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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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五経博士受け入れによる文書作成と継体王(日本語のルーツ)

百済の武寧王の五経博士派遣


五経博士受け入れによる文書作成と継体王(日本語のルーツ)

百済は、武寧王(在位:502年~523年)の時代、大国の高句麗を破り軍事的に強国となり、海外の国とも交流し、海洋大国とも言われるようになったことを紹介してきました。一方、日本との関連では、当時の継体王(天皇在位:507年~531年)を男弟王と呼び義兄弟関係にあったことを紹介してきました。

今回は、百済の武寧王が五経博士を継体王のもとに513年から日本に送り、日本の近代化に協力したこと、そして漢字(万葉仮名)導入もこの時期であったことについて愚考します。

武寧王は当時6世紀初頭の中国の南朝(梁)に朝貢し、大王の称号を得ますが、同時に積極的に仏教文化を取り入れています。また、継体王の時代、日本に五経博士を派遣しています。武寧王の子の聖王が日本に仏教を伝えたともいわれますが、ベースを作ったのは武寧王に間違いありません。

そして、万葉仮名伝来ですが、これは仏教と一緒に538年に伝わったと言われますが、それ以前の五経博士時代の513年の可能性もあります。五経博士とは易経、詩経、書経、春秋、礼記に精通した百済の儒学者ですので、当然のことながら漢字を自由に扱うことができます。

百済の武寧王は、北九州の倭国王であったときは倭王武と呼ばれていたことを紹介したことがありますが、そのとき継体王と出会い、畿内の大王は文字を持たないことを知ったのだと思います。そして、百済で部寧王となったとき、継体王の下に五経博士を送り、文書作成ができるように協力したのだと思われます。

その結果、継体王は、五経博士の助けを借りて史部という文書作りの部署を作ることができるようになったと思われます。すなわち、文書の始まりも歴代天皇では継体王からとなります。

なお、継体王と倭国のいくつかの関係から、継体王は倭国の出身という説がありますが、まだ証拠は十分ではない感じがします。

まとめますと、継体王は、百済の武寧王の支援を得て五経博士を受け入れ、漢字(万葉仮名)を導入し、文書作成が可能になったと思われます。その後、その文書作成は、遣隋使国書、さらには、聖徳太子の17か条の憲法など政治刷新に生かされていった、と思われます。その意味で、継体王は日本の基礎を作った王と思われます。

なお、上の地図は五経博士派遣の流れです。

また、関連し、奴国(福岡市博多区)のあった「比恵遺跡群(奴国)で古墳時代(3世紀後半)の石製すずりの一部が発見された」という記事がありましたので引用しておきます。
 
遺跡群は古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の中心部にあり、邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見だという。[西日本新聞・グノシー・毎日新聞](引用終了)

すなわち、倭国(北九州)では3世紀の邪馬壱国(邪馬台国)時代から文書が作られ、中国に朝貢していたことが伺えます。一方、畿内では、表記の五経博士時代(513年)時代から文字が使われ始めたと思われます。


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[ 2018/03/31 07:30 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(6)

継体王が実質の初代天皇、国造など初めての日本支配制度(邪馬台国と日本人)

本継体天皇の


継体王が実質の初代天皇、国造など初めての日本支配制度(邪馬台国と日本人)

篠川賢(しのかわ・けん)氏が「継体天皇」(2016)という書籍を出しております(上記写真参照)。その書では、継体王が初めて国を管轄する部署(部民制度)や地方支配の制度(国造)を設けたことなどを紹介しておりますが、これは、日本が初めて国らしい組織を持ったことを意味します。

今回は本書を参考に継体王の日本統一の実像に迫ります。

まず、武民制度ですが、これは職務分掌制度で、このことにより行政区分ができたようです。そして、それぞれの職務部署はそれぞれの有力氏族にあてがわれ運営されたようで、このことにより、有力氏族が大王(天皇)を内側から支えた雰囲気が感じられます。

この制度の由来について、百済の制度を真似たものであることが指摘されておりますが、この時代、百済の武寧王は五経博士を日本に派遣しておりますので、その指摘は当たっていると思われます。

