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聖徳太子の遣隋使派遣と国書の未熟さ愚考(日本語のルーツ)

聖徳太子の遣隋使派遣と国書


聖徳太子の遣隋使派遣と国書の未熟さ愚考(日本語のルーツ)

比恵遺跡群(奴国)で古墳時代(3世紀後半)の石製すずりの一部が発見された」という記事では、そこは奴国(福岡市博多区)のあった場所で、3世紀の邪馬台国時代に文字が使われていたと指摘しております。その文字を使った理由の一つとして、中国に朝貢するときの上表文(国書)を作ったことが考えられます。

一方、「百済の部寧王が日本の継体王に五経博士を派遣し文書作成を可能にしたこと」を前回紹介しました。それは6世紀の前半のことですが、その後、畿内政権でも文字を使い、外交文書など記録を残すようになったと拙ブログでは推察しております。

関連し、今回は、聖徳太子の時代、文書の作成は始まったばかりで、未熟であったことについて愚考します。

聖徳太子は、603年、冠位十二階を、604年、十七条憲法を制定した、と言われます。これは漢文で書かれておりますが、日本で初めて書かれた政府の公的文書と思われます。

さらに、聖徳太子の時代、第1回遣隋使が600年に派遣されましたが、随書倭国伝によれば、国書(上表文)は持っていなかったとあります。このため、日本側の遣隋使は気まずい思いをしたことが指摘されております。

そこで、第2回遣隋使(607年)では国書を持たせましたが、「日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々」を隋の皇帝に届け、激怒をかった話は有名です。

一方、倭国の倭王武が宋に478年に遣使して上表文を奉り、高句麗に侵略されている百済の現状を憂い、百済への支援を上表文で求めたことが明らかになっております。

以上の倭国の倭王武の上表文(478年)と聖徳太子の遣隋使(600年、607年)の国書の内容を比較しますと、倭国では文字の使用や国書の作成がきちんと行われていたが、日本では文字の使用は始まったばかりで外交文書作成は未熟であったことが伺えます。

これらの事情から推察しますと、継体王の時代に、百済の武寧王の支援を得て五経博士を受け入れ、文書作成が可能になり、その後、それは、聖徳太子の遣隋使や政治刷新に生かされていった、と思われます。しかし、当時、文字を理解できる者は少なく、その意味で、日本の畿内政権は聖徳太子の時代にあっても、文書作成については北九州の倭国に追い付いていなかったレベルと判断されます。

関連し、上の地図は、7世紀初頭の聖徳太子の遣隋使派遣の様子です。


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[ 2018/04/08 08:18 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(2)

五経博士受け入れによる文書作成と継体王(日本語のルーツ)

百済の武寧王の五経博士派遣


五経博士受け入れによる文書作成と継体王(日本語のルーツ)

百済は、武寧王(在位:502年~523年)の時代、大国の高句麗を破り軍事的に強国となり、海外の国とも交流し、海洋大国とも言われるようになったことを紹介してきました。一方、日本との関連では、当時の継体王(天皇在位:507年~531年)を男弟王と呼び義兄弟関係にあったことを紹介してきました。

今回は、百済の武寧王が五経博士を継体王のもとに513年から日本に送り、日本の近代化に協力したこと、そして漢字(万葉仮名)導入もこの時期であったことについて愚考します。

武寧王は当時6世紀初頭の中国の南朝(梁)に朝貢し、大王の称号を得ますが、同時に積極的に仏教文化を取り入れています。また、継体王の時代、日本に五経博士を派遣しています。武寧王の子の聖王が日本に仏教を伝えたともいわれますが、ベースを作ったのは武寧王に間違いありません。

そして、万葉仮名伝来ですが、これは仏教と一緒に538年に伝わったと言われますが、それ以前の五経博士時代の513年の可能性もあります。五経博士とは易経、詩経、書経、春秋、礼記に精通した百済の儒学者ですので、当然のことながら漢字を自由に扱うことができます。

百済の武寧王は、北九州の倭国王であったときは倭王武と呼ばれていたことを紹介したことがありますが、そのとき継体王と出会い、畿内の大王は文字を持たないことを知ったのだと思います。そして、百済で部寧王となったとき、継体王の下に五経博士を送り、文書作成ができるように協力したのだと思われます。

その結果、継体王は、五経博士の助けを借りて史部という文書作りの部署を作ることができるようになったと思われます。すなわち、文書の始まりも歴代天皇では継体王からとなります。

なお、継体王と倭国のいくつかの関係から、継体王は倭国の出身という説がありますが、まだ証拠は十分ではない感じがします。

まとめますと、継体王は、百済の武寧王の支援を得て五経博士を受け入れ、漢字(万葉仮名)を導入し、文書作成が可能になったと思われます。その後、その文書作成は、遣隋使国書、さらには、聖徳太子の17か条の憲法など政治刷新に生かされていった、と思われます。その意味で、継体王は日本の基礎を作った王と思われます。

