日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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「垂柳遺跡」の早生稲はどこから来たか(稲作と日本人) [2018/05/30]
東北で最初に水田稲作を始めた人々は誰か(稲作と日本人) [2018/05/26]
江南地方の稲作技術はセットで持ち込まれたのか(稲作と日本人) [2018/05/22]
江南地方の水稲と照葉樹林文化地帯の陸稲のルーツは同じ(稲作と日本人) [2018/05/18]
江南地方に野生稲は無く栽培種の選抜はできなかった(稲作と日本人) [2018/05/14]
栽培稲のルーツはスンダランド(稲作と日本人) [2018/05/10]
自生アフリカ稲の故郷と江南地方の類似(稲作と日本人) [2018/05/06]
古代中国の稲作は鉄製農具が無くとも可能な所で行われた(稲作と日本人) [2018/05/02]
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「垂柳遺跡」の早生稲はどこから来たか(稲作と日本人)
「垂柳遺跡」の早生稲はどこから来たか(稲作と日本人)
前回、東北の水田稲作が青森県津軽平野の「垂柳遺跡」から始まったことを紹介しました。一方、佐々木広堂氏が「
朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった封印された早生品種と和田家文書の真実
」と題し、東北の早生品種は朝鮮半島東北部から伝わったと熱い議論を展開しております。
確かに、東北で水田稲作が定着するには早生品種なしには考えられません。また、「垂柳遺跡」の前に「砂沢遺跡」がありましたが、「砂沢遺跡」では稲作が失敗例した印象があり、これは適した早生品種が無かったためとも考えられます。
関連し、今回は、小生の専門でもあります稲品種改良について、東北に適した早生品種がどのように作られたのかについて愚考します。
早生品種は、播種から出穂までの日数が短い品種のことですが、結論から先に言いますと、自然突然変異で簡単に出てきます。因みに、有名な良食味品種に「コシヒカリ」がありますが、この品種の自然変異から早生の「五百川」という品種が福島県の農家によって作られています。
拙ブログでは、日本の稲品種のルーツは、氷河期にインドネシア当たりにあったスンダランドと推定しておりますが、その稲が、中国の江南地方で作られ、その中から早生品種が選ばれ、北部の山東半島まで栽培されるようになったと推察しております。
その稲から、さらに早生が選ばれ、遼東半島まで作られるようになった可能性があります。その意味で、朝鮮半島東北部から伝わったという佐々木広堂氏の記事の可能性は否定できません。また、その記事では自然交雑でも早生品種が生まれることを紹介しておりますが、その可能性も否定できません。
また、陸稲栽培は、6000年前からあったことが知られておりますが、陸稲は一般に早生ですので、6000年前から早生稲はあった可能性もあります。日本に昔からあった在来品種収集結果によりますと、九州には極早生から極晩生の在来種が多数あったことが確認されております。ということは、九州にあった早生種が東北に持ち込まれて作られるようになった可能性も否定できません。
また、当時は、朝鮮半島南部も稲作地帯でしたので、そこで選抜された早生品種が持ち込まれた可能性も否定できません。
まとめますと、早生品種は比較的簡単に自然突然変異で発生しますので、稲作が北上するときの阻害要因であった可能性は大きくない感じがします。
なお、上の地図は、早生稲がマレー系民族によって青森県垂柳遺跡に持ち込まれていった様子です。
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[ 2018/05/30 07:58 ]
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東北で最初に水田稲作を始めた人々は誰か(稲作と日本人)
東北で最初に水田稲作を始めた人々は誰か(稲作と日本人)
拙ブログでは、稲作は、縄文時代から居たマレー系民族がもたらしたものとして検討してきました。そして、マレー系民族が移住してきたときから稲は陸稲として作られ、2500年前頃、鉄器の農具が伝わると、水田作りが始まったと指摘しております。
一方、青森県では「砂沢遺跡」から炭化籾と水田跡が発見され、2500年前の弥生時代に稲が水田で作られていたことが分かりました。時代は鉄器が伝わった時期と同時代であり、水田稲作の広がりの早さが注目されています。そして、2200年前には近くの「垂柳遺跡」で広い水田跡が確認されています。
