日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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日本人のルーツをDNAから考える(ごあいさつ) [2017/12/31]
「いとおかし」はマレー語(日本語のルーツ) [2017/12/27]
邪馬台国は邪馬壱国だった(邪馬台国と日本人) [2017/12/19]
古代北九州ではマレー語が使われていたようだ(日本語のルーツ) [2017/12/17]
人を育てる徒弟制度が日本の技術立国を作った(縄文思想と日本人) [2017/12/15]
モンゴル人力士と相撲道愚考(縄文思想と日本人) [2017/12/13]
道と日本人(縄文思想と日本人) [2017/12/11]
世界トップの技術と日本の社会環境(2)(縄文思想と日本人) [2017/12/09]
世界トップの技術と日本の社会環境(1)(縄文思想と日本人) [2017/12/07]
鳥居のルーツは照葉樹林文化地帯の原始宗教か(南方系と日本人) [2017/12/05]
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日本人のルーツをDNAから考える(ごあいさつ)
日本人のルーツをDNAから考える(ごあいさつ)
早いもので2017年という年も過ぎようとしています。そこで、一言、年末のご挨拶をさせていただきます。
拙ブログを今年4月に立ちあげましたが、ご訪問、そして有意義なコメント、ありがとうございました。おかげで、100回ほど記事をアップすることができました。
一方、最近のDNA研究の発展はすさまじく、DNAレベルから日本人のルーツもほぼ明らかになりつつあります。拙ブログでは、そうしたDNA情報をベースに、日本人のルーツ、そして日本人独特のものの考え方を検討してきました。
拙ブログで何度も紹介していることですが、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、モンゴル民族と中国民族の混血のツングース系が30%、その他が5%です。今までの歴史研究では、アイヌ系民族は先住民族として、ツングース系民族は北方系民族として、存在が認められ、比較的よく研究されてきた感じがします。しかし、マレー系民族となると、その存在自体が曖昧な感じがします。
そこで、拙ブログでは、マレー系民族が稲作民族であり、弥生文化の中心的存在であること、関連し、日本最初の国家の倭国は九州北部に作られたマレー系民族の国家であったことを、魏志倭人伝などの内容や、現在の北九州方言の解析などから検討してきました。
この考え方に多くの人の理解を得るためには、さらなる検討が必要かと思っておりますが、関連し、来年は、さらに検討していきたいと思っています。
なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、小生が3月まで居たマダガスカルの棚田と周辺の様子です。マダガスカルの棚田は移住してきたマレー系民族によって作られ、2000年の歴史があると言われております。
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[ 2017/12/31 08:04 ]
ごあいさつ
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「いとおかし」はマレー語(日本語のルーツ)
「いとおかし」はマレー語(日本語のルーツ)
「春はあけぼの」に始まる枕草子は平安時代の有名な随筆ですが、そのなかに「いとおかし」が何度もでてきます。今回は、この言葉のルーツについて愚考します。
拙ブログでは、日本語は、アイヌ系言語がベース(文法)となり、発音は、マレー系(倭人)が古代に持ち込んだ万葉仮名がベースになったと指摘しております。
また、朝鮮半島にあった百済と九州にあった倭国は、古代に稲作民族のマレー系民族が作った国であり、そこの人々は中国に使者や文書を送るなど中国語に素養があり、それらの国が滅んだ後は日本国(大和政権)に採用されたことを検討してきました。
そこで、「いとおかし」ですが、マレー語で読みますと、イト(itoo)=たくさん(much)、オカシ(okasu)=事件(ocations)、となります。すなわち、イトオカシ=たくさんの事件、です。日本語(古語)の意味がマレー語とかなり一致します。
また、同じように「あなおそろし」という古語がありますが、これをマレー語で読むと、アナ(ana)=そこ(there)、オソロ(osora)=敗北(defeat)、です。すなわち、アナオソロ=そこは敗北、となり、これも日本語の意味がマレー語と一致します。
さらに、枕草子を書いた清少納言の肖像画(実は創造画)ですが、「
