描かれておりません。

それは、日本書紀を創った現天皇家は、それらを作った王朝を滅ぼしたアイヌ系で、それらを否定した歴史書を創ったためと理解できます。このため、縄文時代や弥生時代や古墳時代の歴史的遺物と無縁な創作物となってしまったと思われます。


拙ブログでは、日本書紀について、紫式部が否定的だったことを紹介したことがありますが、以上のことから想像しますと、平安時代(10世紀)において紫式部にはそれが見えたのだと推察されます。詳しくは「紫式部も日本書紀を信頼していなかった」を参照願います。

次回は、日本書紀は創作ですが、なぜ、それが重視され、日本の正史と思われるようになったのかについて検討します。


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[ 2022/05/19 11:17 ] 天皇家のルーツと日本文化 | TB(-) | CM(2)

現天皇家はアイヌ系、いつ頃分かったのか


現天皇家のルーツはアイヌ系


現天皇家はアイヌ系、いつ頃分かったのか(天皇家のルーツと日本文化)

多数の巨大古墳を3世紀頃から建造したヤマトの王家は朝鮮半島由来のツングース系だったが、それらの巨大古墳建造に怒ったアイヌ系の継体王(在位:507-531年)がその王朝を滅ぼしたことを拙ブログでは検討してきました。

一方、継体王がアイヌ系だったことは、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、最近分かったことです。これまで、ヤマトの王家は朝鮮半島由来の弥生人と観られてきたことから察しますと大発見と思われます。

関連し、拙ブログでは、そのことを「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」として2020年に紹介しました。さらには、そのことが、日本語のルーツはアイヌ語、日本人の宗教観は縄文人(アイヌ系)と同じことと関連していることについても検討してきました。

しかし、最近出版された書籍を見ても、そのことに言及されている書籍は見当たりません。まるで、そのことは、無視されているのか、あるいはタブーのように見受けられます。

関連し、今回は、何故そうなっているのか愚考します。

まず、アイヌ系天皇のことが、いつ分かったのかですが、インターネット検索をしますと、2016年10月5日の「遺伝子ペディア -世界は大きな家族だった-」の「Y染色体D1b1系統」に出ています。

また、それ以前の関連するDNA記事として「日本人の遺伝子は特殊タイプ」(2007年)や「Imperial family descended from Jomon/Ainu of Japan」(2010年)等があります。

以上のことをまとめますと、現天皇家がアイヌ系であることは、2007年頃から分かり始めたが、2016年には多数の情報が集まり、ほぼ確定したと思われます。それから6年近く過ぎましたが、そのことを指摘する著名な研究者や書籍はまだ出てきていません。

例えば、ベストセラーにもなった「日本国紀」(2018年 百田尚樹)があります。しかし、それには、継体王が現天王家のルーツと思われることは指摘されていますが、アイヌ系の天皇だったことについてはまったく言及されていません。詳しくは「「日本国紀」は古代史に影響を与えたか」を参照願います。

また、「日本国紀」についてWikipediaによれば、次のような評価が紹介されています。

・・・ 同書の総合的な特徴として「教科書と大差ない淡白な通史的叙述と面白エピソード・豆知識、そして愛国談義が雑然と並んでいる。百田氏にこれらを統合する知的体力がないからである」と評し、同じ本の中で矛盾した記述をしているのにその点に無頓着なのは「そもそも百田氏が日本通史に全然関心を持っていない」からではないか、その根拠としてフランシスコ・ザビエルとルイス・フロイスを取り違えた記述があるとの指摘に対して百田が「どっちにしても外人や」と発言していることを挙げている[32]・・・ (引用終了)

以上の評価に、「教科書と大差ない淡白な通史的叙述と面白エピソード・豆知識、そして愛国談義が雑然と並んでいる。百田氏にこれらを統合する知的体力がないからである」とあるように、百田氏に期待しても無駄だと言うことでしょうか。

