日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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鬼が島(女木島)秘宝のルーツ(南方系と日本人) [2018/10/28]
白村江の戦いの真実、日本書紀は創作(邪馬台国と日本人) [2018/10/24]
倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人) [2018/10/20]
あすか(飛鳥)には「いい都」の意味がある(日本語のルーツ) [2018/10/16]
くだら寺とひゃくさい寺の違い愚考(日本語のルーツ) [2018/10/12]
百済亡命移民は何故東国に移されたのか(邪馬台国と日本人) [2018/10/08]
多民族の畿内政権の優位性愚考(日本人のルーツ) [2018/10/04]
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鬼が島(女木島)秘宝のルーツ(南方系と日本人)
鬼が島(女木島)秘宝のルーツ(南方系と日本人)
ブログ仲間が「
鬼ヶ島伝説のある女木島の巨大洞窟と古代遺跡
」について興味深い記事を掲載しております。今回は、この女木(めぎ)島(別名:鬼ヶ島)の巨大洞窟と古代遺跡のルーツについて愚考し、鬼が島秘宝のルーツに迫ります。
まず、記事の一部を引用しますと次のとおりです。
ではいったい、この巨大な洞窟の正体は何なのか?
洞窟をよく見ると、ところどころ狭い部分がありますが、床はほぼフラットで準バリアフリー。鬼さんは福祉的な意識が高いのかと感心してる場合ではありません。天井には明らかに人の手による掘削跡が残っていることからも、かなりの人数が関わって整備開削された洞窟であることは間違いないでしょう。
ひとつヒントになるのは、この洞窟の少し下に円山古墳という直径15メートルほどの5世紀ごろの古墳が残っていることです。
副葬品として、純金製でハート型をした耳飾りや刀などが出土しており、教育委員会の説明版には朝鮮半島からの舶載品と書かれています。
少なくともこの島に、東アジア圏の貿易や交流があったことは確実です。
また、あらたな日朝関係史の構築を目指して高田貫太氏が書かれた「海の向こうから見た倭国」という本の冒頭は、女木島丸山古墳に埋葬されている古代人と朝鮮半島との関係から始まっているそうです。
さらにあるサイトには、およそ2000年前の蓮花山採石場(広州)で使われていた採石技術の跡が見られることから、弥生時代から古墳時代くらいの間に中国人石工によって掘られたものだという説もありました。
以前、吉備の鬼伝説に関し、本来は鬼の方が正当な支配者ではなかったのかと書きました。そしてその文化はケルトやその巨石文化とも関連する可能性を問題提起しています。
ひょっとすると、女木島の支配者も、東アジア的な動乱あるいは国際的な文化や人の流れの中でこの地に住みついた、高い文化を携えた未知の女王国だったのでしょうか。
この巨大な洞窟は、知られざる文化をもった人たちの地下宮殿なのかもしれませんね。(引用終了)
引用が長くなりましたが、まとめますと、鬼ヶ島伝説のある女木島には、弥生時代から使われていた巨大洞窟があり、かつ、5世紀に建造された古墳からは純金製の宝物が出土していて、それらの遺跡が誰によって作られたのか、諸説があり、謎に包まれていることだと思います。
そこで検討しますと、拙ブログの指摘している海洋系かつ稲作民族のマレー系民族をその舞台の主役とすると、謎は解決する感じがします。
まず、日本人のルーツですが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、アイヌ系が35%、大陸(朝鮮半島)由来のツングース系が30%、南方系稲作民族のマレー系が30%、その他5%が居ることが分かっています。特に、マレー系は、西日本に多く、縄文時代は海洋交易の主役であり、かつ弥生時代は水田稲作の主役でした。
そして、そうした先進的な性格から、マレー系民族は、日本で一早く国家(倭国)を北九州に作り、5世紀には倭王「武」(在位:478-502年)が朝鮮半島南部も支配する大将軍として中国南朝から認められ、最盛期を迎えます。特に、その5世紀の最盛期時代、熊本にある江田船山古墳からは黄金の冠帽など朝鮮半島由来と思われる宝物が多数出ており、倭王「武」の権盛の様子が伺えます。
そこで、以上のようなマレー系民族と倭国の関係から観ると、本題の女木島の遺跡は、これらの延長線の上にあると観ることができます。
まず、女木島は吉備(岡山)、四国、畿内の三画地帯にあり海上交易上便利な場所にあります(上の図参照)。このため、弥生時代の巨大洞窟は、縄文時代から続く海洋系マレー系民族の交易拠点であり、瀬戸内海関係の多くの物が集積され、大洞窟はそれらの保管場所として使われていた可能性があります。
