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倭人のルーツと日本人起源2系統論の整理(南方系と日本人)

中国周辺の倭人の分布


「弥生時代には、2系統の民族が日本に移住してきたこと」が、知られております。その2系統とは、小柄な南方系(倭人)と長身の北方系(ツングース系)のことです。

今まで北方系のツングースはモンゴル系と中国系の混血であることを紹介してきましたが、人骨遺跡調査によりますと、彼らは長身の者が多く、小柄な南方系との違いが分かるようです。

関連し、今回は、小柄な南方系(倭人)のルーツについて愚考します。

倭人については、中国の古書に現れる日本人の言い方です。有名な魏志倭人伝にも登場します。倭人とは、小さい人の意味で、日本人の蔑称とも言われております。そして、倭人は、日本(九州)だけでなく、台湾、沖縄などにも住んで居たと中国の古書では記されています。

関連し、私は、マレーシアとフイリピンに居住したことがありますが、その国の人たちには小柄な人たちが多い感じがしました。おそらく、倭人というのは、その人たちを言うのであろうと思います。

関連し拙ブログでは、マレー系(O1b)の人々が、1万年前頃から、その航海術を使い、中国南部から朝鮮半島や日本に移住し、さらには江南地方から稲(陸稲)を日本に導入したと推察しています。

また、台湾の先住民族の多くはフイリピン系(O1a)で、彼らが沖縄まで移住していたことも分かっています。

そこで、まとめますと、倭人の主体は、日本(北九州)と朝鮮半島南部ではマレー系、台湾と沖縄ではフイリピン系であったと判断されます。これらの関係を上の地図(推定)に示しました。

そして、弥生時代に長身の北方系(ツングース系)と小柄な倭人(マレー系)の2系統の民族が日本にきた、という報告は、拙ブログの主張とほぼ一致していると思われます。

なお拙ブログでは、南方系倭人(マレー系)の初期到来は1万年前頃までさかのぼる方が、その後の縄文時代の海洋文化や稲栽培開始時期を説明する上で分りやすいと判断しております。

関連し、最近のウエブ情報では、青松光晴氏が「日本人は、どこからやってきたのか?(21) ~ 「倭人」は東アジアの交易を担っていた!?」 で、「倭人」が周王朝(紀元前1046年頃~紀元前256年)に「暢草」(ちょうそう=ウコン)を朝貢したことと関連し、以下の記事を発表しております。この内容も、拙ブログの主張とほぼ一致していると思われます。

前に、「倭人」について、弥生時代に日本列島にやってきた「渡来系弥生人」と定義しました。「縄文人」と区別するために便宜上、そのように定義したわけですが、もう少し広くとらえて、”「倭人」とは、中国南部から揚子江下流域、台湾、琉球諸島にかけて住んでいた「海洋民族」の総称である。”としてもいいかもしれません。

そしてもしかすると、「倭人」は、当時の日本列島にも九州をはじめとした地域に住んでいたかもしれません。何せ、当時の日本の人々は、海洋民族が多かったわけですから・・・。

となると、”「倭人」の住んでいた領域は、私たちの考えるよりはるかに広大なエリアであった”ということになります。その「倭人」が、中国をはじめとした東アジア圏の海洋交易を担っていた可能性があります。なんとも壮大な話になりますね。(引用終了)



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[ 2017/05/10 20:48 ] 南方系と日本人 | TB(-) | CM(2)

マレー系の人たちは安全な経路でマダガスカルへ(南方系と日本人)

マダガスカルへのマレー系の移住地図

前回、マレー系の人たちが、アウトリガーを使い、東南アジアからマダガスカルに移住したことを紹介しました。今回は、その移住経路について愚考します。

まず、その移動は、命がけの航海でなかったことが最近のマダガスカルやアフリカ大陸東海岸の古代遺跡研究から分かってきました。

その移住経路ですが、その居住跡などの遺跡調査から、マレー半島から、セイロン、アラビア半島南端を経て、アフリカ大陸の東海岸に到着しました。そして、そこに居住していたことが分かりました。