いずれにせよ、百田氏を含め、著名な日本史研究者が、アイヌ系天皇問題に言及していないのはおかしなことです。このことは、次回、さらに検討します。

関連し、アイヌ系天皇ルーツについて、上トップ図に示しました。



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[ 2022/05/05 07:56 ] 天皇家のルーツと日本文化 | TB(-) | CM(4)

日本人の宗教と天皇家の関係愚考


日本宗教の成立経過


日本人の宗教と天皇家の関係愚考(天皇家のルーツと日本文化)

日本人の思考様式は先進国の欧米とは異なること、かつ、歴史的に多大な影響を受けた中国とも異なることについて、拙ブログではカテゴリ「縄文思想と日本人」で33回ほど検討してきました。

一方、その日本人の宗教観のルーツについては、縄文時代の「自然との共生思想」や「原始的多神教」にあることは多くの研究者によって報告されてきました。特に、神社は多種多様な神を祭っている場所であり、多くの日本人が、それらを受け入れていることは知られているところです。

しかし、一方、そうした縄文時代の思考様式が弥生時代という荒波を超えて生き残り、現在も主要な宗教になっていることについて、まだ明快な結論が出ておりません。

例えば、弥生時代というのは、大陸から高度な文明をもった弥生人が来て水田稲作を行い、豊かな瑞穂の国を作り、その流れの中で、縄文人も稲作を行うようになりました。その構造は、弥生人が主であり縄文人は従属した関係にあったと観られてきました。その意味で、なぜ日本人は縄文思想を大事にしてきたのか謎でした。

前置きが長くなりましたが、今回は、この謎について改めて愚考します。

最近、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家のルーツはアイヌ系であることが分かりました。このことは、これらの謎を解くカギと思われます。

日本の古代史は、朝鮮半島由来の弥生人が、弥生時代を作り、古墳時代を作り、現王朝を作り、その中心人物は万世一家の天皇であった、という認識に強く支配されてきました。

しかし、その認識は、天皇家がアイヌ系であることが最近明らかになり、完璧に破壊されました。

弥生人王朝があったのは古墳時代まで、古墳時代末期にアイヌ系継体王(在位:507-531年)がその弥生人王朝を滅ぼしたことを拙ブログで検討してきました。

一方、このアイヌ系王朝は、8世紀(奈良時代)に日本書紀という日本の正史を創作しました。そこには、万世一系の偉大な天皇の姿が描かれ、現天皇家は弥生・古墳時代以前から居たように描かれていますが、それは完璧な創作だったことになります。

そこで、本題の日本人の思考様式に戻りますと、現天皇家=アイヌ系=縄文思想という関係ができあがります。日本人の縄文思想は現天皇家によって育(はぐく)まれてきたと結論されます。

弥生時代、弥生人の圧迫をうけながらアイヌ系はどのようにして縄文思想を守ってきたかですが、次のように考えることができます。

まず、縄文人にはアイヌ系とマレー系Aが主として居たことが知られていますが、おそらく、アイヌ系が中山間で栗を主食に、マレー系Aは海岸の貝など魚類を主食としてきたと思われます。

一方、そこへ、朝鮮半島由来ツングース系と中国南部由来マレー系Bという弥生人が入ってきて水田稲作を始めましたが、彼らが主に活動していたのは水田稲作可能な低地平野部でした。縄文人と弥生人は居住地が異なり平和裏に共存していたと思われます。

なお、マレー系A(縄文人=海洋系)、マレー系B(弥生人=稲作系)については「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

そして、中山間のアイヌ系は縄文時代と変わらぬ部族社会を作り、しだいに鉄器等を受け入れ農耕を行い、農耕社会になじみながらも、縄文時代と同じ宗教を維持していたと思われます。

縄文人と弥生人の対立が激しくなったのは古墳時代後期(5世紀)と思われます。弥生人が増え、縄文人は居住地が圧迫され、さらには古墳建造の労役が強制され、古墳建造王家(弥生人王朝)への怒りが出てきました。