一方、地方支配の制度として国造(くにみゃっこ)の制度を継体王が作ったと言われます。これは地方の豪族に国造としての役職を与え、地方の管理を任せ、大王(天皇)を地方から支える役割を持たせることを意味しますが、その後の国司制度のもととなったと言われております。また、この制度も百済から学んだと言われております。

この国造制度は、地方の豪族(大王)の了解のもとに使われることになりますが、この時代(6世紀前半)、どれだけの大王が継体王に従属していたかは不明です。少なくとも、北九州の倭国、関東の大王は組み込まれていなかったことが、中国の歴史書で見ることができます。

まとめますと、日本は6世紀前半の継体王の時代、ようやく行政制度そして地方管理制度が整ったと思われます。その意味で、継体王が実質の日本初代大王(天皇)と思われます。

関連し、国造制度と地方豪族の関係を下の地図に示しました。

継体王の日本統一


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[ 2018/03/27 09:17 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

継体王、小さな王宮、初代天皇か(邪馬台国と日本人)

継体天皇の書籍(西川ら)


継体王、小さな王宮、初代天皇か(邪馬台国と日本人)

継体王については、実在を確認できる最初の大王(天皇)として前回に紹介しました。一方、西川寿勝氏らが「継体天皇 二つの陵墓、四つの王宮」(2008)という書籍を出しております(上記写真参照)。

そこでは、陵墓と王宮跡がほぼ確認できたことを紹介しております。その王宮跡は、6世紀当時、豪華絢爛であったと言われる倭国の都の大宰府と比較しますと、質素で、その意味で興味深いところがあります。

関連し、今回は、その書籍を参考に、継体王は初代天皇であったことについて愚考します。

まず、継体王は大和とは関係のない越前(福井県)の出身の豪族で、応神天皇の子孫であることになっていますが、系譜について確認はできておりません。また、それ以前の大王(天皇)については、日本書紀と古事記に名前があるだけで実在を証明できたものがありません。その意味で、継体王が初代天皇という説もあります。

次に陵墓ですが、今城塚(いましろつか)古墳が有力と指摘されております。書籍にあった地図を参考に、改変して、その場所を下に示しました。その墓は前方後円墳で全長190mと中程度の大きさですが、最大規模の埴輪祭祀場が見つかったことが特徴かと思います。そこから、家、武人、巫女、牛、鶏など多様な埴輪群像が出土していますが、形がリアルで芸術性も高いと言われています。

継体王の陵墓と王宮場所

さらに、その古墳近くには、埴輪生産場所(工場)、馬飼い場所、最初の王宮(樟葉宮 くずはのみや)跡や人々の集落跡が見つかっており、当時の様子が生き生きと蘇ってくる感じです。特に、馬飼い場所は、百済との関係を示すものが出土しており、最初の渡来人跡という解説がありました。

その渡来人跡から、拙ブログで紹介してきました継体王と百済武寧王の関係を観ることができます。さらには、北九州の倭王を別にすれば、継体王は日本で最初の外交をした大王と思われます。

そして、最初の王宮(樟葉宮)から想像しますと、大きな住居跡はなく、王宮と呼ぶには質素で、北九州の倭王の都(大宰府)とは比べようのない小さなものでした。そして、余談ですが、これが、日本の大王(天皇)の王宮であるなら、この王宮は地方の大王にふさわしい規模であり、その意味で、継体王は我が国最初の大王(天皇)であったと思われます。この時代、日本統一は始まったばかり、という感じでしょうか。


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[ 2018/03/23 07:54 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

武寧王と継体王は義兄弟の関係(邪馬台国と日本人)

倭王武(武寧王)と継体王の接点


武寧王と継体王は義兄弟の関係(邪馬台国と日本人)

蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍を出しております。そこでは、和歌山県の隅田八幡神社の人物画像鏡の銘文を解釈すると、百済の武寧王は日本の継体王を男弟王と呼んでいたことが分かる、と指摘しております。関連し今回は、百済の武寧王と継体王の関係について愚考します。