関連し、今回は、その「砂沢遺跡」と「垂柳遺跡」の水田を作った人々について愚考します。
結論から言いますと、それもマレー系民族によるところが大きいと思われます。理由は次のとおりです。
① 青森県には、縄文時代の大遺跡と言われる三内丸山遺跡がありますが、三内丸山遺跡埋蔵物の解析情報によれば、そこは北海道と北陸各地の港と結ばれており、山内丸山は中継地点の中心としての役割があったようです。その場所を上の地図に示しました。
② 日本には、その頃、先住民族のアイヌ系、海洋系のマレー系、畑作民族のツングースが居たと思われますが、これらの民族のうち海洋交易で活躍したのは海洋系のマレー系民族と思われます。
③ 一方、北九州はマレー系民族が多くいた地域ですが、朝鮮半島や中国大陸とも縄文時代から交易していました。このことは、水田稲作に必要な鉄器など中国大陸の情報がいち早く入ってきていることから推察されます。
④ そして、山内丸山の縄文時代以来、マレー系民族は、日本海の沿岸を自由に往来し海洋交易をしていたと思われます。因みに有名な糸魚川翡翠(ひすい)ですが、「
糸魚川翡翠について」
の記事によれば次のとおりです。
糸魚川の翡翠は北海道礼文島から沖縄まで、日本全国の遺跡から発見されているだけでなく、朝鮮半島南部の遺跡からも発見されています。日本特産のものとして日本海を渡っていったのでしょう。日本の石が、これほど広範に伝播した例は他にありません。縄文時代の翡翠は、東日本にかけて多く、西日本にはほとんどありません。しかし、弥生時代以降は逆に西日本に多くなり東日本には少なくなります。縄文時代と弥生時代の文化の中心の違いを反映しているものですが、縄文人と後から来た弥生人が共に翡翠を珍重したことは、異文化を排斥せずに巧みに取り入れ、さらに改良するという日本人の特性に通じるものがあります。(引用終了)
この記事から、糸魚川翡翠は縄文時代に全国に移出されていて、重要な交易品であったことは言うまでもありません。そして、この交易を担っていたのはマレー系民族と思われます。一方、1万年前以上から居たアイヌ系は自給的縄文時代の主役、また、5000年前以上から居たと思われるモンゴル系と中国系混血のツングース系は畑作民族であり、彼らが海洋交易を積極的にしていた可能性は低いと思われます。
まとめますと、海洋交易を担っていたマレー系民族は、大陸から農耕に必要な鉄製農具を入手しましたが、その鉄製農具は山内丸山時代から居る同じ青森県の仲間にもすぐ伝わりました。そして、彼らは、2500年前に、その鉄器を使い、砂沢遺跡で水田稲作を試みましたが、すぐ放棄されていることから成功しなかったと思われます。しかし、2200年前には近くの垂柳遺跡で水田稲作を行い、成功したと思われます。
関連し、小川修三(1984)のデーターから東北と九州の人口変動を下に示しました。水田稲作の定着が人口増大と関係していると仮定しますと、この人工の変動から東北で稲作が普及し始めたが西暦0年、定着してくるのは西暦300年頃と推察されます。このことから、上記「垂柳遺跡」で水田稲作が成功しましたが、すぐに広がることは無かったと思われます。その理由として、東北は採集自給的経済をしているアイヌ系民族が多く、水田稲作の必要性や重要性は、すぐには理解されなかったことが考えられます。
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[ 2018/05/26 07:39 ]
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江南地方の稲作技術はセットで持ち込まれたのか(稲作と日本人)
江南地方の稲作技術はセットで持ち込まれたのか(稲作と日本人)
古代稲作に関する報告を見ますと、水田稲作は、種子(日本型品種)、鉄製農具、稲作民族がセットで入ってきた、いわゆる、稲作民族が来て水田稲作が始まった、という報告が多い感じがします。
しかし、稲作民族のマレー系民族については1万年前、稲種子については6000年前、関連する鉄製農具は2500年前から、ということを拙ブログでは紹介してきました。
すなわち、稲作民族と稲種子については6000年前からあり、水田を作るための鉄製農具が無かっただけのことです。そこで、鉄製の農具が2500年前から大陸から導入され、水田稲作が可能になった、と拙ブログでは考えています。
弥生遺跡に優れた灌漑水路がある事例から、高い技術をもった稲作民族が日本にきたという報告を散見しますが、それは一部であったと思われます。関連し、今回は、江南地方の稲作技術はセットで持ち込まれたのか、検討します。