マダガスカルへには、その後、しばらくしてから来たと推察されています。このことは、アフリカが移住目的地であったが、マダガスカルが発見された後はそれが目的地になったと推察されます。

マダガスカルへは、4グループが北側、南側、西側から別々に入ってきたと言われています。しかし、これらのグループは習慣に違いはあるが言葉が同じだったことが分かっていて、その言葉のルーツはボルネオと言われています。

このことは、ボルネオ由来の一つマレー系民族が東アフリカのいくつかの地域に住み着き、そこで地域による生活習慣に違いが出たが、マダガスカルで、また出会うことになった、と予想されます。

いずれにせよ、マレー系民族が船を使い遠くまで移動することに慣れている海洋系の民族であったことを示すものと思われます。
以上、見てきましたように、マレー系の民族は、日本からマダガスカルまで広がりました。これらのことから、古代においては世界最大の海洋系の民族であったと推察されています。

なお、関連し、上の図が、マレー系民族のマダガスカル移住の経過です。初めに第一グループが、雨が多く緑豊かな北東海岸に移住し、その後、熱帯地域にありながらも涼しく住みやすい高地を目指しました。これが主要部族メリナ族の由来と言われております。

一方、その他グループは遅れて移住してきたため、高地に広がることができなかったようです。


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[ 2017/04/28 22:34 ] 南方系と日本人 | TB(-) | CM(0)

マレー系のマダガスカル移住とアウトリガー航海術(南方系と日本人)

マダガスカルの丸顔の親子

前回、マレー系の人たちが、日本だけでなくマダガスカルに移住したことを紹介しました。今回は、このマダガスカルのマレー系の人たちについて、航海術との関連で愚考します。

私は、マダガスカルには2015年から2年間滞在しました。そのマダガスカルは、アジアから渡ってきたマレー系の人たちが作った国と言われますが、日本人に近い顔立ちが多いのには驚きました。

小柄で丸顔、可愛らしい瞳に二重まぶた、日本人にある丸顔のルーツはここだと思ったしだいです(笑)。関連し、上と下の写真は、マレー系の顔立ちをしたマダガスカルの女性です。

そして、アフリカでは珍しい水田稲作の国です。水田作(棚田)はマレー系の人が遠くアジアから持ち込んだと言われますが、その棚田の景観はアジア的な生活空間を感じさせます。

そこで、マレー系民族のマダガスカルへの移動ですが、この移動は、あまりにも離れたところへの移動ですので驚きで見られています。しかし、現在のマダガスカル人の言葉がマレー系の言語であること、多くの人の容貌がマレー系住民に似ていることから、これは事実です。

マダガスカルは混血民族ですが、60%以上がマレー系と言われています。その理由として、マダガスカル全土で、マダガスカル語(マラガシ語)が通じること、容貌がマレー系民族に似ていることが挙げられています。

そして、その移動手段ですが、アウトリガーを使い海洋を移動したのではないかと言われております。アウトリガーというのは、船にもう一そうか二そうの船を繋いで走行するスタイルのことで、こうすると安定し、荒波の多い海洋も移動しやすくなるようです。

日本では、このように船が連結したアウトリガーの遺跡は発見されておりませんが、大小の船が集まった船団があったことが土器の絵から知られております。これらの船が連結して使われたのか、遺跡の発見を期待しているところです。

マダガスカルの丸顔女性銀行事務員


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[ 2017/04/26 22:31 ] 南方系と日本人 | TB(-) | CM(2)

マレー系民族の優れた航海術(南方系と日本人)

マレー系のマダガスカル移住経路

マレー系の人々が1万年前頃、中国南部から日本にやってきたことを、Y染色体ハプログループの情報をもとに、前回紹介しました。はるか中国南部から日本へやってきたことは、彼らは優れた航海術をもっていたことが伺われます。今回は、このマレー系の優れた航海術について愚考します。

まず、この例として、マレー系の人たちが、遠く離れたマダガスカルに移住したことがあげられます。この関係を上の地図に示しました。この移住は、その移住の動機がはっきりしませんが本当です。詳しくは次回に紹介します。

