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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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虹を見る方法は成功したか(ごあいさつ)

クコ12月菜園


虹を見る方法は成功したか(ごあいさつ)

今年最後の記事アップとなりました。そこで、拙ブログ訪問と応援に感謝し、年末の挨拶をさせていただきます。

拙ブログは歴史(日本史)ブログに入っていますが、歴史を観る手法として「虹を見る方法」という方法を用いています。本方法は、虹は近くで見ると霧(雨粒)でしかないが、遠くから見ると虹に見えるという現象に因んだものです。すなわち、本方法は、近くでは見えないが遠くから全体を見ると見えてくる虹のようなものを認知する方法と思われます。

歴史、特に古代史関係では、情報が少なく、個別のものだけでは分からないものが多くあります。このため、この「虹を見る方法」は、歴史をみる方法として当然の方法と思われます。

よく言われることですが、世界大戦中、日本の報道しか見てない国民は日本が連戦連勝だと思っていた。しかし、密かに外国の放送を聞いている者には真実が見えていたと言われます。日本史関係では、古事記と日本書紀(記紀)という歴史書がありますが、中国の歴史書を見ると記紀と違うことが書いてあります。そこで、両方を見ると真実が見えてくるのではないかと思います。

拙ブログでは、そうした観点から、邪馬台国と日本人、稲作と日本人、縄文時代と日本人など検討してきました。そして、その方法が良かったのか、人気ブログランキング(日本史)で、最近、週間点数は600点を超えることもあり、順位は2~4位と高位につけています。そして、これも、皆さまの応援もあってのことと感謝しているところです。

来年もこの調子でいければ最高です(笑)。

皆様、良いお年をお迎えください。

なお、上の写真は、自然との共生を目標に遊んでいる我が菜園の一部で、12月上旬のクコの実の様子です。クコは日本に自生している少灌木ですが、その実は不老長寿の実、乾燥してクコ茶として飲むと老体に良いと言われ、我が家も実践しているところです(笑)。

関連し、下の写真はクコの実の乾燥風景です。この実に熱湯をかけお茶にして5年前から毎日飲んでいますが、私と妻は医者知らずです(笑)。クコの実が不老長寿と関係しているのは本当かもしれません。

クコの実乾燥風景


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[ 2018/12/30 09:32 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(3)

旧石器時代の日本人は何処から来たのか

アイヌ系民族の島根出雲への道


旧石器時代の日本人は何処から来たのか(日本人のルーツ)

前回、旧石器時代から日本人がいたこと、それらの民族はアイヌ系であったことを指摘しました。今回は、何時頃、何処から来たか愚考します。

まず、関連のWikipediaの「前・中期旧石器の発掘」の記事を引用しますと次のとおりです。

日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石器が、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。(引用終了)

この記事から、日本には、島根県出雲市の砂原遺跡に12万年前から、現生人と思われる人類の足跡が残っていることになります。

人類の起源はアフリカと言われますが、Wikipediaの記事によれば、現生人類のホモ・サピエンス(サピエンスは賢い、知的を意味する)は25万年前に現れ現在に至っているとあります。

しかし、最近では、30万年前の最古の人類化石をモロッコのマラケシュで発見、という情報も出ております。この情報が事実としますと、現生人類は、そのルーツと言われるケニヤのツルカーナ湖を30万年前には出て世界に広がっていったことになります。

関連し、拙ブログでは、日本で縄文以前の石器遺跡を残したのはアイヌ系民族と推察しています。「アイヌ系のルーツはアフリカ」で指摘していますが、30万年前~15万年前頃、人類のルーツと言われるアフリカ(ツルカーナ湖)を出て、インドネシア辺りにあったスンダランドに住み着いた後、ベトナム、台湾、沖縄を経て、12万年前頃の、上記の島根県出雲市の砂原遺跡辺りに辿り着いたと思われます。

これら縄文以前の遺跡を残した民族にアイヌ系の他には居ないのか検討しますと、次のとおりです。

まず、拙ブログで何度も指摘していることですが、日本人のルーツは、35%がアイヌ系、30%がマレー系、20%が中国系、10%がモンゴル系、5%がその他です。

これらのなかで、12万年前から確認できる民族は、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、アフリカを最初に出たアイヌ系とモンゴル系だけです。

モンゴル系については、アフリカを出た後、北方アジアを移動してモンゴルに辿り着いた民族と言われます。しかし、モンゴルや近隣のシベリアの大地に12万年前の人類遺跡はないことから、そのとき、人類はモンゴルに着いていなかった可能性が高いと思われます。

