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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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朝鮮半島における多民族国家「新羅」の優位性(日本人のルーツ)

新羅の拡大


朝鮮半島における多民族国家「新羅」の優位性(日本人のルーツ)

白村江の戦いが663年にあり、これを機会に新羅が朝鮮半島を統一しました。そこで、何故、強国の百済は滅び、小国だった新羅が勝ち残ったのか、このテーマについて今回は、愚考します。

まず、朝鮮半島で最強国は高句麗でした。これに対抗したのが百済と倭国の連合でした。両者は戦い、疲弊しましたが、この空白をねらい新羅が領土を拡大します。この状況を上の地図に示しました。そして、中国に強国の唐が現れますと、新羅は唐と連合し、百済と高句麗を滅ぼしました。

小国だった新羅は何故勝利したのでしょうか。唐と連合した外交が良かっただけでなく、朝鮮半島を代表する要素があり、民衆の支持があったのだと思われます。それは、ツングースでありながら多民族国家であったことが考えられます。

朝鮮半島には稲作民族のマレー系と畑作民族のツングース系2系統の民族があったことを紹介してきました。そして、ツングースには高句麗と新羅がありましたが、この両者の違いは、高句麗は北方的要素が強い国、新羅はマレー系民族も入っている南方的要素もある国と分類されます。

そこで、そうした特徴から新羅は、高句麗の民からも百済の民からも親近感のある国と観られていたことになります。

逆に、高句麗、あるいは百済が朝鮮半島を統一すると、それは、異民族支配の征服王朝であり、全体の支持は得られない状況にあったと思われます。

そして、新羅は小国のため外交的には主として属国の道を選びましたが、このため戦乱が少なかったことも民衆の支持を得たと思われます。すなわち、高句麗と百済は軍国主義の国で、国内民衆には厭戦気分があり、そうした流れの中で、新羅は民衆の支持を得、朝鮮半島の統一に成功したと思われます。

関連し、高句麗、新羅、百済の違いを下表にまとめました。

高麗、新羅、百済の特徴


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[ 2018/09/30 14:19 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(8)

畿内と北九州は何故3世紀に交易が少なかったのか(邪馬台国と日本人)

倭国の交易事情3世紀


畿内と北九州は何故3世紀に交易が少なかったのか(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、北九州にあった倭国(邪馬台国)はマレー系稲作民族の国、畿内はほぼ現在と同じ混合混血の日本人の国であったことを指摘してきました。すなわち、古代西日本では言葉の異なる2種の民族がすみ分けていたと思われます。

一方、纒向遺跡は新造都市!邪馬台国と神武東征の謎解きが楽しい『邪馬台国からヤマト王権へ』に、これら北九州と畿内地域の古代3世紀の交易の様子が紹介され、2地域の間の交易が少なかったことが紹介されています。

その記事の一部を引用すると次のとおりです。

しかし、本書で白石太一郎奈良大教授は以下のように言う。

「いわゆる庄内式土器と呼ばれている3世紀の前半から中葉くらいの土器の時期というのは、日本列島各地で土器が活発に移動する時期なのです。

ただこの時期、北部九州の土器は、ほとんど瀬戸内海沿岸各地や畿内地方に移動していない。ただ、その逆は見られるのです。
吉備の土器、それから数は少ないけれど畿内の土器、あるいは出雲の土器などは、北部九州に移動しています。

鉄資源や先進文物の入手ルートの支配権をめぐって玄界灘沿岸地域の勢力とそれより東の畿内・瀬戸内勢力が、相争い、その争いに畿内・瀬戸内勢力が勝利を治めた結果と考えてもいいのではないかと思っています」(引用終了)

この記事をまとめますと、3世紀の前半から中葉くらいのとき、各地作られた土器は北九州(倭国)に移入されているのに対し、北九州で作られた土器は外側に出ていなかった、ということだと思います。