そして、5世紀になると、朝鮮半島(百済)から大王用の黄金製品が運ばれ、一部がその場所の古墳に埋蔵された。まさに、女木島は、弥生時代から続くマレー系民族(倭国)の西日本における交易拠点だった、と観ることができます。
そして、こうした観点から女木島の鬼ヶ島伝説を見ると、それは、交易品としてマレー系民族が持っていた宝物をめぐる争いとなりなす。マレー系民族は言葉の異なる異民族であり、民話のなかでは鬼として扱われたのではなかったかと思われます。さらには、これら海洋系マレー系民族は、後の瀬戸内を支配した海族のルーツになっていったと観ることができます。
以上、女木島に残る遺跡と鬼ヶ島伝説愚考でした。関連し、女木島の古代の状況を上トップの図に示しました。
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[ 2018/10/28 14:47 ]
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白村江の戦いの真実、日本書紀は創作(邪馬台国と日本人)
白村江の戦いの真実、日本書紀は創作(日本書紀は創作)
「白村江の戦い」の大敗は、その結果、北九州にあったマレー系民族の国家であった倭国が滅び、畿内政権が日本統一を成し遂げるという日本史における大事件でした。しかし、この倭国滅亡のことについては日本史の教科書には出てきません。それは、一つに、教科書の日本史は日本書紀をベースにしているからです。日本書紀の評価と関連し、今回は、この「白村江の戦い」の真実に迫ります。
まず、そこで、その疑問について調べていますと、「
日本書紀が隠したこと
」という記事が出てきました。その記事を引用しますと次のとおりです。
私は古代に思いを馳せるとき、7世紀までの「倭国」とは畿内・大和ではなかったという説を念頭に考えています。そんな私の「妄想ワールド」をまとめると、次のようになります。
倭国は中国・漢の時代の倭奴国、魏・呉・属の時代の邪馬台国などから発展し、宋(南朝宋)の時代の「倭の五王」や隋書に書かれたアメノタリシホコなども九州倭国の王だった。
しかしその倭国は、百済救済のために唐・新羅に戦いを挑むも白村江にて大敗。やがて衰退し、大和に併合されていくことになった。
大和・天皇家の歴史書を、唐の協力あるいは指導を得ながら作成する際に大和は太古から日本の盟主だったと装い、8世紀以降のその地位だけでなく過去の九州王朝の栄光と歴史をも我が物としようと企てた。つまり「歴史の書き換え」です。
九州王朝の存在を隠すこと、それが日本書紀の大きな目的だったと考えています。(引用終了)
引用が長くなりましたが、この記事の内容は拙ブログの主張とほぼ同じです。すなわち、白村江の戦いは、唐・新羅軍と倭国(九州王朝)の間で行われ、畿内政権は参加していないことになります。
一方、Wikipedeiaの「
白村江の戦い
」によれば、日本書紀をベースにした記事ですが、白村江の戦いにおける倭国軍(畿内政権)の軍事力は次のとおりです。
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした。(引用終了)
この倭国軍の内容は、第一派が1万余人で船舶170余隻ですから、単純計算でも一隻当たり60人乗りという大きな船、すなわち唐軍と同等以上の大きな船、あるいは遣唐使に使われた船と同等以上、かつ170余隻もの船舶数です。そこで、そのような多数の大きな船をどのように作ることができたのか、疑問が残ります。当時の技術ではあり得ないことです。
また、第二派は陸軍と思われますが、上毛野君とありますから、おそらく勇猛と言われる毛国(群馬県)出身で、この戦いのためわざわざ遠く離れた関東から出向いたことになります。なぜ近隣の西国出身者を使わなかったのでしょう。おかしなことです。
また、第三派は海軍なのか陸軍なのか不明ですが、なぜ静岡県から出向いたのか、これも同じように疑問が残ります。
まとめますと、日本書紀に書かれている内容は疑問だらけで、とても史実とは思えない内容になっています。
拙ブログでは、「
日本書紀は、奈良の大仏を見物に来た外国人に日本を唐と同じような大国であるように見せるために作られた創作(フィクション)の歴史書
」と観ています。
そこで、この観点から日本書紀の「白村江の戦い」を見ますと、唐軍と同等の大きな船そして多数の兵隊は、日本を大国に見せるための記述、すなわち創作と観るのが妥当と思われます。
一方、日本書紀は創作であるが真実も一部含まれていると拙ブログでは観ています。この観点から深読みしますと、軍隊が陸軍主体の畿内政権関係だけで構成されていたのは、百済支援ではなく、百済滅亡と関連し、日本統一のため倭国を潰すために送られた軍隊であったと考えると、歴史の事実と合います。
関連し、上トップの図は「白村江の戦い」の真実です。
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[ 2018/10/24 13:30 ]
日本書紀は創作
