日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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「海彦」は何故「山彦」に負けたのか [2019/06/29]
神武天皇時代の日本の地理的中心地は奈良だった [2019/06/24]
文字は何時頃から使われていたのか [2019/06/19]
岡山は古代日本の中心地だった [2019/06/14]
北九州に古代国家が先に作られた [2019/06/09]
東海・近畿の古代中心地は静岡県と三重県か [2019/06/04]
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「海彦」は何故「山彦」に負けたのか
「海彦」は何故「山彦」に負けたのか
(西日本の古代)
海彦・山彦物語は記紀にある神話ですが、弟(山彦)が兄(海彦)を従えるという儒教に反することが描かれております。「
儒教の教えは聖徳太子の17か条の憲法にもあること
」から、その教えは分かっていたと思われますが、なぜ、儒教に反するようなことが記紀に描かれているのか、謎です。
また、山彦は三男となっていますが、なぜ三男なのか、これも謎です。
今回は、これらの謎について、記紀の意図から愚考します。
物語は、神話時代、3人兄弟の葛藤と戦いを描いたものですが、長男(兄)の海彦と三男の山彦の争いが中心になります。
まず、弟の山彦は兄の釣り道具を借り、釣りをしているうちに針を無くしてしまいます。その結果、兄に釣り針を返してくれとしつこく迫られ、嘆いていると神が現れ助けてくれます。そして、竜宮城へ連れていってもらい、そこで妻を得、かつ、亡くした釣り針も見つけることができ、兄にそれを返すことができました。
それで終わればハッピイエンドですが、問題はそれからです。
その後、兄と弟は死にもぐるいの戦いをし、最後は神の力を借りた弟の山彦が勝ち、弟が兄を従わせることになります。
この話を、兄は先輩の倭国、三男の弟は後輩の大和国、中間の次男を「吉備国」とすると、日本の歴史そのものです。拙ブログでは、これらのことを検討してきましたが、再度述べると次のとおりです。
まず倭国ですが、北九州にあった倭国は海洋系のマレー系民族の多い国で、日本で最初の国(倭国)を作りましたが、記紀神話で長男が海彦と呼ばれたのは、そうしたルーツがあったためと思われます。
そして、二番目に水田稲作開始の早かった吉備国が生まれました。水田稲作開始が比較的早かったことは、マレー系民族の影響があったためと思われます。しかし、記紀神話で特に記載がないのは、三男の山彦と戦わなかったためと思われます。
そして、三番目に大和国が生まれましたが、畑作民族のツングース系の多い国で、このためか水田稲作の開始も遅れました。記紀神話で三男が山彦と呼ばれたのは、そうしたルーツを暗示していると思われます。
関連し、日本人のDNAは、アイヌ系が35%、南方系稲作民族のマレー系が30%、北方系畑作民族のツングース系が30%、その他5%であることが分かっています。
記紀にある天孫降臨の神話は北方系ツングース系の神話です。山彦が主役となったのは、そのような日本民族成立過程でツングース系の山彦が天皇のルーツとなったことを暗示していると思われます。
そして、弟の山彦の大和国は、663年の白村江の戦いで弱った海彦の倭国を滅ぼしてしまいます。神話では神の助けを借り、兄の海彦を従えることになります。そして、その神の力を得た山彦の子供の子、すなわち山彦の孫が神武天皇ということになっています。
山彦は神話の中の人物、しかし、その孫の神武天皇は実際の歴史上の人物です。まさに、神話とつながりのある神武天皇の出現によって、大和国の始まりが完成したことになります。
以上のことから、海彦・山彦の記紀神話はフィクションですが、倭国と大和国の関係をモチーフにした神話であったとすると、日本の実際の歴史と一致します。そして、次男を吉備国としますと、吉備国は大和国より先にあった国で、歴史的事実と合うように次男として登場させたのではないかと思われます。
記紀全体を通じて北九州にあった倭国のことは記述されていませんが、この神話では間接的に触れていることになります。ここに、実際に歴史上あったことを完全に否定することはできない記紀作成者の心情があるかもしれません。
関連し、まとめ図を上トップ、関連の背景を下図に示しました。
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[ 2019/06/29 11:20 ]
西日本の古代
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神武天皇時代の日本の地理的中心地は奈良だった
神武天皇時代の日本の地理的中心地は奈良だった
(西日本の古代)
これまで、古代遺跡数との関連で邪馬台国の所在地を検討してきました。この結果、奈良県は弥生時代遺跡が少なく、魏志倭人伝に描かれているような背景は無かったこと、一方、福岡県(北九州)は弥生時代遺跡数が多く、かつ南部には投馬国があり、邪馬台国が北九州にあったことはほぼ間違いない、という結論に達しました。
