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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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黒曜石は縄文時代の基礎を作った

長野県黒曜石産地と伝播


黒曜石は縄文時代の基礎を作った(縄文時代と日本人)

前回、長野県には5万年前の旧石器時代の遺跡が多くあり、黒曜石がその生活を支えたことを紹介しました。関連し、今回は、黒曜石はたいへん有用で、縄文時代への扉を開いたことを愚考します。

まず、関連する「諏訪の考古学―その1」の記事を引用しますと次のとおりです。

1 黒耀石の宝庫諏訪

 信州に、そして諏訪に、人類の足跡がはっきりしてくるのは今からおよそ3〜2万年前のことである。列島をナウマンゾウやオオツノジカが行き交う時代である。八ヶ岳山麓の茅野市渋川遺跡や諏訪市茶臼山遺跡には、黒耀石の鋭利な石器や打製石斧を持つ人々が生活していた。

 諏訪には旧石器時代の人々の活発な生活の痕跡が多く見出されている。特に諏訪湖周辺の高い台地上の、諏訪市上ノ平遺跡は、槍先形尖頭器がたくさん出土することで知られている。本州では最大、良質の黒耀石鉱脈が、下諏訪町の和田峠から星ヶ塔、長和町男女倉から星糞峠、八ヶ岳の茅野市冷山や麦草峠に露頭となって現れていた。黒耀石原産地の直下にある諏訪湖周辺や八ヶ岳山麓は、この時代の遺跡がたくさんあって、巧みな技術によって槍先形尖頭器など鋭利な石器がたくさんつくられた。

 黒耀石はこれらの遺跡に残した旧石器人の手から手へと、県内はもちろん、関東から甲信越一円にもたらされたのである。諏訪に通ずるストーン・ロードが幾筋も諏訪に通じていたことが想像される。

2 縄文の大地に通ずる道

中部山岳地の森の文化縄文―ムラとムラを結ぶ交易ネットワーク

 今から10,000年前、ナウマンゾウやオオツノジカが信州の山野から姿を消すころ、信州の大地は針葉樹林から落葉広葉樹林の森に大きく変容、自然と共生し森林の恵みを最大限に活用した縄文文化が芽生えた。

 縄文時代の確立期は今から10,000年から8,000年前ころ、縄文時代早期と考えられている。諏訪市霧が峰下の細久保遺跡、岡谷市の勝弦峠付近の樋沢遺跡などの山間地に遺跡が展開する。「縄文の都」とたとえられる八ヶ岳山麓を中心とした諏訪の縄文文化の隆盛はここにその萌芽を見るのである。(引用終了)。

引用が長くなりましたが、その内容を、前回記事を含めてまとめますと、次のような感じかと思います。

旧石器時代から、鋭利で有用な黒曜石は諏訪湖周辺の河原で採集され、それに加工が加えられ、5万年前から使われてきた。また、諏訪湖周辺の山地には黒曜石原石の山があり、縄文時代には掘り出され、関東など広い地域で交易品として使われ、長野県諏訪湖周辺は原産地として栄えた。

関連し、黒曜石を中心に、縄文時代の生活について考えますと、縄文時代は定住型社会ですので、住居が必要となります。そこで材木の切り出しが必要で、この材木の切り出しに黒曜石の斧が使われた。すなわち、黒曜石は、狩り用の矢じりや調理用の包丁だけでなく、材木切り出し用品として、生活に欠かせない道具であった、と思われます。

そして、Wikipediaによれば、これら長野県和田峠産の黒曜石は人気があり、加工された矢じりが北海道まで運ばれて利用されていたことになります。

関連し、上トップに長野県の黒曜石の山地と交易について示しました。

また、下の写真は「諏訪市の旧石器時代と黒曜石」紹介の黒曜石出土品です。

黒曜石Wikipedia紹介


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[ 2019/01/30 19:53 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(9)

長野県の黒曜石は関東の旧石器時代を豊かにした

旧石器時代の長野県


長野県の黒曜石は関東の旧石器時代を豊かにした(縄文時代と日本人)