さらに、そのとき、対馬海峡は大陸と繋がっていなかったことを考えますと、歩いて来たモンゴル民族には12万年前に海を渡って日本の着くことはできなかったと思われます。すなわち、現在の知見では、島根県出雲市の砂原遺跡に辿りつくことができたのはアイヌ系またはその他の不明な少数民族だけとなります。

なお、対馬海峡ですが、氷河期は陸になっていたという説がありますが、すべての期間でなく、「海峡形成史(VI)(大嶋和雄)」によれば、12万年前はリス~ウルム間氷期に当たり、比較的水位は高く、海峡になっていたようです。

そこで、12万年前頃、島根県出雲市砂原遺跡辺りに辿り着いた人々(アイヌ系)の経路ですが、アフリカ、スンダランド、台湾、沖縄、九州、対馬海峡(日本海)、島根と思われます。関連し、島根県砂原遺跡への道を上トップに示しました。


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[ 2018/12/26 11:14 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(2)

旧石器時代人は縄文人になった

旧石器時代と縄文時代の地域別遺跡数


旧石器時代人は縄文人になった(縄文時代と日本人)

前回は、関東の縄文時代の様子について紹介しました。拙ブログでは、これら関東の縄文人の多くはアイヌ系民族であったことを指摘しています。一方、縄文時代以前は旧石器時代と言われておりますが、この時代、日本にどのような民族が居たのか謎に包まれております。

関連し、今回は、旧石器時代人は縄文人になったことについて愚考します。

縄文時代は16000年前~2400年前、それ以前は旧石器時代、または、先土器時代、無土器時代とも言われます。この旧石器時代は、日本に人類が住むようになった時代から縄文時代が始まるまでの時代で、10万年前以上前~16000年前頃になります。

その旧石器時代ですが、ヨーロッパでは、クロマニヨン人とかネアンデルタール人の時代です。クロマニヨン人はラスコーの壁画で有名ですが、南フランスで発見され、4万年前~1万年前の人種で現生の人類と同じと観られています。一方、ネアンデルタール人はヨーロッパや西アジアに広く存在し、人骨は40万年前~4万年前までのものが発見され、現生人類と同じか論争が続いています。

そして、日本の旧石器時代ですが、文科省の参考資料(平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数)のデータを使い、地域ごとの旧石器時代の遺跡数の関係を示しますと、上の図のとおりです。比較として縄文時代の遺跡数も入れてあります。

旧石器時代遺跡は、7565か所もあり、場所は関東と九州に多い傾向があります。一方、縄文時代の遺跡は関東、東北、九州に多い傾向があります。

そして、旧石器時代と縄文時代の遺跡数の関係示すと下図のとおりです。

旧石器時代と縄文時代の遺跡数の関係

この図では、旧石器時代に遺跡が多い地域は縄文時代にも多いことを示しています。すなわち、旧石器時代の遺跡を残した人たちが縄文時代を作ったと思われます。

この図では、東北では旧石器時代と比べると縄文時代遺跡が多い特徴がありますが、東北はとりわけ縄文時代に繁栄した地域と観ることができます。一方、九州は縄文時代の遺跡が少ない傾向がありますが、これは縄文時代中期に起こった「鬼界カルデラ爆発」の影響で住める場所が少なくなったためと思われます。

まとめますと、日本では、10万年以上前の地層から石器が発見され、10万年前から人類の居たことが明らかになっていますが、その人たちが旧石器時代を作り、さらには縄文時代も作ったと思われます。縄文時代人の多くはアイヌ系民族と推察されますが、その意味で旧石器時代からアイヌ系民族は居たと思われます。


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[ 2018/12/22 16:21 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

貝が関東の縄文人を救った

縄文晩期と関東の貝塚


貝が関東の縄文人を救った(縄文時代と日本人)

前回、縄文時代晩期(3000年前頃)、関東の人口は、寒冷化と富士山の噴火による火山灰の影響で食料不足となり、最盛期(5000年前)の10%程度まで落ち込んだこと、そして、生き残った人たちの多くは、海岸に住み漁労生活で食料を確保していたことを紹介しました。

関連し、関東は貝塚の多いことでも知られております。そこで今回は、貝が関東の縄文人を救ったことについて愚考します。

まず、Wikipedia によれば、日本の貝塚について次のように紹介されております。

縄文時代の貝塚は、日本列島ではおよそ2500個所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に残されている。中でも千葉県下に集中しており、とりわけ千葉市内は分布密度が高く世界最大の貝塚密集地帯になっている。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾や大阪湾などをあげることができる。
東京湾岸にも集中している貝塚であるが、作られ方は時期によって違う。縄文早期では、竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様の貝塚が形成されている。縄文中期になると、住居がムラのほぼ中程の広場を囲んで配置されていて、それらの住居に貝塚が残されたので、結果として環状の貝塚の並びが形成されたように見える。加曽利貝塚などがこれに類する。