一方、奈良の纏向(まきむく)遺跡に王宮跡のような巨大建造物跡が発掘されています。この建造物跡について、3~4世紀の建造物であることから邪馬台国の王宮跡という説もありますが、神武天皇王宮跡という説もあります。上記の検討から邪馬台国跡でないとすると、残された説は神武天皇王宮跡という可能性が高くなります。
そこで、纏向遺跡は神武天皇の王宮跡とした場合、神武天皇は奈良の大和に王宮を何故建造しようとしたのか、今回は、その背景と理由について愚考します。
まず、その背景と理由について次の2点が考えられます。
一点目は、奈良の場所は日本の地理的中心地という考えがあったのではないかと思われます。当時、纏向遺跡が建造された3世紀の事情は次のとおりです。
まず、北九州に邪馬台国がありました。これは稲作民族マレー系民族の多い国で、行政組織と文字があり、朝鮮半島と中国との関りの強い、先進地域でした。
一方、その他の地域は、水田稲作の開始は700年の遅れがあり、弥生時代末期から古墳時代に入る時期で、各地域に国ができ始めた時代でした。
そんななか、神武天皇は宮崎の出身で、同胞の日本民族は北九州を除く地域、すなわち東側に住んで居ました。
そこで、問題の奈良の周辺地域を、3世紀と関係の深い弥生時代遺跡数を見ると下図のとおりです。
一番の中心地は岡山(吉備)です。また、東海地域には静岡(駿河)に遺跡が多く人口の多い地域であったと思われます。そして、これらの地域全体の中心場所は奈良になります。なお、関東地方は、稲作が始まったばかりの田舎で、毛の国とも呼ばれ、僻地であり、日本の一部という認識は弱かったと思われます。
背景と理由の二点目は、この中心場所の奈良に強大な支配者が居なかったことが考えられます。上の図で見ても、弥生時代遺跡数が多いのは、岡山、静岡、広島、兵庫、三重です。奈良の周囲の大阪と和歌山は弥生遺跡が少なく、奈良は空白地域であったと思われます。
そこで、神武天皇は、日本民族の地理的中心地の大和(奈良)に都を作ろうと計画し、まず、広島(安芸)に7年、次に岡山(吉備)に8年間滞在し、安芸と吉備の王を味方につけます。そして、次に、奈良の隣にある三重(伊勢)に回り、伊勢の勢力を味方に付け、大和に入ったというのが「
記紀にある神武東征
」 の真相かと思われます。
弥生時代遺跡数の多い地域、すなわち人口の多い地域と神武天皇は関係を持ち、一時的ですが、日本の支配者になっていたと思われます。この意味で、弥生時代遺跡数と神武天皇の足取りは一致していますので、神武天皇関連の記紀の記述を、弥生時代末期の状況にすると、事実に近いと思われます。
また、纏向遺跡については土器などの出土物から吉備の影響が強いことが分かっています。
以上のことから推察しますと、纏向遺跡を神武天皇の王宮跡とすると、記紀神話は当時の時代背景と一致します。
以上、古代(弥生時代)遺跡数から見た神武東征愚考でした。
関連し、上トップに関係地図を示しました。
なお、このような神武東征記事に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリ欄の「神武天皇日本統一の夢」をクリックしますと今までの記事を見ることができます。
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[ 2019/06/24 07:52 ]
西日本の古代
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文字は何時頃から使われていたのか
文字は何時頃から使われていたのか
(西日本の古代)
前回まで、先進地の倭国と後進地の吉備国の状況について検討してきました。そして、先進地と後進地の違いですが、文字が使われていたかどうかが一つのポイントと思われます。
関連し、今回は、「文字は何時頃から使われていたのか」について愚考します
まず、先進地の北九州の倭国は文書を持って中国に朝貢しましたので、文字は使われていたことは明らかです。この証拠として、
西新町遺跡(福岡市早良区)
(奴国)で硯が発見されています。
その記事を引用しますと次のとおりです。
西新町遺跡で邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば~後半)に使用されたとみられる硯(すずり)5個が発見された。
同遺跡は『魏志倭人伝』に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、倭の貿易港として発展したとみられるという。
[西日本新聞](引用終了)
関連し、我が国最初の万葉仮名の使用例ですが、57年に後漢に朝貢して授けられた倭(委)奴国の金印の倭奴国が最初で、続いて107年に後漢に朝貢し、後漢書東夷伝に記述された帥升(名前?)があります。これら倭奴国や帥升が万葉仮名に当たるのか不明ですが、続いて、邪馬台国関連の魏志倭人伝に地名、国名、人物名の記述に多数の万葉仮名を見ることができます。
一方、吉備国ですが、文字に関連する歴史的遺跡は全くありません。おそらく、王は居ても行政組織が未発達だったのはこのためと思われます。
そして、歴代天皇で実在が確認できるのは「継体王(在位:507-531年)」からですが、継体王は百済の支援で五経博士を受け入れ文書部を作りました。さらに、行政組織も作りました。まさに、畿内の本格的政権は継体王から始まり、文字もこの時から使われたと思われます。
