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日本稲作ルーツのまとめ (稲作と日本人)

稲の日本への道

日本稲のルーツと稲作のルーツについて、いろいろと愚考してきました。今回は、まとめをします。

まず、今までの拙ブログ報告を下の表のようにまとめてみました。また、日本への稲の道を上の地図に示しました。この表と地図の概要を説明しますと、次のとおりです。

日本稲作の由来と歴史

まず、稲の栽培種にはアジアのサテバ種とアフリカのグラベリマ種がありますが、日本稲の元になる日本型稲サテバは、氷河期にスンダランド(現在のインドネシア)というところに野生しておりました。そして、そこに住んでいたマレー系の人々がその稲籾を集め食料にしていました。

それは、ブル種と言われる種類で、籾は実ると自然と地上にこぼれ翌年の種子になりました。そして、雨期になると発芽し、乾期がくると実りました。雑草に負けない高さがあり、このため、雨が降ると毎年発芽し、自生することができました。

マレー系の人たちが、それを食料として利用し始めたのは、氷河期が一時的に終わる2万年前頃でした。

氷河期が本格的に終わる1.2万年前頃になると、スンダランドの大半は海に沈み、稲のあった低湿地も海の中に沈み、コメの収穫が少なくなりました。そこで、マレー系の人々は、その籾を使い、栽培を始めました。これが世界の稲作の始まりと思われます。

そして、さらに、マレー系の人たちは新たな居住地を求め、近くの中国南部に移住し稲作を広めました。その結果、山間地の照葉樹林文化地帯では陸稲、揚子江低地の江南地方では水稲として栽培されるようになりました。

とくに、揚子江流域の稲作は規模も大きく、収量も多く、世界初の稲作文化が開花し、これが世界稲作の始まりと評価されるようになりました。

一方、中国山東省当たりに広がった稲は、日本でも栽培できる早生品種でした。そこで、同じくマレー系の人々が、その種子を日本へ導入し、陸稲栽培が1万年前頃から始まりました。

そして、日本では、朝鮮半島からの鉄器導入で水路、畦、均平が可能になり、水田稲作(弥生時代)が始まりました。さらに、稲作の基本技術となる代掻きと田植えが平安時代後期から始まり安定収量を得るための稲作技術が確立し、その技術は中山間地では江戸時代に棚田開発を促進しました。

以上、簡単ですが、日本稲のルーツと稲作の発展経過は、最新の情報をまとめますと以上のような感じかと思われます。なお、このような日本への稲作導入に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリーの「稲作と日本人」をクリックしますと今までの記事を見ることができます。

なお、下の写真は、マダガスカル低地のブエニイ(Boeny)の稲作地帯の様子です。日本稲の故郷スンダランド低地は、このような環境が広がっていたのではないかと思っています(笑)。

マダガスカル稲作地帯とブエニイ


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[ 2017/08/04 07:12 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(0)

田植えの始まりは平安時代後期か(稲作と日本人)

田植え風景マダガスカル

田植えをすると確実に一定収量を得ることができます。その意味で田植えの始まりは稲作定着の技術でもあります。前回(2日前)、弥生時代に田植えは無かったことを推察しました。今回は、田植えが始まった時期について、多方面から考察します。

まず、日本で何時頃から田植えが始まったかですが、早くても平安時代後期10世紀頃、そして、全国に普及したのは鎌倉時代初期の13世紀頃(800年前)でないかと思われます。

10世紀頃というのは武士や貴族が新荘園をもとめて競って水田を開発した時代でありますが、このときの記録によれば、灌漑施設(水路)と畦を作ったが、干ばつ害が多かったことが記録されています。

このことから推察しますと、水田を開発したが、漏水が多く、水田が乾きやすかったことが考えられます。そこで、漏水の少ない水管理技術が求められ、代掻きが始まったと思われます。代掻きをすれば田植えができますので、これからが田植え時代と思われます。

代掻きは、前回(2日前)報告のように大変な労力が要りますが、この頃から牛耕が取り入れられた、とあります。牛が居れば代掻きは可能ですので、これも田植えを可能にする技術と思われます。