百済の武寧王(在位:502年~523年)につては、高句麗を破り、百済を強国にした王として紹介してきました。一方、継体王(天皇在位:507年~531年)ですが、北陸(福井)の出身で、百済の歴史書にも出てきており、実在を証明できる歴代天皇の最初の王と言われています。

それでは継体王以前の王ですが、日本書紀と古事記に記されているだけです。中国や百済などの歴史書にはなく、実在を証明できるものがありません。また、歴代天皇に対応する古墳ですが、決定的な証拠はなく本当は誰の墓なのか推定の域をでていない状況にあります。

因みにブログ仲間の記事「古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎」によりますと、古代天皇陵の実際の場所は大半が不明であることが詳しく紹介されています。その意味で、実在が確認できる日本の天皇は継体王から始まるというのは本当だと思われます。

そこで、本題の、隅田八幡神社の人物画像鏡の銘文の解読ですが、Wikipediaによりますと次のとおりです。

(大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。(引用終了)

表記「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」によれば、癸未の年とは503年のこと、男弟王は継体王のこと、斯麻は部寧王の百済での呼び名です。この解釈によれば、銘文は「503年、大王斯麻(武寧王)は男弟王(継体王)の長寿を祈願するため、開中費直と穢人今州利の二人に命じて良質の白銅二百旱でこの鏡を製作した」となります。

そして、「百済の武寧王」の記事によれば、「最後に百済と同時代に存在した北東アジア古代国家との関係を調べると、多くの王家が結婚という形で関係を結んだことがわかる。英国の「ガーディアン」紙のインタビューで明仁天皇が「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べたこともある。」とあります。

この記事から推察しますと、まさに、武寧王と継体王は義兄弟のような関係であり、武寧王が継体王を男弟王と読んだ関係が分かるような気がします。

この関係は、武寧王は若いときは倭国(北九州)で倭王武と呼ばれていたこと、継体王は北陸(福井)の出身で、北九州の倭国と海で繋がっていたということが遺跡の埋蔵品から分かっています。ここに、武寧王(倭王武)と継体王の接点を観ることができます。

関連し、上の地図は部寧王と継体王の関係を示した地図です。

また、下の写真は、Wikipedia にあります和歌山県の隅田八幡神社の人物画像鏡です。銘文が周囲に記入されていることが分かります。

和歌山県の隅田八幡神社の人物画像鏡


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[ 2018/03/19 08:24 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

倭王武は百済の武寧王になった(邪馬台国と日本人)

倭王武は百済の武寧王になった


倭王武は百済の武寧王になった(邪馬台国と日本人)

森友文書の改ざんで戦後民主主義の危機が叫ばれております。普段テレビを見ない小生も毎日テレビで状況をみています(笑)。部下に責任を押し付けている方が居られますが、日本的でない感じがします。この問題は、後ほど検討したいと思います。

さて、蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍を出しております。朝鮮半島南部と北九州を支配下においた偉大な大王であります倭王武について紹介してきましたが、その書では、倭王武は青年時代を倭国で過ごし、その後、故郷の百済に戻り武寧王になった、と指摘しております。関連し今回は、倭王武と百済の武寧王の関係について愚考します。

日本の歴史に、空白の4~5世紀という言葉があります。魏志倭人伝にあります3世紀の邪馬壱国(邪馬台国)の後、4~5世紀については倭の5王と広開土王碑文以外の資料はありません。この時代を、百済、北九州の倭国、その他の日本に分けて年表を作りますと、下の表のような感じかと思います。

百済、倭国、その他の日本の古代

すなわち、この時代、倭国(北九州)以外の日本においては、継体王が現れるまでは、各地方の大王が大規模な前方後円墳を作っていた時代で、歴史に残るような事件は無く、まさに空白の時代だったと思われます。

前回、倭王武は、新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事を司る鎮東大将軍として中国(梁:南朝)から認められ、朝鮮半島南部から北九州の地域を支配する大王になったことを指摘しました。

