日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人) [2018/06/30]
まとめ4、奈良の纏向遺跡は神武天皇の王宮跡と思われる(邪馬台国と日本人) [2018/06/27]
まとめ3、邪馬台国の場所と卑弥呼の墓(邪馬台国と日本人) [2018/06/23]
まとめ2、稲作はスンダランドのマレー系民族が広げた(稲作と日本人) [2018/06/19]
まとめ1、日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血(日本人のルーツ) [2018/06/15]
記事のまとめについて(ごあいさつ) [2018/06/11]
百済民族の怨念と光州事件(北方系と日本人) [2018/06/07]
マハテールの民族和解政治と日本(縄文思想と日本人) [2018/06/03]
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まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人)
まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人)
拙ブログでは、継体王が実在の初代天皇、彼以前の王は神武天皇を除き創作であったことを指摘してきました。
また、前回、神武天皇は、日本の中心場所と思われる奈良の纏向に都を建造し、邪馬台国をモデルに日本統一の事業を始めたが100年で挫折したことを指摘しました。この理由として、この政権は、文字が無く、政権をまとめる規範が無く、広い日本を統一するには力不足であったことが推察されます。
そこで、次に現れた継体王ですが、彼は、古くから海洋交易の拠点であった若狭湾のある福井出身という地の利を生かし、朝鮮半島南部を支配していた百済武寧王と交流し、百済武寧王の後ろ盾を得ることができました。
このことは、大陸の先進文化を導入し、百済をモデルに日本統一を図ることを可能にしました。まず、五経博士を受け入れ、文書部を作ることができました。これは、以前の大王に無かったことでした。また、美しい仏像を含む仏教文化を一早く導入するなど、王としての権威を示すことができました。
この結果、我が国最初の統治機構と思われる行政機構ができあがりました。まず、王宮のあった近畿においては、財務部などの役所を作り有力者(豪族)を役にあてました。また地方については国造制度を作り、地方の豪族に国造の役職を与え、中央に従うようにしました。
この国造に反対したのが九州倭国の磐井王で、後に継体王と磐井王は対立することになりました(磐井の乱 527年)。この戦いは決着が付かなかったようですが、日本統一の事業が始まった証とも理解できます。
関連し、九州倭国と継体王の関係ですが、これら両者をまとめていたのが百済の武寧王と思われます。武寧王は百済王ですが、若いときは北九州に居て武王と名乗り、中国とも倭国の5王の一人として中国に朝貢していたことが知られております。
上記、磐井の乱が起きるのは武寧王崩御(523年)の後の527年です。両者をまとめていた大王が居なくなったので、継体王が日本統一の流れのなかで倭国を地方の一つ(国造)として扱おうとしたのではないかと思われます。しかし、当時、倭国は先進国、マレー系民族の多い地域で言葉はマレー系で大和言葉とは違っていて、継体王と一緒になることはできなかったと思われます。
そして、倭国滅亡は、同じマレー系民族の百済の滅亡と共に起こりました。いわゆる、唐と新羅に攻められた同胞の百済を救おうと大量の兵を送ったことが知られておりますが、白村江の戦い(663年)で大敗し、かつ、倭国王が中国軍捕らえられてしまいました。この結果、倭国も滅びました。
その後、倭国は日本の一部となり、倭国のマレー系民族の言葉は消えました。しかし、「
古代北九州ではマレー語が使われていたようだ
」で紹介しましたが、「よか」、「ばってん」等の北九州筑後弁は、それらのルーツがマレー語にあると思われます。
関連し、上の地図は継体王の日本統一時代の様子、下の地図は百済と倭国滅亡の飛鳥時代の様子です。飛鳥時代は、関東と北陸は大和政権に組み込まれる直前の様子でなかったかと思われます。
なお、こうした古代政権に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「邪馬台国と日本人」をクリックしますと、今までの記事を見ることができます。
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[ 2018/06/30 22:29 ]
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まとめ4、奈良の纏向遺跡は神武天皇の王宮跡と思われる(邪馬台国と日本人)
