日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
2018 01
≪
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
≫
2018 03
月別アーカイブ [ 2018年02月 ]
百済はマレー系海洋系民族の国であった(邪馬台国と日本人) [2018/02/27]
万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字(日本語のルーツ) [2018/02/23]
伽耶はマレー系民族の国(邪馬台国と日本人) [2018/02/19]
3000年前に稲作民族は来たのか(稲作と日本人) [2018/02/15]
稲を持ち込んだのはマレー系の民族だ(稲作と日本人) [2018/02/11]
古代水田稲作で最も重要な農具(稲作と日本人) [2018/02/07]
水田稲作は鉄の農具があって初めて可能(稲作と日本人) [2018/02/03]
≪ 前月
| 2018年02月 |
翌月 ≫
百済はマレー系海洋系民族の国であった(邪馬台国と日本人)
百済はマレー系海洋系民族の国であった(邪馬台国と日本人)
蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍(上の写真参照)を出しております。そこでは、武寧王の時代、百済は中国南部の海南島付近まで進出し、そこに領土のような地域をもっていたことを紹介しております。
一方、拙ブログでは、百済は倭国と同じくマレー系民族の国であったことを指摘してきました。マレー系は海洋系民族でありますが、この書籍からも、そのことが伺えますので紹介します。
まず百済の歴史ですが、「
百済の建国と成長
」によれば、次のとおりです。
百済は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年の建国から660年の滅亡まで約700年間31人の王が在位した。建国当初は漢江(今のソウル)の中下流に位置する小国だったが、次第に周辺の小国を併合して成長した。漢江流域に慰礼城を築いて都を置いた百済は、その後、国の中興のために熊津(現在の公州)、泗沘(現在の扶餘)へと二度にわたり都を遷した。建国から、紀元後475年に高句麗に首都のソウルを奪われて熊津に遷都するまでの時代を、漢城時代と呼ぶ。また、公州に都を定めた475年からの時期を熊津時代、538年に聖王が泗沘に遷都してからの時期を泗沘時代と呼ぶ。熊津時代と泗沘時代の間に、百済は外国とも積極的な外交を展開した。その過程で科学と技術を発達させて優れた文化を花咲かせ、先進的な文化国家を築き上げた。その後百済は、660年、新羅と唐の侵略により都城が陥落し、その後3年にわたる激しい復興運動が起きたが、ついに国権を回復することができず命運が尽きた。百済は、高句麗、新羅とともに韓国の古代文化の発展の中核的な役割を果たし、東アジアにおける文化交流の中心を担った。先進的な文化を受け入れ、発展させて水準の高い新しい文化を生み出し、周辺国に伝えることで、東アジアの文化の発展に貢献したのである。百済という国は滅びたものの、百済の人々が創り出した豊かな文化は、百済の古都にその痕跡を残している。そして、百済の王都があった百済歴史遺跡地区は、百済文化の中心地として新たな文化の創造の土台となっている。(引用終了)。
そして、武寧王については、Wikipediaの『三国史記』の記述によれば次のとおりです。
東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。暗殺者の衛士佐平(禁軍を司る1等官)の苩加は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。これにより梁からは、もとの<都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>から<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>に爵号を進められた。523年5月に死去し、武寧王と諡された。(引用終了)
引用が長くなりましたが、「海洋大国 大百済」と言われるのは、武寧王(在位:502年 - 523年)の時代で、公州に都を定めた475年からの熊津時代の後期にあたります。日本では、古代の天皇のなかで実在したことが証明できる継体天皇の時代(在位:507年~531年)に当たります。
