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神武東征の出発地の状況(邪馬台国と日本人)

邪馬台国時代の日本(3世紀)


神武東征の出発地の宮崎の状況(邪馬台国と日本人)

前回(2日前)、邪馬壱国(邪馬台国)は九州にあったことを愚考しました。一方、九州は日本の初代天皇の神武天皇(カムヤマトイワレビコ)の発祥地としても知られております。関連し、今回は、神武東遷の地の日向(宮崎)の状況について愚考します。

ウイキペディアによりますと、『日本書紀』では ,
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、・・・遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。とあります。

そして、『古事記』では、
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。とあります。

その神武天皇(神日本磐余彦天皇)発祥地の日向ですが、「日向三代のころ、この地は既に現鹿児島県南部から日南・宮崎・延岡に渡る広い国であった。そして西都原古墳群、茶臼原古墳群、新田原古墳群などが残る西都は、投馬国の中心地であったのではなかったか。」(https://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/30372388.html?__ysp=44OI44Km44Oe5Zu9IOaXpeWQkQ%3D%3D)という記事があります。

この記事にある「投馬国」とは魏志倭人伝に出てくる国で、伊都国(福岡県糸島)から南へ水行20日の場所から推定し日向あたりにあったと言われている国です。その人口は、5万余戸の戸数から20万人(5万戸×4人)と推測できますので、九州では邪馬台国の7万余戸に次ぐ大勢力と思われます。

したがって、この記事の説でいけば、日向(投馬国)というのは、邪馬台国に次ぐ九州の大国であり、神武天皇発生地として相応しいと思われます。

日向の地が何故発展していたのか想像しますと、中心は西都市辺りと思われますが、暖かで平坦な地が多く、当時の稲作栽培に適しており、コメの生産が他地域より優れていたと思われます。さらに、稲作農耕に必要な鉄器も朝鮮半島に近く導入しやすかったためと思われます。

一方、拙ブログでは、九州地域はマレー系言語の邪馬台国連合グループ、アイヌ系言語のグループがあったことを前回(2日前)紹介しました。当時、邪馬台国連合は、マレー系言語を武器に、同じマレー系の言語を話す朝鮮半島と活発な交流をしていたと推察されます。

神武天皇発祥地の日向は、アイヌ系言語グループの中では進んでいましたが、このマレー系の邪馬台国連合と比較しますと、やや遅れていたと思われます。

そして、邪馬台国時代の日本国の様子をまとめますと、邪馬台国は先進国、投馬国(日向)は中進国と言えます。そして、投馬国と同じように中進国だったのが、吉備国、出雲国、大和国だったと思われます。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の日本の様子を上の地図に示しました。


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[ 2017/09/21 06:56 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

古代九州には2種の民族が住んで居た(邪馬台国と日本人)

女王国の範囲


古代九州には2種の民族が住んで居た(邪馬台国と日本人)

前回(4日前)、邪馬壱国(邪馬台国)はマレー系集団の国であったことを紹介しました。関連し、今回は、九州に、そのマレー系を中心するグループとアイヌ系を中心とするグループの2系統があったことについて愚考します。

私は仕事の関係から、北九州の築後市に4年、南九州の宮崎に7年居住しました。そして、同じ九州でも北と南では大きな違いがあることを感じました。その違いの一部を「博多美人のルーツ」で先日(8月30 日)紹介しました。

顔形の違いだけでなく、言葉も違うことを実感しました。例えば、北九州の築後では「そうやろ」、「ばってん」、「かたらんと」など、優しい感じの言葉が多かった感じがします。そして、こうした言葉がマレー系の言語に由来するとなると、北九州の倭人=マレー系というのが明確になっていくと思われます。

一方、宮崎ではアイヌの地名が残っていることを前回紹介しました。そして、平均的な日本という印象を受けました。

そして、男ですが、北九州は髭(ひげ)が薄く小柄な人が多くマレー系の特徴がありましたが、南九州は髭が濃く、彫りの深い美男子が多く、アイヌ系の特徴がありました。

これらのことから推察しますと、移住の少なかった古代においては、北九州と南九州の間にはもっと大きな開きがあったと思われます。すなわち北九州はマレー系の多い地域、南九州はアイヌ系の多い地域になります。そして両者は別々の言語を使い、弥生時代後期に国が作られるようになると、別々の国になっていったと推察されます。