こんななか、アイヌ系継体王が現れ、巨大古墳王家を滅ぼしたと思われます。そして、アイヌ系部族社会で継続していた縄文思想は引き継がれ、アイヌ系朝廷の保護もあり、全国的になっていったと想像されます。

例えば、関東の鹿島神社は縄文時代に起源があると言われますが、それは、関東に縄文人がもともと多かったこと、かつ、そうした地方宗教が平安時代以降に公式になったものと思われます。

まとめますと、日本人の思考様式や神社信仰というのは、アイヌ系の天皇家が権力を持ったときから、全国的になり、公式に認められ、育まれ、発展してきたと結論されます。

関連し、日本人の思考様式の成立について上トップ図に示しました。


なお、日本人の思考様式や宗教にに関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリの中の「縄文思想と日本人」を選択しクリックしますと、これまでの記事を見ることができます。


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[ 2022/04/21 06:11 ] 天皇家のルーツと日本文化 | TB(-) | CM(2)

DNA研究は日本古代史王権のルーツを明らかにした


畿内王家、ツングース系からアイヌ系へ
DNA研究は日本古代史王権のルーツを明らかにした(天皇家のルーツと日本文化)

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は我が国の歴史の闇を明らかにしつつあります。

特に、Y染色体ハプログループ分類ですが、Y染色体は大きなDNAのセットであり、このDNAのセットを使い、人類を細かく正確に分類できるようになりました。また、その染色体は男系から男系に引き継がれる関係から、その男系祖先のY染色体まで分かってしまうものです。

その分類から、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、モンゴル系と中国系の混合混血のツングース系が25%、その他が10%であることが分かりました。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。

そして、我が国古代史関係で最大の発見は、多数の男系子孫の調査から、天皇家のルーツ系はアイヌ系であることが明らかになり、そのルーツは継体王(在位:507-531年)であることが分かったことと思われます。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

この研究結果は否定できない歴史的事実であります。因みに、この事実に合わない従来説に、天皇家のルーツは朝鮮半島(ツングース系説)がありますが、この説は否定されたことになります。また、現天皇家は北九州倭国が東遷し築いた王朝(東遷説)も同じく否定されたことになります。

そして、これらDNA情報から日本の古代は次のようであったと拙ブログでは観ています。

まず、日本の弥生時代を作った主要民族は、朝鮮半島から鉄器を持ち込み、水田稲作を広げたツングース系民族でした。彼らは、縄文人の少なかった近畿地方で発展し、ツングース系王家を奈良に作り、朝鮮半島由来の方墳をもとに仁徳天皇陵など大規模古墳を多数建造しました。しかし、それらの建造はアイヌ系等民衆の抵抗に合い、ツングース系王家は滅ぼされました。そして新たな王権を築いたのはアイヌ系の継体王(在位:507-531年)で、その王権が現在も天皇家として続いていることになります。

この判断(説)なら、最近のDNA研究と矛盾しません。

さらに、DNA研究が明らかにしたことに藤原家のルーツがあります。

藤原家は、もと中臣鎌足であり、中大兄皇子と組んで大豪族の蘇我家を滅ぼし(645年 乙巳の変)、天皇中心の政治(大化の改新)を行なおうとしたことで知られております。

その後、中大兄皇子はその後に天智天皇となり、中臣鎌足は、その天皇の傍女を妻にしました。そして、妻はそのときすでに身ごもっていたため、その子(後の藤原不比等)は天智天皇の子供であろうと見られてきました。

このため、長らく天皇家がルーツだと思われてきた藤原家のルーツでしたが、残されたミイラと子孫のY染色体ハプログループ分類から天皇アイヌ系でなくマレー系Aであることが判明しました。すなわち、中臣鎌足は天皇の傍女と密かに付き合い身ごもらせてから嫁にしたと結論されます。

マレー系には縄文時代から居た海洋系マレー系Aと北九州に水田稲作を持ち込んだマレー系Bという二つの集団がありますが、ここで興味深いことは、藤原家はマレー系Aという縄文時代から居たグループだったことです。