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倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人)
倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人)
「
第 2部 「白村江の戦い」と天武王権 - 日本古代史の復元
」に、『 日本書紀』の記す「百済救援」への疑問、という記事があります。その一部を引用しますと次のとおりです。
百済は日 本へ救援を要請する。このとき百済は日 本列島のどの王権に救援を 要請したのであろう か。 『日本書紀』は斉明天皇が百済の要請を受けて筑紫ヘ行ったと書いている。し かし百済が交流をしているのは阿毎王権である。552年に物部尾輿は物部色鹿火から王権を奪い阿毎王権(優国)を樹立する。552年 10月に百済の聖明王は阿毎王権の樹立を祝して釈迦仏の金銅 像・幡蓋・経論等を献じる。阿毎王権の天皇(物部尾輿)は 「 歓喜し、踊り跳 ね」たという。百済と阿毎王権の交流がはじまる。 その直後に百済は新羅と戦争を始める。 百済は樹立したばかりの阿毎王権に軍兵を乞う。(引用終了)
この記事をまとめますと、百済が支援を求めたのは倭国(筑紫国)の阿毎(あま?)王権に対してであり、日本書紀にある斉明天皇でない、となります。関連し、今回は、倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権であったことについて愚考します。
日本歴史書(日本書紀)には、神武天皇以来、日本は万世一系の天皇政権だけがあったことになっています。
しかし、旧唐書など中国の歴史書によれば、日本には当初、北九州の倭国だけがあったが、遣隋使以降、日本には倭国と日本国(畿内政権)の2国になったことが記されています。
そして、上の引用記事では、『隋書』を引用し、阿毎王権の本拠地は筑紫の鞍手郡であり、筑紫 から豊前までの北九州全域を支配していた大国であったこと、かつ、600年 -632年 まで隋や唐は阿毎王権が 日本を代表する国であると認識して交流していたことを紹介しております。
このことは、北九州の倭国の歴史は、倭の五王のあと、磐井王の時代があり、その後、阿毎王権(552年~663年)の時代が続き、畿内政権と対立していたことを示します。そして、阿毎王権は、663年の白村江の戦いで滅びたことになります。
これらの倭国の歴史を下表に示しました。なお、阿毎王権についてはウェブ検索しますと多数の資料が出てきますが、それらの記事については今回検討しません。
また、関係図を上トップの地図で示しました。
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[ 2018/10/20 08:34 ]
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あすか(飛鳥)には「いい都」の意味がある(日本語のルーツ)
あすか(飛鳥)には「いい都」の意味がある(日本語のルーツ)
古代地名で意味不明な読み方(読めない漢字)に百済(くだら)と飛鳥(あすか)があります。いくつかの説がありますが、いずれも納得できる説明はできておりません。
一方、拙ブログでは、百済について、「百済はマレー語のKudara(Brother=兄弟)」と読むと理解ができることを紹介しました。すなわち、マレー系民族の国であった倭国(北九州)の人々は同じマレー系民族の国の百済をKudara(Brother)と呼んでいたことから、百済は日本語読みで「くだら」になった、としました。
今回は、飛鳥(あすか)の読み方のルーツにチャレンジします。
いろいろな情報を総合すると、「飛鳥」は「飛ぶ鳥の都」がもともとの意味のようです。しかし、なぜ、それが「あすかの都」と呼ぶようになったのかが問題になります。
当時、飛鳥の都には百済滅亡と関連し、多数の百済人がやってきたことが分かっています。拙ブログでは、その百済は稲作民族のマレー系民族の国で、マレー語(百済語)が使われていたと観ています。
そこで、飛鳥も百済人の言葉(マレー語)で読むと解答が出るかもしれません。すなわち、日本人が「飛ぶ鳥の都」と呼んでいたのを、百済人が「Asukaの都」と読んでいるうちに、「Asuka(飛鳥)の都」となった可能性があります。
そこで、Asukaをマレー語(百済語)に翻訳しますと次の候補が考えられます。
「あすか」をマレー語で読むと近い言葉に「Ah suka」があります。「suka」は英語で「like」ですので、日本語に訳すと「あーいい(都)」という感じでしょうか。
そこで、百済人が飛鳥の都を「Ah suka」(あーいい都)と呼んだ理由について考察すると次のようなことが考えられます。
当時、百済では戦争が絶えず、ついには、660年、都が異民族ツングースの新羅軍に攻めこまれ滅びました。こんななか、百済を逃れ、飛鳥の都に着いた亡命百済人は、飛鳥の都は戦争がなく、なんて平和なのだろう。まさに「あーいい都」、すなわち「Ah suka」と感じたと思われます。
