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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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百済王の名前はマレー語で読める(日本語のルーツ)

百済王名と万葉仮名読みとマレー語の関係


百済王の名前はマレー語で読める(日本語のルーツ)

拙ブログでは、万葉仮名=日本語の読み=マレー語読みについて検討してきました。

今回は、マレー系民族の国と思われる百済の王の名前は万葉仮名で読めるのか検討します。

まず王命リストは「百済の歴代王年表」によります。そして、その王名のリストに万葉仮名読み(推定)とマレー語、その意味(English)を加えた表を作りました。その表は上のとおりです。

この表には31代の王命がありましたが、百済の初期の支配者がツングース系扶余族と言われているためか理解困難でしたので初代~14代は検討から外しました。さらに中国系と思われる名前、例えば武王など1文字の名前がありますが、これも検討から外しました。

この表から、百済王の15代以降の名前を万葉仮名で読むと対応するマレー語があることが分かります。さらに、その名前は王名にふさわしい名前であること、例えば、アカ王(国家の基本を作った王)、テシ王(前進続ける王)、クニシ王(武力の強い王)などがあります。これらを別に下表にまとめました。

百済の歴史を観ますと、3世紀頃の建国以来、隣国の高句麗、新羅、唐の圧迫を受け、戦争ばかりしている印象を受けます。その意味で、王は強いリーダーシップが求められ、強そうな名前の王が多くあるのではないかと思われます。

まとめますと、歴代の百済王の名前を万葉仮名で読むと、王名に相応しいマレー語になっています。前回(4日前)の報告とあわせますと、百済にはマレー語に因んだ地名と王名があり、かつ稲作民族の国であり、この意味で、百済王国は倭国と同じくマレー系民族によって作られた国である可能性があると思われます。

百済王のマレー語の意味


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[ 2018/01/30 07:58 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(0)

百済王国地名はマレー語由来(日本語のルーツ)

百済関係地名入り地図


百済王国地名はマレー語由来(日本語のルーツ)

百済(くだら)王国は朝鮮半島南西部に3世紀頃から現れた国家です。その頃、日本では北九州に邪馬壱国(邪馬台国)があった時期ですが、百済と邪馬台国は、近接しており、かつ稲作民族国家であったことからたいへん似た要素をもっています。

日本人のルーツについては、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系とモンゴル系混血のツングース系が30%、その他5%です。マレー系民族は稲作民族であることを紹介してきましたが、拙ブログでは、日本稲作についても、そのマレー系民族が深く関わってきたことを紹介してきました。

一方、百済のあった朝鮮半島ですが、マレー系が日本と同程度の30%もいます。そして、百済王国後期の中心地域であった忠清南道扶余郡に約2500年前の松菊里弥生遺跡がありますが、この遺跡は北九州にある日本最古の弥生遺跡の菜畑遺跡や板付遺跡と同時代のものと評価されています。これらのことから、百済と邪馬台国(倭国)は、マレー系民族によって稲作が始まり、ほぼ同時代に同民族によって作られた国家と推察されます。

また、マレー語の発音が日本語と似ていると言われます。そこで考えますと、マレー語発音=漢字(万葉仮名)=日本語発音、の可能性がありますが、万葉仮名が、同じマレー系民族の国と思われる百済と倭国で使われていたことが分かれば、この謎は解けます。

そこで、今回は、百済の首都などの古代漢字地名を万葉仮名で読み、それがマレー語なのか愚考します。なお、百済の地名については、「百済の歴史」を参考にしました。

松菊里弥生遺跡を含め、調べた地名と場所を上の地図に示しました。そして、その地名と万葉仮名読みとマレー語の意味は下表のとおりです。

百済関係地名とマレー語の関係

まず百済の首都地名ですが、万葉仮名風に読めば、それに対応するマレー語があります。特に最後の首都となる泗沘城はサヒ城と読み、マレー語sahihの意味はauthentic(本物)であります。泗沘城は高句麗から追われて作った山城ですので、まさにサヒ城は本物の守りの城でマレー語のサヒ(authentic)であったと理解できます。

