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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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太平洋側の美人は個性的(日本人のルーツ)

太平洋側の美人ルーツ(地図)

秋田美人のルーツ、博多美人のルーツについて紹介してきました。彼女達は日本海側に属しますが、今回は、日本美人ルーツのまとめとして太平洋側の美人について触れておきます。

私は、学生時代、仙台で学生時代を暮らしました。そのとき、当然のことですが、仙台出身の女性に出会いました。それぞれ人気があり、美人も多かったと思いますが、いずれも、これといった型があるわけでなく個性的美人だったと思います。

たとえば、あの人は口元が可愛いから「リップちゃん」だとか呼んでいたのを思い出します。仙台を日本3大ブスの産地などと悪口を言う人もいますが、それは、俗説で昔の話だと思いました(笑)。

また、仕事の関係で、宮崎に7年間住みました。こちらも美人が多く居たと思いますが、同じく、それぞれ個性的だったと思います。宮崎の女は「ひゅうがカボチャ」だ、いう例えがあります。それは、「ひゅうがカボチャのように見てくれは悪いが中身(味)はいい」という意味のようです。しかし、それも昔の話で、私には、見てくれも中身もいい女性が多かったと思いました。

DNAで見ますと、太平洋側は彫りの深いアイヌ系が先に住み始めた関係からアイヌ系の多い地域です。そこへ丸顔のマレー系が来て混血し、さらに色白の北方系が混血し、今の状況が出来上がったと思われます。その意味で、太平洋側の美人はベースがアイヌ系で、特徴は、彫りが深く二重瞼で個性的と思われます。

まとめますと、秋田美人は色白高身長のツングース系がベース、博多美人は丸顔小柄なマレー系がベース、そして今回の太平洋側美人はアイヌ系がベースで個性的、と思われます。このような関係を上の地図に示しました。参考になれば幸いです(笑)。

なお、下の写真は記事と関係ありませんが、我が有機菜園の花(クフエア)とミョウガの様子です。

菜園のクフエアとミュウガ8月下旬


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[ 2017/08/30 07:03 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(0)

丸顔、博多美人ルーツ愚考(南方系と日本人)

マダガスカルのマレー系美人

前回(2日前)の「秋田美人のルーツ」と関連し、今回は「博多美人のルーツ」について愚考します。

私は、いろいろな土地に住み、いろいろな女性の顔立ちを見てきましたが、偶然にも、博多に近い筑後市に4年間住んだことがあります。そのとき、筑後市は可愛らしい女性が多く美人の多いところだと思いました。

さらに、隣にお茶の産地の八女市がありますが、ここも美人の多いところでした(笑)。そして、博多までいきますと美人だらけ、という感じでした(爆笑)。すなわち、博多から筑後市一体が美人の多いところと判断されます。

そして、その美人の特徴ですが、秋田美人が色白高身長の平安絵巻風の古典的な美女とすれば、博多美人は可愛らしい小柄な丸顔でないかと思います。

そこで、その美人のルーツについて愚考しますと、拙ブログで何度も指摘していますように丸顔は南方系(マレー系)ですので、博多美人はマレー系のDNAの濃い地域と思われます。

拙ブログでは、マレー系の人達が1万年前頃、北九州に来て縄文人になったことを紹介してきました。一方、4000年前頃からツングース系の人達が、地球の寒冷化に伴う食糧不足との関連で、朝鮮半島から北九州にやってきました。

ツングースの人たちの多くは日本海を北上したと予想されますが、一部の人たちは北九州に住むようになりました。例えば、多くの弥生遺跡の遺骨研究から、短身の縄文人と長身のツングース系の人達の争いはなく、共存したことが明らかになっています。

ということは、自然と混血がすすみ、現在の丸顔で色白の博多美人ができあがったことになります(笑)。

上の写真は、私がマレー系の多いマダガスカルで働いていたときに見たマダガスカル美人ですが、マレー系の美人だと思います。この顔にツングース系の色白が加わったのが博多美人でしょうか。関連し、下に、博多美人のルーツを地図で示しました。