武寧王は、倭国で育ったといわれますが、百済に帰国後、大国の高句麗を破り、百済に建国以来にあった北の地(現在のソウル)を回復しました。その強大な軍事力から、梁(中国・南朝)からは、<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>という爵号をいただいております。また、仏教を熱心に取り入れ、その仏教文化を日本に紹介する基礎を作ったことでも知られております。
さらには、南方に国史を派遣し、ペルシャを含む多くの国々と外交関係を持ったこと、そして、海南島の北側に百済の地を残したと言われます。これが、海洋大国 大百済と言われる由縁でもあります。
その海南島の北側の場所を示しますと、下の図(地図)のとおりです。そこの住民は今でも地名を百済郷と言い、もと百済の臣民であった、と表記の書籍では紹介しております。
さらには、百済の名を使った現税務所の看板も紹介しています(下図参照)。
そこで、拙ブログの観点、すなわち、百済はマレー系民族の国であったことから推察しますと、百済が海外に進出し海南島北側に領土のような所をもったこと、それは、もともと、そこはマレー系民族の居た地域と思われます。百済は、それらの地域とは同じ民族としてのつながりがあり、武寧王の時代に、その関係が復活したと観ることができます。
まとめますと、魏志倭人伝に、北九州に居た倭国の人々の容貌や生活習慣は海南島の人々に似ているということが書いてありますが、このことは、倭国の人々のルーツは海南島当たりを指すと思われます。そして、海南島北側の地にも百済関係の人々のルーツがあることは、百済と倭国の人々のルーツは海南島あたりのマレー系民族であることを示していると思われます。
日本史ランキング
[ 2018/02/27 08:27 ]
未分類
| TB(-) |
CM(0)
万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字(日本語のルーツ)
万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字(日本語のルーツ)
拙ブログでは、マレー語の発音は日本語の発音とほぼ一致し、かつ、日本語の発音のルーツは万葉仮名にあることを指摘してきました。そして、日本語は、先住民族のアイヌ系言語をベースに、後に来たマレー系民族の発音様式が万葉仮名を利用する過程で取り入れられた、と推察しております。
すなわち、万葉仮名=日本語発音=マレー語発音になりますが、今回は、その万葉仮名(漢字)のルーツは、百済で使用された漢字にあることについて愚考します。
まず、万葉仮名は最初の日本文字ですが、仏教経典などと一緒に百済から6世紀頃導入されたと言われております。
百済は3世紀頃から中国に朝貢していたことが分かっています。このとき、中国は漢が滅びた後の魏・蜀・呉3国時代ですが、百済は、そのルーツからも地理的関係からも南方の呉の国と関係が深かったことが推察されます。
これらのことから想像しますと、3世紀頃、百済は中国の呉の国に朝貢する過程で漢字を導入し、それを万葉仮名風に地名や人名に使っていたと思われます。このような漢字の使い方は、中国が外国の地名や人名に使ってきた方法でもあります。
関連し、『三国史記』によれば百済近肖古王の治世(在位:346年 ~ 375年)に百済学者の高興が百済に文字を伝え、百済で初めて記録が残されるようになった、と言われております。
さらに、百済部寧王(在位:502年~523年)は、仏教に帰依し、512年と521年には中国南朝の梁に入朝して、仏教の導入を熱心に進めたことが知られております。そして、武寧王のあとを継いだ聖王(在位:523~554)も仏教に熱心で、百済は仏教建築文化の先進国となり、新羅や日本の建築文化にも大きな影響を与えたことが知られております。
漢字には南方系の呉音読みと北方系の漢音読みがありますが、以上の関係から、百済の万葉仮名は南方系の呉音読みとなります。そして、拙ブログでは、その百済の地名や王名の万葉仮名の読み方は百済人のルーツのマレー系民族の言葉であることを検討してきました。
さらに、拙ブログでは、中国の江南地域の「
中国の福建省の数え方
」は、イー、ジー、サン、シー、ゴ、ラ、チーであり、日本語にとても近いこと、これらの言葉のルーツは中国江南地方で使われてきた呉の国の発音(呉音)にあることも紹介してきましたが、この数え方のルーツも百済にあったと推察されます。
関連し、これらの関係を上と下の地図に示しました。
まとめますと、百済人はルーツがマレー民族でありますので、伽耶(カヤ=マレー語で豊かという意味)などのマレー語の地名等を万葉仮名風に漢字で表したと思われます。そして、それら百済の万葉仮名が仏教と共に日本に導入されたとき、日本でも同様に使うようになったのだと思われます。すなわち、万葉仮名のルーツは百済の万葉仮名にあったと結論されます。
