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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人)

継体王の日本統一6世紀前半


まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、継体王が実在の初代天皇、彼以前の王は神武天皇を除き創作であったことを指摘してきました。

また、前回、神武天皇は、日本の中心場所と思われる奈良の纏向に都を建造し、邪馬台国をモデルに日本統一の事業を始めたが100年で挫折したことを指摘しました。この理由として、この政権は、文字が無く、政権をまとめる規範が無く、広い日本を統一するには力不足であったことが推察されます。

そこで、次に現れた継体王ですが、彼は、古くから海洋交易の拠点であった若狭湾のある福井出身という地の利を生かし、朝鮮半島南部を支配していた百済武寧王と交流し、百済武寧王の後ろ盾を得ることができました。

このことは、大陸の先進文化を導入し、百済をモデルに日本統一を図ることを可能にしました。まず、五経博士を受け入れ、文書部を作ることができました。これは、以前の大王に無かったことでした。また、美しい仏像を含む仏教文化を一早く導入するなど、王としての権威を示すことができました。

この結果、我が国最初の統治機構と思われる行政機構ができあがりました。まず、王宮のあった近畿においては、財務部などの役所を作り有力者(豪族)を役にあてました。また地方については国造制度を作り、地方の豪族に国造の役職を与え、中央に従うようにしました。

この国造に反対したのが九州倭国の磐井王で、後に継体王と磐井王は対立することになりました(磐井の乱 527年)。この戦いは決着が付かなかったようですが、日本統一の事業が始まった証とも理解できます。

関連し、九州倭国と継体王の関係ですが、これら両者をまとめていたのが百済の武寧王と思われます。武寧王は百済王ですが、若いときは北九州に居て武王と名乗り、中国とも倭国の5王の一人として中国に朝貢していたことが知られております。

上記、磐井の乱が起きるのは武寧王崩御(523年)の後の527年です。両者をまとめていた大王が居なくなったので、継体王が日本統一の流れのなかで倭国を地方の一つ(国造)として扱おうとしたのではないかと思われます。しかし、当時、倭国は先進国、マレー系民族の多い地域で言葉はマレー系で大和言葉とは違っていて、継体王と一緒になることはできなかったと思われます。

そして、倭国滅亡は、同じマレー系民族の百済の滅亡と共に起こりました。いわゆる、唐と新羅に攻められた同胞の百済を救おうと大量の兵を送ったことが知られておりますが、白村江の戦い(663年)で大敗し、かつ、倭国王が中国軍捕らえられてしまいました。この結果、倭国も滅びました。

その後、倭国は日本の一部となり、倭国のマレー系民族の言葉は消えました。しかし、「古代北九州ではマレー語が使われていたようだ」で紹介しましたが、「よか」、「ばってん」等の北九州筑後弁は、それらのルーツがマレー語にあると思われます。

関連し、上の地図は継体王の日本統一時代の様子、下の地図は百済と倭国滅亡の飛鳥時代の様子です。飛鳥時代は、関東と北陸は大和政権に組み込まれる直前の様子でなかったかと思われます。

なお、こうした古代政権に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「邪馬台国と日本人」をクリックしますと、今までの記事を見ることができます。

倭国の滅亡と日本の国家統一7世紀


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[ 2018/06/30 22:29 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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