日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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関東にも弥生人は来たのか [2018/11/29]
関東の弥生時代は2200年前頃から始まった [2018/11/25]
装飾古墳が何故関東にも多いのか [2018/11/21]
北九州の装飾古墳ルーツ愚考 [2018/11/17]
済州島民のDNA、モンゴル人虐殺の真実 [2018/11/13]
韓国済州島の先住民族はマレー系と思われる [2018/11/09]
朝鮮半島の前方後円墳は倭国と同じマレー系民族が多く居た地域に建造された [2018/11/05]
朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係 [2018/11/01]
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関東にも弥生人は来たのか
関東にも弥生人は来たのか(稲作と日本人)
前回は、関東の水田稲作の始まった時期について検討しました。人口増加の様子を見ると、その人口増加は急激であり、稲作民族が来て人口が増えた印象があります。関連し、今回は、関東に稲作民族が来たのか愚考します。
まず、人口増加率ですが、古代の遺跡の数から人口を推定しました小山修三(1983)のデータを用い、前回の水田稲作開始時期を考慮して計算しますと、下表のとおりです。
すなわち、関東の稲作開始時期のBC200年からAD500年(700年間)の人口増加は8000人から943,300人で118倍、年当たり人口増加率は1.007です。これは、年当たり100人に1人以下の増加ですので、自然増で可能と思われます。
一方、稲作民族が関東に来た場合ですが、日本における稲作民族はマレー系ですので、この割合は高いことが予想されます。そこで、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)のデータを検討しますと、下表のとおりです。
まず、縄文人と言われるアイヌ系ですが、関東では48%、関西では27%です。一方、弥生系と言われる稲作民族のマレー系は関東で31%、関西で37%です。
この結果から、水田稲作を関東に持ち込んだのは稲作民族のマレー系であると思われますが、縄文人と言われるアイヌ系の割合が稲作民族のマレー系よりも明らかに多く、関東では縄文人が稲作を受け入れたと見るのが普通と思われます。
まとめますと、関東人のルーツに縄文人と言われるアイヌ系が半数近くあることは、稲作を縄文人が受け入れたと見ることができます。また、水田稲作導入による関東の年当たり人口増加率は1.007であり、自然増加と見るのが妥当と思われます。
関連し、関西と関東のルーツの違いをNonakaら(2007)のデータを使い、上トップに示しました。
なお、関東だけでなく西日本でも弥生人が来なかったことを拙ブログで主張しておりますが、その理由は次のとおりです。
1) 稲作は、陸稲栽培ですが、九州熊本で4000年前からあったことが明らかになっている。
2) 稲作を導入したと思われるマレー系民族は中国南部や朝鮮半島にも高い頻度で居ることが分かっているが、インドネシアバリ島当たりにルーツがあることが明らかになっている。そして、マレー系民族の故郷には日本稲の祖先型があり、それをマレー系民族は中国江南地方に持ち込み稲作を始めた可能性が高い。
3) 中国に居たマレー系民族が水田開発に必要な鉄器農具を朝鮮半島と北九州で陸稲栽培をしていたマレー系民族に伝えた。
4) 九州に水田稲作導入されたと推察される2500年前頃に関し、多数のマレー系民族の日本移住があったという歴史的事件は間接的にも直接的にも確認されていない。
なお、このような稲作の歴史に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「稲作と日本人」をクリックしますと、今までの記事を見ることができます。
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[ 2018/11/29 10:34 ]
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関東の弥生時代は2200年前頃から始まった
関東の弥生時代は2200年前頃から始まった(稲作と日本人)
前回は、九州で流行していた装飾古墳が、関東でも多いことについて愚考しました。これは、関東地方は九州と同じように水田稲作が発展し、人口も増え、古代国家が多く出現したためと思われます。関連し、今回は、関東の弥生時代、すなわち水田稲作は何時頃始まったのか、愚考します。
まず、遺跡の数から古代の人口を推定した小山修三(1984)のデータを基に縄文時代から古代の人口の変動を見ますと、上の図のとおりです。比較に、九州、近畿、東北も入れてあります。
一般に、縄文時代晩期は、寒冷化の影響で全体的に人口が減少傾向にありましたが、これを打ち破ったのが水田稲作の導入かと思います。例えば、九州は2500年前頃から人口が増え始めますが、水田稲作開始時期と一致しております。
そこで、人口の増大が水田稲作の発展による食料安定供給の結果としますと、稲作の始まりは、人口が減少から増大方向に向かったときとなります。その様子を細かく見るために、上の図を拡大し、下に示しました。
この図によれば、九州の稲作開始はBC500年頃(2500年前)、近畿はBC350年頃(2350年前)、関東はBC250年頃(2250年前)、東北はBC100年頃となります。
そこで、対応する関東の弥生遺跡を検討しますと、神奈川県の海岸沿いにある「
中里遺跡
」が出てきました。記事の一部を引用しますと次のとおりです。
九州に最初の水田が作られたのは弥生時代の「早期」でした.その当時,関東地方を含む北日本はまだ縄文時代「晩期」だったのです.