例えば、魏志倭人伝では、邪馬壱国(邪馬台国)の南に狗奴国(くなこく)があり、そこはアイヌ系の熊襲(くまそ)の国で、邪馬台国とは違った人々が住んでいて敵対していた可能性があります。

また、魏志倭人伝に「奴国は国の境」という言葉が出てきます。奴国は、漢の倭の奴国王の金印で有名な国ですが、伊都国(福岡県糸島)の南方100里にあったとありますので、奴国の場所は福岡市の南当たりと推察されています。 

この国の境という意味は、女王国(邪馬台国連合)とその他の国の境と思われますが、邪馬台国連合はマレー系言語の国でまとまっており、その他の国にはアイヌ系の言語の国と考えることもできます。

さらに、伊都国から南に水行20日で投馬国という国が出てきますが、投馬国は宮崎(日向)という説が有力です。投馬国の戸数は5万で、邪馬台国の戸数7万に次ぐ大きさですが、倭国の外にある国として紹介されています。

これらの情報から推察しますと、マレー系の集団の邪馬台国連合は、熊襲などアイヌ系グループに囲まれ、その助けをもとめて中国(魏)に朝貢し助けを求めていたとも考えられます。

関連し、魏志倭人伝にみる女王国(邪馬台国連合)とその他の国の関係を上の地図で示しました。


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[ 2017/09/19 07:03 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

日本各地に残るアイヌ語地名の謎(日本語のルーツ)

宮崎市江平の場所

日本各地に残るアイヌ語地名の謎(日本語のルーツ)

拙ブログでは、日本に最初に来た民族がアイヌ系の人々であったことを紹介していますが、関連し、今回は、日本各地に残るアイヌ語地名の謎について愚考します。

アイヌ系の民族が全国に居たことは、現存するアイヌ語に由来する地名からも、その足跡を見ることができます。

例えば、私は宮崎市に住んだことがありますが、宮崎市中心部にある江平という地名はアイヌ語に由来するということでした。

江平(えひら、えびら)の「え」はアイヌ語で海岸を意味すること、そして「ひら」は周辺(辺り)を意味するようです。すなわち、江平という地名はアイヌ語に由来し、昔そこは海岸だったことになります。

江平地区の工事をすると砂に交じって貝殻が出てくるのは、そのためだという、もっともらしい解説もありました(笑)。

そして、そのようなアイヌ語地名は全国に認められますが、アイヌの人たちはどこに行ってしまったのかが謎でした。一説では弥生人が来たので、東北や琉球の方に逃げたのだろうという説もありました。

しかし、最近のY染色体ハプログループ解析は、その謎を明らかにしました。その解析では、アイヌ系の人達のハプログループはD型ですが、D型は日本全国に認められます。

すなわち、日本全国に居たアイヌ系の人々は、逃げたのでなく、後に日本に来た他の民族(マレー系やツングース系)と共存し、混血し、縄文人となり、弥生人となって現代人になった、ということになります。

以上、日本各地に残るアイヌ語地名の謎愚考でした。

なお、関連し、上の地図は宮崎市の江平地区の場所です。



また、参考までに、Y染色体ハプログループ解析について初めての人のために簡単に紹介しますと次のような感じです。

男性か女性を決める染色体にXとYがあります。XYが男性、XXが女性になるわけですが、Y染色体は男性にだけあり、父親から男の子供に引き継がれることになりますので、そのY染色体をたどると父親のルーツが分かることになります。

このY染色体は、巨大なDNA配列の塊からできておりますのでそのDNAの配列から種類を細かく分類でき、人類の祖先のDNAを分類するのに最適と言われております。

たとえば、Y染色体ハプログループがD型ですと、それはアイヌに多い型ですので、その人の男親のルーツはアイヌ系となります。そして、このD型というDNA分類は、10万年経過しても、マイナーチェンジはありますが、変わることはありません。


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[ 2017/09/17 06:56 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(4)

邪馬台国と朝鮮半島はマレー系の言語で結ばれていた(邪馬台国と日本人)

弥生時代の言語マレー系など

邪馬台国と朝鮮半島はマレー系の言語で結ばれていた(邪馬台国と日本人)