ガレリア蘭房/コラム
」によれば、上の図のとおりで、丸顔系で南方系です。また、下の図「
清少納言
」の肖像画にも似た雰囲気があります。
そこで、個人的な想像になりますが、彼女はマレー系の小柄な丸顔美女で、そのなかにマレー系の言葉がDNAとして生きおり、日本語となっていたマレー系言語を随筆で愛用したのではないかと思われます。
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[ 2017/12/27 08:37 ]
日本語のルーツ
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邪馬台国は邪馬壱国だった(邪馬台国と日本人)
邪馬台国は邪馬壱国だった(邪馬台国と日本人)
倭国の邪馬台国はどこにあったのか、未だに決着はついていない印象がありますが、魏志倭人伝では、倭国の人々が中国南部の海南島の人々に容貌や習慣が似ていること、奴国(現在の福岡市南部辺り)から西側が女王国としていることなどから、邪馬台国はつくし平野(北九州)にあったと拙ブログでは推察しております。
そして、邪馬台国ではマレー系の人々の国でマレー語が使われていたと推察しております。その証拠として、先日(2日前)、北九州(筑後地方)方言にマレー系言語が残っていることを紹介しました。
今回は、邪馬台国をそのマレー語で読むとどうなるのか、愚考します。
直訳しますと、邪馬(Jamah)=移住者(the pilgrims)です。すなわち、邪馬台国は移住者の国となります。「マレー系の民族が各地に居るが、彼らは中国を経て日本に住み着いた民族であること」を中国に伝えたという意味と思われます。
そして、「邪馬台国」は正しくは「邪馬壱国」であったという、日本思想史学者の古田武彦の主張がありますが、この説でいくと、邪馬壱国(やまいち国)は、移住者の国で一番の国という意味になります。すなわち、マレー語で読むと邪馬台国は邪馬壱国だった、となります。
また、邪馬台国女王の卑弥呼ですが、マレー語で読むと、ひみか(Himika)=観賞用熱帯魚(Timika)となります。すなわち、観賞用熱帯魚のように色鮮やかな衣服をまとっていた女性という意味になるかと思います。
関連し、「
卑弥呼はどんな衣装を着ていたか
」 によれば、次のようです。
『魏志』倭人伝には、当時、贈り物をしあったものが書かれているが、特に卑弥呼のために贈られたもの織物が、紺地句文錦(こんじこうもんきん)(紺色の地に句ぎりもようのついた錦の織物)、細班華罽(さいはんかけい)(もようを細かくまだらにした毛織物)、白絹(もようのない白い絹織物)である。 おそらく、こうした絹織物で作られた衣装を、卑弥呼は着ていたのだろう。 そして、アクセサリーとしては、弥生後期の丹後の遺跡、赤坂今井墳丘墓(京都府京丹後市)から出土の勾玉管玉で作った冠や、耳飾りなどが大いに参考になるだろう。(引用終了)
そして、そのイメージは上の図のようです。まさに観賞用熱帯魚のように色鮮やかな衣服をまとっていたと思われます。
まとめますと、魏志倭人伝に残された地名や人名から推察しますと、倭国はマレー系言語の国であった、と結論されます。そして、魏志倭人伝における「倭国の人々は海南島の人々に似ている」、すなわち、倭人は海南島と同じマレー系の人々というのは本当だと思われます。さらには邪馬台国は邪馬壱国だったことになります。
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[ 2017/12/19 08:22 ]
未分類
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古代北九州ではマレー語が使われていたようだ(日本語のルーツ)
古代北九州ではマレー語が使われていたようだ(日本語のルーツ)
拙ブログでは、日本語は最初に住み着いたアイヌ系の言語がベースになり、次いで来たマレー系が中国との交流を経て万葉仮名を導入し、その発音様式が日本語発音となり、現代の日本語が形成されるに至ったと推察しております。
すなわち日本語は、文法はアイヌ系、発音はマレー系となります。そして、単語は、アイヌ系を基本に、マレー系、ツングース系、中国系、欧州系などが加わっていったと思われます。
今回は、北九州方言「ソウヤロ」等の語源はマレー語だったことについて愚考します。
魏志倭人伝に、倭国の人々の習慣や容姿は中国海南島の民族に似ている、とあります。拙ブログでは、そこにはマレー系の人々が今でも多数住んでいますので、倭国の人々は海南島由来のマレー系の人々であると推察しております。