なお、上の地図は五経博士派遣の流れです。

また、関連し、奴国(福岡市博多区)のあった「比恵遺跡群(奴国)で古墳時代(3世紀後半)の石製すずりの一部が発見された」という記事がありましたので引用しておきます。
 
遺跡群は古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の中心部にあり、邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見だという。[西日本新聞・グノシー・毎日新聞](引用終了)

すなわち、倭国(北九州)では3世紀の邪馬壱国(邪馬台国)時代から文書が作られ、中国に朝貢していたことが伺えます。一方、畿内では、表記の五経博士時代(513年)時代から文字が使われ始めたと思われます。


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[ 2018/03/31 07:30 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(6)

万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字(日本語のルーツ)

呉と百済と倭国3世紀


万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字(日本語のルーツ)

拙ブログでは、マレー語の発音は日本語の発音とほぼ一致し、かつ、日本語の発音のルーツは万葉仮名にあることを指摘してきました。そして、日本語は、先住民族のアイヌ系言語をベースに、後に来たマレー系民族の発音様式が万葉仮名を利用する過程で取り入れられた、と推察しております。

すなわち、万葉仮名=日本語発音=マレー語発音になりますが、今回は、その万葉仮名(漢字)のルーツは、百済で使用された漢字にあることについて愚考します。

まず、万葉仮名は最初の日本文字ですが、仏教経典などと一緒に百済から6世紀頃導入されたと言われております。

百済は3世紀頃から中国に朝貢していたことが分かっています。このとき、中国は漢が滅びた後の魏・蜀・呉3国時代ですが、百済は、そのルーツからも地理的関係からも南方の呉の国と関係が深かったことが推察されます。

これらのことから想像しますと、3世紀頃、百済は中国の呉の国に朝貢する過程で漢字を導入し、それを万葉仮名風に地名や人名に使っていたと思われます。このような漢字の使い方は、中国が外国の地名や人名に使ってきた方法でもあります。

関連し、『三国史記』によれば百済近肖古王の治世(在位:346年 ~ 375年)に百済学者の高興が百済に文字を伝え、百済で初めて記録が残されるようになった、と言われております。

さらに、百済部寧王(在位:502年~523年)は、仏教に帰依し、512年と521年には中国南朝の梁に入朝して、仏教の導入を熱心に進めたことが知られております。そして、武寧王のあとを継いだ聖王(在位:523~554)も仏教に熱心で、百済は仏教建築文化の先進国となり、新羅や日本の建築文化にも大きな影響を与えたことが知られております。

漢字には南方系の呉音読みと北方系の漢音読みがありますが、以上の関係から、百済の万葉仮名は南方系の呉音読みとなります。そして、拙ブログでは、その百済の地名や王名の万葉仮名の読み方は百済人のルーツのマレー系民族の言葉であることを検討してきました。

さらに、拙ブログでは、中国の江南地域の「中国の福建省の数え方」は、イー、ジー、サン、シー、ゴ、ラ、チーであり、日本語にとても近いこと、これらの言葉のルーツは中国江南地方で使われてきた呉の国の発音(呉音)にあることも紹介してきましたが、この数え方のルーツも百済にあったと推察されます。

関連し、これらの関係を上と下の地図に示しました。

梁と百済と日本と仏教

まとめますと、百済人はルーツがマレー民族でありますので、伽耶(カヤ=マレー語で豊かという意味)などのマレー語の地名等を万葉仮名風に漢字で表したと思われます。そして、それら百済の万葉仮名が仏教と共に日本に導入されたとき、日本でも同様に使うようになったのだと思われます。すなわち、万葉仮名のルーツは百済の万葉仮名にあったと結論されます。

そして、万葉仮名を長い間使っているうちに日本語の発音は万葉仮名風になり、結果として発音はマレー語風、漢字は呉音読みになったと推察されます。

以上、万葉仮名のルーツ愚考でした。

なお、このような日本語のルーツに関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリーの「日本語のルーツ」をクリックしますと今までの記事を見ることができます。


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[ 2018/02/23 08:43 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(0)

百済王の名前はマレー語で読める(日本語のルーツ)

百済王名と万葉仮名読みとマレー語の関係


百済王の名前はマレー語で読める(日本語のルーツ)

拙ブログでは、万葉仮名=日本語の読み=マレー語読みについて検討してきました。

今回は、マレー系民族の国と思われる百済の王の名前は万葉仮名で読めるのか検討します。

まず王命リストは「百済の歴代王年表」によります。そして、その王名のリストに万葉仮名読み(推定)とマレー語、その意味(English)を加えた表を作りました。その表は上のとおりです。