当時、高句麗は中国と対立していました。そのとき、倭国が百済を助けるために高句麗と399~404年に戦ったことが広開土王碑文に記されておりますが、そのことが中国から評価されたと思われます。

一方、表記「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」によれば、この倭王武(在位:477~502年)は後の百済部寧王(在位:502~523)の少年時代であった、と指摘されております。

そして、倭王武は宋に478年に遣使して上表文を奉り、高句麗に侵略されている百済の現状を憂い、百済への支援を求めたことが紹介されておりますが、この上表文の内容は、同じく百済が中国に求めた上表文とほぼ同じものであったとも指摘されております。すなわち、倭王武は百済の王の子孫なので、このような上表文を送り、中国に支援をもとめた、ということになります。

一方、武寧王は倭国で生まれ育ったこと、502年に百済に帰国し、高句麗を破り、百済を強国にしたことが知られております。その在位年は502年~523年であり、倭王武の在位年の477~502年の後になっており、在位年の前後関係もぴったりと合っています。

さらには、502年以降、倭王武のことは分からなくなっています。このことは、倭王武=百済武寧王であり、関連し、北熊本にある江田船山古墳出土の冠帽などの宝物は、倭王武が百済経由で入手したものであったことを推察させます。

以上のことから、倭王武が部寧王の少年時代であったという指摘は当たっている可能性が高いと思われます。そして上の地図は倭王武が、百済に行き武寧王になった流れを示したものです。


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[ 2018/03/15 08:21 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

エカタシロ大王寺の「寺」の意味と鉄剣作成場所(邪馬台国と日本人)

金錯銘鉄剣の作られた場所と流れ


エカタシロ大王寺の「寺」の意味と鉄剣作成場所(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは埼玉古墳出土鉄剣碑文について記されている大王の名(獲加多支鹵)は、通説の「ワカタケル」でなく「エカタシロ」であり、慈悲深い大王の意味であることを指摘してきました。また、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣碑文について、鉄剣碑文関係の「関東の大王の墓」がどこにあるのか前回、検討しました。

一方、鉄剣碑文には「エカタシロ大王寺」という言葉があり、この「大王寺」の「寺」の意味は何か不明です。寺は「エカタシロ大王の個人名」とか、「役所の場所」とか説がでておりますが、すっきりした解釈にはなっていない感じです。関連し、今回は、この寺の意味について愚考し、あわせて、鉄剣がどこで作られたについても愚考します。

まず、熊本県の江田船山古墳出土では同じ大王名のある鉄剣銘文が出ておりますが、そこでは「エカタシロ大王世」(解釈は「エカタシロ大王の世」)となっており、疑問は出ておりません。

一方、この鉄剣碑文は我が国最初の万葉仮名文字とも言われております。そこで、寺を万葉仮名に置き換え、寺=じ=時、とするのはどうでしょう。じ(時)とすると、「エカタシロ大王のじ(時)」となり、問題はありません。そして、万葉仮名にこのような使い方があるのか、さらに検討する予定です。

一方、その鉄剣については、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称され、高度な技術が使われており、どこで作られたのか、これも明確になっていません。当時5世紀後半の畿内政権は雄略天皇時代と言われますが、畿内ではこのような鉄剣は発見されておらず、かつ、このような高度な技術があった可能性は低いと思われます。

5世紀当時、そのような技術があったと思われる場所は百済と交流のあった北九州の倭国だけです。特に、大宰府は倭国の都とも言われる場所で、鉄剣持ち主(乎獲居臣)は、おそらく倭国に依頼したのではないでしょうか。

この理由として、三つのことが考えられます。

一つは、技術的に倭国以外、作れる技術者はいないことです。

二つは、熊本県北部にある江田船山古墳出土の鉄剣銘文に、同じく「エカタシロ大王」という名前が使われていて、これも同じ倭国で作られた可能性が大です。

三つは、その鉄剣にあるエカタシロ(獲加多支鹵)がマレー系の名前であることです。倭国はマレー系民族の国と拙ブログでは推察しておりますが、「エカタシロ大王」はマレー語で「慈悲深い大王」の意味があり、倭王武がその大王であることを前々回に紹介しました。すなわち、鉄剣碑文にこのようなマレー系の言葉があるのは倭国以外には考えられません。