また、倭国の場所ですが、女王国(倭国)の境は奴国(今の博多市南部辺り)ということですので、倭国は現在の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県を含んだ地域、その中心地は、今でも稲作が盛んな筑紫平野かと思います。ということは、そこでは、マレー系民族の国ですので、古代ではマレー系言語が話されており、それに由来する方言が残っているものと期待されます。
偶然にも、仕事の関係で、その筑紫平野の中心地の筑後市に私は4年間住みました。そして、その方言にも接したわけですが、そこでは、ソウヤロ、バッテン、カタラント(参加しない)、など東北生まれの私には馴染みのない言葉で出くわしました(笑)。
そこで、まず、「ソウヤロ」をマレー語で直訳しますと、ソウ(Sah)=妥当(valid)、ヤ(Ya)=Yes、ロ(Roh)=精神(sprit)で、「Yesでしょう」という意味になります。すなわち、方言と同じ意味です。
次いで、バッテンですが、バッテン(Batin)=異世界、あの世(Otherworldly)で、方言とほぼ同じ意味になります。
そしてカタラントですが、カタ(Kata)=言語(Word)ですから、方言とほぼ同じ意味になります。
以上の例から察しますと、北九州方言にはマレー系言語の影響が残っていると思われます。
ということは、魏志倭人伝にある倭国は、拙ブログ推察のとおり、それはマレー系民族の国であり北九州にあったと思われます。
なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、マレーシアの古都マラッカにあるサンチャゴ砦です。この砦はポルトガルによって作られたものですが、この門をくぐり、上に登っていくと、最上階にフランシスコ・ザビエル像が立っていました。彼は日本にキリスト教を布教した人物として有名ですが、案内には、「ポルトガルは商売熱心でキリスト教の布教には熱心で無かったとザビエルが嘆いた」、とありました。
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[ 2017/12/17 08:02 ]
日本語のルーツ
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人を育てる徒弟制度が日本の技術立国を作った(縄文思想と日本人)
人を育てる徒弟制度が日本の技術立国を作った(縄文思想と日本人)
日本の技術は物作りでは世界一だと言われます。その秘訣は徒弟制度による人作りだと言われます。徒弟制度は外国にもありますが、どこが違うのか、今回は、この徒弟制度について、私の経験から愚考します。
まず、私ことですが、稲の品種改良に40年在籍しましたが、半分の20年間は独立出来ませんでした。それは、稲の品種改良育成者(ブリーダー)となるためには、でっち(研究員)10年、番頭(主任研究員)10年、合計20年の経験を経て1人前と言われるからで、私もそれを経験したことになります。
おかげで、理論だけでなく、経験豊富、外国に行っても外人には負けない技術者、と言われるまでになりました。おそらく、このように20年もかけて人を育てる制度は外国には見当たりません。
外国の徒弟制度は、イギリス、ドイツ、イタリア等に産業革命以前から認められますが、日本ほど長期に渡って系統的に人を育てる取り組み方は無い感じがします。そして、それは「道を究める」という学ぶ側からの日本的意識とかみ合い発展し、今のような形になったのだと思います。
私は外国でも働くチャンスをいただき、主として後進国を見て回りました。そこは、徒弟制度の代わりにドクター(博士)制度があり、ドクターになれば偉くなることができる世界でした。このため、研究機関に行くと経験の少ない若いリーダーにたびたび出会いました。若いリーダーは経験が浅く、物足りないことは言うまでもありません。
一方、日本ではドクターだけでは偉くなれません(笑)。経験、人柄、実績、リーダーシップとかが求められます。こうしたことから、物作りが日本は世界一と言われるのも、長期に渡る徒弟制度で育った多くの技術者が居るためと思われます。
前回の繰り返しになりますが、日本ではすべての分野に道があり、その道は奥深く簡単に究めることはできない世界です。その道に、日本人は底知れない魅力を感じ、そうした感性が、日本を世界的な技術大国と押し上げたのだと思います。拙ブログでは、そうした感性は縄文時代からあることを検討しています。
なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、マダガスカル西海岸の町マジュンガの昼のカフェの様子です。下の写真ですが、店の片隅にバナナがぶら下がっていて、ウェイトレスに頼むと無料でバナナサービスしてくれます(笑)。
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[ 2017/12/15 08:07 ]
縄文思想と日本人