そして、百済人に対する日本人の思いは次のような感じでしょうか。日本に美しい仏像(仏教)をもたらし、さらには文字ももたらし、百済人は文化人だ。飛鳥を「Ah suka」と呼ぶなら、私たちも「Ah suka」と呼ぼうと日本人のリーダーは思ったのかもしれません。そうしているうちに、「Ah suka」は、現在のアスカ(Asuka)となったと思われます。
なお、小生がマレーシアでマレー語をかじったときの経験ですが、マレー語のsukaは、日本語の「好き」の語源と思いました。因みに、I like you!は、マレー語でAku suka kamu! (アクスカカム)です。sukaは日本人に身近な言葉と思いました。
以上、Asukaの呼称由来愚考でした。
関連し、百済帰化人の流れを上トップの図に示しました。また、下のマンガ絵で笑っていただければ。
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[ 2018/10/16 14:46 ]
日本語のルーツ
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くだら寺とひゃくさい寺の違い愚考(日本語のルーツ)
くだら寺とひゃくさい寺の違い愚考(日本語のルーツ)
Yahoo知恵袋(日本史)
に百済寺の読み方について質問がありました。引用しますと次のとおりです。
滋賀県東近江市にある百済寺は「ひゃくさいじ」と読みますが、奈良県広陵町の百済寺は「くだらじ」、飛鳥時代にあったとされる百済大寺は「くだらおおでら」(7世紀前半に創建された官寺)、 大阪府枚方市にあった百済寺は「くだらじ」です。
なぜ滋賀県だけ「ひゃくさい」と読むのでしょうか?推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立と寺伝があり、新しいわけではないようです。(引用終了)
今回は、日本語のルーツの観点から、この質問に答えます。
拙ブログでは、百済をクダラと読むこといついて、「
マレー語のKudara(Brother 兄弟)
」から来ていることを紹介しました。この説では、百済と倭国はマレー系民族の国で、倭国(日本)の人々は百済をKudara(兄弟)と読んでいたことになります。
一方、韓国や中国では百済を漢音読みでヒャクサイ(韓国語でペクチェ)と今でも読んでいます。
そこで、滋賀県東近江市にある百済寺について、その歴史を観ますと、前回の報告でも紹介しましたが、そこは古くから百済帰化人の多いところです。そこへ、さらには亡命移民も加わり、百済人が多いところとなり、その結果、彼らが百済寺を母国(百済)と同じく「ひゃくさい寺」と読んできた経過があると思われます。
一方、奈良県広陵町の百済寺(くだらじ)と百済大寺(くだらおおでら)ですが、日本人(倭人)の多いところですので、一般の読み方のクダラになっていると思われます。
まとめますと、百済をクダラと読むのは日本では普通のことですが、百済からの帰化人が多かった滋賀県東近江市にある百済寺は例外的に彼ら帰化人の読み方が使われてきたと思われます。この関係を上トップの図に示しました。
また、下のマンガ絵で笑っていただければ。
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[ 2018/10/12 11:21 ]
日本語のルーツ
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百済亡命移民は何故東国に移されたのか(邪馬台国と日本人)
百済亡命移民は何故東国に移されたのか(邪馬台国と日本人)
白村江の敗戦で百済が滅び、多数の百済人が日本に亡命移民したと言われます。関連し、「
古代から難民を受け入れた日本人
」によれば、次のとおりです。
武蔵の国の百済人入植地記録には、
666年(天智5年)……「百済人男女2千余人東国移住」
684年(天武13年)……「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」
(中略)
崩壊した百済の支配層を受け容れるため、国の司を百済人と決め、日本各地の渡来人を東国の武蔵にまとめた記録です。(引用終了)
一方、「
移民渡来人ゆかりの地名
」によれば、次のとおりです。
660 百済滅亡
663 白村江の戦いで、日本・百済連合軍大敗
666 百済人2千余人を東国に移す
668 高句麗滅ぶ
669 近江国蒲生郡に百済人700余人を移す
滋賀県日野町から東近江市にかけて百済人が配され、旧愛東町には名高い「百済(ひゃくさい)寺」がある。(引用終了)
以上の2報告をまとめますと、百済の亡命移民者の多くが、666年、辺境の地の東国(関東)に2千余人が移されましたが、669年に、関東から近江に700余人が移されたことになります。
今回は、何故、そのような配置になったのか、その実情について愚考します。