関連し、今回は、この倭国生産の土器の移出が無かったことについて愚考します。

基本的に次の2点が考えられます。

まず、この時期は倭国の大乱があったときで、倭国では土器の生産が行われていなかった可能性があります。このため、生活に必要な土器は外側に求めざるをえなかったと思われます。すでに紹介しましたように、倭国の大乱は激しく、この結果、人口が停滞しました。関連し、土器職人は、大乱を逃れ、倭国には居なくなった可能性もあります。

次に、倭国はマレー系民族の国と指摘してきましたが、倭国と畿内・瀬戸内勢力の間には民族の違い、すなわち言葉の違いがあり、両者の間には基本的に交易が少なかったことが考えられます。そして、倭国はマレー系民族の国であり、同じ民族の居る朝鮮半島の百済との交易が中心であったことが考えられます。

以上の2点から想像しますと、倭国(北九州)が畿内・瀬戸内勢力との交易が少なかったことは当然であったと思われます。特に倭国の大乱のあった3世紀は、戦乱のため交易は限られていたことが推察されます。土器に関しては、倭国にとって土器は生活必需品であり、かつ朝鮮半島から船で運ぶには重い問題があり、例外的に近隣から求めたものと思われます。

関連し、このような3世紀の様子を上トップの図に示しました。


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[ 2018/09/26 13:28 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

神武天皇は倭国の大乱を見て日本統一を決意した(邪馬台国と日本人)

神武天皇東征事情(3世紀)


神武天皇は倭国の大乱を見て日本統一を決意した(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、日本書紀と古事記は創作であり、飛鳥時代以前の内容については事実でない部分が多くあると観ています。しかし、神武天皇関係記事については、日本統一を目指した最初の王であり、その建国神話はリアリテイがあり事実であるという説を支持しております。

まず、拙ブログでは「神武天皇の日本統一の夢愚考」を先に紹介しました。今回は、倭国の大乱を見て、神武天皇は日本統一を決意したことについて愚考します。

すでに紹介しましたように、倭国はマレー系民族が作った国ですが、3世紀に大乱があり、多くの人が戦いに巻き込まれ、傷つき、死にました。神武天皇は、宮崎県日向の出身ですが、これを見たのではないかと思われます。

Wikipedia によれば、神武天皇は「遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た」、とあります。

そこで、「遠くの地の争い」は何を指すのかですが、北九州の倭国の大乱が最も相応しいのではないかと思われます。そして、その争いは日向の地まで聞こえてきた、あるいは、神武天皇は、倭国を訪問し、大陸からの宝物を見ただけでなく、大乱の悲惨を見たのではないかと思われます。そして、東方とは近畿を指し、そこは争いのない美しい国であると知ったのではないかと思われます。

関連し、最近発見された奈良県の大規模な纏向(まきむく)遺跡は、神武天皇の王宮のあったところという説があります。その遺跡は3世紀頃の新大型建造物ですが、倭国の大乱の時期でもあり、神武天皇の国家統一の動機の時期、東征して作った王宮の場所とも一致しています。すなわち、纏向遺跡は、記紀神話と一致することになります。

まとめますと、神武天皇は、倭国の大乱を見て、国家統一のために立ち上がった、という動機が真実であるとすると、纏向遺跡は建設時期と場所が神武東征神話と一致しており、その神話は事実を基にした可能性が高いと思われます。

関連し、神武天皇の東征の状況をトップに示しました。


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[ 2018/09/22 12:54 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

倭国は何故戦争をしたのか?(邪馬台国と日本人)

倭国と百済の連携


倭国は何故戦争をしたのか?(邪馬台国と日本人)