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モンゴル人力士と相撲道愚考(縄文思想と日本人)
モンゴル人力士と相撲道愚考(縄文思想と日本人)
モンゴル人横綱の暴力が、横綱にあるまじき行為として問題視されています。頭に9針も縫う大怪我まで起こしたもので、言い訳できない行為です。しかも、隣に居た二人の横綱はその行為を止めたと言われますが、大怪我になるまで傍観していたのか、共犯者だという批判も湧き上がっています。
横綱というのは、土俵外にあっても尊敬される存在であることが求められますが、その精神はことごくと踏みにじられた感じです。関連し、そうした問題を取り上げるブログ仲間の記事も増えていますが、拙ブログでは文化の違いの観点からこの問題について愚考します。
拙ブログでは、日本人の心の底には縄文思想が流れていることを検討しています。そして、前回紹介しましたように、日本人は道を究めることに美を感じます。
相撲道においては、心技体、そして、正々堂々、その結果、勝つことに美を感じます。こうした美意識、それがモンゴル人力士には感じられません。例えば白鵬関ですが、立ち合いはビンタ(張りて)から入ります。このような立ち合い、大横綱のすることでしょうか。
また、「美」という漢字があります。これは「羊が大きい」と書き、モンゴル由来の漢字だと言われますが、「羊が大きい」のモンゴルでは美しいという意味のようです。相撲で言えば、勝つことが一番という感じでしょうか。文化の違いを感じさせますが、相撲道に美を求める日本人には物足りない感じです。
相撲のルーツを考えますと、日本には、アイヌ系、マレー系、中国系、モンゴル系の4大民族の血が流れていますが、相撲があるのはモンゴルだけですので、そのルーツはモンゴル相撲と思われます。
おそらく、モンゴル人の血を引くツングース系の人達によって弥生時代に相撲が始まったのでしょう。彼らは、北方系で体の大きい人が多く、力自慢が好きだったのだと推察されます。そこに土俵が作られ、礼儀作法が作られ、さらには、小柄でも勝てる面白いルールが作られ、今の形になってきたのだと思います。
美しい相撲道ですが、それを見せたのが貴乃花関だったと思います。格下相手には、まわしを取らせ、そして、相手力士にケガのないように寄り切りして勝利しました。まさに、心技体の美を見せてくれました。
しかし、今回の横綱暴力事件では、この貴乃花関が相撲協会に相談しないで警察に訴えたということで、つらい立場におかれています。おそらく、相撲協会に相談すれば、横綱を守るため暴力は無かったことにされることを畏れたのだと思います。
まとめますと、モンゴル人力士に相撲道を理解してもらうのは、文化の違いがあり、極めて困難なことと思われます。しかし、それが国技である以上、それを求めない相撲では一般の格闘技となってしまいます。私ことですが、この困難な国技の道をひたすら追求している貴乃花親方を陰ながら応援しています。
なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、私が今年の3月までいたマダガスカルの棚田の様子と通り道の茶屋です。マダガスカルの棚田も2000年の歴史があると言われますが、それを作ったのは日本人ルーツの一民族でありますマレー系の民族です。
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[ 2017/12/13 08:12 ]
縄文思想と日本人
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道と日本人(縄文思想と日本人)
道と日本人(縄文思想と日本人)
Going my way(我が道を行く)という言葉があります。「バカの壁」で有名な養老猛司先生が、学生に「人生に道はあるのか」と聞かれ、「人生に道はない、道があるとすれば目の前にある穴のある道で、その穴を埋めてきたのが我が人生だ」、と「バカの壁」続編で述べていました。
一方、道に関し、横綱の起こした暴力事件では、モンゴル人力士には勝つことばかりが目標で相撲道がない、ということが問題になっています。
関連し、今回は、道と日本人について、縄文思想との関りで愚考します。
日本人は道を究めることに美を感じます。おそらく、すべての芸に道があります。そして、それぞれの道は、先輩から後輩に受け継がれていきます。そして、優れた者は道を究めることができ、そこに流派が生まれます。
拙ブログでは、日本人の心の底には縄文思想(自然との共生思想)が流れていることを検討していますが、道という概念は、自然との共生思想そのものかと思われます。自然との共生思想では、無駄な殺傷は行わない、無駄な戦いは行わない、対立よりも和を重視します。