まとめ4、奈良の纏向遺跡は神武天皇の王宮跡と思われる(邪馬台国と日本人)
奈良の纏向(まきむく)遺跡の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓という説があります。しかし、「
箸墓は墳長280mの前方後円墳
」であり、魏志倭人伝に書かれている内容(径百歩余程度の円墳)と大きさも形も異なる、という厳しい批判があります。
そこで、その時代は邪馬台国の卑弥呼の時代ですが、その巨大な箸墓古墳は誰の墓なのか謎は深まります。関連し、今回は、その謎に迫ります。
拙ブログでは、継体天皇以前の記紀の内容は創作であると指摘してきましたが、初代天皇であられます神武天皇については、最初に日本統一を目指した大王であり、実在の可能性を支持しております。
関連し、その神武天皇の都は大和(纏向)にあり、箸墓古墳は神武天皇の墓と指摘している記事もあります。拙ブログでも、その考え方を支持しておりますが、その根拠は次の4点です。
1. 畿内の発展する時期は3世紀であり、その頃から畿内は人口が急速に増えております。関東でも同様に人口が増えています。そこで3世紀は、全国的に、この増えた人達をまとめようとする勢力が出てきた時代、すなわち大王の時代、あるいは、古墳時代の始まりの時代と思われます。関連し、遺跡の数から古代人口を推定しました小山修三(1984)のデータから作成しました近畿と関東の人口を下に示しました。(日本統一の時代背景)
2. 纏向遺跡は、突然、整備されたような都市「
新造都市
」といわれております。周囲に農地は無く、移住してきた王が日本統一のため中心地の場所を選んで作った宮殿と思われます。(日本統一事業のための中心場所)
3. 神武天皇は日向(宮崎)の出身ですが、そこは、魏志倭人伝によれば、南に水行20日というところの投馬国に当たる場所で、邪馬台国(人口35万人=7万戸X5人)に次ぐ大きな国(人口25万人=5万戸X5人)でした。「
神武天皇の日本統一の夢愚考」
で紹介しましたが、投馬国に居た神武天皇は、先進地の邪馬台国を訪問し、中国から贈られた宝物を見て感動し、遅れていた日本について邪馬台国をモデルに統一しようという夢をもったと思われます。(神武天皇の日本統一の動機)
4. 纏向遺跡は、「新造都市」と紹介しましたが、遺跡は吉備国の影響があることが分かっています。吉備国は、神武天皇が東征のとき長期間(8年)滞在した場所であり、その協力支援があって大和の在来勢力に打ち勝ち、大和に入りました。纏向遺跡は、その吉備国の協力支援のもとに作られたと思われます。(日本統一の陰の実力者の存在)
以上のような史実から、初代天皇の神武天皇の都は纏向遺跡、墓は箸墓古墳であると考えると矛盾は少ないと思われます。そして、その纏向遺跡は100年程度で終わったと言われますが、そのことは、神武天皇の日本統一の夢は実現しなかったことを示します。そして、その日本統一の夢は、次回報告の5世紀の継体王の登場によって進むことになります。
関連し、関係の場所を上の地図に示しました。
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[ 2018/06/27 06:26 ]
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まとめ3、邪馬台国の場所と卑弥呼の墓(邪馬台国と日本人)
まとめ3、邪馬台国の場所と卑弥呼の墓(邪馬台国と日本人)
我が国最古の王朝と言われる邪馬台国については、北九州にあったことが圧倒的多数の学者や関係者から認められています。拙ブログでも、邪馬台国は北九州にあったことを支持しております。
初めに水田稲作の発展があり、その結果、人口が増え、邪馬台国は生まれたものと思われます。すなわち、稲作は北九州に始まり、日本で一早く人口が増大した地域であります。その流れのなかで、北九州で奴国が生まれ、その後、伊都国などの多くの地域国が生まれ、邪馬台国連合が生まれた流れになります。
関連し、遺跡の数から古代の人口を推定した小山修三(1984)のデータを用いて、北九州と近畿の人口の変化を上に示しました。
この図では、水田稲作の結果、人口が増え始めるのが、北九州では紀元0年頃、一方、近畿は100年~200年の遅れがあります。
細かいことですが、上の人口変化では、九州の人口が近畿にAD200年頃抜かれます。これは、魏志倭人伝にあります倭国の大乱と関係があると思われます。すなわち、九州では戦乱があり人口が停滞、一方、近畿は戦乱が無く平和であり、人口が順調に増えたと考えることができます。
一方、稲作の担い手ですが、縄文時代から陸稲栽培をしていたマレー系の民族と思われます。彼らは海洋民族でもあり、中国の鉄製農具(おそらく鋤)を一早く中国から入手すると、灌漑水を引く工事や水田作成を行い、水田稲作を可能にしました。