また、朝鮮半島南端にあった伽耶国ですが、カヤと読み、マレー語kayaの意味はrich(豊)でありです。魏志倭人伝で有名な「魏志」によれば伽耶は鉄を産出し農作物も豊かであることが紹介されています。まさに伽耶はマレー語のkaya(rich)であったと理解できます。

さらに、拙ブログでは、「魏志倭人伝に出てくる日本の地名はマレー系言語」であったこと紹介しましたが、百済の地名でも同じであったことが考えられます。

さらには、百済はクダラと万葉仮名で読めないことが知られておりますが、「クダラ(kudara)はマレー語でbrotherであること」、関連し、倭国の人達は同じマレー系の民族として百済を兄弟(クダラ=brother)と呼んでいたことから、そのような読みになったことを拙ブログで紹介してきました。

まとめますと、百済の国家は、初期は満州に居た扶余族が支配者となって形成されたと言われておりますが、周辺状況や残された地名から、ベースとなった民族はマレー系の人々であった可能性がさらに深まりました。


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[ 2018/01/26 08:18 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(2)

エカタシロ(ワカタケル)大王の意味(邪馬台国と日本人)

5~6世紀の日本とエカタシロ大王


エカタシロ(ワカタケル)大王の意味(邪馬台国と日本人)

前回(4日前)、埼玉古墳で見つかった「稲荷山古墳出土鉄剣の碑文」について、そこに記されている王の名前はワカタケルでなくエカタシロであったことを紹介しました。

今回は、エカタシロ大王の意味について愚考します。

まず、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の碑文の「獲加多支鹵」大王ですが、これは、万葉仮名では「ワカタケル」と読めない。あえて読めば「エカタシロ」、あるいは「エツカタシロ」であることを、「獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-」の情報から指摘しました。

一方、「獲加多支鹵」大王の名前については、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘文にも同じ名前があることが知られております。古墳の時代が5世紀末~6世紀初ですので、埼玉古墳と同時期のものと思われます。そして、これも「ワカタケル」と読み、幼武(わかたける)と呼ばれていた雄略天皇のことでないかと言われております。

しかし、当時の5世紀後半の状況は、熊本(九州)も埼玉(関東)も畿内の支配が及んでいなかったことが明らかです。因みに、拙ブログでは、熊本は倭国の大王(武)の支配下にあったという説を支持しております。また、関東には別の大王が居たと考えています。

一方、鉄剣碑文文字は万葉仮名が使われていますが、当時、北九州の倭国に居たマレー系の民族がマレー語の万葉仮名を使い、中国と交流していたことを拙ブログでは指摘してきました。

そこで、「エカタシロ」大王の意味をマレー語で翻訳しますと次のようになります。

エカ(eka)=一つ(single)、タシ(tasih)=愛(love)、ロ(roh)=精神(spirit)、すなわち、エカタシロ=愛の精神をもった者=慈悲深い者(大王)

すなわち、この解釈を取るなら、「エカタシロ」大王は、個人を表す固有名詞でなく、偉大な大王を表現するときの枕言葉となります。

そして、なぜ、エカタシロというマレー語表現が関東でも使われたのかですが、それは、稲作拡大とともに、稲作を担っていたマレー民族が関東にも拡大し、九州の倭国のエカタシロ大王が関東にも知られていたからと思われます。詳しくは後ほど紹介したいと思います。

なお上の地図は、それらの状況を示した5世紀末~6世紀初頭の日本の状況です。


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[ 2018/01/22 08:24 ] 未分類 | TB(-) | CM(3)

関東地方に大王が居たのか(邪馬台国と日本人)

エカタシロ大王と古墳


関東地方に大王が居たのか(邪馬台国と日本人)