そして、その和に合った道を追及します。新しいものの発見に至ったとき、道を究めたと評価されます。例えば、ラーメンですが、ラーメンを究めた人は、弟子に「のれん分け」ができます。
縄文時代、日本人は、自然との共生思想を持ち、自由な精神を持ち、自由な発想で生きてきました。この期間は1万年以上もあります。おそらく、この中で、道を究めることの面白さを知ったのだと思います。そして、面白いと思うこと、これが道を究めるポイントだと多くの人が指摘するようになりました。
一方、外国人がよく話すGoing my way(我が道を行く)ですが、この道は属個人的であり、日本では人気がない感じがします。50年ぐらい前になりますが、私も学生の頃、自分の道を求めてさまよったことがあります。1か月以上授業には出ず、ひたすら、それを追及しました。しかし、そのようなものはありませんでした。「あるのは目の前にある穴で、その穴を埋めてきたのが自分の人生だ」、という表記の養老猛司氏の言葉は、今、実感としてよく分かります。
まとめますと、道には個人の道と芸の道があり、日本では、個人の道よりも、芸の道が重要だということだと思います。そして芸の道は究めることに美を感じるというのが、縄文時代からの日本人の特徴かと思われます。
なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、冬らしくなってきた我が菜園の現在の様子です。私ことですが、自然との共生を目指し、無農薬、無耕起、無堆肥という農法で菜園の道を究めようとしているところです(笑)。
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[ 2017/12/11 08:10 ]
縄文思想と日本人
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世界トップの技術と日本の社会環境(2)(縄文思想と日本人)
世界トップの技術と日本の社会環境(2)(縄文思想と日本人)
前回(2日前)の続きです。今回は日本の社会環境について愚考します。
拙ブログでは、「
技術立国日本のルーツは縄文時代に
」と紹介したことがあります。
例えば、縄文遺跡の「山内丸山遺跡」の例では、5000年も前の時代なのに、広い海洋交易があり、直径1mもある木をノコギリの無い時代なのに切り倒し、それらを使って住居や船を作っていたことが分かっています。ここには、先に紹介しました好奇心や想像力を開花させる社会環境があったと思われます。
そして、そこには、中国にあったような異民族の侵入や密告制度はありません。異民族のマレー系が南方から、そして、ツングース系民族が朝鮮半島から渡ってきましたが、「自然との共生思想」を持っていたアイヌ系の縄文社会では、争うことなく受け入れました。
また、ヨーロッパ中世のような絶対的な神とか権力者が居ませんでした。つまり、いつもルネサンスのような、自由で好奇心あふれる社会になっていたと思われます。
そして、多くの人が指摘しておりますように、江戸時代が日本のルネサンスだったのではないかと思われます。すなわち、江戸時代には、世界最大の識字率があり、儒教(朱子学)、蘭学(医学)、数学、測量技術、日本学が開花し、制限はあったものの自由な発想のもとに、世界的にも評価されるような発明や発見がありました。
まとめますと、好奇心や想像力が自然に湧き出てくる、人間本来の能力が発揮されやすい環境が日本にあったこと、それが、西洋文化を吸収し日本の技術立国の姿を作ったと思われます。そして、そのベースには「自然との共生思想」(縄文思想)があったと拙ブログでは愚考しているところです。
しかし、この好奇心と想像力あふれる社会環境も、権力者の支配が強まるとおかしくなってしまう可能性は十分にあります。日本はそのような社会環境を一度ならずとも経験しています。
以上、長くなりましたが、世界トップ技術立国と日本の社会環境愚考でした。
なお、上と下の写真は、外国で暮すと分かる日本製品の優秀さです。上の写真はマダガスカルのスーパーで買ったサランラップですが、上がフランス製、下が日本製です。そして、フランス製は使い始めると下の写真のようになり、悲しいことに途中で使えなくなってしまいます(笑)。
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[ 2017/12/09 08:11 ]
縄文思想と日本人
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世界トップの技術と日本の社会環境(1)(縄文思想と日本人)
世界トップの技術と日本の社会環境(1)(縄文思想と日本人)
拙ブログでは、日本の現在の言葉や思想文化は縄文時代まで辿れることを検討しています。そして、技術立国の姿も縄文時代の遺跡に認められることを紹介してきました。
一方、「