因みに、西アフリカ低地の例ですが、雨が多く、東南アジアと同じように水田稲作に適した土地が多くあります。しかし、ツエツエバエが居て、それが媒介する眠り病(ウイルス病)があるため牛や馬が住めません。このため、西アフリカでは今でも農耕用牛馬は少なく、その結果、代掻きは困難で田植えはほとんど行われておりません。

一方、田植えを示す歴史的遺物に田植え歌や田植え踊りがあります。これらの歴史を調べますと、ほとんどが江戸時代に始まったものばかりです。ということは、田植えの始まりは、弥生時代というような古い時代のことでなく、最近のことと思われます。

同様に、以前にも指摘しましたが、棚田は、それを保存するため漏水があってはなりませんので、その対策として代掻きと畦塗りが必要となります。その意味で、棚田は田植えの始まりを間接的に示す歴史上の遺物と思われます。そして、これらは、ほとんどが江戸時代以降に作られたことが分かっています。

この田植え始まりの時代を見ますと、遅れていたと言われる東北においては黄金の奥州藤原政権が栄えた時期でもあります。また、日本全体でみると支配者が公家貴族から武士に換わっていくという新しい時代でもあります。すなわち、基幹産業の稲作が田植えという新しい技術導入で生産性が高まり、社会も新しい時代に変わって行ったことを思わせます。

なお、上と下の写真は、アフリカにいるときに映した田植え風景です。上の写真はマダガスカルのものでベテランの人たちの田植えです。一方、下の写真はベナン国の研究所で若い人たちが研修中の様子で、田植えは初めての人たちばかりで、様になっていません(笑)。

田植え風景ベナン青年


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[ 2017/08/02 06:59 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(0)

弥生時代稲作に田植えは無かった(稲作と日本人)

天水田直播点播き2

稲作というのは、水の中で作物を育てるわけですので水を貯める技術が必要になります。この水を貯める技術は代掻きによる漏水防止が中心となります。さらには、畦際からの漏水を防ぐために畦塗が重要です。その代掻きの結果、土がドロドロになると田植えができるようになります。

そして、この代掻きと田植え技術を使えば、水の漏水が少なくなり、欠株が無くなり、どこでも安定した収量を得ることができるようになります。この意味で、稲作は田植えによって安定したと言われます。

今回は、稲作技術で最も重要と思われる田植えと関連し、弥生時代に田植えは無かったことについて愚考します。

田植えの始まりについては、点状になっている稲の株跡遺跡の様子から、田植えは弥生時代からあったという報告があります。

しかし、そうした株跡の状況を詳細に見ますと、畑地のような乾田であったことが分かってきました。すなわち、漏水が多く畑地のようになっていたわけですが、これは代掻きをしていなかったためと思われます。代掻きなしに田植えはできませんから、弥生時代に田植えはなかったと推察されます。

代掻きというのは、耕起、水入れ、代掻き、均平、という作業で、極めて労力がかかり、簡単ではありません。当時の水田跡からは、これは見えてきません。

それでは、なぜ移植跡のような株跡があるのかですが、当時の稲作は、掘り棒を使った点播(乾田直播)だったためと思われます。この方式は、アフリカやアジアの焼畑栽培で現在でも最も普通の方法で、当時も、そのような方法で播種していたと思われます。

その理由として、日本では1万年前頃から稲が畑作で作られており、そのような掘り棒を使った種まきに慣れており、3000年前頃から始まった水田稲作(乾田直播)にも使われていたと考えられます。

なお、上と下の写真は、アフリカにおける天水田における点播き栽培(乾田直播)の様子で、移植栽培のようにも見えますが掘り棒を使った直播です。

天水田直播点播き1


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[ 2017/07/31 07:51 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(2)

古代の棚田は廃墟となった(稲作と日本人)

マダガスカルの棚田1

棚田は古代に作られたイメージが日本人にはありますが、ほとんどは江戸時代以降に作られたものばかりです。関連し、今回は、古代の棚田は廃墟になったことについて愚考します。