まず、稲作民族が来たと言われる3000年前~2000年前の九州と、稲作が後に広がった関東の人口変動について、遺跡の数から推定しました小川修三(1984)のデーターを見ますと上の図のとおりです。3000年前~2000年前の九州に極端な人口増加はなく、稲作導入期に渡来人が多数来たという感じはありません。
九州と関東の人口変動を比較しますと、人口が増加し始める時期が違いますが、それは水田稲作開始期の違いと思われます。水田稲作導入の結果、実際に人口が増えるのは、水田稲作導入から九州では500年後(西暦0年)、関東では300年後(紀元50年)辺りと判断されます。
そして、渡来人が来なかった関東の人口が西暦100年頃から九州よりも多くなります。これは、関東で水田稲作面積拡大が進んだとめと思われます。
次に、当時の稲作技術レベルについて考察しますと、「雑草からみた縄文時代晩期から 弥生時代移行期における イネと雑穀の栽培形態」(那須 2014)が大変参考になります。その報告によれば、当時の水田は畑雑草が多かったこと、稲に混じって畑作物が作られていたことが報告されています。
すなわち、当時の稲作は乾田直播であり、土面はき裂が多く、このため水を入れても漏水が多く、畑状態の水田が多かった。そして、水が十分にないときは干ばつの危険があったことが伺えます。細かいことですが、この漏水を少なくするためには泥と水をこねあわせる代掻き(しろかき)という作業が必要になります。
弥生時代初期の稲作技術を推察しますと、方法は乾田直播であり、陸稲栽培の延長線上にあり、漏水のため干ばつの危険もあり、その技術レベルは低いものであり、稲作民族が来て高い稲作技術がセットで持たされというほどのものではなかったと思われます。
そして、代掻きを行い、田植えをし、漏水が少なく稲作が安定した技術となるのは平安時代末期、すなわち12世紀頃だった、と拙ブログでは推測しております。
まとめますと、古代の人口変動と稲作技術の水準から判断しますと、渡来人が多数来て高度な稲作技術が導入されたという証拠は無いと判断されます。関連し、拙ブログでは、縄文時代から居た稲作民族のマレー系人が、紀元前500年前頃から大陸から鉄器を導入し、水田稲作を自力で開発していった、と解説しております。
参考までに、弥生時代の乾田直播水田稲作は漏水が多く畑地のようであったことを、代掻きの後に田植えをした現代の水田稲作と比較し、下の図で示しました。
なお、稲作に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「稲作と日本人」をクリックしますと、田植え開始時期など今までの記事を見ることができます。
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[ 2018/05/22 07:37 ]
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江南地方の水稲と照葉樹林文化地帯の陸稲のルーツは同じ(稲作と日本人)
江南地方の水稲と照葉樹林文化地帯の陸稲のルーツは同じ(稲作と日本人)
日本文化のルーツに中国南部の照葉樹林文化の影響があると言われます。例えば、納豆などの発酵食品や糯米文化のルーツは照葉樹林文化に由来するという考えですが、稲栽培のルーツもそこにあるという指摘もあり、稲作は江南地方がルーツだという考えと論争が続いている感じがします。
関連し、今回は、両者のルーツは同じ、そして、稲作文化と照葉樹林文化がマレー系民族によって日本に伝えられたことについて愚考します。
拙ブログでは、鹿児島県の火山灰層の1万年前の地層からイネのプラント・オパールの発見があったことから、日本への稲導入は、1万年前からあったと推察しております。そして、それは稲作民族のマレー系民族が持ってきたものであると推察しております。このことを、照葉樹林文化地帯を入れて図解しますと上の図のとおりです。
また、拙ブログでは、古代稲作の様子を、先日、水稲栽培も陸稲栽培も方法は乾田直播栽培であったことを紹介しました。そして、日本においては陸稲栽培が先に普及したことは周知の事実であります。
一方、拙ブログでは、今でもマレー系民族のDNA(Y染色体ハプログループ O1b)が中国南部にも多数あることを紹介してきました。例えば、照葉樹林文化地帯に住むヤオ族ですが、マレー系の割合は40%もあります。この様子を下の地図で示しました。なお、何度も指摘していることですが、日本には32%のマレー系民族のDNAがあります。