前前回、縄文以前の旧石器時代、南方から来た人々は海岸部に住み、その後内陸部に広がっていった傾向を指摘しました。一方、長野県は内陸部でありながら、旧石器時代遺跡も多く、その結果、縄文時代遺跡も多いことを指摘しました。

関連し、今回は、旧石器時代~縄文時代の日本の中心地は関東地域では長野県だったことについて愚考します。

まず、Wikipediaの記事を引用しますと、長野県旧石器時代の遺跡は次のとおりです。

野尻湖遺跡群(信濃町)野尻湖湖底及び湖西岸から南側にかけての丘陵地帯に点在する39ヶ所の遺跡の総称。その中のひとつである中期旧石器時代の立が鼻遺跡では、約4.8万年前から約3.3万年前までの地層からナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの化石と解体に使用したとみられる骨器や石器などの道具類が一緒に出土しており、旧石器時代で大型獣を解体した跡を残している遺跡は、世界的にも僅かな例であり貴重な資料とされている。

茶臼山遺跡 - 諏訪市上諏訪、1952年(昭和27年)調査

矢出川遺跡 - 南佐久郡南牧村、1954年(昭和29年)

神子柴遺跡 - 上伊那郡南箕輪村、1958年(昭和33年) 
(引用終了)

上の引用記事をまとめますと、長野県の旧石器時代は、4.8万年前の野尻湖遺跡群から始まったと思われます。対して、島根県出雲市砂原で12万年前、岩手県遠野市の金取で9万年前の遺跡が見つかっていて、これらの遺跡は、旧石器時代の中期と評価されていますので、長野県のものは旧石器時代後期と評価されます。

すなわち、日本に12万年前頃、最初の人類が到着しましたが、長野県には、その7万年後の5万年前から旧石器時代が始まったことになります。したがって、前回指摘したとおり、最初に着いた日本人は、海岸に住み着き、しばらくしてから内陸部に移動し、とりわけ長野は食料豊富で、人口が増え、遺跡が増えたと判断されます。

何故、長野県で旧石器時代から人口が増大し遺跡が増えたか検討しますと、上記Wikipediaの記事、野尻湖遺跡群で発見されたナウマンゾウの解体に用いた石器がポイントになります。その石器は間違いなく、良く切れると言われる黒曜石と思われます。

事実、黒曜石は、野尻湖遺跡群近くの諏訪市にある茶臼山遺跡を中心に多数発見されており、また、その産地も近くの和田峠などいくつか見つかっております。

まとめますと、旧石器時代後期5万年前頃、東京湾辺りから長野県に移り住んだ人々は、鋭利な黒曜石を使い、ナウマンゾウなどを食料として人口を増大させていったと思われます。その結果、長野県の旧石器遺跡は、内陸部にもかかわらず多くなり、かつ、その延長で縄文遺跡も多くなったと思われます。

関連し、長野県の旧石器時代の遺跡と黒曜石の関連を、上トップの図に示しました。


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[ 2019/01/27 10:03 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(2)

梅原猛の哲学と縄文思想

梅原猛死去報道(東京新聞2019年1月)


梅原猛の哲学と縄文思想(縄文思想と日本人)

先日、哲学者の梅原猛氏が亡くなりました(上記写真参照)。彼は、我が思想に最も強く影響を与えた人物ですが、「通夜のルーツは縄文時代にあること」など拙ブログでも紹介したことがあります。

しかし、新聞報道(東京新聞)では、彼が、通夜のルーツなど現在の日本人の習慣が縄文時代までさかのぼれることを初めて明らかにした哲学者であったことについては、あまり紹介されていませんでした。

そこで、梅原猛氏追悼の意味を込めて、今回は、彼の縄文研究について紹介します。

まず、彼は縄文時代に栄えた東北(仙台)の出身で、縄文思想と縁があったと思われます。そして北海道アイヌの研究をし、そこに、日本人のDNAだけでなく、日本人の思想のルーツを発見しました。すなわち、日本人は世界宗教では仏教徒に分類されますが、その前に信じているものがあることを発見したのでした。