そして、彼らの生活習慣や容貌は、魏志倭人伝によれば、海南島の民族に似ているとあります。海南島近辺に住むヤオ族は、今でもマレー系民族の割合が40%と高く、マレー系の民族に分類されます。そして、彼ら海南島の人々と邪馬台国の人々が似ているということは、邪馬台国の人々はマレー系の民族であったと思われます。
そこで、拙ブログでは、マレー系民族の足跡と思われる朝鮮半島南部と北九州の古代地名等を調べ、それらとマレー語の関係を調べ、マレー語と一致することが分かりました。
例えば古代地名に伽耶があります。伽耶はマレー語でkaya(rich 豊)です。伽耶は米だけでなく鉄を産し、古代では豊かな場所でしたので、それらしい地名になります。同じように、北九州の地方語の「よか」、「ばってん」等はマレー語にルーツがあることを紹介してきました。
次に、邪馬台国の場所ですが、起点となるのは伊都国です。伊都国は福岡市辺りにあったことがほぼ確定しておりますが、魏志倭人伝に出てくる中国側の使者は、邪馬台国の海外交易の拠点であった伊都国まで来て滞在し、倭国の状況を知り、帰ってから魏志倭人伝の著者「陳寿」に情報伝えたと理解されています。
そして、伊都国から邪馬台国(女王国)には、南に水行で10日、または陸行で30日とあります。この範囲で現在の遺跡を調べますと、筑紫平野にある吉野ケ里が最有力候補と思われます。
続いて、魏志倭人伝にもあります女王の墓ですが、伊都国の平原(ひらばる)遺跡が現時点では最も相応しいのではないかと思います。
まず、魏志倭人伝では、女王の墓は「径百余歩」とあり、平原遺跡の墳墓は方形周溝墓(14X12m)で周径52mで、サイズが「径百余歩」に合っています。そして出土品に大型鏡やピアスがあり、女王の墓に相応しい特徴が出ております。現在のところ、この平原遺跡に勝てる候補地はありません(笑)。
卑弥呼の墓の場所が、邪馬台国のあった筑紫平野(吉野ケ里)でなく伊都国の平原の理由ですが、理由はいろいろと考えられます。一つは、卑弥呼は吉野ケ里出身でなく、伊都国出身だったのかもしれません。あるいは他の理由があったのかもしれません。
関連し、吉野ケ里、伊都国の平原の場所を下の地図で示しました。細かいことですが、吉野ケ里は、伊都国から陸行30日の観点から見ると近すぎる印象を受けます。その意味で、筑紫平野の南部辺り、あるいは熊本平野当たりの方が、より邪馬台国に相応しい場所と思われます。
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[ 2018/06/23 07:08 ]
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まとめ2、稲作はスンダランドのマレー系民族が広げた(稲作と日本人)
まとめ2、稲作はスンダランドのマレー系民族が広げた(稲作と日本人)
水田稲作の導入の後に日本の人口は増え、その結果、我が国の最初の国家と言われる奴国が北九州に建設されました。その後の王権を見ても、水田稲作は日本の様々な王権の基盤になったと思われます。しかしながら、その稲作のルーツとなると、まだ論争があり、決まった結論は得られていない感じがします。
そこで、今回は、拙ブログのまとめ2、として稲作のルーツについて検討します。
結論から先に言いますと、稲作のルーツは、氷河期にインドネシア辺りにあったスンダランドの可能性が高いと思われます。その根拠は、稲品種の最も古いタイプがそこにあり、それを用いて稲作を始めたマレー系民族がそこにいたからです。
そこで、最初に稲作を行ったマレー系民族ですが、彼らは、氷河期が終わると、稲作に適したスンダランド低地が海に沈んだため、新たな天地をもとめて、周辺、特に中国南部に移住しました。そこで、彼らは陸稲栽培を行い、照葉樹林文化地帯のベースを作ったと思われます。
一方、さらに北上したグループは、江南地方に辿り着き、1.4万年前に 玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡で水田栽培に成功しました。
その場所は、河川敷で、野焼きを行い、掘り棒で小穴を開け、そこに種もみを落とすという簡単な直播栽培で稲を作ることができました。雨が降り、発芽すると、その場所の水位が上がり、水浸しになりますが、稲には問題ありません。その洪水は、肥料を含んでいますので稲は無肥料で育ち、乾期になると収穫することができました。すなわち、種を播くだけでコメの収穫ができるという理想の環境がありました。
現在のDNA分類でも、彼らマレー系民族のDNA(Y染色体ハプログループO1b)が高い頻度でそれらの地域に認められますので、稲作を持ち込んだのはマレー系民族と思われます。これらマレー系民族のDNA頻度を上の地図に、ベースになった資料を下に示しました。
現在、栽培稲のルーツは江南地方という説が根強くあります。しかし、そこは、氷河期は寒く野生稲は無かったという問題があります。言い換えますと、野生稲が無く栽培種の開発はできなかったという問題があります。