また、江南地方の水稲作を日本にもたらしたのはマレー系民族であったことを、拙ブログでは紹介してきました。マレー系民族は、中国南部の照葉樹林文化地帯にも居り、彼らが日本に稲作(陸稲)と照葉樹林文化をもたらしたと考えることができます。
まとめますと、水稲栽培も陸稲栽培も古代においては同じ乾田直播という方法であり、江南地方では水稲栽培が、照葉樹林文化地帯では陸稲栽培が行われ、それぞれ独自の進化を遂げたと思われます。そして日本では陸稲栽培が先行しましたが、これは地形が影響したと思われます。
以上のことから、稲作も照葉樹林文化もマレー系民族が関与しており、それらを彼らが日本にもたらしたと可能性が高いと判断されます。
なお、専門的な話になりますが、稲には陸稲と水稲があります。陸稲は根が張り乾燥に強い特性がありますが水稲として作ることもできます。一方、水稲は乾燥に弱い問題がありますが、陸稲として作ることもできます。因みに、米が余り良食味品種が求められた時代に水稲のコシヒカリが陸稲栽培されたことがあります。従いまして、水稲と陸稲の差異は小さく、同じ稲が江南地方では水稲となり、照葉樹林地帯では陸稲となったと思われます。
なお、照葉樹林文化のモチ文化と関連し、下の写真は我が菜園の自生ヨモギで作ったヨモギモチです。ヨモギモチ
も照葉樹林食文化の一つと思われます。我が家のヨモギモチ饅頭にはアズキアンが入っていて美味しいです(笑)。
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[ 2018/05/18 07:31 ]
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江南地方に野生稲は無く栽培種の選抜はできなかった(稲作と日本人)
江南地方に野生稲は無く栽培種の選抜はできなかった(稲作と日本人)
最近の報告を見ますと、稲作のルーツは江南地方、栽培種のルーツも江南地方という感じですが、江南地方には野生稲がなかったいう問題があります。言い換えますと、氷河期の江南地方は寒く、野生稲が自生できる環境ではなかった。このため、栽培種も無かったことになります。
前回(4日前)、拙ブログでは、栽培種のルーツはスンダランド(インドネシア辺り)とする説が有力であることを紹介しましたが、関連し、今回は、江南地方に野生稲は無かったことについて愚考します。
まず、国際日本文化研究センター教授 安田喜憲の最新記事「
長江流域における世界最古の稲作農業
」、があります。その一部を引用しますと、次のとおりです。
稲作農業もこのヤンガー・ドリアスの寒冷期に引き起こされたという説を唱える研究者もいる。しかし、それは納得できない。なぜなら、最古の稲作農耕遺跡の分布は、野生イネ(Oryza rufipogon)の分布の北限地帯に位置しているからである(図2)。現在においても、野生イネの北限地帯に相当する長江中流域において、ヤンガー・ドリアスの寒冷期に野生イネが生息できたとは、とうていみなしがたいからである。玉蟾岩遺跡における最古の稲籾の年代である1万4000年前は、氷期の寒冷気候が急速に温暖化したベーリングの亜間氷期に相当しており、亜熱帯起源の野生イネが、拡大できる気候条件はそなわっていた。(引用終了)
また「
珠江中流域がイネ栽培化の起源でない
」 という記事もあります。珠江は揚子江の南側を流れる大河で、河口に香港があります。その記事の一部を引用しますと次のとおりです。
陳文華氏の「漢代における長江流域の水稲栽培と農具の完成」を読むと、「中国の歴代の古稲サンプルを概観して、進化の度合いからみるならば。早期の稲殻の粒形はわりと小さく、後世に至るにしたがい粒形が大きくなり、漢代にはすでに現在の品種とほぼ変わりないほどになっていた」とある。粒形に関わる遺伝子は野生に近い早期の栽培イネの遺伝子型から、現在の栽培イネの遺伝子型になるまでに約5千年の年月か掛かっている。栽培化の遺伝子型はイネの起源より後に、数千年前後の年月を掛けて徐々に増え、現在の栽培イネが持つ遺伝子型に固定されたと考える。
栽培化遺伝子に焦点を合わせて遺伝距離を出した場合、野生イネと栽培イネの遺伝距離が短いということは、野生イネが栽培イネと同じ栽培化遺伝型を多く持っているということになる。もし、栽培化の遺伝子が一挙に増えるのではなく、数千年の年月をかけて徐々にふえるのであれば、野生イネと栽培イネの遺伝距離が非常に小さいということは、その野生イネは、何千年の長い稲作の歴史の中で、栽培イネと交雑を起こし汚染(遺伝子流動)されている可能性が高いという見方も出来る。