前回、倭国は、国内での戦争、朝鮮半島での高句麗との戦争、畿内政権との戦争、そして唐との戦争が連続して発生し、そのために滅びたことを指摘しました。

今回は、何故戦争が連続したのか、愚考します。

まず、最初の倭国内での戦い(倭国の大乱)ですが、これは、国が一つになるときの戦いであり、やむを得ないものがあったと思われます。

関連する記事を参考にしますと、次のような感じかと思われます。

倭国は当時、福岡平野を中心とする奴国が朝鮮半島との交易を独占し大国でした。しかし、南部の筑紫平野で人口が増えて奴国よりも大きな邪馬台国が出現すると、海外交易の権利の対立など新旧の対立が発生し、大乱が起こったと思われます。

次に高句麗との戦いですが、拙ブログでは、朝鮮半島にはルーツの異なるマレー系とツングース系の2種の民族が居たことを指摘しています。マレー系民族は南方系の稲作民族ですが、朝鮮半島南西部に居て水田稲作を行い、3世紀には百済国を建設しました。一方、ツングース系民族は北方系の畑作民族で、高句麗という国を作り、朝鮮半島の南方に押し寄せてきました。この結果、民族の違いもあり、両者は朝鮮半島で対立しました。

このとき、朝鮮半島南東部には新羅というツングース系の国も建設されましたが、小国のため国力は弱く、百済の敵にはなりませんでした。

このとき、北九州には、百済と同じマレー系民族の倭国があり、倭国は同胞支援のため百済支援を続けました。因みに百済を日本では「くだら」と読みますが、「くだら(Kudara)はマレー語で兄弟(Brother)」という意味です。倭国は百済と同胞兄弟であり、このため百済支援を続けたと思われます

次いで、528年の倭の磐井王と畿内の継体王の戦いですが、ここにも民族対立がありました。倭の磐井王は「磐井の君(きみ)」とも言われるマレー系民族の王、一方、継体王は畿内を支配する日本の王です。継体王は磐井王に臣下(国造)になるように迫り、争いになったと言われます。

まとめますと、倭国は先進国で、かつマレー系の少数民族であったことが、倭国が戦争を続けた要因だったと思われます。朝鮮半島においてはツングース系が多数民族であり、同胞兄弟の少数民族のマレー系(百済)を倭国は支援する関係にありました。一方、日本においては畿内政権が日本の多数民族政権であり、倭国は少数民族ながら対抗しました。

以上のことから、少数民族のマレー系(倭国)は、小さな王国を守るため頑張り、戦争を続けたのだと思われます。

関連し、マレー系少数民族国家の百済と倭国が連携し、多数民族と戦った様子を上トップの地図に示しました。


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[ 2018/09/18 14:42 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

倭国は戦争で疲弊した(邪馬台国と日本人)

倭国、高句麗、唐、畿内政権と戦った図


倭国は戦争で疲弊した(邪馬台国と日本人)

前回、倭国の大乱が九州で起こった影響で九州の人口の伸びが大きく低下したことを指摘しました。今回は、倭国は、大乱の後、さらに戦争で疲弊し、この結果、人口増加が停滞し、滅亡したことについて愚考します。

拙ブログで紹介してきた記事をまとめますと、下記表の様に倭国は戦争に明け暮れました。

倭国の戦争の歴史

まず、北九州ではマレー系民族が住み着き水田稲作を始めましたが、稲作で豊かになると人口が増え、小さな国が多数できました。3世紀に、倭国の大乱という国内での覇権戦いがあり、卑弥呼が女王となると争いは収まりました。

次いで、4世紀、倭国が一つにまとまると(おそらく首都は大宰府)、朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦いました。この戦いは5世紀まで続きましたが、同じく高句麗と対立していた中国南部の諸王朝の評価を得て、478年には倭王武が、朝鮮半島南部と北九州を支配する六国諸軍事安東大将軍倭王として中国(宋)から認められるようになりました。

6世紀には、 畿内で勢力を拡大してきた継体王と倭の磐井王が戦いました。

7世紀には、最後になりますが、百済支援のため、数万の兵を派遣し唐と戦いましたが、663年の白村江の戦いで倭国王が唐軍の捕虜となり、倭国は滅びました。その後、倭国は大和政権に取り込まれました。