なお、このような南方系(マレー系)民族のルーツに興味のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「南方系と日本人」をクリックしますと、今までの関連記事を見ることができます。

博多美人のルーツ(地図)


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[ 2017/08/28 06:44 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

色白高身長、秋田美人のルーツ愚考(北方系と日本人)

秋田美人のルーツ地図

お盆が過ぎ、秋が近づいてきたこの頃です。そして、秋は女性が美しくなる時期でもあります。その美人と関連し、今回は、素人ながら、秋田美人のルーツについて迫ります(笑)。

おそらく、秋田美人という言葉は古い話のことで、今、秋田に行ってすぐ会えるわけではありません。事実、私は、秋田県中央部の大仙市(もと大曲市)に足掛け6年間住んだことがありますが、取りたてて美人が多いとは感じたことはありませんでした(笑)。

私個人の勝手な興味では、丸顔系で二重瞼の女性が可愛らしく美人に見えますが、秋田では、この傾向は弱かった感じがします。

そこで熟考しますと、昔は、「色白美人七難隠す」、あるいは、「美人は皮1枚のいたずら」と言われたように、色白が美人の重要な要素でした。この観点から秋田の女性を見ますと、色白で肌がきれいな人は多かった感じがします。そして、日本に来た民族は南方系と北方系に分けられますが、この色白美人のルーツは北方系(ツングース系=モンゴル系と中国系の混血)に辿り着きます。

一方、身長を見ますと、秋田では背の高い女性や男性が多い感じがしました。一般に、低身長は南方系、高身長は北方系と言われますが、この高身長というのは北方系の特徴です。

例えば、バレーボールのアジア国際試合を見ましても、北方系の韓国には高身長が揃っており、これだけでも日本側は負けそうです(笑)。また、ゴールドフィンガーという映画では、とんでもない高身長のアジア系の男性が出てきて、主役の007が負けそうになる場面が出てきますが、この男性は韓国人だということです。

まとめますと、縄文時代後半、寒冷化による食料不足と関連し、色白高身長型の北方系ツングース系民族が日本に多数流れ込んできました。北九州には既にマレー系の人たちが居住しており、ツングース系の人達の多くは日本海を北上し日本海側全体に広がりました。

そして、秋田より以北には縄文人が多く住んでおり、ツングース系の人たちの多くは秋田に留まりました。一方、住んでみると、秋田は良いところで、多くのツングース系の人達が住むようになりました。さらには、冬の雪は肌に優しく、美しい肌を作りました。これらが、色白高身長、秋田美人のルーツと思われます。伝説の小野小町もその一人と思われます(笑)。

関連し、日本海地帯では、北から秋田美人、庄内美人、新潟美人、富山美人、金沢美人、福井美人、出雲美人が知られており、これらの点をつなぐと日本海美人地帯になります(笑)。すなわち、これらのルーツも日本海を北上したツングース系にルーツがあり、秋田美人と由来は同じと考えることができます。

なお、上に秋田美人のルーツ(地図)を示しました。

また、このような北方系(ツングース系)民族のルーツに興味のある方は、拙ブログ左側にあります検索欄に「ツングース」と入れクリックしますと、今までの関連記事を見ることができます。

一方、下の写真は記事と関係ありませんが、我が無農薬菜園で咲いているクフエアです。この花は冬になると刈り取られホウキに変わります(笑)。

クフエア8月菜園


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[ 2017/08/26 07:18 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

古代の九州の火山活動がマレー系を全国に移住させた(南方系と日本人)

鬼界カルデラ爆発とマレー系の移住

最近のDNA研究により、日本人の30%のDNAはマレー系民族に由来していることが分かっていますが、拙ブログでは、マレー系の人々が人口の少なかった北九州に1万年前頃から居住していたことを指摘しています。今回は、マレー系の人々がどのように日本全国に広がったのかについて推察します。