一方、日本の場合ですが、例えば、5000年前の山内丸山遺跡で、中国産の円筒土器が見つかったことから、中国遼東半島と交易していたことが分かっています。三内丸山(青森県)から中国遼東半島への移動は、距離があり、簡単ではありません。

そこで、この大航海ができたのは、マレー系民族の航海術の役割が大きかったと拙ブログでは考えています。すなわち、そのマレー系の民族は、1万年前ごろ日本に来てアイヌ系から縄文文化を吸収し縄文人となり、その航海術を使い、中国まで行って交易していたと推察されます。

関連し、下に山内丸山縄文遺跡と海洋交易の関係を示しました。北海道網走とは黒曜石、中国遼東半島とは円筒式土器で関係していたことが出土品から分かっています。また、北陸とは勾玉宝石(翡翠)で結ばれていました。

海洋交易山内丸山遺跡と


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[ 2017/04/25 08:37 ] 南方系と日本人 | TB(-) | CM(0)

マレー系の人達は1万年前から日本へ(南方系と日本人)

マレー系の日本移住1万年前

前回、マレー系の人達が朝鮮半島や北九州に新天地を求めたことを紹介しました。今回は、いつ頃来たのかについて愚考します。

古代遺跡研究によりますと、まず、5900年前の「埼玉県浦和市の縄文遺跡から発掘された人骨のミトコンドリアDNA」は現在のマレー系の人と同じDNAということです。ということは約6000年前にはマレー系の人々が関東地方に住んでいたことになります。

一方、島根県飯石郡飯南町志津見の板屋Ⅲ遺跡の1万年前の地層からイネのプラント・オパールの発見があったことが報告(詳しくは下記資料参照)されています。

拙ブログでは、稲作はマレー系の人達によって導入されたと推察しておりますが、1万年前から稲が作られていたということは、マレー系の人達が、その頃住んで居たことになります。

さらに研究が進みますと、年代がさらに古くなる可能性がありますが、とりあえず、以上の資料からマレー系が日本に来たのは氷河期が終わった1万年前頃からとしておきます。また、マレー系と稲作の関係については後ほど愚考していきます。

なお、関連し、上に、遺跡の場所を示しました。板屋III遺跡が日本海側にあることは、マレー系の人達が、先に、朝鮮半島、そして、その近くの北九州や日本海側に移住してきたことを示唆します。

(資料)
板屋III遺跡に1万年前のイネのプラントオパール

「板屋III遺跡の調査報告書」のpdf第3ファイルに、「第2節 板屋Ⅲ遺跡におけるプラントオパール 分析による栽培植物の検出結果とその考察」(高橋護報告)があり、およそ1万年前の14C年代の地層(第4黒色土層)からイネのプラントオパールが検出されたことが報告されていました。

その部分を引用しますと次のとおりです。

写真図版Ⅵの1~24は イネの機動細胞プラントオパールであ り、25,26は モミガラの表皮細胞で ある。この時代にイネが日本に存在していたとは想定していなかったが、第4黒色土層の下層の黒 色土層の部分から検出された。上層の栗色層からはまだ発見されていない。第3黒色土層の下層か らはイネが検出されていないので、さらに火山灰層を隔てた第4黒色土層下層から検出されるイネ が、上部からの落ち込みと考えることはできない。
これ らのイネが栽培種のO.sativaで あることは、伴出したモミガラの組織が、結節状の高まりの 上に二つの乳頭状突起を持つこと、現代の栽培されたアジアイネの組織と一致することなどから明 らかである。25は 乳頭状突起の基部が大きく発達する形態で、縄文時代以来広く各時代のイネに見 られる形態であり、現在の日本のイネの中でカラスモチなど長い亡を持つイネの幾つかでは基本的 な組織の形態として現れるものである。26の 組織は、現在一般に栽培されている日本のイネには現 れないものであるが、アジアイネの中にはしばしば出現する形態であり、縄文時代から弥生時代、 平安時代などの資料の中には似た形態のモミガラが広く出現する。(引用終了)


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[ 2017/04/23 08:02 ] 南方系と日本人 | TB(-) | CM(2)
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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