ところで,その北日本に水田による稲作が伝えられたのは,東北地方のほうが関東地方よりも早かったらしいのです.水田の技術は日本海沿いに一足飛びで伝えられたと言うのが新しい発見にもとづく説です.
ところで,関東地方に「水稲栽培」が始まったのは今から2000年位前とこれまで考えられていました.
ところが,「中里遺跡」の発掘ではその常識をくつがえす「新しい発見」がありました.
遺跡は遠く足柄山や丹沢山塊を臨む,酒匂川とその支流である森戸川の間に作られた沖積地(川や海が作った低地)にあります.ここには毛織り物の工場がありましたが,あたらしくショッピングセンターを作るために発掘調査が行われたのです.
この土器は弥生時代の中期に「瀬戸内」で作られた土器と全く同じ形式の土器です.これまで関東地方はもちろん,中部/東海地方からも発見されたことはありません.・・・・・・ということは,これらの土器を作った人々が瀬戸内海のある地方から船でこの中里までやってきたことを表しています.
前回の調査ではとなりの区画から「水田」の跡が発見されていました.問題はその水田がどの時期に作られたか?ということでした.
今回の発掘地点からは関東地方では最も古い弥生式土器といわれる「須和田式土器」を作る人々の集落が発見されています.これまでの定説ですと須和田期には水田は作られていないということになっていますから,前回発見された水田を作った人は,今回発見された集落にすんでいた人々の時期よりもう少し新しい時期の人々ではないか?ということになります.しかし今までのところ,この附近では調査された水田の規模に見合った集落が中里以外に発見されていません.もし,中里遺跡の人々が水田を作ったということになれば,今までの説より50年以上古い時期に関東地方でも水田によって稲作が行われていたことになります.須和田期に水田があるということは非常に大きな意味がありますし,非常に大きな?だったのです.しかし,今回の調査で瀬戸内式の土器が出土したことによってこの謎が解きあかされました.
これが,須和田式土器です.瀬戸内の土器とは違いまだ「縄文式土器」の影響が残っていますね・・・・
関東地方で須和田式土器を作る時期には,すでに瀬戸内地方では稲作が行われていました.少なくとも中里遺跡に住んでいた人と瀬戸内の人々との交流が証明されたわけですから,当然彼等によって「水田」を作る技術も伝えらえたと考えるのが最も自然です.
水稲耕作はそれまでの焼き畑より多くの収穫をもたらします.これによって人々の生活は大きく変わり,やがて小国家の出現に結びつきます.