ブログ仲間が「古墳は語る(13)~前方後円墳の一番多い県はどこ?」で、1位が千葉、4位が奈良と、関東が畿内より前方後円墳が多いこと、関連し、前方後円墳が畿内政権(大和政権)の管理の下に作られたとは言えないことを紹介しておりました。

巨大な前方後円墳が作られた4世紀後半が畿内政権の確立した時期とみられますが、それ以前にも前方後円墳が各地で作られていることから推察しますと、前方後円墳というのは、地域大王の象徴であり、畿内政権とは独立した存在という指摘は、そのとおりの感じがします。

関連し、今回は、前回と同じく、遺跡の数から古代の人口を推定した小山(1984)のデータを用い、畿内と関東の古代の人口変化から、「関東地方に大王がいたのか」について、愚考します。

まず、それぞれの古代の人口変化を示しますと、下の図のとおりです。関東と畿内、それぞれ同じような変化ですが、弥生時代開始、すなわち、稲作が確立し人口が増加し始めるのは僅かに畿内が早く、2300年前頃、そして、50年遅れて関東で増加が始まる、という感じかと思います。

古代における関東と畿内の人口変動

ということは、人口が増え、国ができるときの年代差はわずか、関東においては50年遅れで大王が出現していた、と思われます。そこで、古墳時代初期の大王墓と思われる20m以上の前方後円墳をまとめますと、下表のとおりです。すなわち、畿内で最も古い前方後円墳はホケノ山古墳(奈良)で3世紀前半の建造、関東で最も古い前方後円墳が神門(こうど)15号墳(千葉)で3世紀中頃の建造です。 ここでも50年の遅れがある感じです。

最古の前方後円墳(全長20m以上)

一方、拙ブログでは、埼玉古墳で見つかった「稲荷山古墳出土鉄剣の碑文」から、そこに記されている王の名前はワカタケルでなくエカタシロで、5~6世紀に畿内政権に支配されていないことからエカタシロ大王が関東に居たと推察しました。

関連し、古墳数を入れた関東地図を作りますと上図のとおりで、埼玉古墳は畿内よりも多い古墳に囲まれていた地域であります。まさに、関東にエカタシロ大王が居たとすれば、畿内の大王と同じくらい大きな大王であったことを思わせます。

まとめますと、畿内と関東における弥生時代以降の古代の人口増加はほぼ同じで、畿内がわずかに早く、弥生時代と古墳時代が始まった。そして、それぞれの地域に大王が居て、関東にはエカタシロ大王が居た、と思われます。


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[ 2018/01/18 08:31 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

弥生時代開始が北九州は畿内より200年早い(邪馬台国と日本人)

古代における北九州と畿内の人口変動


弥生時代開始が北九州は畿内より200年早い(邪馬台国と日本人)

邪馬壱国(邪馬台国)がどこにあったのか、まだ論争している感じがします。

拙ブログでは、倭国の風俗が中国の海南島の風俗に似ているという魏志倭人伝の指摘から、海南島近辺に居たマレー系の稲作民族が、北九州に住み始め、邪馬台国を作ったと指摘しております。

今回は、遺跡の数から古代の人口を推定した小山(1984)のデータを用い、邪馬台国候補地の九州と畿内の当時の状況について愚考します。

まず、それぞれの地域の人口変化は上の図のとおりです。この図で見ますと、九州では、畿内より先に人口が増加し、その増加時期は2500年前(BC500年)頃から始まったと推察されます。言い換えますと、水田稲作が本格的に始まったのが、その時期と推察されます。

一方、畿内ですが、人口が増え始めるのは2300年前(BC300年)と推察されます。すなわち、九州より200年遅れていることになります。邪馬台国のあった3世紀は、人口が増え、国が形成される激動の時代ですので、この200年の差は大きいと思われます。

そして、このデータは九州については全域のデータですので、菜畑遺跡や板付遺跡という弥生時代の先進地であった北九州だけについて考慮するならば、その差はもっと大きかったと予想されます。