邪馬壱国(邪馬台国)がマレー系の多い地域であったことから推察しますと、マレー系の言語が当時使われていたと思われます。今回は、この可能性について愚考します。

私は仕事の関係から、北九州の築後市に4年居住しました。そして、北九州は顔形や言語に特徴があることを感じました。その特徴の一部を「博多美人のルーツ」で前回(8月30日)紹介しました。

また、マレー系の人々が南方から移住してきたとき朝鮮半島と北九州に最初に居住したことを紹介してきました。その移住理由は、それらの場所が人口希薄地帯であったためです。例えば、1万年前頃の状況ですが、日本列島に多数の縄文遺跡が確認されているのに、朝鮮半島では遺跡が極めて少ないことが分かっています。

そして、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、マレー系(ハプログループO1b)は、韓国で32%(Kim 2011)、日本で32%(Hammer 2005)となっています。さらにNonakaら(2007)によれば、そのマレー系の割合は西日本で37%、関東で31%となっており、西日本に多いことが分かっています。

当然のことですが、彼らの言語はマレー系の言語になります。そして、朝鮮半島と北九州はマレー系の言語で結ばれ、水田稲作技術や関連する鉄器農具導入についても同じ状況であったことが推察されます。例えば、弥生時代初期の韓国遺跡に松菊里遺跡というものがありますが、同時代の日本の北九州遺跡と類似点が多く、稲作韓国由来説の根拠となっている遺跡です。

そうした文化的類似点から、弥生時代当時、朝鮮半島と北九州には頻繁に交流があり、言語は通訳なしで意思疎通ができたと推察している記事を見かけることがありますが、それは、マレー系の民族が両側に住んで居て同じ言語を使っていたためと思われます。

また、言語の性質ですが、マレー系と中国系はDNAが近い関係から言語(文法)が似ており、マレー系住民にとって中国語は近い言語であり、倭国が中国に朝貢するときの通訳は簡単に見つけることができたと推察されます。

因みに、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)ですが、マレー系がO1b、中国系がO2で、両者は同じOグループに属します。拙ブログではOグループの言語の文法が同じであることを指摘してきました。

これらのことから、朝鮮半島南部と九州北部(倭国)ではマレー系の言語が使われていたと推察されます。そして、そうした言葉の優位性から、倭国は先進的な中国の文化を吸収し、中国に朝貢するような大国に発展したと推察されます。

しかしながら、このマレー系の言語は、朝鮮半島においては新羅などツングース系の民族に統一されることにより消え、一方、日本においては大和政権が九州にあった倭国を統合した結果、消えてしまったと推察されます。

関連し、上の地図は、弥生時代の朝鮮半島と九州の言葉の様子です。


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[ 2017/09/15 08:09 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

邪馬台国の人々はマレー系の集団であった(邪馬台国と日本人)

各民族のマレー系の割合(地図)


邪馬台国の人々はマレー系の集団であった(邪馬台国と日本人)

前回(2日前)は邪馬壱国(邪馬台国)の卑弥呼のルーツについて想像しました。関連し、今回は、邪馬台国の人々のDNAについて、その生活習慣から推察します。

魏志倭人伝には倭国の人々の生活や習慣についても記してあります。何度も指摘しておりますが、倭人というのは低身長の人々に対する蔑称です。中国人に比較し、倭国は低身長の人々の国だったことになります。

そして、その書では、倭人は入れ墨(分身)をしていたこと、海に潜り海産物を取るのが得意だったこと、裸足で暮らしていたこと、手で食べていたこと、南方系の貫頭衣を着ていたことなどが書いてあり、総じて、中国南東部にある海南島の人々に似ている、とあります。

一方、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類 Hammer 2005)を見ますと、日本人は、おおよそアイヌ系が35%、南方マレー系が30%、北方ツングース系(モンゴル系と中国系の混血)が30%、フイリピン系等その他が5%、となっています。

このDNA情報から日本に来た民族の中で倭国の人々に似ている民族を推察しますと、南方系のマレー系の人々以外には考えられません。

拙ブログで指摘してきたことですが、マレー系民族は、南方(インドネシア当たり)が故郷、海洋系民族、稲作民族、低身長の特徴があり、当時人口密度の低かった朝鮮半島南部から北九州当たりに1万年前頃から移住してきました。