そして、万葉仮名を長い間使っているうちに日本語の発音は万葉仮名風になり、結果として発音はマレー語風、漢字は呉音読みになったと推察されます。
以上、万葉仮名のルーツ愚考でした。
なお、このような日本語のルーツに関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリーの「日本語のルーツ」をクリックしますと今までの記事を見ることができます。
日本史ランキング
[ 2018/02/23 08:43 ]
日本語のルーツ
| TB(-) |
CM(0)
伽耶はマレー系民族の国(邪馬台国と日本人)
伽耶はマレー系民族の国(邪馬台国と日本人)
澤田洋太郎氏が「伽耶は日本のルーツ」(改定新版 2006)を発表しております(上の写真参照)。そして、伽耶は、鉄も産し、古代においては重要な鉄の供給源であったこと、さらには、王冠とか古代遺跡の埋蔵品では日本の古代遺跡と同じものが産出しており、日本と密接な関係があったことを紹介しております。
一方、拙ブログでは前回(4日前)、日本および朝鮮半島を含む東アジアの稲作地帯においてマレー系民族が現在も多数住んでいることを最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から指摘しました。
関連し、今回は、伽耶はマレー系民族の国であったことについて愚考します。
まず、伽耶ですが、伽耶も稲作を行っていたことは明らかですので、百済や倭国と同じくマレー系民族の一地域と判断されます。そして、伽耶をマレー語のkayaにすると、カヤ=kaya = rich=豊か、です。「伽耶は日本のルーツ」(改定新版 2006)では、伽耶は稲を産し、鉄を産し、たいへん豊かな地であった、とありますので、この言葉からも伽耶はマレー系民族の国であったと思われます。
そして、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から推察しますと、これまでの拙ブログの検討から、朝鮮半島と日本の民族と言語の状況は下表のような感じになります。
すなわち、伽耶はマレー系民族をベースに新羅からきたツングース系民族との混合民族、百済はマレー系民族をベースに中国系やツングース系の混合民族、そして、日本の倭国(北九州)はマレー系民族をベースにアイヌ系と新羅由来のツングース系民族との混合民族であった、と推察されます。
以上のことから、百済、伽耶、倭国(北九州)はマレー系民族を主体とした国ですのでマレー語が使われていた、と推察されます。古代において、朝鮮半島では日本人と現地人の区別はなく、言葉が通じていたという推察記事が散見されますが、それは、このようにマレー系民族が居た事情のためと思われます。
まとめますと、伽耶は、百済や倭国と同じマレー系民族を主とする国家であり、同じ民族の地域として古代においては積極的に交流し、このため争いは少なく、むしろ、ツングース系の高句麗や新羅に対しては共同して対応していた、と思われます。関連し、その様子を下の地図で示しました。
日本史ランキング
[ 2018/02/19 08:29 ]
未分類
| TB(-) |
CM(2)
3000年前に稲作民族は来たのか(稲作と日本人)
3000年前に稲作民族は来たのか(稲作と日本人)
弥生時代は菜畑水田遺跡を代表に3000年頃に始まったと言われております。そして古代稲関連の報告を概観しますと、稲作民族が来て水田稲作を始め、弥生時代が始まったという記事が圧倒的に多い感じがします。そこで、今回は、3000年前に稲作民族が来た可能性について愚考します。
前回、縄文時代の稲と弥生時代の稲が同じ種類であったことについて報告しました。一方、拙ブログでは、5000年前の三内丸山遺跡時代は、朝鮮半島と中国大陸(遼東半島)と交流があったことを紹介してきました。そして、その交易の中心民族には、アイヌ系の後に住み着いたマレー系民族が積極的に関係していたことを指摘してきました。
何度も指摘していることですが、最近のDNA研究で、日本にはアイヌ系35%、マレー系30%、中国系とモンゴル系の混血のツングース系が30%、その他が5%ということが分かっています。
そして、5000年前の日本の民族を概観しますと、先住民族のアイヌ系が日本全国に、その後、1万年前頃からマレー系民族がきていたと拙ブログでは推察しております。マレー系は稲作民族であり、かつ海洋系民族です。おそらく、東北の山内丸山にもマレー系の人達は居て、そこのマレー系の人々は海洋民族の特性を生かし中国と海洋交易をし、一方、西日本にいたマレー系の人々は稲作民族の特性を生かし陸稲を作り、同じ民族として交流があったと思われます。