そして、日本への稲作の伝播ですが、江南地方と同じようにマレー系民族によってもたらされました。鹿児島で1万年前の地層から稲の化石のプラントオパールが発見されていることから、1万年前からマレー系民族は日本におり、稲も持ち込んで陸稲を試作していたと思われます。
まとめますと、稲作のルーツは氷河期のスンダランドにあり、そこに居たマレー系民族が、稲作を始め、中国、朝鮮半島、日本に広げたと思われます。
なお、このような稲情報について詳しく知りたいかたは、拙ブログ左側にあるカテゴリー欄の「稲と日本人」をクリックしますと関連の記事を見ることができます。因みに、上の図と下の表は、過去記事「
3000年前に稲作民族は来たのか
」を基にしています。
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[ 2018/06/19 07:39 ]
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まとめ1、日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血(日本人のルーツ)
まとめ1、日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血(日本人のルーツ)
前回紹介しましたように、今回は、まとめ1.日本人は、アイヌ、マレー、ツングースの混血、について紹介します。
最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は日本人のルーツを明らかにしました。父(男子)から息子(男子)に伝えられるY染色体がありますが、この染色体の分類により、父のルーツが分かることになりました。例えば、Y染色体ハプログループがDですと、父親のルーツはアイヌ系となります。
その分類の結果、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系が20%、モンゴル系が10%、その他が5%であることが分かりました。
また、関東と西日本で内容が異なり、アイヌ系は関東で48%、西日本で27%で、東日本にアイヌ系が多いことが分かりました。アイヌ系が縄文文化の栄えた東日本で多いことは、アイヌ系は先住民族で、かつ縄文文化の担い手だったことと一致します。これらのDNA情報の文献を上の表で示しました。
一方、中国系とモンゴル系ですが、朝鮮半島では、中国系が40%、モンゴル系が20%と日本の2倍いることから、彼らは、日本に来て半分に薄まったと観ることができます。すなわち、日本人の半分は韓国系と思われます。また、彼らは、ツングース系民族と分類されますが、ツングースは、Y染色体ハプログループ分類から、モンゴル系と中国系の混合混血民族で、モンゴル語に近い言語を持ち、畑作系民族と分類されています。
マレー系は、インドネシアにルーツがあり、航海術に優れ海洋系民族、かつ稲作民族と評価されていますが、彼らは、朝鮮半島に30%、中国南部やベトナムにも多いことから、稲作を広げながら大陸東岸を北上し、日本、特に北九州に多く移り住んだと思われます。また、彼らは、稲作だけでなく、海洋民族として、照葉樹林文化の伝播などにも関与したと観られます。
これら民族の割合を、上の表を用い、円グラフで示しますと、下の図のとおりです。
まとめますと、日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングース(中国系とモンゴルの混合混血民族)の混血集団です。この集団から、どのように日本語や日本人が形成されてきたのかについては、次回からの報告で紹介します。
なお、このようなDNA情報について関心のある方は、拙ブログ左側にある検索欄に「Y染色体ハプログループ」と入れ、クリックしますと関連の記事を見ることができます。
因みに、上の表と下の図は、過去記事「
関西人のDNAとルーツ
」を利用したものです。
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[ 2018/06/15 07:33 ]
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記事のまとめについて(ごあいさつ)
記事のまとめについて(ごあいさつ)
早いもので、6月となり、今年も1年の半分が終わろうとしています。そして拙ブログですが、開始は昨年(2017)4月でしたので、1年2か月が過ぎました。記事アップは170回を越え、紹介したい記事は、ほぼ出尽くした感じがします。そのためか、似た記事が多くなってきた、あるいは記事のマンネリ化が起きていると思われます。
そこで、こうしたマンネリ化を打ち破るため、カテゴリーことに今までの記事をまとめ、新たな出発の基礎資料としたいと思います。