これまで、水田は、森からくる栄養豊富な水を貯めて使うので地力維持に優れていることを指摘してきました。

そして、雨期になると森から水が流れてきて自然と土壌が豊かになる天水田(天水畑)が今でもアフリカで利用されていることをヒントに、鉄器が無かった縄文時代、天然の天水畑のようなところで日本では畑作が行われていた可能性を指摘しました。

稲が作られていた畑地(遺跡)の多くは中山間地にあったことが分かっておりますが、この自然の棚田のような天水畑(天水田)を例に、鉄器導入後に人力で開発した棚田もあったと思われます。

その理由として、弥生時代初期の住居跡は、高台から低地にゆっくりと移動していったことが分かっていますが、これは、水田が高台から低地に移動していったためと推察されています。

高台や斜面にある山間の水田(棚田)は、漏水が起きやすい問題があり、水管理は簡単でありません。そこで、こうした問題解決のために、代掻きと畦塗りが必要になります。しかし、そうした技術の無かった時代、中山間の棚田は、その欠陥が分かり、利用されなくなり、水田の中心は漏水の少ない平野部や盆地の底辺に移っていったと推察されます。

以上のことから、弥生時代初期に中山間に作られた棚田式水田は廃墟となっていったと推察されます。

日本に残っている棚田の多くは江戸時代に作られたものです。これは、平野部での水田開発が終わり、残されたところとして棚田が作られたものと推察されております。この棚田作りは、鍬(くわ)があればできるもので、勤勉な日本人の農閑期(冬)の仕事の結果とも思われています。

この時代の棚田では、漏水や土壌崩壊対策として代掻きと畦塗りがしっかりと行われるようになっていて、田植えが行われていたと推察されます。

関連し、上と下の写真は、マダガスカルの棚田です。崩壊している場所も少し見受けられますが、日本と同じように、代掻きと畦塗はしっかりと行われていて、棚田は管理されています。

マダガスカルの棚田2


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[ 2017/07/29 09:09 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(0)

縄文時代に焼畑はほとんど無かったと思われる(稲作と日本人)

焼畑用のナタ(Cutlass)

日本では、縄文時代に畑作があり、そこに稲が作られていたことが分かっていますが、その畑作は焼畑方式で行われていたのではないかと推察されております。今回は、この焼き畑の問題点について地力維持との関連で考察し、古代に焼き畑のできる場所は極めて限られていたことについて紹介します。

畑の問題は地力維持が困難ということです。一度作物を作ると、作物に栄養分が奪われ、土地は痩せて行きます。そこで、その問題を解決する手段として昔から行われているのが焼き畑です。

藪(やぶ)を焼くと、肥料となる灰が残ります。また、表面の土は、長い年月の間に枯れ葉が積もり柔らかで有機質豊かな土になっています。また、焼くことにより、雑草が無くなり、作物が作りやすくなります。これらのため、アフリカなど発展途上国では焼き畑が今でも主流の畑作農法となっています。

しかし、この焼き畑にも地力問題があり、15年に1回程度行うのが生態系を壊さない持続的方法となっています。

また、焼き畑は自給を目標に小面積(5~30アール)で行うのが普通です。大面積は山火事の危険があります。そして、小灌木を片手で切り払う器具(理想はナタのような鉄器)が必要になります。さらには、当然のことですが、太い木の多い森では行うことができません。

そこで、日本の縄文時代の焼き畑ですが、その時代は鉄器が無かったこと、森は大木が茂っていたことから、焼き畑のできる場所は極めて限られていたと推察されます。

なお、縄文時代の竪穴住宅では多量の材木が使われており、これらは石器で切り取られていたことが分かっています。しかし、焼畑のための片手で使えるような藪を刈り払う石器の存在については知られておりません。

なお、関連し、上の写真は、アフリカで焼畑のために使われるナタ(Cutlass)です。また、下の写真はアフリカで見た焼畑の様子です。けっこう周辺も燃やされています。

焼畑の様子


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[ 2017/07/27 08:37 ] 稲作と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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