例えば、身近な例として、日本人は何故通夜(夜の葬式)をするのかです。そこで、調べると、アイヌの葬式は通夜だけ、すなわち、通夜は縄文時代からあることを発見したのでした。さらに、アイヌ語で神はカムイ、魂はタマなど、精神世界で重要な単語はアイヌ語がベースになっていることを発見したのでした。

そんなことは分かっているというアイヌ研究者が居ます。しかし、それらのことを活字にし、私たちに教えてくれたのが梅原猛氏と思われます。

彼は、さらに、アイヌの「自然との共生思想」に感動し、これを日本人のアイデンテテイとして世界に広げれば世界は平和になることを強調しました。

関連し、彼の晩年は、その縄文思想と仏教の融合、すなわち、「草木国土悉皆丈夫」(人間や動物ばかりでなく植物や鉱物も仏性を持っているという考え方)という哲学の体系化にあった感じがします。

まとめますと、西洋哲学など外国思想を日本に紹介するというのが哲学という風潮が今までありました。しかし、日本人の精神世界のルーツが縄文時代にあることを発見し、日本人の考え方や宗教を哲学にしていったというのは彼が初めてでないかと思います。

関連し、上と下の写真は東京新聞(2019.1.15)の記事です。

梅原猛死去報道2(東京新聞1月)


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[ 2019/01/23 09:48 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(4)

関東に着いた旧石器時代人はしばらく海岸部に留まったようだ

縄文以前と縄文時代の遺跡数の棒グラフ


関東に着いた旧石器時代人はしばらく海岸部に留まったようだ(縄文時代と日本人)

前回、旧石器時代(縄文以前)の人は関東に多く居たことを紹介しました。今回は、その旧石器時代人が、どのように関東に住み、どのように広がっていったのか愚考します。

まず、文科省の参考資料: 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数のデータを使い、縄文時代と縄文以前の遺跡数を整理しますと、下表のとおりです。また、その表を基に関係図を上トップに示しました。

縄文以前と縄文時代の各県遺跡数

この表と図では、縄文以前の遺跡は、海に面した県で多い傾向があります。例えば、東京で672点、千葉で639点と多く、一方、内陸部では、栃木で82点、群馬で192点と少なくなっています。これは、旧石器時代人は、黒潮に乗って南方から来たことから考えますと、東京や千葉など貝類が豊富な海岸部に、まず住み着いたと考えることができ、普通のことと思われます。

次に縄文時代の遺跡分布ですが、内陸部で多い傾向があります。因みに、長野は5882点と最高です。

そして、縄文時代の遺跡数の増加割合を、縄文時代遺跡数/縄文以前遺跡数、という数値(倍数)で評価しますと、内陸部で多い傾向が明確に現れます。その数値は上表に示してありますが、1位は山梨の67.5倍、2位が栃木の32.7倍、一方、下位は東京の5.7倍、千葉の9.2倍です。

興味深いのは長野県です。長野県には、縄文以前から多数の遺跡があり、人間が住むことのできる環境が多くあったものと思われます。そして、長野県は日本の縄文時代の先駆けとなった、と思われます。

遺跡の数の流れからしますと、おそらく、東京湾辺りに上陸した最初の日本人は、その後、千葉、埼玉、群馬を通って長野県に辿り着いたと思われます。


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[ 2019/01/19 08:23 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(4)

旧石器時代人は太平洋側から広がった

旧石器時代人の日本へのルート


旧石器時代人は太平洋側から広がった(縄文時代と日本人)

先日、島根県出雲市砂原遺跡の事例から、「12万年前という我が国最古の人類遺跡を残した人々のルーツ」について検討し、それはアイヌ系の人々と愚考しました。今回は、日本に来た旧石器時代人の多くは太平洋側広がったことについて愚考します。