この表には31代の王命がありましたが、百済の初期の支配者がツングース系扶余族と言われているためか理解困難でしたので初代~14代は検討から外しました。さらに中国系と思われる名前、例えば武王など1文字の名前がありますが、これも検討から外しました。

この表から、百済王の15代以降の名前を万葉仮名で読むと対応するマレー語があることが分かります。さらに、その名前は王名にふさわしい名前であること、例えば、アカ王(国家の基本を作った王)、テシ王(前進続ける王)、クニシ王(武力の強い王)などがあります。これらを別に下表にまとめました。

百済の歴史を観ますと、3世紀頃の建国以来、隣国の高句麗、新羅、唐の圧迫を受け、戦争ばかりしている印象を受けます。その意味で、王は強いリーダーシップが求められ、強そうな名前の王が多くあるのではないかと思われます。

まとめますと、歴代の百済王の名前を万葉仮名で読むと、王名に相応しいマレー語になっています。前回(4日前)の報告とあわせますと、百済にはマレー語に因んだ地名と王名があり、かつ稲作民族の国であり、この意味で、百済王国は倭国と同じくマレー系民族によって作られた国である可能性があると思われます。

百済王のマレー語の意味


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[ 2018/01/30 07:58 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(0)

百済王国地名はマレー語由来(日本語のルーツ)

百済関係地名入り地図


百済王国地名はマレー語由来(日本語のルーツ)

百済(くだら)王国は朝鮮半島南西部に3世紀頃から現れた国家です。その頃、日本では北九州に邪馬壱国(邪馬台国)があった時期ですが、百済と邪馬台国は、近接しており、かつ稲作民族国家であったことからたいへん似た要素をもっています。

日本人のルーツについては、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系とモンゴル系混血のツングース系が30%、その他5%です。マレー系民族は稲作民族であることを紹介してきましたが、拙ブログでは、日本稲作についても、そのマレー系民族が深く関わってきたことを紹介してきました。

一方、百済のあった朝鮮半島ですが、マレー系が日本と同程度の30%もいます。そして、百済王国後期の中心地域であった忠清南道扶余郡に約2500年前の松菊里弥生遺跡がありますが、この遺跡は北九州にある日本最古の弥生遺跡の菜畑遺跡や板付遺跡と同時代のものと評価されています。これらのことから、百済と邪馬台国(倭国)は、マレー系民族によって稲作が始まり、ほぼ同時代に同民族によって作られた国家と推察されます。

また、マレー語の発音が日本語と似ていると言われます。そこで考えますと、マレー語発音=漢字(万葉仮名)=日本語発音、の可能性がありますが、万葉仮名が、同じマレー系民族の国と思われる百済と倭国で使われていたことが分かれば、この謎は解けます。

そこで、今回は、百済の首都などの古代漢字地名を万葉仮名で読み、それがマレー語なのか愚考します。なお、百済の地名については、「百済の歴史」を参考にしました。

松菊里弥生遺跡を含め、調べた地名と場所を上の地図に示しました。そして、その地名と万葉仮名読みとマレー語の意味は下表のとおりです。

百済関係地名とマレー語の関係

まず百済の首都地名ですが、万葉仮名風に読めば、それに対応するマレー語があります。特に最後の首都となる泗沘城はサヒ城と読み、マレー語sahihの意味はauthentic(本物)であります。泗沘城は高句麗から追われて作った山城ですので、まさにサヒ城は本物の守りの城でマレー語のサヒ(authentic)であったと理解できます。

また、朝鮮半島南端にあった伽耶国ですが、カヤと読み、マレー語kayaの意味はrich(豊)でありです。魏志倭人伝で有名な「魏志」によれば伽耶は鉄を産出し農作物も豊かであることが紹介されています。まさに伽耶はマレー語のkaya(rich)であったと理解できます。

さらに、拙ブログでは、「魏志倭人伝に出てくる日本の地名はマレー系言語」であったこと紹介しましたが、百済の地名でも同じであったことが考えられます。

さらには、百済はクダラと万葉仮名で読めないことが知られておりますが、「クダラ(kudara)はマレー語でbrotherであること」、関連し、倭国の人達は同じマレー系の民族として百済を兄弟(クダラ=brother)と呼んでいたことから、そのような読みになったことを拙ブログで紹介してきました。

まとめますと、百済の国家は、初期は満州に居た扶余族が支配者となって形成されたと言われておりますが、周辺状況や残された地名から、ベースとなった民族はマレー系の人々であった可能性がさらに深まりました。


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[ 2018/01/26 08:18 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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