そして、マレー系の人達は北九州に居住し、縄文時代以降、江南地方の水田稲作を導入し、発達させ、邪馬台国を建設したと推察されます。

一方、邪馬台国は畿内にあったという説もありますが、そのマレー系の容貌や生活様式からみて、このマレー系の集団が畿内に居たと想像することは困難です。

関連し、最近のDNA調査(Y染色体ハプログループ分類)のマレー系(ハプログループO1b)の人々の各国の割合について上の地図に示しました。また、そのもとになったデータを下表に示しました。

マレー系が中国南部のヤオ族に40%、ベトナムに33%と多数認められますので、倭人が海南島の人々に似ているという魏志倭人伝の記述とこのデータは一致します。

このことは、稲作民族の倭人のルーツは江南より南だったこと、照葉樹林文化の導入にも関係していたことを示唆します。また、マレー系民族の故郷がインドネシア当たりですが、彼らは、中国南部を経過し、日本に来たことになります。

さらに、これらの情報を総合しますと、古代の日本は低身長の人々が住む倭国と中国から言われていましたが、倭国は日本というよりも九州にあったと判断するのが妥当と思われます。

各民族マレー系のY染色体ハプログループの割合(表)


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[ 2017/09/13 06:50 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

卑弥呼は北方系色白美人であった愚考(邪馬台国と日本人)


ツングースとマレー系と邪馬台国

邪馬壱国(邪馬台国)の場所はどこか、九州か機内か、未だに論争している感じがします。

今回は、その邪馬台国と関連し、素人ながら女王卑弥呼のルーツに迫ります(笑)。

卑弥呼は邪馬台国の女王ですが、「卑弥呼は鬼道に通じ人を惑わす」とあります。これは、卑弥呼が女性シャーマン(祈祷師)であり、その才能があり、女王として祭りあげられたのだと思います。

この女性シャーマンについて先日(2日前)、北方(韓国)にルーツがあることを紹介しました。一方、北方と関連し、秋田美人のルーツは色白長身の北方系であることも紹介しました。これらのことから愚推しますと、直感ですが(笑)、卑弥呼は北方系の色白長身美人の女性シャーマンであったことを想像させます。

倭国は倭人の国の呼称ですが、倭人とは低身長の人の蔑称で、倭国にはそのような人達が多く居るので倭国と言われていたと思われます。拙ブログでは、その低身長倭人のルーツは稲作民族のマレー系であり、彼らは当初は北九州に居住した、と紹介してきました。

低身長で色黒のマレー系の人達が多い倭国において、長身色白美人の卑弥呼は目立った存在、憧れの存在であったような感じがします。そして、マレー系の倭人にはない鬼道に通じており、多数の国をまとめるカリスマ性があったと想像できます。

なお、卑弥呼の鬼道について、呪術を用いることもある中国の道教と同じという説もありますが、卑弥呼が居た3世紀には道教は日本に入ってきた様子はなかったことから推察しますと、卑弥呼の鬼道はツングース由来と思われます。

まとめますと、卑弥呼は北方系の祈祷師であり、その能力とカリスマ性によって倭国を統合していたと思われます。一方、大和政権ですが、女性祈祷師の存在は弱く、祈祷師(神主)のほとんどは男性であります。女性に巫女という役柄がありますが、祈祷はまかされておりません。この意味において卑弥呼の倭国は、畿内の大和政権とは違う系統であり、その場所は九州にあったと思われます。

関連し、上の地図はその邪馬台国の場所と卑弥呼のルーツです。

また、下の写真は記事と関係ありませんが、我が有機菜園の隅に自生している秋の花の様子です。

菜園の雑草と花9月


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[ 2017/09/11 06:52 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)

女性シャーマンのルーツ(北方系と日本人)

マダガスカルの古代の女性像

日本語はアイヌ系、韓国語はツングース系(モンゴル系)であり、日本と韓国は言語や文化のルーツが異なることを拙ブログでは紹介しておりますが、非常に似た宗教観があることが分かりました。

それは女性シャーマン(女性祈祷師)ですが、今回は、この韓国と日本の女性シャーマンのルーツについて愚考します。

「韓国文化のシャーマニズムパワー」 http://www.toyo-keizai.co.jp/news/essay/2009/post_3697.php  )という韓国人の記事があり、「心配事があると母が女性祈祷師のところに頻繁に相談に行っていたこと」が紹介されていました。