それらの内容(カテゴリー)は次のとおりです。
1.日本人は、アイヌ、マレー、ツングースの混血(日本人のルーツ)(次回)
2.稲作のルーツは氷河期のスンダランド(稲作と日本人)
3.邪馬台国の場所と卑弥呼の墓は北九州(邪馬台国と日本人)
4.奈良の纏向遺跡は神武天皇の王宮跡(邪馬台国と日本人)
5.倭国の滅亡と日本統一のさきがけ継体王(邪馬台国と日本人)
6.日本語のルーツはアイヌ語とマレー語(日本語のルーツ)
7.日本人の宗教は自然崇拝がベース(縄文思想と日本人)
そして、まとめを終わった7月からの課題ですが、それぞれのカテゴリーの内容をより充実させる予定です。具体的なデータをベースに、拙ブログの課題である「日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツ」について迫ります。
例えば「秋田美人のルーツ」ですが、拙ブログでは「ツングース由来の色白高身長」と指摘してきました。そこで、本当に高身長なのか、現在のデータから検討します。ご期待ください。
なお、上と下の写真は、「自然との共生」を目標にしている我が菜園の5月下旬のグミの様子です。グミの実には、ガン抑制効果のあるビタミンEがたっぷりのほか、免疫力を高めるβカロテン、そして赤い色にはトマトと同じリコピンが含まれ、高齢者には重宝な老化防止食材です。このため、私ことですが、毎日食べました(笑)。
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[ 2018/06/11 07:59 ]
ごあいさつ
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百済民族の怨念と光州事件(北方系と日本人)
百済民族の怨念と光州事件(北方系と日本人)
韓国映画「タクシー運転手」が大変な人気で、ブログ仲間の紹介もありました。それは、韓国近代史の大事件である光州事件を背景にした映画ですが、その光州は、拙ブログで紹介している百済王国のあったところです。関連し、今回は、光州事件の背景と思われる百済民族の怨念について愚考します。
まず、光州事件ですが、Wikipedia によれば次のとおりです。
光州事件(こうしゅうじけん)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市(現:光州広域市)を中心として起きた民衆の蜂起。5月17日の全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕を契機に、5月18日にクーデタに抗議する学生デモが起きたが、戒厳軍の暴行が激しかったことに怒った市民も参加した。デモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡がり、市民軍は武器庫を襲うと銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領したが、5月27日に大韓民国政府によって鎮圧された。(引用終了)
政府の発表では、この事件で、死亡者数は170人(民間人144人・軍人22人・警察官4人)、負傷者数は380名であった(1980年5月31日・戒厳司令部発表)と、あります。民間人の死亡者の多くは軍隊によって銃殺されたと言われます。
これには、軍部の全斗煥らのクーデターと民主的政治家の金大中氏逮捕という怒りに直接の原因がありますが、北朝鮮関係者も逮捕され、北朝鮮が関与したと言われています。
しかし、このような暴力事件が、なぜ光州という田舎町で起きたのか、民衆の怒り、北朝鮮の工作だけでは納得できないものがあります。
そこで、この事件場所になった光州について考えますと、次のような歴史の怨念があったのではないかと思われます。
場所は湖南地方と呼ばれ、平野部が広がり韓国で最も稲作の盛んな地方で、もと百済王国のあったところです。この地方に住む人達は、湖南人と呼ばれ、韓国では差別されていると言われております。
例えば
、慣習的観念”先天的性格の違い”
によれば、「全羅道の人(湖南人)は生活力が強く、営利して社交的や、利己的で信頼性がない」、と観られているという報告があります。すなわち「信頼できない」という差別意識です。この意識は高麗時代からあると言われますので、新羅時代まで辿れるかもしれません。この関係を同ウェブサイトにあった図で示すと上の図のとおりです。
新羅は、小国ながら、百済を唐の支援を受け武力で制圧し、朝鮮半島を統一した最初の王朝です。拙ブログでは、百済は稲作マレー民族系の国家、新羅は畑作ツングース民族系(モンゴル人と中国人の混合混血民族)の国家として解説してきましたが、この意味で、新羅と百済の戦いは民族対立でした。
百済は、白村江の戦い(663年)の後に滅びますが、その結果、敗れた百済マレー系住民の文化と言葉は消えました。その民族が潰されたという恨みと怨念が、知らずして権力者と光州市民(もと百済民族)との対立が起き、今回の光州事件が起きたのではないかと思われます。