マレー系の人々が日本に来た1万年前頃、日本の人口は、小山修三氏(1984)によれば、西日本が1万人、東日本が2万人程度だったようです。そして、国内では最古で最大級の縄文集落と言われる9500年前の「上野原遺跡」が南九州にあり、九州も縄文文化が盛んな時代であったと言われます。

しかし、日本民族の誕生(安本美典 2013)によれば、その後、西日本は火山活動が活発になり、火山灰が降り注ぎ、人類の住むことができる場所は九州では北部などわずかになったようです。特に、7300年前の鬼界カルデラ爆発は決定的で、「上野原遺跡」も崩壊し、人口は停滞し、人口が増えるのは弥生時代以降になったとあります。

一方、東日本では、温暖な気候に恵まれ、いわゆる縄文時代の黄金期を迎え、人口は2万人(1万年前)から25万人(5000年前)まで増えました。

一方、マレー系の人々ですが、当初は北九州に住みましたが、人口が増えるとそうした火山活動の理由から、日本の至るところへ移住するようになったと推察されます。以前、マレー系の民族は航海の得意な海洋系民族と指摘しましたが、その能力のためか、その移住は困難ではなかったと予想されます。

このとき、アイヌ系の人たちが日本全国に居ましたが、前回指摘しましたように、アイヌ系の人たちは山の民、マレー系の人たちは海の民ですので、住み分けができ、平和的に混入は進んだと予想されます。

関連し、鬼界カルデラ爆発の場所を上の地図に示しました。


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[ 2017/08/24 08:08 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

縄文人は誰なのか、そのDNA(日本人のルーツ)

我が家のアケビ2

拙ブログでは、日本の言葉、文化、宗教のベースは縄文時代にできていたことを解説しています。関連し、今回は、今も話題になっている縄文人は誰なのか、そのDNAのルーツについて少し詳しく迫ります。

Y染色体ハプログループの分類の報告をまとめますと、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系が20%、モンゴル系が10%、フイリピン系などその他が5%、と分類されます。

そして、日本に移住してきた時期は、アイヌ系がアフリカからスンダランドをへて10万年前、マレー系がスンダランドから1万年前、中国系とモンゴル系とマレー系の混血の北方系民族(ツングース系)が朝鮮半島から4000年前、と拙ブログでは推察しています。

縄文時代は2万年前~3000年前ですので縄文人の主体はアイヌ系とマレー系と推察されます。

拙ブログでは、10万年前から居住しているアイヌ系民族が、日本語と宗教(自然との共生思想)のベースを作ったと、何度も指摘しております。

一方、遅れてきたマレー系の人たちですが、彼らは、人口の少ない朝鮮半島や北九州に最初に住み着き、ついで日本全国に広がったことを以前に紹介しました。特に彼らは海洋系の民族であり、海岸を中心に日本全国に住み着いたと予想されます。

北海道アイヌの生活から想像しますと、どちらかというとアイヌ系の人たちは山の民ですので、マレー系の人たちは、こうした住み分けの関係から争いは少なく、縄文社会に平和裏に溶け込んでいったと思われます。

そして、アイヌ系とマレー系は、お互いの得意な分野で結びつき、交易し、混血し、その結果、縄文社会が豊かになっていったと推察されます。これを山内丸山遺跡から見ると、広大な栗林は山の民のアイヌ系にルーツが、包丁やナイフの代わりになる黒曜石などの交易は海洋系のマレー系にルーツがあると思われます。

まとめますと、縄文人はアイヌ系とマレー系の混血であったと結論されます。そして、その後からきたツングース系の人たちが縄文社会に溶け込み、現在の日本の骨格が決まったと思われます。

縄文時代のアイヌ系とマレー系の割合ですが、およそ2;1であったと思われますが、このことについては後ほど報告します。

このようなY染色体ハプログループ分類に興味のある方は、拙ブログ左側にあります検索欄に「ハプログループ」といれクリックしますと今までの記事を見ることができます。

なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、我が家にあるアケビの様子です。私に山の民アイヌ系の血が流れているのか、こうした縄文由来の果樹栽培は得意です(笑)。