日本列島は酸性土壌であり、骨などの有機物が残り難い。しかし、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムが豊富なために土壌をアルカリ性に保ち、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)がよく保存されているので、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点から貴重な遺跡となっている。

貝塚が太古の人々の遺したものであるという考えは奈良時代に既にあり、『常陸国風土記』には、大櫛という地にかつて巨人が住んでいて、貝を食べ散らかした跡が岡になったという話が見える。なおこの跡は、現在の大串貝塚に比定される。日本における本格的な貝塚研究の端緒は、1877年にアメリカの動物学者エドワード・S・モースが東京都大田区の大森貝塚を発見し発掘調査したものである。

最古とされている貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。(引用終了)

この記事をまとめますと、次のような感じかかと思います。日本の貝塚の4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に残されていますが、中でも千葉県下に集中しています。また、貝塚で最古のものは東京湾における千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、9500年前からあり、縄文時代の終わりまで続いています。

すなわち東京湾岸は栄養が多く貝が多く居て簡単に収穫できるため、縄文人の食糧源だったことになります。そして9500年前から貝塚があることは、縄文時代の早期から利用されており、縄文社会がいち早くでき上っていたと思われます。

そして、関東の貝塚のほとんどは3000年前頃まで続いていますので、関東の縄文人は寒冷化と火山灰の時代、貝塚の周りで命を繋いでいたと思われます。

そこで、前回の火山灰の記事、そして今回の貝塚の記事をまとめますと、縄文時代の関東は次のような感じかと思います。

関東は5000年前に縄文時代最盛期を迎えましたが、その後、寒冷化、そして富士山噴火による火山灰の影響で住める場所が減り、人口が激減しました。しかし、そうした時代にあっても、9500年前からある貝利用は、食料の供給を可能にし、数少ない縄文人を守った。すなわち、貝は次の弥生時代に向かうベースを作った、と思われます。


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[ 2018/12/18 20:47 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

寒冷化時代、関東の縄文人は何処に住んで居たのか

縄文時代晩期の関東と日本人


寒冷化時代、関東の縄文人は何処に住んで居たのか(縄文時代と日本人)

前回は、縄文晩期、寒冷化による植生の変化、そして火山灰の影響で食料が減少し、関東縄文人が激減したことを紹介しました。関連し、今回は、関東縄文人は何処に住んで居たのか愚考します。

まず、関連する「縄文時代後期 の関東地方における漁労活動(著者:内山純蔵)」の報告の一部(考察部分)を紹介しますと次のとおりです。

内因的理由。漁労活動の比重を高めなければならなくなるような社会内的状況が当時の関東地方にあり,その結果として外海漁場への進出が行われた可能性がある。この問題を生業の観点から解決するためには,漁労活動 のみではなく,狩猟・採集など,他の生業との関連を今後の研究で追及する必要がある。ここでは,人口の問題を提示しておきたい。

  従来から,縄文文化の中心であった東日本で遺跡数が中期を頂点に減少に転じ,晩期には中期の10分の1以下にまで落込む ことが知 られてい る。小山修三は遺跡の数が全体とし当時の人口の多寡を反映している と考えてよいと論じている【KOYAMA 1978;小 山 1979]。小山に よると,人口の減少は縄文中期以降に気候が寒冷化して,食料資源,なかでも植物資源などの陸上資源が減少したことに起因する可能性があるという【 小山1979:176-199】。

  図11は中部地方(長 野県,13585平 方 キ ロ)と関東地方の海岸部(茨城県・千葉県,11244平 方キ ロ)の1平方キロあたりの縄文時代遺跡密度の変化を示したものである。これによると,中 期から後期にかけて,海 のない中部地方では遺跡密度が急減しているのに対し,海 のある関東地方の海岸部ではそれほどの減少ではなかったために,後期には中部地方を上回る結果 になったことがわか る。遺跡の増減が人口の増減とほぼ比例するものであるならば,関 東地方の海岸部が中部地方ほどの人口減に見舞われなかった原因を考えなければならない。筆者は,陸上資源の不足分を漁労活動に比重を移すことで海産資源によって補充しえた可能性を,今後検討すべき選択肢のひとつとして提示しておきたい。陸上 資源 の減少が,漁 労の必要性を増大させることとなり,結果として漁労活動の外海への拡大を促した一要因となったのではなかろか。
(引用終了)