一方、日本人の私の母の場合ですが、同じように「神様」(女性祈祷師)のところに、心配事があると頻繁に相談に行っていたことがあり、まったく同じことが紹介されていました。私の母によると、占い(予測やお祓い)はよく当たり信頼できる神様だったようです。

母が相談に行っていた神様に私も会ったことがあります。50年前のことですが、その神様は、色白で目が細く吊り上っていて、キツネ顔の容貌で、今思うと、ツングース系の神がかった容貌でした。

素人ながらシャーマンについて考えますと、アイヌにもシャーマンは居ますが、ほとんどが男性です。その影響なのか、日本のシャーマン(神主)の大半は男です。

また、世界を眺めますと、女性シャーマンはいろいろと知られておりますが、ヨーロッパの魔女の場合、魔術を使うとか言われ、社会から認められておりません。また、アフリカにもシャーマンがいますが、ほとんどは男性です。それらの人々は、地域の人から信頼されている韓国と日本の女性シャーマンとは違う感じがします。

そこで、日本の女性シャーマンのルーツについて推察しますと、ツングース系の韓国では古くからの土着宗教として女性シャーマンが知られております。拙ブログでは多数のツングース系の人達が日本へ移住してきたことを紹介しておりますが、その移住過程で、そのツングース系の女性シャーマン信仰が日本にもたらされ日本に広がったのではないかと思います。

また、拙ブログでは、ツングース系民族はモンゴル系と中国系の混血であることを指摘していますが、モンゴルにも多数の女性シャーマンが居ることが知られております。ということは、韓国の女性シャーマンのルーツはモンゴルにある可能性があります。

以上、日本と韓国の女性シャーマンの類似性とルーツ愚考でした。

なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、マダガスカルの昔の人の女性像やお墓の様子です。

マダガスカルの古代の女性像ふんどし着

マダガスカルの古代のお墓


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[ 2017/09/09 06:58 ] 北方系と日本人 | TB(-) | CM(0)

毛人の国愚考(アイヌ系と日本人)

毛人の国7世紀(地図)

中国の「旧唐書」に、倭国に代って新しく朝貢を始めた大和政権の記述が有り、「その国の境界は東西南北とも数千里ある。西と南はそれぞれ大きな海が境界となり、東と北には大きな山があり境界となっている。その山の外側は毛人の国である」、と紹介されています。

この毛人の国はアイヌ系(蝦夷)の国であると推察されますが、今回は、その毛人の国の範囲について愚考します。

「旧唐書」は945年に完成したとあります。おそらく、遣隋使や遣唐使の情報も含めて、大和政権(7世紀頃)の日本国の情報が記されたのだと思われます。

そして、日本には3世紀頃朝貢してきた倭人の国があったが、新しく朝貢してきたのは倭国を統合した新しい政権の日本(大和政権)である、と中国側が理解している様子がうかがえます。こうした状況について、「唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2」http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.htmlに詳しい解説があります。

そして、「旧唐書」から当時の日本人について推察しますと、九州にいた倭人は大和政権に統合され日本人と呼ばれるようになり、一方、それと別に大和政権の支配が及ばない毛人の国があった、と理解されます。

そして毛人の国ですが、関東地方に毛の国(群馬県当たり)があったことから推察しますと、「旧唐書」にある東の大きな山は、箱根あたりをさすと思われます。また、大和の北にある大きな山は、北アルプスと推察されます。

ということは、7世紀頃の大和政権は、東は東海地域、北は北陸の福井・石川当たりまでが支配地域であり、その他の地域は毛人の国であった、と推察されます。

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)でNonakaら(2007)は、関東人の50%近い人が今でもアイヌ系であることを示しておりますが、当時はアイヌ系の比率はもっと高かったと推察されます。

関連し、「旧唐書」に基づいた奈良時代(7世紀)の様子を図解しますと、上図の感じになると思われます。

そして、8世紀(奈良時代)に入りますと、大和政権は奥州支配に本格的に乗り出し、毛人の国のほとんどが大和政権に入り、従わない毛人の国(蝦夷)の地域は少なくなり、越国(北陸)や関東(坂東)に関しては中央から国司が任命されるにいたりました。