まとめますと、倭国は、国内での戦争、朝鮮半島での高句麗との戦い、畿内政権との戦いが連続して発生し、倭国内の人々の暮らしは大変であったことが分かります。そして、これが人口の停滞を生み、最後は白村江の戦いで敗北した後、倭国は滅び、大和政権に取り込まれていったと思われます。

なお、倭国の戦争の歴史の様子を示した地図を上トップに示しました。


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[ 2018/09/14 13:44 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

倭国の大乱で多くの人が死んだ証拠が出てきた(邪馬台国と日本人)


九州、近畿、関東の古代人口変動



倭国の大乱で多くの人が死んだ証拠が出てきた(邪馬台国と日本人)

魏志倭人伝に倭国の大乱が出てきます。3世紀頃の話ですが、拙ブログでも参考にしているブログ「日本古代史つれづれブログ」でもその様子が伝えられています。その一部を紹介しますと次のとおりです。

大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。

防衛機能があった集落ですから、戦いがあったことを推定させます。また近隣にある「隈・西小田(くま・にしおだ)遺跡」(福岡県筑紫野市)からは、殺傷跡のある人骨が多数出土しており、大きな戦いがあったことを示してます(「弥生時代の戦闘戦術」(藤原哲)より)。

吉野ヶ里遺跡の甕棺には、頭骨のない人骨が埋葬されてます。首は切断されてもっていかれたとみられます。(引用終了)

一方、拙ブログでは、古代の遺跡数から古代人口を推定した小山修三(1984)のデータを重要資料として扱っております。今回は、そこに倭国の大乱を示すデータを見つけましたので紹介します。

まず、九州、近畿、関東の古代の紀元前1000年頃(3000年前)から紀元500年までの人口変動を上の図に示しました。

稲作開始は九州で2500年前頃と早く、いち早く人口が増えました。ついで近畿は200年遅れの2300年前頃から人口が増え始めます。ついで関東は50年遅れの2250年前頃から人口が増え始めます。しかし、九州の人口は、倭国の大乱の頃(3世紀)、近畿と関東に抜かれます。

下の図は九州と近畿の倭国の大乱前後の人口です。2世紀(150年頃)は、九州と近畿は10万人でほぼ同じ人口でした。しかし、350年後の500年頃は、九州は70万人、近畿は120万人で、何と50万人という大きな差異が認められます。この差異には、何か大きな要因が絡んでいると思わざるをえません。

九州と近畿の倭国大乱前後の人口変動

そこで、魏志倭人伝に記載されている倭国の大乱をその要因として考察しますと、よく合致します。すなわち、倭国の大乱(戦争)の結果、多数の人が死に、九州(倭国)の人口増加が大きく停滞したと考えることができます。

現在、九州説と近畿説という邪馬台国の所在地論争がありますが、この人口変動は倭国の大乱が九州で発生し、邪馬台国もそこにあったことを示す証拠と思われます。


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[ 2018/09/10 14:49 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

狗奴国はバカ国愚考(邪馬台国と日本人)

邪馬台国と狗奴国の対立


狗奴国はバカ国愚考(邪馬台国と日本人)

前回、邪馬壱国(邪馬台国)は、マレー系民族の国であり、国名はジャワ国の可能性について紹介しました。

一方、魏志倭人伝には邪馬台国連合(女王国連合)に対立している国として狗奴国が紹介されています。その狗奴国は邪馬台国の南にあると記載されています。

今回は狗奴国のマレー語の意味を検討します。

前回同様、狗奴国を北方型漢音読みしますとコウド国またはコド国になります。マレー語のコド(Kodoh)は英語でFoolishですので、日本語読みではバカ国、すなわち蔑称になります。

