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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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倭人のルーツと日本人起源2系統論の整理(南方系と日本人)

中国周辺の倭人の分布


「弥生時代には、2系統の民族が日本に移住してきたこと」が、知られております。その2系統とは、小柄な南方系(倭人)と長身の北方系(ツングース系)のことです。

今まで北方系のツングースはモンゴル系と中国系の混血であることを紹介してきましたが、人骨遺跡調査によりますと、彼らは長身の者が多く、小柄な南方系との違いが分かるようです。

関連し、今回は、小柄な南方系(倭人)のルーツについて愚考します。

倭人については、中国の古書に現れる日本人の言い方です。有名な魏志倭人伝にも登場します。倭人とは、小さい人の意味で、日本人の蔑称とも言われております。そして、倭人は、日本(九州)だけでなく、台湾、沖縄などにも住んで居たと中国の古書では記されています。

関連し、私は、マレーシアとフイリピンに居住したことがありますが、その国の人たちには小柄な人たちが多い感じがしました。おそらく、倭人というのは、その人たちを言うのであろうと思います。

関連し拙ブログでは、マレー系(O1b)の人々が、1万年前頃から、その航海術を使い、中国南部から朝鮮半島や日本に移住し、さらには江南地方から稲(陸稲)を日本に導入したと推察しています。

また、台湾の先住民族の多くはフイリピン系(O1a)で、彼らが沖縄まで移住していたことも分かっています。

そこで、まとめますと、倭人の主体は、日本(北九州)と朝鮮半島南部ではマレー系、台湾と沖縄ではフイリピン系であったと判断されます。これらの関係を上の地図(推定)に示しました。

そして、弥生時代に長身の北方系(ツングース系)と小柄な倭人(マレー系)の2系統の民族が日本にきた、という報告は、拙ブログの主張とほぼ一致していると思われます。

なお拙ブログでは、南方系倭人(マレー系)の初期到来は1万年前頃までさかのぼる方が、その後の縄文時代の海洋文化や稲栽培開始時期を説明する上で分りやすいと判断しております。

関連し、最近のウエブ情報では、青松光晴氏が「日本人は、どこからやってきたのか?(21) ~ 「倭人」は東アジアの交易を担っていた!?」 で、「倭人」が周王朝(紀元前1046年頃~紀元前256年)に「暢草」(ちょうそう=ウコン)を朝貢したことと関連し、以下の記事を発表しております。この内容も、拙ブログの主張とほぼ一致していると思われます。

前に、「倭人」について、弥生時代に日本列島にやってきた「渡来系弥生人」と定義しました。「縄文人」と区別するために便宜上、そのように定義したわけですが、もう少し広くとらえて、”「倭人」とは、中国南部から揚子江下流域、台湾、琉球諸島にかけて住んでいた「海洋民族」の総称である。”としてもいいかもしれません。

そしてもしかすると、「倭人」は、当時の日本列島にも九州をはじめとした地域に住んでいたかもしれません。何せ、当時の日本の人々は、海洋民族が多かったわけですから・・・。

となると、”「倭人」の住んでいた領域は、私たちの考えるよりはるかに広大なエリアであった”ということになります。その「倭人」が、中国をはじめとした東アジア圏の海洋交易を担っていた可能性があります。なんとも壮大な話になりますね。(引用終了)



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[ 2017/05/10 20:48 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

縄文時代の寒冷化と北方系民族の南下(北方系と日本人)

4000年前のツングース系民族の大移動

前回まで、モンゴル系と中国系の混血によるツングース系民族が発生したこと、そのツングース系民族にマレー系の人たちが混血し韓国人が形成されたことを紹介しました。

今回は、そのツングース系(主として韓国人)が日本に移住し、中国系とモンゴル系のDNAが日本民族への移入されたことについて愚考します。

最大の事件は、4000年前に起こった寒冷化でないかと思われます。それは3000年前頃まで続いたようで、温かかった縄文時代ですが、突然として寒冷化が起き、食料不足となり、栄えていた縄文時代は衰退したと言われております。

例えば、5000年前の山内丸山遺跡ですが、4000年前ごろにその寒冷化のために食料不足となり、遺跡は放棄されたと言われております。

また、中国では、江南の稲作地帯に北方系民族が移入し、その稲作文明(長江文明)は衰退したことが知られております。

こうした状況から推察しますと、当然のことですが、朝鮮半島にも寒冷化が起きたことが推察されます。そして、そこに居たツングース系の人々が食料を求めて日本に移動してきたことが予想されます。

なお、その頃、「日本民族の誕生」(安本美典 2013)によれば、九州南部の島(鬼界カルデラ)の爆発により、九州全域が火山灰に覆われ、自然は破壊され、九州地域の縄文時代の人口は1万人以下(日本全国の4%)で停滞していた、とあります。

これらの様子を上の地図に示しました。

以上のことから、日本における中国系とモンゴル系のDNAは、寒冷期の4000年前頃からに中国系とモンゴル系の混合集団(北方系=ツングース系)が日本に来たことに由来すると推察されます。

一方、マレー系についてまとめますと、1万年前ごろ北九州に直接来たグループと、韓国人となって朝鮮半島から来たグループとの2種類あることになります。

そして、ツングースの人たちの日本における人口の割合ですが、最終的には、日本の人口の半分程度になったと拙ブログでは推察しております。その理由については後ほど紹介します。


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[ 2017/05/08 20:24 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

韓国人の由来とツングース(北方系と日本人)

朝鮮半島の様子(1万~5000年前)