中里は関東地方におけるその第一歩を示す貴重な遺跡なのです.(引用終了)
引用が長くなりましたが、引用記事をまとめますと、神奈川県の2100年前の「中里遺跡」の隣から水田跡が発見されたこと、そして、中里遺跡からはで瀬戸内式の土器の須和田式土器が発見され、稲作を行っていた瀬戸内地方と関係があったことが分かった、ということと思います。
そこで、小山修三(1984)の人口データ、そして、神奈川県の「中里遺跡」の様子から推察しますと、関東の稲作開始は2250~2100年前頃、要約しますと約2200年前と判断されます。近畿より約100年~150年の遅れがあります。しかし、その後、人口増大が進み、AD100年頃には九州の人口を抜き、古墳時代に入って行ったと思われます。
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[ 2018/11/25 09:31 ]
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装飾古墳が何故関東にも多いのか
装飾古墳が何故関東にも多いのか(邪馬台国と日本人)
前回、装飾古墳が九州(倭国)で多いこと、そのルーツは中国南部にあり、マレー系民族によってもたらされたことを紹介しました。一方、装飾古墳は九州に次いで関東に多いことが知られております。関連し、今回は、「装飾古墳が何故関東にも多いのか」愚考します。
まず、Wikipedia によれば、装飾古墳が関東で北九州に次いで多いことが紹介されています。その記事の一部を紹介しますと次のとおりです。
装飾古墳は、日本全国に約600基があり、その半数以上に当たる約340基が九州地方に、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。[1]
古墳時代初期から装飾が施されていた。初期には刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)の側面や蓋の上に、中期には組み合わせ式長持ち石棺の蓋の上面、家形石棺の蓋および棺の内側や外側、箱形石棺にも、そして、5世紀前半頃には横穴式石室にも彫刻や彩色の方法で装飾が施され、さらには石室内全体にまで及んだ。
装飾方法は、浮き彫り、線刻、彩色の3手法があり、浮き彫りや線刻に彩色するなどの併用手法を用いている。最初期の装飾手法は、彫刻が主流であり、線刻は一部で用いられ、浮き彫りが多く、彩色は赤色顔料だけである。5世紀ごろになると彫刻されたものに赤色以外の色が使用されるようになる。6世紀になると浮き彫りを基調とする彫刻がなくなり、基本的には彩色だけで文様が描かれるようになり、石室の壁全体に図柄が描かれるようになる。7世紀末から8世紀初めの奈良県高松塚古墳やキトラ古墳は、装飾古墳とは系統を異にするもので壁画古墳と呼び分けている。
装飾古墳に描かれた文様には幾何学的・抽象的な直弧文(ちょっこもん)・蕨手文(わらびてもん)・鍵手文(かぎのてもん)・円文・同心円文・連続三角文・菱形文・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・区画文などがあるが、何を表しているのか分からない文である。次に、具象的な図柄では盾・靱(ゆぎ)・甲冑・刀・船などの武器・武具・その他の器物や人物・馬・鳥・蟾蜍(ひきがえる)・朱雀などである。人物や鳥獣には大陸文化の影響が認められる。(引用終了)
そこで、上記Wikipedia記事を基に装飾古墳が関東で何故多いのかについて考えますと、前回紹介の装飾古墳を始めた倭国の影響が強くあるのではないかと思われます。
まず、装飾古墳の建造時期ですが、最も有名な茨木県ひたちなか市にある「虎塚古墳」は7世紀前半です。その他装飾古墳もほぼ7世紀の建造です。
7世紀は畿内政権の飛鳥時代に当たりますが、畿内政権は関東での支配はまだできていなかった時代です。因みに、中国の歴史書(旧唐書)によれば、この時代、畿内政権の勢力は関東には及んでいなかったと書いてあります。すなわち、関東の大王は畿内政権に取り込まれていない、あるいは対立していたことになります。
拙ブログでは、「
畿内政権ができたのは6世紀の継体天皇時代(在位:507-531年)
」 と観ていますが、このとき、九州倭国の磐井王と継体王の対立は有名で、磐井の乱(527年)ともいわれますが、実態は倭国と畿内政権の対立でした。
すなわち、畿内政権は6世紀にできたが、九州と関東の支配はできていなかった。そして7世紀に入っても対立は続いていましたが、倭国が白村江の戦い(663年)に敗れたことを契機に倭国は滅び畿内政権に取り込まれていったものと思われます。そして、西で倭国が滅びた後は、7世紀後半になりますが、関東の大王もしだいに畿内政権に取り込まれていったというのが実情かと思われます。
そこで、以上の時代背景を基に、7世紀に何故関東に装飾古墳が多いか検討しますと、6世紀~7世紀は、北九州の倭国と関東の大王は、畿内政権という共通の敵に対応するため、協力しあっていたのではないかと思われます。
そして、その協力のなかで、倭国で流行していた装飾古墳が関東に持ち込まれて流行し、その流行は東北にも届き、東北でも装飾古墳が多く作られるようになったと観ることができます。上記Wikipedia 記事では、東北の装飾古墳は近畿と同程度に多いことも紹介しております。