この差を踏まえ、邪馬台国のあった3世紀の状況を考察しますと、北九州は先進地域、畿内は後進地域であったと推察されます。例えば、邪馬台国には文字があり、万葉仮名を使って、国名を邪馬壱国(意味はマレー系移住者第一の国)と称し中国に朝貢していました。そして、絹織物などの宝物をもらうなど先進文化に接していた時代でした。

一方、畿内ですが、統一されておらず、多くの大王が各地域にいて、前方後円墳を作り始めた時代でした。

まとめますと、九州北部は、畿内より200年早い2500年前という時期に弥生時代(水田稲作)が始まり、人口が増加し、1世紀には倭国として中国に認められ、そのなかの奴国が中国に朝貢し金印を授与されるなど、日本で先進地域となりました。そして、3世紀には邪馬壱国(邪馬台国)の女王「卑弥呼」が現れた、と結論されます。


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[ 2018/01/14 08:17 ] 未分類 | TB(-) | CM(5)

弥生時代の始まりと人口変化の不適合(稲作と日本人)

菜畑遺跡見本水田


弥生時代の始まりと人口変化の不適合(稲作と日本人)

弥生時代は、Wikipediaによれば、「採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である」、とあります。そして、弥生開始年代は、2500年前頃を改め3000年前とする、と学会で2003年に決まったようです。

言い換えますと、自然採集生活という縄文時代に代って、水稲農耕が始まった結果、食料革命が起こり、飛躍的に人口が増え始めたときが弥生時代であることになります。そのことを、前回紹介の遺跡の数から推定した小山(1984)の人口データで、弥生時代開始が早かった九州地域と遅かった東北で確認しますと下の図の様になります。

鉄器導入前後の人口変動(東北と九州)

この図では、3000年前(BC1000)~2000(BC0)年前においては、九州であっても人口増加がわずかであり、実際に人口が増加し始めるのは、2500年前頃からです。3000年前から弥生時代が始まり人口が増えたとするには無理があります。

関連し今回は、小山(1984)の古代の人口データと学会の決定とのギャップについて愚考します。

稲栽培については、岡山県の縄文遺跡からイネに着いているプラントオパールが検出されていることから、稲は6000年前の縄文時代からから畑作物(陸稲)として作られていたことが明らかになりました。しかし、稲は干ばつに弱いなどの問題があるので畑作物には適しません。

このため稲は水田で作ることが求められますが、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で2930年前の水田跡が見つかったことから、水田稲作は3000年前から始まったと言われるようになり、この事例を重視し、弥生時代は3000年前から始まったと学会で結論された感じがします。

しかし、菜畑遺跡の例ですが、同じような例は、その後見つかっておらず、むしろ例外的と判断した方が普通かと思われます。例えば、その水田には水を貯めるための畦が作られていたようですが、畦と言うには立派過ぎる感じがします。関連し、上の写真はその見本水田です。この時期、鉄器はまだ利用されておらず、木製農具だけで作ったのでしょうか。

他の水田跡遺跡を見ますと、例えば、弥生時代中期の「垂柳遺跡の水田跡」は下の写真のとおりで、この時期は鉄器が入っていたと思われますが、それでも畦は低くできています。その他の遺跡も弥生時代は同じようです。

青森県垂柳遺跡の水田跡

すなわち、菜畑遺跡の水田跡は、水田というよりは養魚場のような印象を受け、当時の木製農具で作ったというよりも石器を使い立派な池を作った感じです。その意味で、この水田を、弥生時代を代表する水田跡とするには無理があります。

まとめますと、3000年前に弥生時代が始まったという時代区分は、人口の変化、そして、当時の鉄器の無かった稲作技術のレベルから推察しますと、かなり無理のある結論と思われます。その意味で、弥生時代を代表する遺跡として評価されている菜畑遺跡は、例外的な存在と評価した方が妥当と判断されます。