「野生イネと栽培イネの遺伝距離が一番小さい場所が起源地」ということが成り立つのは、野生イネの集団に栽培イネからの遺伝子流動が一切なかった、あるいは有ったものは淘汰されたという場合に限り成り立つと思う。これまで述べてきたように、珠江中流域の野生イネは漢代の水際で行う「火耕水耨」の稲作により、栽培イネの花粉からの遺伝子流動を受けていたと思われる。中国の珠江中流域の野生イネの場合、遺伝距離が栽培イネに最も近いからと言って、珠江中流域がイネ栽培化の起源であると言えないと思う。
近年、中国東北部・朝鮮半島・日本の直播をする水田稲作で、雑草イネ(Weedy rice)がはびこり、米の品質を下げることが問題になってきている。この雑草イネは野生イネに栽培イネの花粉が他家受粉して出来たハイブリッド種で、遺伝的には遺伝子流動(Gene flow)が起こったと言われる。このハイブリット種は、野生イネが生息しない温帯地方では雑草イネとされるが、野生イネが生息する亜熱帯・熱帯地方では雑草イネか野生イネかの判別は付き難いそうだ。 (引用終了)
引用が長くなりましたが、まとめますと、ヤンガー・ドリアスの寒冷期(晩氷期の12800年前~11500年前)は、揚子江流域も寒く、野生稲は無かった。
そして、中国の野生稲のルーツは海南島辺りで、現在、江南地方にある野生稲は、そこから移動したことになります。しかし、この野生稲は日本型の栽培稲とは無縁、どちらかと言えばインド型に近い存在であることが分かっていますので、日本型の栽培種にはなれません。
また、日本型の栽培種に近いと言われる野生稲も見つかっておりますが、それらは栽培稲と野生稲の交雑から生まれた雑草稲の可能性が高いと、上の記事では指摘しております。
以上のことから、江南地方には、氷河期には野生稲はなく、そこから現在の栽培稲が出てくることには無理である、と結論されます。そして、最古の稲作と言われる江南地方の日本型の栽培稲はどこから来たかについて熟考しますと、それは氷河期の後にスンダランドからマレー系民族によって持ち込まれたもの、と考えるのが妥当と思われます。
なお、上の図は、中国の野生稲の中心地と言われる海南島と野生稲の伝播の様子です。海南島では、ハイブリッドライスに使われる細胞質雄性不稔稲が見つかったという有名な話がありますが、その雄性不稔野生稲はインド型稲に近いタイプです。
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[ 2018/05/14 08:03 ]
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栽培稲のルーツはスンダランド(稲作と日本人)
栽培稲のルーツはスンダランド(稲作と日本人)
スンダランドというのは水位が低かった氷河期にインドネシア当たりにあった大陸です。
拙ブログでは、栽培稲のルーツはインドネシア当たり(スンダランド)、という見解を支持しております。その根拠は、栽培稲の始まりは日本型で、その最も古いタイプがインドネシアの在来種のブル種にあった、という報告にあります。
関連し、それを分かりやすく紹介した記事
<稲作インドネシア・フィリピン起源説の衝撃>
がありましたので紹介し、栽培稲のルーツについて愚考します。まず、その記事を引用しますと次のとおりです。
<稲作インドネシア・フィリピン起源説の衝撃>
このような状況の中で、2008年8月、茨城県つくば市の「独立行政法人 農業生物資源研究所」による、アジア栽培イネの在来種の遺伝子解析から、栽培イネの紀元が中国江南ではなくインドネシア・フィリピンかもしれないという研究成果が英国の科学雑誌『Nature Genetics』に掲載され、学会に大きな衝撃を与えた。同研究所は2001年に設立以来あまり時間がたっていないので、一般の知名度はそれほど高くないが、世界で初めて2004年にイネゲノムの完全解読を世界10カ国をリードして達成するなど、大きな業績をあげている。植物・動物・昆虫の遺伝子研究・ゲノム研究や遺伝子組み換えの分野においては日本をリードする研究を行っている研究機関である。
同研究所で栽培イネの起源に関する研究を行い、画期的な成果に結び付けたのは井澤毅(いざわたけし)氏のグループである。研究内容は、「野生イネが栽培イネに進化するにあたっては、古代人が自分達にとって好ましい性質を持つ稲をその栽培域の拡大に伴って時間をかけて選抜していったはずである」という前提に基づいている。そしてゲノム情報と遺伝学を駆使して、脱粒性をコントロールする遺伝子(qSH1)、種子の数とサイズをコントロールする遺伝子(qSW5)、炊飯時にモチモチ感を実現するFNP(DNA変化部位)(Wx)と、コメの色の白さを実現するFNP(Rc)の4つの栽培化関連遺伝子に注目してイネのシーラカンス(生きた化石)を探す研究を行ったのである。作業は科学的に高度かつ複雑であったはずだが、研究のコンセプトは素人にも判るほど論理的なものである。すなわち、この4種類の栽培化関連遺伝子の変化が少ない品種ほど、古代人による選抜の程度が少ない品種であり、それが増える流れが見つかれば、その流れが、イネの栽培の拡大の軌跡である可能性が高いとの推論に基づく。