関連し、関東への装飾古墳の流れを上トップの図に示しました。
また、下の写真はWikipedia紹介の虎塚古墳(茨城県ひたちなか市)の石室の装飾です。
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[ 2018/11/21 09:00 ]
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北九州の装飾古墳ルーツ愚考
北九州の装飾古墳ルーツ愚考(南方系と日本人)
これまで倭国や百済はマレー系民族によって作られた国であることを検討してきましたが、彼らの残した遺跡に装飾古墳もあります。関連し、今回は、北九州の装飾古墳のルーツについて愚考します。
まず、関連の「
装飾古墳のルーツも中国華中、華南
」の記事の一部を引用しますと次のとおりです。
日本の九州に顕著に発見される装飾古墳のモチーフは、稚拙ではあるが、中国南部のワ族崖画や韓国壁画に、そっくりなものが多々見られる。つまり東アジア北部と南部に点在するわけだが、この派生コースの中心地は呉越であろう。呉越のY染色体O2系列の民族移動にまったく合致するからである。http://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/
特に韓国には日本の装飾に類似する絵紋が実によく似た格好で描かれているし、ワ族崖画の群集を稚拙な絵で並べ、弓矢をモチーフにこれまた横並びにするなどの構図は東北の装飾や福岡の五郎山古墳などに顕著である。
これらの装飾はほとんどが中国呉越から道教、扶桑思想、神仙思想の観念を描いたものと考えてよい。
古墳を持たぬ文化圏では屋外の壁画となり、韓国や日本では古墳に描かれた。特に北部九州倭人は呉越から朝鮮半島経由で到達したのであるから、それらが半島南岸・・・つまり「倭の北岸」の海人たちによって舟で伝播したのが遅くなったのでなければ、五世紀の九州倭人の民衆レベルか地方王家の眼で見てきたものが描かれたか、そうでもないなら、呉越人がダイレクトにやってきて描いたのである。
北部九州には中国南朝との、弥生時代からの稲作、製鉄における渡来を行う倭人が来たわけだから、それは呉越の遺伝子の持ち主であれば、それも当然である。
それが東国から東北にまで広がったのはあきらかに、九州倭人が移動したことによる。またあちらから先進地を視察に来て伝播するケースもあるだろう。(引用終了)
引用が長くなりましたが、この記事をまとめますと、装飾古墳のルーツは中国華中華南地方であることは間違いないと思われます。そこで、誰が、どのように持ち込んだのか愚考しますと、次のことが考えられます。
まず、北九州倭国の装飾古墳の建造時期の始まりが4世紀であることから考えますと、この時期は、倭国が百済と一体となって朝鮮半島で高句麗と戦った時期です。
拙ブログでは、百済と倭国は南方系稲作民族のマレー系民族の国であったことを指摘してきましたが、以上の関係から、装飾古墳は、マレー系民族によって、朝鮮半島の百済を経てもたらされたものと思われます。
もともと、マレー系民族は、華中・華南地域の江南地方で稲作を広め、その後、朝鮮半島と日本に移住してきました。また、マレー系民族が中国南部に多数居ることと関連し、マレー系民族の百済は中国の華中・華南と縁が深く、中国南部の王朝から呉音文字と仏教を導入し、日本に広めた経過があります。
関連し、装飾古墳の流れを上トップ記事に示しました。また、下の写真はWikipedia 紹介の装飾古墳の重定古墳(福岡県うきは市)の装飾絵です。
また、装飾古墳と関連し、北九州の墳墓の歴史について愚考しますと、まず、弥生時代に北方系の支石墓が作られ、拙ブログでは「
新町遺跡の支石墓のルーツとマレー系民族の関係
」について紹介しました。その後、邪馬台国の卑弥呼の時代には通常の円墳、方墳時代があり、その後、5世紀頃から前方後円墳が作られるようになりました。したがって、4世紀に始まった装飾古墳は、初めは円墳や方墳に、次いで、前方後円墳にも見られるようになったと思われます。
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[ 2018/11/17 08:12 ]
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済州島民のDNA、モンゴル人虐殺の真実
済州島民のDNA、モンゴル人虐殺の真実(南方系と日本人)
前回、韓国済州島の先住民族はマレー系民族であったことについて愚考しました。その済州島の歴史を見ますと、モンゴル人(元朝)が済州島を支配したことがありますが、元朝が滅びたとき、元朝の過酷な支配に怒っていた住民がモンゴル人のほとんどを殺したと言われております。
今回は、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果から、そのモンゴル人虐殺が分かるのか愚考します。
まず、DNAデータは、「
染色体ハプログループの分布_(東アジア)
」にありました。