以上の引用の内容をまとめますと、次のような感じかと思います。すなわち、縄文晩期、長野県など内陸部では寒冷化などの影響で食料不足となり、遺跡数が激減した。一方、海岸のある茨城県は漁労で食料を確保し遺跡減は長野県より少なかった。そして、さらに食料をさらに確保するため漁労活動を進歩させ、その活動範囲を外界まで広めた。

そして、前回報告を含めて検討しますと、関東の縄文人の生活場所は次のような感じであったと思われます。

縄文時代、関東地方は5000年前に黄金時代(最高期)を迎えましたが、その後、寒冷化による植生の変化、さらには火山灰の影響で、特に主食であった栗が激減し、人口は、5000年前の9.5万人から3000年前の0.8万人に激減した。残された人々は主に海岸部で漁労により食料を得て生き延び、かつ漁業活動を活発に行い、その範囲を外界まで行うことができるようになった。一方、内陸部に残された人々は、僅かな食料を頼りに細々と生き抜いた。

関連し、この様子を上トップ地図に示しました。


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[ 2018/12/14 21:09 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

縄文時代の富士山噴火の影響は栃木と埼玉で大きかったようだ

関東の縄文人への火山灰の影響


縄文時代の富士山噴火の影響は栃木と埼玉で大きかったようだ(縄文時代と日本人)

縄文時代後期、4000年前~3000年前、関東では、地球寒冷化による植生変化、そして富士山爆発による火山灰の影響で人口が激減したことを紹介しました。関連し、今回は、富士山噴火の影響は栃木と埼玉で大きかったことについて愚考します。

文科省の参考資料(平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数)のデータを使い、火山灰の影響を縄文時代から弥生時代の遺跡数減で見ますと下表のとおりです。

関東の縄文と弥生の遺跡数

この表では、弥生時代の遺跡数が縄文時代の遺跡数よりもすべての県で減少していますが、この原因は、縄文時代晩期の寒冷化による植生の変化と火山灰の影響で縄文時代の人口が減り、その結果、弥生時代の遺跡数が減ったためと推察されます。すなわち、縄文時代に人口の減った県は弥生時代に入っても回復は直ぐにはできなかったと考えられます。

そして、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の割合で特に数値が低い県は、寒冷化だけでなく火山灰の影響が特に強く、このため弥生遺跡の数も少なかったと見ますと、このような県として栃木の15%と埼玉の13%があげられます。

栃木県については火山灰土に由来する黒ボク土地帯として有名ですが、この火山灰が縄文時代晩期に降ったのか文献では分かりませんが、検討中です。

そして、埼玉は最も減少した県ですが、埼玉の中心部は関東平野で最も低い場所にあり、火山灰の影響、さらには植生の変化の影響などいろいろな悪影響が特に強く、人の住める場所が少なかった可能性があります。

関連し、埼玉のように低地の多い東京、千葉も18%と低くなっています。一方、茨城は25%で、千葉の北側にありますが、ここまでは火山灰は届かなかった可能性が高かった、と思われます。

そして、神奈川は36%と高く、ここは植生の変化も火山灰の影響も最も少なかった地域と観ることができます。

一方、内陸部の群馬は茨城と同じ25%で、ここは、植生の変化の影響だけだったという感じでしょうか。

以上、関東各県の縄文時代晩期の植生の変化と火山灰の影響愚考でした。関連し、それらの状況を上トップの図で示しました。


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[ 2018/12/11 11:22 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

関東の縄文時代晩期は寒冷化による栗林の激減に痛められた

関東、東北、九州の古代人口変動


関東の縄文時代晩期は寒冷化による栗林の激減に痛められた(縄文時代と日本人)

前々回、関東の稲作は2200年前頃から始まったことを紹介しました。稲作の前は縄文時代と言われますが、今回は、関東の縄文時代が、どのように弥生時代に向かっていったのか愚考します。

まず、遺跡の数から古代の人口を推定しました小山修三(1984)のデータを用いて縄文時代の関東を、東北および九州と比較しますと上の図のとおりです。

5000年前(BC3000)、関東は日本で人口最大、縄文時代黄金期と思われます。この時代、縄文遺跡では青森県の三内丸山が有名ですが、関東も似たような状況であったと思われます。

そして4000年前~3000年前の寒冷期に食料不足時代に入り人口が減少します。特に関東の減少には著しいものがあります。

拙ブログでは、「東北の縄文人は縄文カレンダー(ストーンサークル)で寒冷時代を乗り切ったこと」を紹介しました。しかし、関東の人口が激減したことは、関東が東北よりもさらに厳しい状況であったと推察されます。