我が家のアケビ1


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[ 2017/08/22 07:06 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(4)

技術立国日本のルーツは縄文時代に(縄文思想と日本人)

三内丸山遺跡と海洋交易

拙ブログでは、日本の技術立国のルーツは縄文時代にまで辿ることができると指摘しております。今回は、そのことについて、少し詳しく考察します。

縄文土器が2万年前頃から発現しますが、人類世界最初の土器であったと評価されています。それは、余った木の実など収穫物の保存を可能にし、また食物の煮炊きを可能にするという画期的な発明です。このため、縄文社会は世界最初の定住社会、あるいは海洋交易社会というものを作りだしました。

世界最古の文明のあけぼのとして、7千年前頃のエジプトやユーフラテスの遺跡が知られていますが、縄文文化というのは、それらよりもはるかに古いことになります。

有名な縄文時代の三内丸山遺跡(5000年前)の調査によると、中国の遼東半島の円筒式土器や北海道の網走の黒曜石まで出土していることが分かっており、縄文時代の日本は広い地域がつながっていたことが分かっています。

北海道の網走から運ばれた黒曜石は、切り味鋭く、魚を切り裂くのに使われたと言われます。ということは刺身のルーツも、ここにあるかもしれません(笑)。

私が最も驚くのは、直径が1mもある栗の木が何本も切り取られ、見晴らし台の柱として利用されていたことです。こんな太い木を当時の技術でどのように切り取ったのか、興味は尽きません。

そして、当時、その最高峰の木材加工技術を使い、世界最大の船が造られ、広い海洋交易が行われたと思われます。

また、その遺跡からは、山ブドウから作られたブドウ酒のようなものもあったことも知られています。さらには、三内丸山の側には広大な栗林が作られ、冬の食糧確保を可能にし、他地域から運ばれた装飾品も多数出土しており、縄文社会が豊かであったことが証明されています。

そして、縄文時代の遺品で私が最も感心したのは、魚の骨から作られた針です。これは長野県の栃原岩陰遺跡から発掘されたものですが、長さ5㎝、幅2㎜の針に1㎜程度の糸を通す穴が空けられていたのです。その精巧さには感心しました。この辺に現在の技術立国の日本の姿がすでに見える感じがします。

そして、その世界最初の土器文化を作った好奇心旺盛な縄文フロンティア精神は、近代にあってはヨーロッパ文化を吸収し、技術立国の日本を作り上げた、と想像することに無理は感じられません。

なお、上の地図は山内丸山縄文遺跡を中心とする交易の様子です。


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[ 2017/08/20 06:45 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(0)

上からの命令に頼る日本人の性質は変わったか(縄文思想と日本人)

新聞記事ドナルドキーン2017年8月12日

先日(2017年8月12日)の東京新聞2面に「色あせぬ72年前の忠告」と題し、ドナルド・キーン氏の「東京下町日記」が掲載されていました。

上の写真は今回の東京新聞の記事ですが、ドナルド・キーン氏は、戦争中は日本人捕虜の通訳の仕事で日本通になられた方で、彼の記事は、「日本人論」と関連し、いつも興味深いと思っているところです。

その記事では、「日本人が上からの命令に頼る性質を清算しなければ、ある一つの独裁政権から別の独裁政権に移行する可能性がある。連合軍からの布告がなければ何もできないようでは、日本国民が政治的自立に向かって歩き出すとは思えない」。と、通訳仲間テッド氏からの72年前(終戦直後)の手紙(忠告)を紹介しておりました。