すなわち、それらのマレー系民族が、山内丸山遺跡に中国産の物品を残し、西日本に稲の遺跡(プラントオパール)を残したことになります。
そして、弥生時代が始まったと言われる3000年前のことですが、江南地方の水田稲作技術、そして鉄の農具が知られるようになると、それらの情報と農具がマレー系民族によって西日本を中心に伝わり、2500年前頃から弥生時代に向かっていったと思われます。
最近のDNA研究で、江南地方、さらに北に位置する山東半島、そして朝鮮半島にマレー系民族が現在も多数住んでいることが分かっていますが、3000年前当時も、それらの地域にマレー系の人々が多数住んで居たことが予想されます。そして、マレー系の民族は海洋系の民族ですのでお互いに交流交易をしていたことが予想されます。
関連し、稲作発祥の地と言われる中国とその周辺におけるマレー系民族の割合を上の地図に、そのベースとなるDNA情報を下表に示しました。
一方、北九州で水田が作られ始めた3000年前と稲が作られ人口が増え始めた2500年の間には500年という期間がありますが、この期間に弥生人が来て人口が急速に増加した様子は、遺跡の数から当時の人口を推定した
小山(1984)のデータ
からは見えません。
また、縄文時代から弥生時代にかけて、住居は多くのところで高台から低地に少しずつ移動していったことが知られていますが、これは、低地で稲を作るため移動していったためと推察されています。
まとめますと、マレー系の民族は、縄文時代から日本各地で陸稲を作っており、その人達が、3000年前~2500年前の間に、大陸から鉄器を導入して水田稲作を始めた可能性が高いと判断されます。すなわち、マレー系民族は、もともと陸稲栽培などをして住んでおり、鉄器の農具を得て水田開発のため少しずつ低地に移動していった、と考える方が普通と思われます。
日本史ランキング
[ 2018/02/15 08:14 ]
未分類
| TB(-) |
CM(4)
稲を持ち込んだのはマレー系の民族だ(稲作と日本人)
稲を持ち込んだのはマレー系の民族だ(稲作と日本人)
これまでの古代稲の報告を概観しますと、稲作民族が来て水田稲作を始め、弥生時代が始まったという記事が圧倒的に多い感じがします。関連し、今回は、その稲作民族はマレー系の民族であったことについて愚考します。
拙ブログでも紹介していることですが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ解析)から、現在の日本民族は、アイヌ系が35%、南方系のマレー系が30%、中国系とモンゴル系の混血混合民族の北方系ツングース系が30%、その他5%です。この中で稲作民族というのはマレー系だけです。マレー系民族が稲導入に積極的に関わったことは間違いないと思われます。
そして、マレー系民族が稲を持って何時頃から日本に来たかを検討しますと、それは、縄文時代に稲遺跡のある場所になりますが、それは上の表のとおりです。
まず、1.2万年前の鹿児島県の火山灰土地層から稲のプラントオパールが発見されております。この1.2万年前というのは、マレー系民族が住んでいたインドネシア当たりのスンダランドの多くが海に沈んで行く時期で、この頃、新天地を求めて移住を始めた時代とも言われます。また、稲について言えば、中国で最古の稲遺跡が江南地方で発見されている時代でもあります。
鹿児島県の1.2万年前の稲遺跡が本当なのか、研究者は慎重な対応をしていることが、その報告書「
九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討(平成14年度研究 プロジェクト報告)
」に認められます。
しかし、拙ブログでは、それはありうることで、さらに研究が進み、西日本の多くのところで同時期の稲のプラントオパールが発見されれば定説になると思っております。
一方、岡山県の6000年前の遺跡ですが、これは多くの研究者の支持が得られているようで、6000年前以前に稲が持ち込まれ、栽培されたことは間違いないと思われます。
そして、その縄文時代の稲と弥生時代の稲の関係について検討しますと、例えば、4000年前の熊本の遺跡の籾の圧痕ですが、弥生時代の稲と変らないことが確認されています。すなわち、稲については縄文時代も弥生時代も同じものであったことになります。そして、それを使っていたのは、稲作民族のマレー系以外に考えられないことになります。
DNA研究、Y染色体ハプログループ解析とは?