関連し、9世紀の平安時代(京都政権)の様子を下の地図に示しました。

蝦夷アテルイが朝廷軍を破った巣伏の戦いが8世紀(789年)にありましたが、9世紀(平安時代)に入ると抵抗する蝦夷も少なくなり、大和政権の奥州支配が完了したと思われます。

しかし、関東で独立の動きをした平将門の乱(939年)、京政権から独立していた藤原3代の欧州支配(12世紀)などの動きを見ると、もと毛人の国は京都政権に完ぺきには支配されてはいなかったと思われます。

蝦夷の抵抗9世紀(地図)


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[ 2017/09/07 07:08 ] アイヌ系と日本人 | TB(-) | CM(2)

弥生遺跡の骨の主は縄文人だった(稲作と日本人)

弥生遺跡2500年前

我が国の水田稲作開始については、弥生時代に稲作民族が来て始まったのか、縄文人が水田稲作を導入して始まったのか論争は続いている感じがします。

関連し、「日本人の源流を探して」に、「第3部 弥生文化と渡来人の登場 02.水田稲作技術を伝えたのは縄文人か」、という記事があり、福岡県新町遺跡(弥生遺跡)の支石墓から発見された被葬者(人骨)は、北方系の高身長の「渡来者」ではなく低身長の「縄文人」であったことを紹介しております。

今回は、その「縄文人」のDNAについて愚考します。

弥生時代初期の遺跡から発掘される生活用具のほとんどは縄文時代のものと同じで、これが弥生人=縄文人、と言われてきた物的証拠となっており、拙ブログでも縄文人=弥生人としています。

さらに拙ブログでは、中国の古書に出てくる弥生時代の倭人は低身長の人の蔑称であり、その小柄な特徴はマレー系の人々に当てはまることも紹介してきました。

そして、そのマレー系の人たちですが、1万年前から人口の少なかった北九州や朝鮮半島に住み着き、アイヌ系と混血し縄文人になりました。マレー系の人々は古くからの稲作民族で、当初、陸稲を畑作で作りました。そして、朝鮮半島から鉄器が導入され農具が開発されると、低地に住み、水田開発をし、水田稲作の担い手になっていった、と紹介してきました。

これらマレー系の人々が古くから北九州に居住していたことから推察しますと、福岡県新町遺跡の支石墓から発見された低身長の被葬者の骨のルーツはマレー系の人々であったと推察されます。そして、韓国に同時代の稲作遺跡として松菊里が知られておりますが、これもルーツは同じであると推察されます。

このことは、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)からも推察されます。すなわち、マレー系のDNA(ハプログループ O1b)の割合は、日本で約32% (Hammer 2005)、韓国でも32% (Kim 2011)と、どちらも3人に一人がマレー系となっています。

一方、高身長の渡来人というのは、北方系のツングース(モンゴル系と中国系の混血)で、彼らは畑作民族であり、稲作民族ではありません。彼らは、寒冷化が進むと、4000年前頃から食料をもとめ中国東北部の満州から徐々に南下し、朝鮮半島を経て日本に居住するようになりました。この移動時期が、水田稲作導入と重なり、彼らが稲作を導入したような錯覚をもたらした、と思われます。これらの関係を上の地図に示しました。

なお、関連の「日本人の源流を探して」というウェブサイトhttp://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_02inasakugijyutu_wo_dareka.htmlの内容を引用しますと次のとおりです。


日本最古の水田址-菜畑遺跡の発見-

朝鮮式の支石墓に葬られていた人

 このページのトップの地図写真をご覧いただきたい。
 曲り田遺跡から数km、糸島半島の西側に新町遺跡という支石墓を伴う遺跡がある。
 その支石墓から被葬者の骨が発見された。
 支石墓は中国の山東半島や東北部、朝鮮半島に広く分布しているが、朝鮮半島南西部に特に集中して分布している墓形式である。その支石墓が造られた時期も無文土器時代、まさに弥生早期から前期の時代である。日本では支石墓は西北九州に偏在しており、出現時期も弥生早期の夜臼式土器段階である。
 したがって、この墓制は稲作や磨製石器農具などとセットで朝鮮半島南部から九州西北部に伝播したと考えられている。
   