前置きが長くなりましたが、今回は、その記事にあります「上からの命令に頼る日本人の性質」と拙ブログのテーマ「縄文思想」の関係について愚考します。

いきなり結論ですが、「上からの命令に頼る日本人の性質」のルーツ、これも「縄文思想」に由来すると思われます。「縄文思想」のベースは自然との共生ですが、この考えは対立よりも共生です。悪く言いますと自然にまかせるのが良い、その結果、自分であまり考えない、ということだと思います。この自分であまり考えない性質が「上からの命令に頼る日本人の性質」になっているのだと思います。

そして、ウソを平気で言う政府の政治家など、憂うる日本の現状をこの記事は示唆していたと思われます。

一方、その記事では、「(東条英機元首相について)、人々は「もう誰も元首相を相手にしない」と蔑視した。だが戦争初期には熱狂的に支持しながら、終戦後に罵声を浴びせることに苦言を呈する、冷静な人も少なからずいた」、という指摘もありました。

この「冷静な人も少なからずいた」ですが、先日の東京都議会選挙結果から判断しますと、この「冷静な人」が増えており、日本人の気質がいい方向に変わっているような気がします。

なお、下の写真は記事と関係ありませんが、自然との共生を目指した我が無農薬菜園の様子で、果樹キウイの木の様子で、10月が収穫期です。

無農薬菜園のキウイ2

無農薬菜園のキウイ1


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[ 2017/08/18 07:17 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(2)

自然との共生思想は西洋文明に飲まれなかった(縄文思想と日本人)

無農薬菜園のメロン7月

前回(2日前)、日本における自然との共生思想(縄文思想)はアイヌ系の人々によって縄文時代に確立した思想であることを考察しました。今回は、その思想が西洋文明に飲まれなかったことについて考察します。

日本に江戸時代という安定した平和な時代がありました。この時代は、森が守られ、都会の人糞などの有機物は堆肥という有機肥料に加工され畑や水田に施用され、循環型の有機農法の時代、すなわち自然との共生の時代であったことが知られています。

一方、このとき、ヨーロッパの城壁都市内では人糞の処理場がなく、例えばパリのようなところでも、人糞を道路に播いて処理していたこと、この匂いが嫌になり国王ルイ14世が郊外に住むようになったという話もあります。

そして、明治時代になって自然と対立するヨーロッパの思想が多く入ってきました。しかし、それは日本人の自然との共生思想を変えることはできませんでした。

例えばヨーロッパ思想の中心となっているキリスト教です。多くの日本人知識人が西洋文明の影響を受けました。そして、私の海外経験ですが、その西洋と肩を並べる技術力の高さのせいか、日本人の多くはクリスチャンだと思っている人が多い感じがします(笑)。

しかし、クリスチャンになった人はわずかです。日本人の多くは、従来の神社宗教を受け入れていて、それは変わりませんでした。拙ブログでは、そのベースは縄文時代以来の自然との共生思想であると愚考しているところです。

自分探しに世界中を歩き、そして、マダガスカルきた日本人青年とお会いしたときのことですが、世界の宗教について話をしたことがあります。

そのとき私は、「日本人は、例えば、森の木を伐採するなど自然を壊すことに祟り(たたり)があるのではないかと怖れる。このため、許しを得ようと地鎮祭みたいなものを必ず行う。」と日本人の宗教心について語りました。

すると、彼は、「理屈で分からないことを怖れる自然な気持ち、それが本当の宗教だ。文明国でありながら本当の宗教心があるのは日本人だけかもしれない。」、と言ってきました。

まとめますと、日本に西洋文明が導入され、日本人はそれを改良し活用しましたが、思想までは変えませんでした。それは、日本の縄文思想(自然との共生思想)は、自然であり、変える必要はなかったためと思われます。

なお、上と下の写真は、自然との共生思想をベースに、すなわち、できるだけ自然を壊さない農法で楽しんでいる我が菜園のメロンとスイカ収穫直前の様子です。我が菜園では、無農薬、無耕起、無堆肥、無畝立て、無追肥、無石灰、無ビニールマルチで野菜果樹を作っています。

無農薬菜園のスイカ8月


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[ 2017/08/16 07:31 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(0)