人口の増減から推察しますと、鉄器が導入され、水田が開発され、水田稲作が九州で広く展開されるようになったのは従来通り2500年前頃からとするのが妥当と思われます。そして、東北では300年遅れて水田稲作が始まったことが、上の人口変化から推察されます。


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[ 2018/01/10 08:24 ] 未分類 | TB(-) | CM(8)

東北の縄文人は縄文カレンダーで寒冷時代を乗り切った

縄文時代の人口変動、東北、北陸、関東


東北の縄文人は縄文カレンダーで寒冷時代を乗り切った(日本人のルーツ)

北海道と東北にあるストーンサークルは縄文時代の遺跡ですが、その用途については、祭のモニュメント説、有力者の墓地説などが挙げられていますが、明確でない感じがします。一方、拙ブログでは、縄文カレンダーであったことを、昨年8月8日に紹介しました。そして、縄文人は、そのカレンダーを使い、厳しい寒冷化の時代を乗り切ろうとしたことを検討しました。

今回は、東北地方の人口変化から、このことを、さらに検討します。

まず、小山(1984)の遺跡の数から推定した古代人口データを用い、東北、北陸、関東の人口変動を示しますと、上の図のとおりです。

寒冷化は、4200年前と3500年前の2回に渡って襲ってきますが、この結果、人口が一番減ったのは関東地方です。関東地方は、寒冷化前の5000年前は東北の2倍近い人口の9.5万人近くがありましたが、寒冷化後の3000年前は0.8万人まで著しい低下をしております。関東地方は縄文時代にあっても東北よりも暖かだったと推察されますが、意外なデータでした。

次いで、人口が減ったのが北陸で2.5万人から0.5万人に減少しています。一方、東北の減り方は4.7万人から4.0万人ですので、減り方が緩やかです。このことは、東北の人々は、寒冷化にあっても移動することなく、生き延びたことを示しています。

では、東北の縄文人は、どのようにして生き延びたのか。ストーンサークルは東北に集中していることから推察しますと、おそらく、ストーンサークルという正確なカレンダーを持ち、主食となる栗や鮭などの食料の確保を適期に収穫し、冬の寒さに備えたのだと思われます。

一方、関東ですが、東北と比べると、寒冷化がきても、相対的に暖かかったと思われます。しかし、カレンダーはなく、計画性はなく、極端な冷年には耐えることが出来なかったのが真相かと思われます。

まとめますと、ストーンサークルは、作られた時期は寒冷化気候のときであること、それは寒冷化の厳しかった北海道と東北に集中していることから推察しますと、1年を食料確保のため計画的に暮らすことを目的としたカレンダーであった、と考えるのが妥当かと思われます。


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[ 2018/01/06 08:23 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(6)

日本人の縄文思想と稲作(ごあいさつ)

マダガスカルのスイレン


日本人の縄文思想と稲作(ごあいさつ)

新年明けましておめでとうございます。

昨年は、拙ブログ訪問、およびコメント、ありがとうございました。

拙ブログでは、日本人の言葉、そして思想や考え方は縄文時代に出来上がったこと、稲は縄文時代にマレー系民族が伝えたことを、最新のDNA情報を活用し検討してまいりました。

また、日本には、邪馬台国論争を初め、多くの論争や謎があります。こうした論争や謎にも、以上の観点から追及してきましたが、今年は、さらに迫ってみたいと思っています。

そして、今年も、ご訪問いただき、コメント等をいただければ幸いです。

一方、皆様への訪問ですが、記事を拝見し、興味深い記事には勝手ながらコメントさせていただきます。そして、記事の引用(リンク)を勝手にするときがありますが、お許しください。

なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、昨年3月まで小生が働いていたマダガスカルの1月の花で、スイレンとブーゲンベリアです。ブーゲンベリアは風のため画像が鮮明ではありません(笑)。

マダガスカルのブーゲンベリア


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[ 2018/01/02 07:25 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(10)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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