日本を世界トップレベルの国にした3つの要因
」という記事が阿修羅掲示板に紹介されていました。その記事では、日本人は西洋文化を自力で吸収し発展させたが、中国ではそれが何故できなかったのか、という内容を示唆しておりました。
関連し、今回は、日本が世界トップの技術立国になったベースについて、(1)中国の歴史問題、(2)日本の社会環境、の2回に分けて愚考します。
まず、今回は中国の歴史問題です。
技術立国の原点は、外国文化に対する好奇心や自由な想像力を開花させる社会環境があること、だと思います。
このような環境がなかった状況は、ローマ帝国が滅んだ後のヨーロッパ社会にも認められます。すなわちキリスト教中心の暗黒の中世時代で、世界最高と言われたローマの文化は継続発展しませんでした。しかし、ヨーロッパでは、この思考停止を打ち破ったのが、ルネサンスと宗教改革と言われます。
一方、中国ですが、中国ではルネサンスは起きませんでした。中国は、世界最高の文化を誇った唐という国が滅んだ10世紀頃から、アジア的停滞とも言われます思考停止状態に入ります。
この思考停止の原因は明らかになっていませんが、異民族の支配(モンゴルの元とツングースの清)、官僚の支配(密告制度)が関係していると思われます。
なかでも官僚支配のベースになった密告制度、これは明朝時代(1368年~1644年)に始まると言われますが、決定的だったと思われます。
密告することによって利益を得るもの、罪がなくても密告により罪がでっち上げられるシステム、恐ろしい制度です。毛沢東は、この密告制度を利用し、文革時に最高権力者に上りつめたと言われます。まさに、この文革時代の中国では、大学は改革開放で封鎖され、知識人が弾圧されました。
以上のことから、中国には、技術立国の原点である、好奇心や想像力を開花させる社会環境が最近まで無かったことになります。
なお、上と下の写真は、我が国の技術立国の象徴とも思われる「焦げを付けない炊飯器」です。これは、コメを食べる外国人に最も人気のある日本製品で、秋葉原でも外国人に人気の商品になっているようです。
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[ 2017/12/07 07:55 ]
縄文思想と日本人
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鳥居のルーツは照葉樹林文化地帯の原始宗教か(南方系と日本人)
鳥居のルーツは照葉樹林文化地帯の原始宗教か(南方系と日本人)12.5
拙ブログでは、日本人の深層心理には縄文思想、すなわち自然との共生思想が流れていることを検討しています。関連し、この世界観が神社信仰のベースであることを前回紹介しましたが、今回は、神社の入り口と言われる鳥居のルーツについて愚考します。
まず、上と下の写真は、私が仏教国ミャンマーの田舎に稲の調査で行ったとき、山中で撮ったもので、現地の人に聞いたところ、仏教でなく在来宗教(原始宗教)の神社の入り口だと言われました。この神社の入り口の様子が日本の神社の鳥居と同じルーツか分かりませんが、日本の神社の祖型かと思いました。
調べますと、鳥居のルーツは照葉樹林文化地帯にあるという報告があります。例えば「
鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自
」です。私がミャンマー山中で見たのもそれかもしれません。
拙ブログでは照葉樹林文化地帯と言われる中国南部にマレー系の人々が多数居ることを紹介してきました。その最南端に海南島がありますが、魏志倭人伝によれば倭人はその海南島の人々に似ているという記述があります。
ということは、照葉樹林文化地帯に住んで居たマレー系の人々(倭人)が、日本に来て、そこにあった鳥居様式を導入した可能性があります。初めは粗末なもので遺跡には残りませんでしたが、古代になると立派なものを作るようになったと思われます。
そこで、前回の報告を含め、まとめますと、神社のルーツは、アイヌ系の自然との共生思想に由来する神々、マレー系の人々が照葉樹林文化地帯から導入した鳥居、そして、中国の廟様式を真似た境内が合体し、できあがってきたものと思われます。
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[ 2017/12/05 08:30 ]
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
カテゴリ
天皇家はアイヌ系 (27)
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天皇家のルーツと日本文化 (6)
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