まず、旧石器時代(縄文時代以前)の遺跡数ですが、文科省の参考資料: 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数のデータを使い、旧石器時代の地域別遺跡数を整理しますと、下図のとおりです。

地域別旧石器時代遺跡数

この図では、とりわけ関東と九州で遺跡が多い傾向があります。すなわち、旧石器時代人の多くは、関東と九州に住んだことになります。

旧石器時代遺跡数の多い都道府県(上位10件まで)は下表のとおりです。1位が東京で2位が北海道となっていますが、総じて太平洋側に多い傾向が認められます。因みに、太平洋側では、東京1位のほか、千葉3位、大分6位、神奈川7位、静岡8位、埼玉9位、となっています。日本海側で多いのは、長崎5位、熊本10位です。

旧石器時代遺跡数の多い都道府県

これらの他、内陸県の長野4位がありますが、これは、旧石器時代を約10万年間(12万年前~2万年前)としますと、この間、関東から内陸部に移住した例として観ることができます。この方面は、後ほど検討する予定です。

東京で旧石器時代遺跡が多いのは、掘り起こしが多いことに由来すると思われます。旧石器時代は2万年前以上のことですので、それらの遺跡は地下(下層)に眠っています。このため、道路工事などで掘り起こしたときに、偶然に遺跡が見つかるという感じかと思います。

以上、まとめますと、旧石器時代人が南方から日本に来たルートとして、日本海ルートと太平洋ルートが考えられますが、太平洋ルートが圧倒的に多いと判断されます。また、日本海ルートで熊本と長崎で多いことは、沖縄を経過してきた旧石器時代人は、鹿児島で日本海側と太平洋側の2コースに分かれたと推察されます。

すなわち、旧石器時代人は、南方より黒潮の流れに導かれ、沖縄を経過し、九州に辿り着いたと思われます。これらの関係を上トップに示しました。

なお、旧石器時代人のルートとして朝鮮半島経由説も考えられますが、この時代(12万年前頃)、旧石器時代人と思われる人類遺跡は朝鮮半島に認められないことから、この説を拙ブログでは支持しておりません。


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[ 2019/01/15 09:56 ] 縄文時代と日本人 | TB(-) | CM(0)

大地は私たちに属しているのではない(縄文思想と日本人)

マダガスカルのジャカランダの花風景1


大地は私たちに属しているのではない(縄文思想と日本人)

前回、「沖縄の辺野古への思い」について、普通の日本人の心情を紹介しました。その思いと関連し、今回は、以前に紹介しました記事ですが、北米先住民スクワミッシュ族古老が1854年にアメリカ政府から土地を売れと迫られた時にした演説「大地は私たちに属しているのではない」の言葉を再度引用したいと思います。

まず、その言葉(演説内容の一部)を引用します。

「すべてこの地上にあるものは、わしらにとって神聖なものだ。松の葉の一本一本、岸辺の砂の一粒一粒、深い森に立ちこめる霧や、草原になびく草の葉。その葉裏に羽音をたてる虫の一匹一匹に至るまで神聖なものだ。わしの体の中を血が流れるように樹木の中を樹液が流れる。わしは大地の一部、大地はわし自身なのだ。

それなのに、白い人たちは、母なる大地を、父なる空を、まるで羊か、光るビーズ玉のように、売り買いしようとする。大地をむさぼりつくし、後には砂漠しか残さない。

大地は、私たちに属しているのではない。わしたちが、大地に属しているのだ。・・・・」
(引用終了)

この演説から、アメリカ先住民族が「自然との共生」という日本人と同じ感情や考え方を持っていることを感じ取ることができます。おそらく、沖縄の人達の心情と同じものがあるのではないでしょうか。

そして、今上天皇の言葉、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」は、その沖縄の人達の心情を察した言葉で、この言葉に多くの人が感動したのではないでしょうか。阿修羅掲示板「天皇誕生日の記者会見に思う」にはその様子が伝えられていました。