近隣の朝鮮民族と日本人(西日本)を比較にし、その結果をまとめますと下表のとおりです(数値は%)。
朝鮮民族に比較し、済州島民は似ていますが、マレー系の割合は、済州島で32%、朝鮮民族で28%と、済州島でやや多く、マレー系民族が済州島の先住民族であった可能性を示唆します。
一方、本題のモンゴル系の割合ですが、済州島で8%、朝鮮民族で18%と、済州島で著しく少なくなっています。それは、済州島でモンゴル人が虐殺され、現在でもモンゴル系の割合が少ないという、歴史的事件の反映を示しているのではないか、と思われます。その意味で、ここで紹介しましたKimら(2011)のDNAデータは正しい結果と思われます。
また、日本(西日本)と比較しますと、アイヌ系は日本の27%に対し、済州島は1%と少なく、朝鮮民族は0%ですので、済州島は朝鮮民族の一部と思われます。
前回、済州島先住民族はかつては日本人と似ていたという報告を紹介しましたが、これは、済州島先住民族はマレー系であったためと思われます。現在は混血が進み状況が変わっています。その結果、日本(西日本)では、マレー系の割合は37%と済州島よりも多くなっていますが、それでも、済州島住民は朝鮮民族の中でも比較的日本人に今でも近いという関係があると思われます。
関連し、各民族のマレー系とモンゴル系の割合を上記の表を基に上トップの図に示しました。
なお、このようなDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)に興味のある方は、拙ブログ左側トップにあります検索欄に「DNA研究」と入れクリックしますと、関連の記事を見ることができます。
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[ 2018/11/13 14:16 ]
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韓国済州島の先住民族はマレー系と思われる
韓国済州島の先住民族はマレー系と思われる(南方系と日本人)
前回、韓国にも前方後円墳があること、その場所は朝鮮半島南西部で、先住民族は稲作民族のマレー系であったことを愚考しましたが、その南方には済州島があります(上の地図参照)。済州島はその位置関係から、先住民族はマレー系民族であったと思われます。
関連し、今回は、韓国済州島の先住民族はマレー系と思われることについて愚考します。
「
済州島に関するWikipedia記事
」 によりますと済州島には百済時代から耽羅(たんら)国があります。その民族・言語について次の様に紹介されています。
耽羅民族は「星主」という国王を中心として、独自の神話・称号文化を持った民族だったが、王氏高麗の侵略や高麗への併合を通じ、強引に推し進められた同化政策により混血が進み、さらに李氏朝鮮を経て現在の韓国済州島民になった。
作家大宅壮一の著書「炎は流れる」の朝鮮編には、「済州島民は朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近い」とある。
『三国志』『後漢書』によれば、耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち[20]、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。
日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎」、「始如」、「椽磨」、「久麻伎」、「都羅」、「宇麻」等の名が知られてる。いずれも耽羅の固有語を万葉仮名のように表したものだと思われるが、その意味などは全くは分かっていない。
アレクサンダーボビンによると、「耽羅」という名称は、日本語の「たにむら(谷村, 'valley settlement')」や 「たみむら(民村, 'people's settlement')」で分析することができるという。したがってボビンは15世紀以前朝鮮語が済州島の支配言語になるまで、島では日本語族系の言語が使われたと推測した。(引用終了)
引用が長くなりましたが、引用記事をまとめますと、済州島の先住民族は、最初は百済国と交流していたこと、背が低いこと、言葉が日本語に近いこと、等かと思います。そして、これらの特徴は、マレー系民族の特徴と一致します。
さらに、耽羅国の「たんら」をマレー語で読みますと、「tan-rah」となり、直訳すると「日焼けした 血」、すなわち「日焼けした民族」と読むことができ、この特徴もマレー系民族の特徴かと思われます。
「耽羅」は百済から見ると一地方ですので、百済人が「耽羅」地方の人々を「耽羅」(日焼けした民族、色黒)と蔑称で呼んだことが「耽羅」の言葉のルーツかもしれません。百済人もマレー系ですが、ツングースとの混血が進み少し色白になっていた可能性があります。
そして、百済が滅び、「耽羅」がツングース系の新羅、高麗に属するようになると、ツングース系の済州島という名称で呼ばれるようになり、混血も進み、現在に至ったと思われます。
まとめますと、「耽羅」(済州島)の先住民族はマレー系民族であったことはほぼ間違いないと思われます。