参考までに、DNA研究におけるY染色体ハプログループ解析について、初めての人のために紹介しますと、次のような感じです。
男性か女性を決める染色体にXとYがあります。XYが男性、XXが女性になるわけですが、Y染色体は男性にだけあり、父親から男の子供に引き継がれることになりますので、そのY染色体をたどると父親のルーツが分かることになります。
このY染色体は、巨大なDNA配列の塊からできており、かつ、そのDNAの配列から種類を細かく分類できますので、人類の祖先のDNAを分類するのに最適と言われております。
たとえば、Y染色体ハプログループがD型ですと、それはアイヌに多い型ですので、その人の男親のルーツはアイヌ系となります。そして、このD型という分類は、10万年経過しても、マイナー変化はありますが、D型のままで変わることはありません。
日本史ランキング
[ 2018/02/11 08:20 ]
未分類
| TB(-) |
CM(6)
古代水田稲作で最も重要な農具(稲作と日本人)
古代水田稲作で最も重要な農具(稲作と日本人)
アジアの天水田では、雨期に雨水を貯め、その水で稲作を行いますので、立派な畦を作るのが普通です。一方、私は、ナイジェリア西隣側にありますベナン国(もと奴隷海岸)でアフリカ稲の開発のために2009~2011年の2年間従事しました。そのとき、アフリカ大陸の伝統的天水田を見ましたが、畦がないのには驚きました。
アフリカの天水田に何故畦が無いのか考えますと、畦を作るための鋤などの農具がないこと、歴史的に畑作が中心のため稲は陸稲が中心であり、水田を作る発想が弱かったことが考えられます。関連し、今回は、古代水田稲作で最も重要な農具について愚考します。
まず、上と下の写真は、大陸アフリカの焼畑農耕民の農具で、木を伐採するための蛮刀(Cutlass)と除草用の小さなアフリカ鍬(African how)です。彼らが持っている農具はこれらだけです。
一方、私は、マダガスカルで2015~2017年に稲開発に従事しましたが、ここは棚田を中心とした伝統稲作が盛んで、アジアから移住したマレー系の人々が水田稲作をしていました。そして、農具ですが、マダガスカルの農民は鋤(すき)を持っていました。その様子を下の2枚の写真で示します。
この写真では、鋤1本で、水田を耕していることが分かります。彼らは、この鋤1本を使い、少しずつ水田を耕し、水を入れ、代掻きを行い、田植えをしていました。アフリカの焼畑は、焼いた後、掘り棒で穴を開け、そこに播種し、雨で発芽した後は、簡単な除草を行うだけの作業ですが、マダガスカルと大きな違いがあります。
おそらく、この鋤があるかないかが大陸アフリカ稲作とマダガスカル稲作の違いだと思います。そして、マダガスカルはアフリカではなくアジアだ、と言われるのも、この農具の差ではないかと思われます。
まとめますと、水田稲作に最も重要な農具、それは土を掘り返すための鋤と思われます。この農具は、前回も紹介しましたが、古代には、このような農具を用いて水田の畦作りや水路の造成等を行っていたと思われます。
日本史ランキング
[ 2018/02/07 08:04 ]
未分類
| TB(-) |
CM(8)
水田稲作は鉄の農具があって初めて可能(稲作と日本人)
水田稲作は鉄の農具があって初めて可能(稲作と日本人)
稲作と関連し、弥生時代開始期を3000年前からとするのは早すぎることについて前回(1月10日)検討しました。今回は、水田稲作は鉄の農具があって初めて可能であることについて愚考します。
水田稲作は、畑作と比較し、水が栄養を運ぶため肥料を入れなくとも収量があり、日本の歴史を作った作物と高く評価され、そのためか、古代稲作について調べますと、その水田稲作のルーツは何処か、誰が持ち込んだか等の議論が多い感じがします。