おそらく、女王国に属さない国はバカな国という意味で使った可能性があります。当時、倭国は大乱があり、激しい戦闘があったことが遺跡でも確認されています。そして、倭国の大乱は女王卑弥呼を立て収まったようですが、それでも女王国に属さない国は、まだ戦いを止めないバカな国という意味があるのかと思います。

まとめますと、魏志倭人伝の国名を北方型の漢音読みをし、その意味をマレー語で検討しますと、その意味が理解できることが分かりました。

前回検討した邪馬壱国の邪馬はジャワと読み、意味は雨の多いところで稲作に適している国、一方、狗奴国はコド国と読み、戦いを止めないバカな国という解釈が可能になります。

なお、拙ブログでは、倭国は稲作民族のマレー系民族の国ということを仮説にし、このような検討を行っておりますが、その可能性をさらに続けていく予定です。

関連し、上の地図は邪馬壱国と狗奴国の場所(推定)です。

また、下のマンガ絵で笑っていただければ幸いです(笑)。

狗奴国の意味はfoolish


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[ 2018/09/06 15:55 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

邪馬台国はジャワ国だった愚考(邪馬台国と日本人)

マレー系民族の故郷ジャワと日本


邪馬台国はジャワ国だった愚考(邪馬台国と日本人)

邪馬台国は紀元250年頃、倭国にあった国の名前ですが、それが初めて記載された魏志倭人伝によりますと、正確には邪馬壱国(やまいちこく)と表記されることが明らかになっています。また、魏志倭人伝には邪馬壱国の他に多数の国名が出てきますが、その一つに、邪馬壱国から壱が抜けた邪馬国があります(下表参照)。

魏志倭人伝の国名の漢音読みとマレー語の意味

すなわち、倭国には邪馬壱国と邪馬国があり、その区別は壱があるかないかであり、邪馬壱は、邪馬+壱と二つのことばの合成語と観ることができます。そして、壱を通常の一番という意味の言葉とすると、邪馬壱国は邪馬の意味が何か分かると本質に迫ることができます。

また、その漢字の読み方には、北方型の漢音読みと南方型の呉音読みがあり、邪馬を北方型の漢音で読むと「ヤバまたはジャバ」、南方型の呉音で読むと「ヤマ」となります。

魏志倭人伝は、北方にあった国(魏)の歴史書なのだから、北方型の漢音読みが正しいという説があります。

一方、拙ブログでは、邪馬台国は稲作民族のマレー系民族の作った国家でマレー語が使われてきたことを指摘してきました。そこで、邪馬を北方型の漢音読みで「ジャバ」と読むと、マレー語でどのような意味になるのか今回は検討します。

まず、ジャバ(邪馬)ですが、近い言葉にマレー語でjawah(ジャワ)があります。Jawahを直訳しますとrain(雨)の意味になります。この意味ですと、邪馬壱国は雨の国、まさに雨が多く稲作に適した一番の国の意味になります。

また、インドネシアに有名なジャワ島がありますが、ここも雨が多く稲作の盛んなところですが、もしかすると、彼らが、その地方の出身者なのかもしれません。そうなると、拙ブログ指摘のとおり彼らはマレー系民族であることになります。

まとめますと、邪馬壱国(邪馬台国)の邪馬を北方型の漢音読みをするとジャバになり、それは、マレー語でジャワ(雨jawah)に近く、また、ジャワは、マレー系民族の多いインドネシアのジャワ島とイメージが重なり、邪馬壱国はマレー系民族の国だったことを感じさせます。

関連し、インドネシアのジャワ島の場所を上トップの地図に示しました。

なお、拙ブログでは邪馬台国を南方型の呉音読みでマレー語の意味を検討したことがありますが、北方型の漢音読みの方が、マレー語に近く、その意味で適していると思われます。

また、下のマンガ絵で笑っていただければ(笑)。

邪馬台国の邪馬はジャワと読む(マンガ絵)


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[ 2018/09/02 14:44 ] 未分類 | TB(-) | CM(5)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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