関連し、上の地図は、金錯銘鉄剣の流れです。おそらく、倭国の都と言われていた大宰府で作られたものと思われます。5世紀後半は、朝鮮半島南部と北九州を管轄していた倭王武の時代で、大宰府はそれらの中心でした。中国そして先進国の百済と同程度の技術があった場所は日本では大宰府以外に考えられません。

因みに、「太宰府は、倭国の都だった!?(4) ~太宰府は当時の東アジア最大の羅城だった!」とブログ仲間が紹介しております。


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[ 2018/03/11 08:32 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

関東の大王は太田天神山古墳に眠っている(邪馬台国と日本人)

「関東古墳散歩」(相原精次・三橋浩著、増補改訂版 2009)


関東の大王は太田天神山古墳に眠っている(邪馬台国と日本人)

埼玉古墳出土鉄剣碑文に記されている大王については、有名な古田武彦氏の「関東に大王あり」が知られております。そこでは、大王は栃木県藤岡町辺りに居たと推定されておりますが、古墳の分布から見ますと、当時の中心地は毛の国(群馬県)であり、決定的な結論にはなっていない感じがします。

一方、関東には多くの古墳があることが知られておりますが、それらをまとめた「関東古墳散歩」(相原精次・三橋浩著、増補改訂版 2009)という書籍(上の写真参照)が出ております。今回は、この書籍を参考に関東の大王墓はどこにあるのか、愚考します。

まず、拙ブログでは埼玉古墳出土鉄剣碑文について記されている大王の名(獲加多支鹵)は、通説の「ワカタケル」でなく「エカタシロ」であり、慈悲深い大王の意味であることを指摘してきました。そして、畿内大和政権とは別に関東に大王が居たことを示唆しました。そして、前回、そのエカタシロ大王は倭王武であったことを紹介しました。

碑文入り鉄剣は、エカタシロ大王の時代に関東の大王に使えた者が、自分と家族を称えるために残したもので、大王の墓は鉄剣の出た埼玉古墳とは別の所にあることになります。このため、その大王墓の前提条件として、①鉄剣碑文の出た古墳と同築造年代であること(5世紀後半)、②鉄剣碑文の出た古墳に近い所、③大王に相応しい大規模古墳であること、が求められます。

そこで、上記書籍を参考に、古墳を選定しますと、「太田天神山古墳」が有力と思われます。これしかないという感じでもあります(笑)。まず、①の築造年ですが、5世紀中期~後期とありOKです。ついで、②の場所ですが、群馬県東部の太田市ですのですぐ近くという感じでOKです(下の地図参照)、そして、③規模ですが、墳長210mで関東最大、大王の墓として申し分ないサイズとおもわれます。

毛の国大王墓

さらに詳しく検討しますと、鉄剣作成年ですが、辛亥年とあります。辛亥年は471年か531年ですが、鉄剣出土の稲荷山古墳の築造年代は5世紀末ですので、鉄剣製作年は471年が妥当と思われます。

一方、上記書籍によれば、6世紀頃のこととして、稲荷山古墳近くの埼玉県笠原の地あたりに居た武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵が争いをし、笠原は大和朝廷に、小杵は上毛野(群馬県)に助けを求めた、という常陸国風土記の記事が紹介されております。このことは、群馬県に大和朝廷とは別に地域のリーダー(大王)が居たことを示します。

以上のことから推察しますと、5世紀、群馬に巨大な古墳を残すような大王が居て、その力は6世紀まで続いたと思われます。そして、その大王こそが鉄剣碑文にある関東の大王であったと思われます。

一方、中国の旧唐書の記述をもとに、6世紀頃、「関東地方は大和政権に属さない毛の国」であったことを拙ブログでは紹介したことがありますが、上記「毛の国の大王」の存在は、この旧唐書の記事とも合致します。