一方、古代稲研究者の佐藤洋一郎らの研究により、稲が4000年以上前から他の作物に混じって畑地で栽培されていたことは周知の事実になりつつあります。最近の研究を見ますと、縄文稲と弥生稲は日本型の稲で同じという結論になっています。ということは、弥生時代に水田が作られましたが、そこに先に導入されていた縄文稲が作られた可能性があります。
一方、水田を考えた場合、水を貯めるための畦作り、水路の造成、いわゆる土木工事が必要となります。しかし、水田を作るための鉄製の農具がなければ、それはできません。木製の農具とか木を伐採するための石器はありましたが、それらで水田を作ることは困難です。
そこで、2500年前頃、鉄製の農具が中国から入ってきて、水田稲作が初めて可能になった、と言えましょう。前回紹介の弥生時代の人口変化で、鉄の導入時期から増加に転じたのは、そのことの証拠と思われます。
鉄については、「稲と鉄」(さまざまな王権の基盤)という書物が1983年(昭和58年)に出版され、それに詳しく研究の結果が紹介されています(上の写真参照)。それによると、鉄利用には、①製品を大陸から導入し利用、②鉄を加工し利用、③鉄を生産し利用、の3段階があり、①の時期は短く弥生初期の時代だけで、②の時期が弥生中期に起きている、とあります。
弥生中期を1世紀頃としますと、日本では、九州で人口増大が進み、奴国が中国に朝貢したときであります。この時代、奴国で鉄加工ができていた時代であり、原料の鉄を求めて、朝鮮半島を経て、中国と交流しようとしていた様子を想像することができます。
まとめますと、水田稲作は鉄の農具があって初めて可能であり、それを大陸から移入できた北九州において、2500年前頃から水田稲作が開花し、さらに1世紀には鉄加工技術が加わり、水田稲作と、それを支える鉄が全国に広がっていったと予想されます。
なお、下の写真は、「稲と鉄」にある図表および写真で、水田稲作は北九州から広がった様子、その下の写真は鉄を使った農具で、木製の鋤(すき)の先端に鉄をはめ込んであります。
日本史ランキング
[ 2018/02/03 08:19 ]
未分類
| TB(-) |
CM(4)
|
HOME
|
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
カテゴリ
天皇家はアイヌ系 (27)
ブログの概要(記事まとめ) (24)
天皇家のルーツと日本文化 (6)
古代史の問題 (37)
古代史の虚像と書籍 (18)
日本人のルーツ (30)
日本語のルーツ (17)
日本書紀は創作 (9)
日本の古代 (8)
関東・東北の古代 (26)
西日本の古代 (40)
縄文思想と日本人 (33)
アメリカ先住民族と日本人 (13)
縄文時代と日本人 (20)
古墳と日本人 (11)
ごあいさつ (18)
未分類 (157)
邪馬台国の真相 (1)
最新記事
邪馬台国の真相、はじめに、大分で良いのか (03/17)
次のまとめ課題 (03/10)
天皇家はアイヌ系 終わりに (03/03)
鉄器はツングース系が持ち込んだ (02/24)
巨石文化のルーツもマレー系 (02/17)
最新コメント
レインボー:邪馬台国の真相、はじめに、大分で良いのか (03/18)
motomasaong:邪馬台国の真相、はじめに、大分で良いのか (03/17)
レインボー:次のまとめ課題 (03/13)
motomasaong:次のまとめ課題 (03/13)
レインボー:次のまとめ課題 (03/13)
MOKUZOUSI:次のまとめ課題 (03/12)
レインボー:次のまとめ課題 (03/12)
リンク
日本の与党は変じゃない?