まず、当時の国際状況ですが、百済は唐・新羅連合軍に攻められ、660年に滅びました。また、百済支援に向かった北九州の倭国軍は663年の白村江の戦いで大敗し、倭国も滅びました。
このような状況のなか、亡命移民は当初、友好国の北九州倭国に移ったと思われます。しかし、その倭国が663年の白村江の戦いで敗戦すると、彼らは行き場を失い、畿内政権の管理下に置かれたと思われます。
拙ブログでは、当時、日本には倭国(北九州政権)と日本(畿内政権)があったと観ていますが、以上の結果、倭国が滅び、日本(畿内政権)は残りました。
そこで、残った畿内政権の状況ですが、日本は、遣唐使を第4回(659~661年)、第5回(665~667年)と派遣しており、唐とは友好関係にありました。
また、百済滅亡の戦後処理のため、665年、唐より劉徳高という使節がきており、日本と唐の関係は友好的だった様子が伺えます。むしろ、日本は北九州の倭国が滅び、そのことから日本統一が進んだことを唐と確認した印象を受けます。
以上の状況から百済移民を考慮しますと、彼らは唐と戦った反逆者であり、都の側には置けない存在であり、このため、僻地(関東)に移されたと思われます。
しかし、唐の使節が665年に帰国し、しばらくすると状況は変わり、669年になると、もとから百済帰化人の多かった近江に、関東流刑の一部の百済人(700人)が移住することを許されたではないかと思われます。この700人は学識があり、有能で、かつ反逆的でなく、畿内政権で使えそうな人物であったことが推察されます。
まとめますと、百済滅亡の戦後処理として、亡命移民は当初、関東の僻地に移されましたが、しばらくして、状況が落ち着くと、一部の移民に近江の地での移住が認められるようになったのが真相と思われます。
なお、百済人亡命移民は数万人という説もありますが、百済が滅んだ660年の6年後の上記記録、また、百済民衆は百済の支配者層を支持していなかったこと等から見て、2千人程度というのが実情でないかと思われます。
関連し、これらの様子を上トップの図に示しました。
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[ 2018/10/08 11:34 ]
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多民族の畿内政権の優位性愚考(日本人のルーツ)
多民族の畿内政権の優位性愚考(日本人のルーツ)
前回、白村江の戦いが663年にあり、これを機会にマレー系民族の国の百済が滅び、代わりに新羅が朝鮮半島を統一した要因について愚考しました。一方、日本も同じような状況にあったことを今回は愚考します。
朝鮮半島と同じように西日本にも2種の民族が居ました。マレー系民族と日本民族ですが、マレー系民族は北九州に倭国を建設しました。一方、日本民族の中心は畿内にあり、おそらく継体王(在位 507-531)が最初の畿内政権の王と思われます。畿内政権の前は地方大王の時代で、日本を代表する政権は無く、倭国だけが外国に認められた政権でした。
これら二つの国家、倭国と畿内政権の特徴を下の表に示しました。
拙ブログですでに紹介しておりますが、マレー系民族の倭国は民族の違いから日本統一は行いませんでした。むしろ、倭国は同じマレー系民族の国の百済支援で忙しかった印象があります。
一方、日本民族ですが、この民族は、アイヌ系、ツングース系、マレー系の混合混血民族でした。すなわち、多様性があり日本を代表する民族です。
こうした日本民族の多様な性格は、朝鮮半島の新羅と同じで、一般民衆の支持を得たと思われます。例えば、マレー系民族ですが、倭国以外にもマレー系民族は日本各地に住んでおりました。しかし、倭国は戦争の多い国という印象があり、おそらく、民衆の倭国に対する人気は弱かったと思われます。
このため、マレー系民族の倭国が滅んだ後、日本各地に居たマレー系民族内でその再建に協力しようとする者は現れなかったというのが真相と思われます。
こうした流れの中で、マレー系民族の倭国は、滅んだ後、日本(畿内政権)に取り込まれていき、日本民族の一部となっていったと思われます。この結果、倭国で使われていたマレー系言語は消えました。
関連し、上トップ図は倭国全盛時代の倭王「武」の時代(478年頃)の様子です。倭王「武」は478年に六国諸軍事暗闘大将軍として中国南朝から認められました。この結果、朝鮮半島南部の任那、伽耶は倭国の管理下に置かれ、かつ新羅は倭国の属国となっていました。
一方、下の図は倭国が滅びるとき(663年頃)の様子です。白村江の戦いに大敗し、倭国王は唐軍の捕虜となり、倭国が滅びました。
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[ 2018/10/04 11:19 ]
日本人のルーツ
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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