まとめますと、光州事件の背景に、百済滅亡の後、表に出てこなかった百済民族の歴史的恨みと怨念があったと思われます。関連し、百済民族のベースとなったマレー系民族の割合を下に示しました。
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[ 2018/06/07 07:56 ]
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マハテールの民族和解政治と日本(縄文思想と日本人)
マハテールの民族和解政治と日本(縄文思想と日本人)
先月の海外ニュースですが、1957年の独立以来、与党連合の支配が続いたマレーシアで初の政権交代が実現しました。これを成し遂げたのが高齢92歳のマハテールでした。与党連合の時代が続いた結果、腐敗がはこびり、これを変えたのが今度の選挙と言われます。マハテールの偉大さを感じたしだいです。
私ことですが、3年間(1983~1986年)、マレーシアで働きました。このときはマハテール全盛時代でした。関連し、今回は、マハテールの政治について愚考します。
ご存知のようにマハテールはルックイースト政策で成功しました。それは従来の西洋をモデルにしたルックウェスト政策から日本をモデルにしたルックイースト政策に変えたものです。当時は、ジャパン イズ ナンバーワンなどという本が出たときで、日本の発展が世界から注目を浴びていたときでした。先の世界大戦で侵略を受けたマレーシアですが、日本をモデルにするというのは画期でした。
この政策で、日本の多くの企業がマレーシアに進出し、マレーシアも日本企業も潤いました。そのとき、私は、ソフトボールクラブに入り、日立など日本の一流企業の方たちと交際しました。そして、野外でビールを飲み、21世紀は日本の時代などと語りあい、盛り上がったものでした(笑)。
マハテールは、またブミプトラ政策という在来人(マレー人)優遇政策も進めました。公務員はマレー人優遇というものですが、40%居た中国人(華僑)や10%居たインド人の不満を残しました。しかし、日本企業は、優秀な中国人を多数雇い、そうした不満を解消しました。
このルックイースト政策とブミプトラ政策の偉大さは、従来からあったマレー人と中国人の民族対立を解消したことでした。例えば、有名な事件にマレー暴動(5月13日事件)があります。
Wikipedia によれば、「5月13日事件(マレー暴動)とは、1969年5月10日に実施された総選挙を直接の原因とする、同年5月13日に発生したマレーシア史上最悪の民族衝突事件である。この暴動はほぼ1日で終息したが、銃撃や放火などによって暴動発生後の数日間で死者196人、負傷者439人の犠牲者を出す大惨事となった。」とあります。
これは、マレー人が、俺たちが貧しいのはお前たちのせいだと怒って中国人500人を殴り殺した事件とも言われていますが、貧しいマレー人と豊かな中国人の対立、それが民族対立となって表れたものと思われます。
そこでマハテールですが、マレー暴動の後に現れ、上記政策を成功させ、マレー人も中国人も豊かになりました。その結果、民族対立はほぼ解消しましたので、国民生活は安定し、誰もが平和のうちに過ごすことができるようになりましたので、マハテールは偉大な政治を行ったことになります。
しかし、権力は腐敗するというか、マハテール引退の後、汚職腐敗がはこびり、今回の政権交代が起きたことになります。ここでは、マハテールが野党連合の旗となり、政権交代の主役になりました。マハテールのカリスマ性が今もあったということでしょうか。
そして、マハテールのような民族融和を進めた人物を日本に当てはめると、勝手な思いですが、聖徳太子がそれに相応しいのではないかと思います。
当時、日本は飛鳥時代、中央の大和政権に対し、東の関東には蝦夷と呼ばれるアイヌ系の人々が居て、一方、西の北九州にはマレー系主体の倭国があり、それぞれ言葉が違っていたと思われます。聖徳太子は、17条憲法で、和を中心とする共生政策を掲げました。そして、その後、その政策のためと思われますが、大きな争いもなく、蝦夷の国も倭国も大和政権に取り込まれ、日本統一が成し遂げられた感じがします。
なお、上と下の写真は、私がマレーシアに滞在していたときの風景写真で、平和な様子です。30年前の写真で、ぼやけています(笑)。
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[ 2018/06/03 07:14 ]
縄文思想と日本人
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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