Archive2018年04月 1/1
継体王より前の天皇は創作か(邪馬台国と日本人)

継体王より前の天皇は創作か(邪馬台国と日本人)畿内政権の王ですが、6世紀初頭に現れた継体王は、実在が確認できる王、初めて行政と地方の制度を作った王、初めて外交を行った王、百済の五経博士を受け入れ文書を作ることができるようになった王、その意味で、王宮は小さいながらも、初めての国らしい組織と制度を持った王として位置付けられることを紹介してきました。このことは、それ以前の王(天皇)は、行政組織、地方組織...
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百済と倭国の滅亡、7世紀は新旧交代の激動の時代であった(邪馬台国と日本人)

百済と倭国の滅亡、7世紀は新旧交代の激動の時代であった(邪馬台国と日本人)日本は百済と倭国のおかげで大陸の先進文化を導入することができました。しかし、日本の国内統一が始まると、百済と倭国は歴史的役割を終えたかのように7世紀後半、滅びました。関連し、今回は、7世紀は新旧交代の激動の時代であったことについて、愚考します。日本は、朝鮮半島南部を経て、水田稲作を導入し、かつ、中国の先進文化を導入した、という...
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仏教先進国の百済はなぜ新羅に滅ぼされたのか(北方系と日本人)

仏教先進国の百済はなぜ新羅に滅ぼされたのか(北方系と日本人)百済は、武寧王時代(6世紀初頭)に高句麗を破り強国となり、かつ、極東地域では仏教などの先進文化の中心であったことを紹介してきました。今回は、その強国の百済が小国であった新羅になぜ滅ぼされたのかについて愚考します。まず直接の原因は、新羅が大国の唐と同盟を結び、この結果、百済は、東側から新羅に攻められ、西側海上では大国の唐から攻められる関係がで...
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なぜ倭国は日本統一の事業をしなかったのか(邪馬台国と日本人)

なぜ倭国は日本統一の事業をしなかったのか(邪馬台国と日本人)倭国は北九州にあり先進地域でしたが、北側の朝鮮半島への関心が強く、東側の日本には関心が薄かった印象があります。因みに、倭国は、朝鮮半島に行き、399~404年に大国の高句麗と戦ったことが高句麗の好太王碑文で明らかになっております。また、早くから文書を作る能力があり、国書を作り中国に朝貢していたことが分かっています。また、白村江の戦い(663年)前...
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倭国はいつ滅びたのか(邪馬台国と日本人)

倭国はいつ滅びたのか(邪馬台国と日本人)拙ブログでは、稲作民族のマレー系民族が南方からきて北九州に住み着き、早くから水田稲作を行い、その結果、食糧が豊かになり人口が増えて国ができ、そこは中国から倭国と呼ばれていたことを紹介してきました。今回は、その倭国がいつ滅びたのかについて愚考します。調べますと、「「倭国」は滅亡していた 白村江の戦の結末」に、倭国が滅びた様子が分かりやすく紹介されていました。一...
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聖徳太子の遣隋使派遣と国書の未熟さ愚考(日本語のルーツ)

聖徳太子の遣隋使派遣と国書の未熟さ愚考(日本語のルーツ)「比恵遺跡群(奴国)で古墳時代(3世紀後半)の石製すずりの一部が発見された」という記事では、そこは奴国(福岡市博多区)のあった場所で、3世紀の邪馬台国時代に文字が使われていたと指摘しております。その文字を使った理由の一つとして、中国に朝貢するときの上表文(国書)を作ったことが考えられます。一方、「百済の部寧王が日本の継体王に五経博士を派遣し文書作...
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倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係(邪馬台国と日本人)

倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係(邪馬台国と日本人)継体王が行政と地方管理の制度を作った最初の実在の天皇(在位 507~531年)であったことを紹介してきましたが、当時強国であった百済の武寧王(在位 502~523年)の支援がそれを支えたと思われます。一方、倭国の王であった倭王武が百済に帰国し502年に部寧王となったことを紹介しましたが、倭王武の後の倭王は磐井(在位 502~527年?)と思われます。筑後国...
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