なお、引用記事にある日本にきた「耽羅人」の名前ですが、万葉仮名で読むと、例えば「宇麻」はウマと読み、その意味はマレー語で(Umah= Home)など、マレー語で読むことができます。
関連し、上トップにマレー系民族の移住経路を示しました。
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[ 2018/11/09 14:17 ]
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朝鮮半島の前方後円墳は倭国と同じマレー系民族が多く居た地域に建造された
朝鮮半島の前方後円墳は倭国と同じマレー系民族が多く居た地域に建造された(邪馬台国と日本人)
5世紀後半、倭王「武」が六国諸軍事安東大将軍として中国南朝に認められ、朝鮮半島南部を倭国の支配下に置きましたた。関連し、前回、この時期、倭王「武」に、これらの地域に任ぜられた大王が、倭国と同じ前方後円墳を朝鮮半島の前方後円墳は朝鮮半島南西部に建造したと思われることを紹介しました。
しかし、倭王「武」の支配下になった朝鮮半島南部には任那と伽耶(上の図参照)もありますが、これらの地域には前方後円墳はありません。今回は、前方後円墳が、なぜ南西部にだけあるのか愚考します。
まず、朝鮮半島の前方後円墳は朝鮮半島南西部の韓国全羅南道・全羅北道に分布していることについて注目しますと、次のことが考えられます。
韓国全羅南道・全羅北道は古くから稲作が行われており、この地域は稲作民族のマレー系が移住し稲作が主となった地域と思われます。因みに、朝鮮半島の弥生稲作も、この地域が中心でした。例えば、弥生水田遺跡として有名な松菊里遺跡もこの地域にあります(上の図参照)。
一方、北九州(倭国)も稲作民族のマレー系民族の多い地域で、倭国はマレー系民族によって作られたと拙ブログでは観ています。すなわち、北九州と朝鮮半島南西部には同じマレー系民族が住んでおり、言葉が通じたことになります。
このことは、朝鮮半島南西部という地域は、同じ稲作民族という事情から、倭国の者が支配者になったとき、倭国の前方後円墳が導入しやすかった環境にあったと思われます。
一方、隣の、任那と伽耶ですが、ツングース系とマレー系の中間に当たり、倭国の影響は弱く、前方後円墳の建造には至らなかった、と思われます。
まとめますと、朝鮮半島南西部には倭国と同じ南方系稲作民族のマレー系民族は主として居住していたため、倭国の影響が入りやすく、倭国の前方後円墳もこの地域に入りやすかった、結論されます。
関連し、これらの関係を上トップの図で示しました。
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[ 2018/11/05 12:45 ]
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朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係
朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係(邪馬台国と日本人)
日本に3世紀頃から建造が始まった巨大な前方後円墳がありますが、そのルーツは日本であることは明らかです。しかし、朝鮮半島にも日本式の前方後円墳があることが知られております。今回は、なぜ前方後円墳が朝鮮半島にあるのかについて愚考します。
まず、朝鮮半島で前方後円墳の多い地域は百済南西部に偏っています。Wikipedia によれば、上の地図のとおりです。
日本の前方後円墳ですが、北九州の倭国のものは畿内に遅れて建造されました。例えば、金銅の冠帽や銘文入り鉄剣の出た熊本県の江田船山古墳という有名な古墳がありますが、5世紀後半、畿内より200年の遅れで建造されています。おそらく、前方後円墳は大王の墓として日本全土で流行し、倭国には遅れて広がったのだと思われます。
そこで、この前方後円墳がなぜ朝鮮半島でも作られたかについて愚考しますと次のことが考えられます。
まず、5世紀後半、倭王「武」が六国諸軍事安東大将軍として中国南朝に認められ、朝鮮半島南部は倭国の管理下に置かれました。そこで、この時期、倭王「武」に、これらの地域に任ぜられた大王が、江田船山古墳と同じように前方後円墳を作った可能性があります。
事実、これら前方後円墳の建造時期は5世紀後半~6世紀前半ですので、まさに倭王「武」の時代と一致します。さらに、建造場所も朝鮮半島南部の韓国全羅南道・全羅北道に分布し、倭国の管理下にあった場所です。
これらのことから考えますと、朝鮮半島の前方後円墳は、日本各地の大王の墓(3世紀)→ 倭国(北九州)(5世紀)→ 朝鮮半島南部(5世紀)、という流れで建造されたと思われます。これらの関係を上の地図に示しました。
次回は、この場所はマレー系民族と関係の深い地域であることについて検討します。
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[ 2018/11/01 08:37 ]
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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