前回、北方系と呼ばれるツングース系の民族が4000年前頃から日本にきたこと、そして、その民族はモンゴル系と中国系の混合から発生したことを紹介しました。今回は、日本の隣に居る韓国人はツングース系であることについて愚考します。

まず、ツングース系民族は、満州で人口が増えると、人口の少ない朝鮮半島に移動して来たと推察されます。

一方、先に紹介しましたように、朝鮮半島とくに南部の海岸にはマレー系民族が住んでいたと推察されます。そこに、北方ツングース系の民族が入り込んできたわけですが、ツングース系は、畑作系民族の特徴から、海岸から離れた陸地にマレー系と争うことなく居住できたと推察されます。

そして、彼らは、共存し、混血し、これが現在の韓国人のルーツと思われます。人口はツングース系が多く、言語はツングース系となったことが予想されます。この時期は6000年前頃と予想されます。

なお、上の地図は、1万~5000年前頃の朝鮮半島の様子(推察)です。

因みに、現在の朝鮮半島におけるY染色体ハプログループは、Kim (2011)の報告によれば、中国系(O2)は44%、マレー系(O1b)は32%、モンゴル系13%%です。

これらのうち、ツングース系の割合は、中国系+モンゴル系で57%になります。また、韓国語は満州人の言語に近いことも含めると、韓国人はツングース系民族に分類されると思われます。


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[ 2017/05/06 20:50 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

北方系民族故郷の満州とツングース(北方系と日本人 )

ツングースの発生と日本への道

縄文時代晩期の3000年前頃、多数の北方系の人々が日本に来て弥生人になったことが知られております。この北方系民族は、ツングース系とも呼ばれておりますが、今回は、この北方系の民族のルーツについて愚考します。

まず、そのツングースですが、満州がその故郷(発生地)と言われております。そして、その由来は、北方由来説や南方由来説があり、謎につつまれていました。しかし、最近のY染色体ハプログループ解析は、その謎を解明したのではないかと思われます。

例えば、ツングースを代表する満州民族ですが、Xue(2006)のハプログループ分類によりますと、モンゴル系(C )26%、中国系(O2) 37%、その他(チベット系など)37%となっています。すなわち、ツングースは、モンゴル系と中国系の混合混血民族であるということが分かりました。

また、ツングース系民族は、言葉はモンゴル系ですが、容ぼうや習慣はモンゴル系と明らかに違うと言われております。また、畑作民族であると共に鹿狩りを得意とした民族であることも知られております。

そこで、最近のDNA情報を含めてまとめますと、ツングースの由来については次のように考えることができます。

満州に最初に住み着いた民族は、ユーラシア大陸の北部平原を移動してきたモンゴル系の人たちです。そして、満州地方(中国東北部)は森が多く、モンゴル系の人達は、その森で鹿狩りをし、一方、近くの草原でヒツジを育て、過ごして暮らしたのではないかと、推察されます。

一方、中国人ですが、黄河流域に進出したことを前回紹介しました。黄河流域は、畑作に適しており、中国人は、ここで人口が増えました。そして、黄河流域で増えた人たちはモンゴル系の居る東北部(満州)にも少しずつ移動してきました。

モンゴル系と中国系は、生業が違いますので、平和裏に融合していきました。そして、彼らの混合したツングース系の民族が発生したと推察されます。

当然ですが、言葉は、最初に住んでいたモンゴル系の言語がベースになりました。この時期が1万年前頃と拙ブログでは予想しております。そして、その後、中国系の割合が少しずつ増えていったことが予想されます。

関連し、上の地図は、ツングース系民族の発生と日本への道の様子です。

次回から、そのツングースの人たちが、どのようにして日本に来たのか愚考していきます。


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[ 2017/05/04 20:33 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

日本におけるモンゴル系のルーツ(北方系と日本人)5.3

モンゴル人のアフリカからの移動と日本

日本人には、モンゴル系(Y染色体ハプログループC)の人たちの割合が9%程度認められます(Hamer 2005)。関連し、今回はモンゴル系のルーツについて愚考します。

先に、アフリカからのアイヌ系の移動のところで紹介しましたが、モンゴル系のハプログループはCで、アフリカでA型の祖先型から発生し、CグループはD型(アイヌ系)と同じく最初にアフリカを出たグループと言われております。

その移動は謎に包まれていますが、発生地のアフリカのツルカーナ湖を出たあと北上し、ユーラシア大陸の大平原(中央アジア)にたどりついたのではないかと思われます。

しかし、当時は氷河期にあり、食糧となるマンモスは居ましたが、寒かったため、移動は困難を極め、夏の間とか、少しずつ中央アジアに広がっていき、現在の満州(中国東北部)辺りに到着したのが2万年前頃と予想されます。そして、1.2万年前頃、氷河期が終わり温かくなってきますと、モンゴル系は居住地を広げていったと思われます。

そして、このモンゴル系の人たちが、どのようにして日本に来て、日本人の9%になったのか、これから紹介していきます。

なお、モンゴル系も東南アジア方面から移動したという説もありますが、この説では先に来たモンゴル系が何故、北に移動し寒冷な草原に住みつくようになったのか、説明困難です。

関連し、上の地図はモンゴル系民族のアフリカから日本への道です。

モンゴル系のDNAは北海道アイヌに13%程度も認められます(Tajima 2004)。しかし、北海道アイヌの江戸時代の人口は2万人程度で、当時の日本全人口の1%以下ですので、絶対数は少なく、モンゴル系の多くは半島由来と思われます。


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[ 2017/05/02 19:44 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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