以上、関東の大王の墓愚考でした。


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[ 2018/03/07 08:14 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

鉄剣銘文の獲加多支鹵大王は倭王武 (邪馬台国と日本人)

江田船山古墳出土金銅制冠帽


鉄剣銘文の獲加多支鹵大王は倭王武(邪馬台国と日本人)

蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍を出しております。そこには、拙ブログでも紹介しました熊本県の江田船山古墳の鉄剣銘文に記された獲加多支鹵(エカタシロ)大王についても言及しております。関連し、今回は、その江田船山古墳出土の鉄剣銘文のエカタシロ大王は倭王武であった可能性について愚考します。

まず、拙ブログでは、その鉄剣銘文の大王の名(獲加多支鹵)は、通説の「ワカタケル」でなく「エカタシロ」であり、慈悲深い大王の意味であることを指摘してきました。そして、江田船山古墳の埋葬者はエカタシロ大王から銘文入り鉄剣を授与された王であったことを推定しております。

一方、「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」では、江田船山古墳からは、エカタシロ大王という銘文入り鉄剣だけでなく、豪華な金銅制冠帽や金銅履などが出土しており、しかも、それらの装飾は精巧な技術で作られており、その時代の百済の地域王侯の王墓の副葬品と同様のものであることを指摘しております。そして、これらの副葬品から、金銅制冠帽などは百済の王から頂いたもので、江田船山古墳の埋葬者は、身分は百済の王侯(地方の王)の一人であった、と指摘しております。

関連し、上の写真は、Wikipediaにあった江田船山古墳出土の金銅制冠帽(国宝)です。一方、下の写真は、「百済の武寧王」の王陵出土の金制冠飾りです。

武寧王陵出土金制冠飾


5世紀後半の当時、畿内の大和政権は雄略天皇の時代と思われますが、畿内の墳墓からこのような豪華な副葬品は発見されていないことから推察しますと、この「江田船山古墳の埋葬者は、身分は百済の王侯(地方の王)の一人であった」という指摘は、論理的であり、妥当な推察と思われます。そこで、その時代の大王は誰であったか推察しますと、古墳建造の時期から倭王武以外に考えられません。

因みに、倭王武(在位:477年~502年)は、Wikipediaによれば、中国の歴史書に次のように紹介されています。



南斉書』列伝: 南斉の建元(479年)に太祖高帝は、新たに任命した「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・<慕韓>意補六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の武の将軍号を「鎮東大将軍」に進めたとする。

『梁書』列伝: 南斉の建元年中(479-482年)に武は「<使>意補持節 <都>意補督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 鎮東大将軍」に除されたとする。

『梁書』本紀: 「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」に進号されたとする)。(引用終了)

これらの記録から、倭王武は、新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事を司る鎮東大将軍であったこと、すなわち朝鮮半島南部から倭国の北九州を支配する大王であったことになります。

ここに百済の名前が出てきませんが、それは、倭王武が百済とは協力関係ができており、百済の協力で中国に朝貢していたことと関係があることが推察されます。このことは、倭王武は協力関係にあった百済から金銅制冠帽などの宝物を入手できる関係にあった、と推察されます。

まとめますと、倭王武は当時の偉大な大王であり、百済から宝物をもらい、臣下の王にその宝物を与えたと推察されます。そして、江田船山古墳に埋葬された者は、倭王武の臣下の王であった可能性が高いと思われます。地理的関係から、その王は北九州南部(熊本辺り)をまかされた王と思われます。そして、エカタシロ大王とは倭王武と推察されます。

関連し、江田船山古墳出土の金銅制冠帽や金銅履の流れを下の地図で示しました。

金銅冠帽のルーツは百済

なお、大王の名(獲加多支鹵)を「ワカタケル」と読み、大王は同時代の雄略天皇天皇(5世紀後半)であったという説もありますが、その時代、畿内ではその金銅の王冠を作る技術があったか不明、まして、畿内の王が地方の王侯にそのような豪華な副葬品を与えた事実は不明であり、問題が多くありすぎます。


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[ 2018/03/03 08:02 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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