鉛筆語り
現代謡曲集 能
日本古代史つれづれブログ
しばやんの日々
東国の古代史
子ども達の未来のために
鬼と仏の国東半島めぐり
野菜を食べやさい
相模湾 海から見る風景
ビーチサイドの人魚姫
古墳なう
神秘と感動の絶景を探し歩いて
差別と歴史上の人物
滋味コフン
KOREA 駐在おやじの韓国紹介
日本百名城の旅
歴史タイムス ~ 古今東西歴史遺跡化石ニュース
オトーサンの忘備録(R50+)
カメさんと遺跡
ダイエットとケセラセラ日記
中国通史で辿る名言・故事探訪
文学のメロンボール IN 香港
哲学日記 1日はあっという間に過ぎ去る
ぴーちゃんは鳥なんだから★猫ちゃんプラス!
僕の幸せアンテナ♪
ニートが社会について考えるブログ
風まかせ
それでいいの
森散歩
神姫者の巣
MOKUZOUSIのぶらぶらスケッチ
行きたい!素敵なジャパネスク
ペイシューの ダメ詰まり囲碁日記
地球ワーキングトラベラー見聞記
~山の上から地の果て、水の中まで~
空を見る余裕
クラカスはつらいよ弐
東村フォト日記帳(A digiphoto diary by CHIBI in East Village)
= 水行20日、水行10日陸行1月の呪縛 =
健康オタクの目移り
光と影、夜と昼。
振り返りの多いこと
古墳とかアレ 出張所
管理画面
このブログをリンクに追加する
RSSリンクの表示
最近記事のRSS
最新コメントのRSS
ブロとも申請フォーム
この人とブロともになる
QRコード
月別アーカイブ
2023/03 (3)
2023/02 (4)
2023/01 (5)
2022/12 (5)
2022/11 (4)
2022/10 (4)
2022/09 (5)
2022/08 (4)
2022/07 (4)
2022/06 (5)
2022/05 (4)
2022/04 (4)
2022/03 (5)
2022/02 (4)
2022/01 (5)
2021/12 (5)
2021/11 (4)
2021/10 (5)
2021/09 (6)
2021/08 (4)
2021/07 (5)
2021/06 (4)
2021/05 (4)
2021/04 (5)
2021/03 (4)
2021/02 (3)
2021/01 (5)
2020/12 (6)
2020/11 (7)
2020/10 (6)
2020/09 (6)
2020/08 (7)
2020/07 (6)
2020/06 (7)
2020/05 (6)
2020/04 (6)
2020/03 (6)
2020/02 (6)
2020/01 (7)
2019/12 (6)
2019/11 (6)
2019/10 (7)
2019/09 (6)
2019/08 (6)
2019/07 (6)
2019/06 (6)
2019/05 (5)
2019/04 (5)
2019/03 (8)
2019/02 (7)
2019/01 (8)
2018/12 (8)
2018/11 (8)
2018/10 (7)
2018/09 (8)
2018/08 (8)
2018/07 (7)
2018/06 (8)
2018/05 (8)
2018/04 (7)
2018/03 (8)
2018/02 (7)
2018/01 (8)
2017/12 (12)
2017/11 (15)
2017/10 (16)
2017/09 (15)
2017/08 (15)
2017/07 (15)
2017/06 (15)
2017/05 (15)
2017/04 (14)