 その墓に葬られている人だから「渡来者」に違いないと誰もが考えていた。
 新町遺跡の支石墓から出土した14体の遺骨のうち、弥生前期初頭の熟年男性2体から頭蓋形態が判明した。その特徴は予想に反し渡来形質の片鱗さえ認められず、ほぼ全員に施されている抜歯の様式も西日本縄文人の様式を踏襲していた。
 まさに「縄文人」の頭骨そのものであった。
 
 意外な結果に到達した人類学の中橋孝博は、この支石墓の被葬者を、
1.新しい稲作文化(稲作技術や墓制など)を取り入れた縄文人(漁労民)。
 (考古学者は西北九州の支石墓が朝鮮半島と違って甕棺や石棺・木棺(上図参照)を使わ
 ない、 所謂土壙墓(土葬)が一般的で、縄文的色彩の濃い副葬品を伴っていることから
 この説を支持する人が多い)
2.弥生早期のこの時期、朝鮮半島には高顔・高身長と低顔・低身長のタイプが混在しており
 両方のタイプが渡来してきたが、新町人は後者のタイプであった。
という可能性を指摘している。

 この中橋の指摘は、筆者には更にいろいろな疑問を生じさせる。
1.の縄文人(漁労民)は、朝鮮半島にどれほど関わったのか。墓も朝鮮式にするほど、南部
 朝鮮の習慣に慣れ親しんだのだろうか。すなわち、筆者の言うコロニーに長期滞在したよ
 うな縄文人なのであろうか。
2.朝鮮半島の低顔・低身長のタイプの人とは、北部九州の縄文人とどういう関係にあったの
 か。実は旧石器時代から南部朝鮮人と北部九州縄文人(西日本縄文人)とは強い遺伝的関
 係があった集団がいたのではないか。
 筆者にはそのような疑問が湧いて来るのである。   
 
 いずれにしろ以上の検討を通じて、最初期の段階での水田農耕は、縄文系が主体的役割をつとめ、南朝鮮系は従的存在に止まったように思われる。しかも先の家根祥多の推計によれば、唐津湾周辺と糸島半島海岸部の狭い地域に来往した稲作農耕民の数は微々たるもので、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかったとしている。
 とすれば、この最初期の水田稲作の到来が西北九州の縄文人に大きな遺伝的影響を与えたことはなかったと考えた方が妥当だろう。


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[ 2017/09/05 07:59 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

信長はモンゴル系、秀吉はマレー系、家康はアイヌ系、黒田官兵衛は中国系(日本人のルーツ)

サツマイモ栽培の虫の食害

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から、「日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系が20%、モンゴル系が10%、その他5%であること」を以前に紹介しました。

関連し、今回は、著名な4名の戦国武将、すなわち、信長、秀吉、家康、黒田官兵衛のDNAのルーツに迫ります(笑)。

私の愚推ですが、信長はモンゴル系、秀吉はマレー系、家康はアイヌ系、黒田官兵衛は中国系、と思います。

まず、信長ですが、比叡山焼き討ちなど非情な戦い方、まさにチンギスハーンのモンゴル軍に似た非情さで戦国時代を駆け抜けました。そして、その色白で目の細い容貌はモンゴル系と思われます。

次に、秀吉ですが、朝鮮半島や中国など外国への異常な関心、海洋民族のマレー系の特徴と思われます。また、そのサルと呼ばれた小柄で色黒で二重瞼の容貌、マレー系でないかと思われます。

次に、家康ですが、忍耐強く自然との共生を感じさせる生き方、アイヌ系でないかと思います。容貌もひげ面で二重瞼、アイヌ系の顔立ちと思われます。

最後に、黒田官兵衛ですが、三国志の軍師孔明を感じさせる知恵のある戦い方、そして、髭が薄く鋭い目つきでなんとなく中国人的な容貌、中国系でないかと思います。

以上、戦国武将のDNAルーツ愚考でした(笑)。

なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、戦国時代の非情を思い出させる我が菜園の昨年秋の様子です。サツマイモですが、ヨトウムシが大発生し、葉が食いつくされる寸前でした。我が妻は毎日のように発見してはヨトウムシの胴体をハサミで切り殺したということです。犠牲者は500匹を越えたと言っていました(笑)。目的のためには手段を選ばない結果なのか、太いイモが多数採れました(笑)。

収穫直前サツマイモ栽培


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[ 2017/09/03 07:04 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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