日本は西洋文化導入の過程で日本の伝統の多くを捨ててしまったと言われますが、辺野古の埋め立ては、その象徴的出来事、と拙ブログでは感じています。まさに、日本人のアイデンテテイ、そして国家の品格が問われている出来事と思われます。

なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、2年前に見たマダガスカルのジャカランダの花風景(11月)です。

マダガスカルのジャカランダの花風景2

マダガスカルのジャカランダの花風景3


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[ 2019/01/11 09:54 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(2)

辺野古埋め立てと日本人の思い

マダガスカル西海岸の夕暮れ


辺野古埋め立てと日本人の思い(縄文思想と日本人)

拙ブログでは、日本人の宗教は、「自然との共生という縄文時代からある思想(縄文思想)」が背景にあることを指摘してきました。

それは、日本の美しい自然の中で数万年かけて出来上がった思想です。最近、その日本人の思想に反する事件、すなわち「美しい辺野古海岸の埋め立て」という事件が起きています。

その埋め立ての様子が昨年暮れにテレビで放映されましたが、多くの日本人が悲しくなり、怒りも覚えてきた感じを受けました。これは普通の日本人なら誰もが持った感情と思われます。

関連し、今上天皇が85歳の誕生日に先日発表された思い、すなわち、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」には感動しました。

拙ブログでは、「今上天皇の言葉に縄文思想を感じること」を紹介したことがありますが、今回の言葉も素晴らしいと思いました。

辺野古埋め立てに関連し、「修羅掲示板(政治)」に次のような小沢一郎氏の発言が紹介されていました。

「僕は僕なりに辺野古新基地は必要ない、と主張してきたが、最近米海兵隊のしかるべき人物から話を聞く機会があり、その確信を深めた。彼によると、海兵隊はグアムに行ってしまうので沖縄には事実上いない、だから新基地は海兵隊が望んでいるものではないし、米政府も同様ですと。ただ、日本政府がやると言っているのに、やるなとは言えない、とのことだった」(引用終了)

以上のことをまとめますと、沖縄の民意を大切にし、辺野古埋め立てはすぐ中止するのが日本人の願いと思われます。また、これは、国際的には、日本人のアイデンテテイ、あるいは国家の品格の問題でもあると思われますが、どうなのでしょう。

なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、2年前に見たマダガスカル夕暮れの海岸と、その近くにあるバオバブの通りです。

マダガスカルのバオバブの木の通り


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[ 2019/01/07 09:53 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(1)

今年こそ邪馬台国論争に終止符を

我が菜園の菊花11月


今年こそ邪馬台国論争に終止符を(ごあいさつ)

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

さて、拙ブログは日本史ブログ(歴史ブログ)に参加しておりますが、気になっていることは、相変わらずの邪馬台国論争です。ブログ仲間の記事を見ると、ほとんどのブログは邪馬台国が九州にあったとしています。

拙ブログでも九州説を支持していますが、日本の歴史関係学会は結論を出そうとしていません。邪馬台国が大和には存在していなかったことは、中国の歴史書にある倭国関係の記事を見れば明らかです。

また、魏志倭人伝には、倭国(邪馬台国)の人々は海南島の人々の容貌や習慣に似ているとあります。邪馬台国の場所を大和と言い張る人は、これらをどう見ているのでしょう。

さらに、邪馬台国の遺跡ではないかと言われている奈良県の纏向遺跡ですが、ブログ仲間の記事によれば、それを調査している研究者は邪馬台国と関係ないと言っているようです。

平成も今年の4月で終わります。これを機会に、結論を出してくれれば幸いです。気骨のある学者が出てくること、期待したいと思います。

なお、拙ブログ訪問者に対するブログ訪問ですが、原則として毎日訪問し、興味深い記事にはコメントを残したいと思います。勝手なコメントですので、コメント返しの必要はありません。

そして上の写真ですが、自然との共生を追及している我が菜園の11月の風景です。放置栽培の菊ですが、毎年、このように美しく咲いてくれます。自然は美しい、そう思うこの頃です(笑)。


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[ 2019/01/03 09:26 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(14)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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