すなわち、藤原家は、アイヌ系と同じ縄文時代からの民族で、乙巳の変で中大兄皇子に協力した豪族であったことから想像しますと、アイヌ系の継体王が巨大なツングース系王家と戦ったとき、同じ縄文系の仲間として協力したことが推察されます。詳しくは「藤原家のルーツはマレー系A愚考」を参照願います。

言い換えますと、天皇家は縄文由来のアイヌ系であり、中臣家は縄文由来のマレー系だったということになり、現天皇家がツングース系王家を滅ぼしたとき、同じ縄文系として天皇家とは協力関係にあったことを想像させます。

なお、関連し、中臣家と同じく当時から有力豪族であった蘇我家や物部家のルーツも解明されると、天皇家と当時の豪族の関係も分かってきます。拙ブログでは、蘇我家は天皇家と同じくマレー系の豪族でツングース系と共同して戦ったグループで、このため継体王のときから関係していたと観ています。

さらに、DNA研究で分かったことに、朝鮮半島の先住民族ツングース系のルーツがあります。20年前になりますが、当時、ツングース系のルーツについては謎が多く、南方由来説や北方由来説があり、不明でした。しかし、DNA研究は、ツングース系は満州(中国東北部)辺りで発生したモンゴル系と中国系の混合混血集団であることを明らかにしました。

ツングース系は、言語はモンゴル系、生業は北方畑作と鹿狩りで、中国系とモンゴル系の特徴がルーツから理解できます。

なお、関連し、畿内におけるツングース系王家の発生滅亡およびアイヌ系王家の発生経過を上トップ図に示しました。


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[ 2021/09/27 10:49 ] 天皇家のルーツと日本文化 | TB(-) | CM(8)

天皇家ルーツの解明と古代史俗説の再検討

5世紀頃の日本 継体王現れる


天皇家ルーツの解明と古代史俗説の再検討(天皇家のルーツと日本文化)

前回、日本建国のリーダー(天皇家)がアイヌ系の継体王であったことを紹介しましたが、このことは古代史の闇に光をあてました。

関連し、今回は、下記3点の俗説の問題を指摘します。

1. 稲作民族の弥生人が弥生時代の主人公となり、その後、日本の支配者になった。

これは間違いです。

事実は、縄文由来のアイヌ系を中心とする日本人が、北九州で始まった水田稲作を受け入れ、弥生時代を発展させ、古代国家を作ったことになります。

なお、稲作を導入した民族はマレー系ですが、彼らは、朝鮮半島のマレー系と同じマレー系Bで、割合は日本人の10%と推察されます。詳しくは前々回の報告を参照願います。

その水田稲作ですが、3000年前頃に北九州だけに広がり、日本全体には700年遅れの2300年前頃普及しました。詳しくは「水田稲作開始は鉄器導入と一致する」を参照願います。
  
2. 稲作民族が弥生時代に渡来してきた結果、先住民族のアイヌ系は北方と南方に追いやられた。

これも間違いです。

事実は、アイヌ系の人びとは、南方由来マレー系や北方由来ツングース系と縄文時代に混合混血し、日本人となり、古代国家の中心民族となり、日本語のルーツもアイヌ語になったと結論されます。詳しくは、前回報告を参照願います。

3. 騎馬民族が来て日本の支配者になった。

これも間違いになります。

騎馬民族と思われるツングース系の人びとは、朝鮮半島から移住してきましたが、アイヌ系民族と混合混血し、日本人になりました。リーダーになった人々は居たと思われますが、日本の支配者とはなっていません。

なお、彼らは、朝鮮半島から鉄器と畑作を導入しました。彼らツングース系の割合は25%になりますが、縄文時代から来ており、実際に弥生時代や古墳時代に来た割合は10%程度と思われます。詳しくは「朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる」 を参照願います。

関連し、アイヌ系の大王「継体王」がリーダーになった状況を上トップ図に示しました。



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[ 2020/03/14 12:39 ] 天皇家のルーツと日本文化 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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