その結果、栽培イネの起源地は長江中下流域ではなくインドネシアやフィリピンであるとの結論に到達したのである。まさに、旧スンダランド地域が起源地であるということになる。栽培イネの発生年代については約一万年前(紀元前8000年頃)に野生稲が古代人による選抜を受けて作物として進化したと考えられている。すなわち、他の主要穀物と同様、最終氷期が終了に向かっている中で突然出現した、ヤンガー・ドリアス期と呼ばれる寒の戻りの時期(紀元前9400年~紀元前8000年頃)の直後に人類によって栽培化が始められたとされている。前章で述べたように、この時期には、スンダランドが最盛期の海岸線を回復していた可能性が高い。(引用終了)
引用が長くなりましたが、次に、その稲が、どのように江南地方に運ばれ、江南地方で開花したかについて推察しますと、次のようなことが考えられます。
まず、中心的役割を果たした民族ですが、彼らはスンダランドにルーツを持つマレー系の民族です。おそらく、氷河期最後の間氷期と言われる2万年前頃、野生稲から稲の栽培化に成功したと思われます。しかし、氷河期が終わる1.4万年前頃、適地であった低地が海水面で覆われ、栽培が困難になるという問題が発生しました。
そこで、彼らマレー系民族は、新天地を求め、稲種子を持って、ベトナム、海南島を経て、江南地方に辿り着いたと思われます。
稲作発祥の地と言われる玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡は揚子江中流域ですが、それらの地域は、もとスンダランドと同じような土地と気候であり、そこで稲栽培に1.4万年前に成功したと思われます。そして、その稲作は、水田稲作可能な自然の天水田の広がっている揚子江下流域に持たされ、人口が増大し、河姆渡(かぼと)遺跡は稲栽培の起源地と言われるようになったと思われます。
なお、拙ブログでは、鹿児島県の1万年前以上の地層から稲のプラント・オパールの発見があったことから、その稲のプラント・オパールは、こうした流れのなかで、上記のマレー系民族によって1万年前に日本に導入され栽培された稲の痕跡であったと推察しております。
関連し、スンダランドと稲の伝播を上の地図に示しました。
一方、下の写真は、マダガスカル西海岸部の稲作地帯です。ここも、乾期に乾き、雨期に浸水が見られる自然の天水田のようなところです。7000年前の中国の河姆渡遺跡の場所もこのような感じだったでしょうか。
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[ 2018/05/10 08:11 ]
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自生アフリカ稲の故郷と江南地方の類似(稲作と日本人)
自生アフリカ稲の故郷と江南地方の類似(稲作と日本人)
稲の栽培種には、サテバ種のアジア稲とグラベリマ種のアフリカ稲が知られております。グラベリマ種は上の写真のような穂を持ち、疎粒で低収のため、ほとんど作られておりませんが、アジア稲が入る前はかなり作られていたようです。
そして、そのアフリカ稲の故郷は大河ニジェール川上流にあるマリ国の河川敷で、先日(4日前)紹介のような河川敷です。今回は、アジア稲作の故郷の江南地方と関連し、アフリカ稲の故郷について紹介します。
下の地図は、そのニジェール川の河川敷の場所です。水源はギニア高地で世界最大の雨量のあるところです。オーストラリアの北側にパプアニューギニアという島がありますが、雨が多くアフリカのギニア高地に似たところから、そのような名前が付けられたようです。
そのニジェール川には、現在は下の写真のような堰(せき)が作られ、周囲に灌漑水が流されています。
下の写真はその灌漑水路の様子です。この場所は、かつては雨期になるとかなりの所が冠水し、乾期になると乾くということで、自然の天水田だったところです。
アフリカ稲のグラベリマ種の祖先種(野生種)のブレビリギュラータはこのような河川敷環境に自生していました。そして、そこから草丈が短かく早生、かつノゲ(芒)の無い個体が選ばれ栽培種のグラベリマができました。グラベリマは陸稲として作られていますが、もともとは水稲です。