自然との共生思想を持ちこんだ人々(アイヌ系と日本人)

マダガスカルの森1

日本に森が多く残っていることについて、鎮守の森、水田と森の関係などからみて自然との共生思想がベースにあったことを指摘しました。今回は、自然との共生思想について、誰が持ち込んだのか整理してみました。

Y染色体ハプログループの解析から眺めますと、日本には、アイヌ系、マレー系、中国系、モンゴル系の人達が来たことが分かっています。

そこで、その自然との共生思想の民族ルーツですが、日本に最初に居住したアイヌ系の人達の影響が大きいのではないかと思います。

アイヌ系の人達の自然との共生思想は有名で、これが縄文時代から引き継がれてきたことは周知の事実です。また、この思想はアメリカ先住民族にも引き継がれていることを拙ブログで紹介したことがあります。

一方、マレー系の人達については、マダガスカルの例ですが、至る所に禿山(はげやま)を作ったことから自然との共生思想は弱いことを前回紹介しました。また、中国にも禿山が多いのは有名です。またモンゴルには森はほとんどありません。

これらのことから推察しますと、アイヌ系を除くそれらの民族は、現在では65%近くあり多数派ですが自然との共生思想を持っていない感じがします。しかし、日本へは、小人数で少しずつ来た関係から、先住民のアイヌ系の言葉と習慣になじみながら生活し、森を中心とした自然との共生思想になじんでいったため自然との共生思想を持つに至ったと推察されます。

なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、マダガスカルの森の様子です。マダガスカルに禿山が多いことを指摘しましたが、森も少し残されています。残された森の多くは国立公園として野生動物保護区に指定されています。

マダガスカルの森2

また、下の写真は、その森で作られた柑橘類などのジュース等加工品の売り場です。とても人気のある自然食品の売り場でした。

マダガスカルの森3売り場


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[ 2017/08/14 06:52 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

「お岩木山よ見えたかおとう」とマダガスカルの山(縄文思想と日本人)

マダガスカル高地の山3

マダガスカルの山(森)と日本の山の違いについて以前に紹介しました。そして、日本では山が大切に保存されていること、これは自然との共生をベースにしている縄文思想と関連していることを紹介しました。

昨日(8月11日)は「山の日」でしたが、それとも関連し、今回は、「お岩木山よ、見えたか、おとう」というフレーズについて愚考します。

私がマダガスカルで単身赴任生活をしたときのことですが、アパートで演歌を歌いながらストレス解消していました(笑)。吉幾三作詞作曲の「津軽平野」をよく歌いましたが、そのなかに、「お岩木山よ、見えたか、おとう」というフレーズが出てきます。

これは、「お岩木山よ、見えたか、(出稼ぎから帰ってきた)おとう」という内容と思います。冬の出稼ぎから帰ってきたおやじが、汽車からおりて、お岩木山に向かって、「春になり、津軽の故郷に無事帰ってきたよ、これから農作業で忙しくなるね」、とお岩木山に挨拶している様子でないかと思います。

これは、まさに、日本人の山への信仰、そのものでないかと思います。外人には分からない心境かもしれません。そして、このように、日本人は、あるときは自然(山)と一体となり、あるときは感謝し、生きて来たのではないかと思います。

関連し、以前にも紹介しましたマダガスカルの山ですが、上と下の写真は、それらの様子です。高原に居るためか、山らしい山はなく、ほとんど手の届くところにある感じです。よく見ると、山全体が畑になっていて、神々しいものは感じられません。

そこでまとめますと、日本には多くの美しい山がありますが、その美しさと同時に、山は命の水を貯める力などがあり、自然との共生思想とあいまって、山への信仰が自然と育まれてきたのではないかと、マダガスカルの山を見て感じたしだいです。

簡単ですが、今回はこれで失礼します。

マダガスカル高地の山1

マダガスカル高地の山2


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[ 2017/08/12 08:16 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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