そこで、その要因について調べますと、寒冷化による植生の変化と富士山噴火による火山灰の影響が出てきました。

まず、植生の変化ですが、例えば「気候の寒冷化と縄文社会の崩壊」によれば、次のとおりです。

 環境考古学の安田喜憲によると、6000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は縄文後期に入る4000年前ごろ、縄文晩期に入る3000年前ごろ寒冷化・乾燥化に見舞われた。

 縄文文化は周知の通り、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の生産力が気候の寒冷化により大きなダメージを被り、縄文人は生活の基盤を失うことになった

 たとえば中部山岳の八ヶ岳文化とも言える縄文中期の繁栄は突然崩壊し、巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄された。このように気候の寒冷化によって集落が廃絶した例は枚挙にいとまがない。(引用終了)

すなわち、それまで主食としていた栗などの落葉広葉樹が無くなり、食糧不足になってしまったことになります。

次いで、富士山噴火による火山灰の影響ですが、一般に、火山灰が厚く積もると、覆われた森林は死に絶え、復活するまでに長期間要します。例えば、拙ブログでは、「7300年前の鬼界カルデラ爆発」について紹介し、この結果、九州の縄文時代が停滞したことを指摘しました。

因みに、関東には、関東ローム層という厚い火山灰地層がありますが、それは、富士山噴火によると言われております。Wikipediaによれば富士山は100万年前から噴火を繰り返しており、3000年前には4回の噴火が認められています。

そこで、植生の変化と富士山噴火による火山灰の影響のどちらが大きいのか検討しますと、次のとおりです。

下の図は、縄文時代、寒冷化前(5000年前)と寒冷化後(3000年前)の地域別の人口の変化です。この図では、富士山噴火の影響の少なかったと思われる北陸と中部でも関東と同じように人口が激減してります。

縄文時代寒冷化前とと後の関東などの地域別人口変動

すなわち関東における人口激減は寒冷化による植生変化、特に主食であった栗の激減が第一要因と思われます。そして、富士山噴火による火山灰の影響が追い打ちとなり、関東の人口は激減したというのが真相かと思われます。

なお、縄文時代、栗が主食であったことについては、拙ブログで「山栗は縄文時代の主食であった」で紹介しております。


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[ 2018/12/07 09:51 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

水田稲作で人口が何故増えるのか

森は水田に栄養を供給の図解


水田稲作で人口が何故増えるのか(稲作と日本人)

前回、関東で水田稲作導入の結果、食糧が増え、人口が増大したことを紹介しました。関連し、すでに一般に知られていることですが、今回は、古代の水田稲作で何故、食糧が増えるのか愚考します。

まず、古代の水田作と畑作の栽培法の違いですが、一番の違いは、水田作は連作できるのに対し、畑作は連作できないことと思われます。

森から流れてくる水には栄養豊富な養分が含まれていますので、水田栽培に適した稲はその養分を吸って生育することができます。さらに、水には土壌病害抑制効果があり、連作障害は起きません。また、水田からは魚を取ることもできます。すなわち、用水路を作り水田を作ると、毎年栽培が可能になり、魚も採れることになり、人間に必要な栄養は水田から採ることができるようになります。

一方、畑作の場合、養分不足問題が起きます。例えば、アフリカやアジアで今も行われている焼畑ですが、1年目は焼畑の地力を使って作物は育つことができます。しかし、2年目には生育が劣るようになり、3年目からは養分が不足し良い生育は期待でません。

また、畑で稲を作る場合、陸稲栽培と呼ばれてもおりますが、陸稲は、連作障害問題や干ばつ害の問題があり、簡単ではありません。

以上の様に、水田は一度作ると、森―川―水田の関係が安定していれば永遠に使うことができます。このため、アジア水田稲作地帯の人口密度は高いことが明らかになっています。そして、日本には、鎮守の森信仰がありますが、これは、森は豊かな水を水田にもたらすことと関係があるという人もいます。

しかし、水田を作るのは簡単でありません。水田だけでなく用水路の造成も必要となります。そして、それらの開発のためには鉄器が必要となります。

拙ブログでは、「本格的な水田造成は鉄器の導入の後であること」について指摘しました。すなわち、2500年前の鉄器農具導入後、水田稲作が始まったと見ることができます。

関連し、上トップに水田稲作栽培と陸稲栽培の違いについて図解しました。また、下の写真はアフリカではマダガスカルだけに見られる棚田です。水路造成を省略できることから想像しますと、おそらく、棚田は最も簡単な水田造成方法と思われます。

マダガスカルの棚田と禿山


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[ 2018/12/03 13:04 ] 未分類 | TB(-) | CM(8)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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