そこで、アジア稲の故郷の江南地方の環境ですが、アフリカのマリ国の天水田地帯と同じような環境、すなわち、最初は畑状態であるが、雨期がくると冠水し水田になり、その後、乾期となり、水が引いたところで収穫できる環境であったと想像しております。すなわち、鉄器がなくとも稲作ができる環境、自然の天水田が広くあった地域と思われます。
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[ 2018/05/06 07:59 ]
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古代中国の稲作は鉄製農具が無くとも可能な所で行われた(稲作と日本人)
古代中国の稲作は鉄製農具が無くとも可能な所で行われた(稲作と日本人)
拙ブログでは、陸稲がマレー系民族によってもたされたこと、そして、耕作可能な鉄器導入によって水田稲作が可能になったことについて言及してきました。
一方、中国の江南地方は、日本と朝鮮半島の稲作の故郷と言われます。その稲作は、氷河期の終わった直後の1.4万年前の玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡に始まり、7000年前の河姆渡(かぼと)遺跡では大量の籾や稲作用の農具が発見され、大規模な稲栽培が行われていたことが分かっています。そして、その河姆渡遺跡は3000年前の黄河文明よりも4000年も早い文明です。
拙ブログでは、水田稲作には鉄製の鋤などの農具が不可欠であることを紹介してきましたが、中国に鉄器が伝わるのは3000年前の周王朝時代です。すなわち、7000年前の河姆渡遺跡時代は鉄器が無かったことになります。
関連し、今回は、江南地方は鉄器が無くとも水田稲作が可能であったことについて、西アフリカの経験から愚考します。
私は、西アフリカで2年間(2009~2011)稲開発のため働きましたが、河川敷のようなところに畦の無い天水田があることを知りました。これは、焼畑中心の西アフリカ農業の実態と思われますが、この畦の無い天水田が、鉄器の無い水田稲作のモデルになると思いました。
その様子は次のようです。①まず乾期に雑草を焼き払う(野焼き)、②掘り棒で穴を掘り種を播く、③雨期に入ると雨が降り発芽する、④雨期後半に洪水が起こり冠水する、④乾期に戻り水が引き稲が成熟すると収穫する。
これらを図解すると次のようになります。
上の図は野焼きを行ったばかりの河川敷と高地にある焼畑の図解です。季節は乾期ですが、この野焼きにより、かなりの雑草の種は焼かれ死滅します。そして、その灰で土は柔らかくなっており、棒で小穴を掘り、播種できます。
播種後しばらくすると雨期となります。雨期と言っても日本のようでなく、スコールで1日に1回程度降る程度です。そして、この雨で稲は発芽してきます。この様子を下の図に示しました。
そして、しばらくすると、上流からの水で川は増水し、河川敷は水の中に潜ります。下の図は増水し、河川敷が水に浸かった様子です。このとき生き残る稲は背丈の長い稲(深水稲)だけになります。そして、川の水には養分が含まれており、その養分を吸って稲は育つことができます。
下の図は雨期が終わり、水が引き、成熟期に入った様子で、収穫期です。一方、高台にある焼畑ですが、雨が少ないときは干ばつ害に会います。また、栄養は焼畑による養分だけであり、水田のように川水からの栄養補給はありませんので毎年作ることはできません。
以上が、西アフリカ稲作に古代から見られる焼畑や河川敷の水稲の様子の図解でした。
一方、古代の江南地方ですが、その地形や気象は西アフリカに似たところがあり、鉄器の無かった時代、西アフリカの天水田に似たような状況で稲が作られていたと想像しております。
また、日本の縄文時代に作られた陸稲が、焼畑で見られるような斜面でなく、平坦地に作られている場合が多くあります。古代稲作に詳しい佐藤洋一郎氏が、その平坦な場所は河川敷であった可能性を示唆しておりますが、その可能性は高いと思われます。
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[ 2018/05/02 07:50 ]
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
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Author:レインボー
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