まとめますと、文字使用は、北九州の倭国では3世紀以前から、畿内では6世紀からになります。そして、畿内政権の文書が中国の歴史書に現れるのは7世紀の遣隋使からになります。
こうした6世紀の状況を上トップ図に示しました。
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[ 2019/06/19 06:54 ]
西日本の古代
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岡山は古代日本の中心地だった
岡山は古代日本の中心地だった
(西日本の古代)
前回まで、福岡(北九州)は、マレー系民族が多く、水田稲作導入が早く、国家も早く形成されたことを指摘しました。一方、その他の地域は稲作導入について700年の遅れがあり、国家形成も遅れたことを指摘しました。
関連し、今回は、北九州を除けば、岡山(吉備)は古代日本の中心だったことについて愚考します。
前回、岡山は、弥生時代遺跡数、古墳時代遺跡数が圧倒的に多く、東海・近畿・中国地域の中心地だったことを指摘しました。
Wikipediaによれば、吉備国は次のように紹介されています。
・・・ 古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。 ・・・
6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。吉備は弥生時代からの塩の生産地であり、さらに6世紀後半には鉄生産が開始された。造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもち、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。
(引用終了)
引用をまとめますと、吉備は、弥生時代は塩の生産地として栄え、古墳時代は埴輪のルーツがあり、優れた製鉄所もあり、大きな古墳が建造された、とあります。
また、稲作ですが、岡山に陸稲栽培が6000年前に行われていたことが確認されています。おそらく、こうした背景もあり、中国地域で一早く水田稲作が導入され、広がったと思われます。
そして、この水田稲作は全国に広がる先駆けとなったと思われます。例えば、関東の最古の稲作遺跡として「
中里遺跡
」が知られておりますが、その遺跡では瀬戸内地域(おそらく吉備国)の影響のある土器が発見されております。
また、奈良に纏向遺跡(3~4世紀)がありますが、その遺跡では吉備国(岡山)関係の土器が発見されており、吉備国の影響があったことは間違いないと言われております。
Wikipediaの記事を含め、以上の事例から、おそらく、弥生時代から古墳時代にかけて、吉備国は地域の中心であり、かつ、日本全体に影響があったと思われます。
そして、畿内で実在が確認できる王は継体王(在位:507-531年)からですが、その政権が畿内にできるまで、吉備国は東海・近畿・中国地域の中心地として栄えたと思われます。
事実、上記の引用にもありますが、「造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級」で、これらは、畿内に先んじて建造された王墓と思われます。因みに、造山古墳は5世紀前半、作山古墳は5世紀中頃の建造物で、継体王出現前の建造物です。
以上のことをまとめますと、マレー系民族中心の北九州の倭国を除けば、日本は、吉備国(5世紀)から継体王の畿内政権時代(6世紀~)へ中心地が移動していったと観ることができます。
関連し、こうした4~5世紀の状況を上トップ図に示しました。
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[ 2019/06/14 08:22 ]
西日本の古代
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北九州に古代国家が先に作られた
北九州に古代国家が先に作られた
(西日本の古代)
前回まで、弥生時代と古墳時代の中心地は、九州は福岡県、近畿・中国・東海地域は岡山県であったことを紹介しました。今回は、それらは西日本の中心地だったこと、さらには、北九州に古代国家が先に作られたことについて愚考します。
まず、「
文化庁の参考資料:平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数
」を基に、奈良、岡山、島根、福岡、宮崎について、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡数を比較してみました。下の表は、そのデータです。上の図は関連図です。
弥生時代遺跡数を見ますと、福岡が3033と最大、次いで岡山が2165で2位、次いで宮埼が1687で3位です。すなわち、水田稲作は福岡で先行し、岡山が次に続いた感じです。
次いで古墳時代遺跡数を見ますと、岡山が2108で1位、次いで福岡が1753で2位です。古墳時代は岡山の方が栄えた印象を受けます。これは、古墳時代(3~5世紀)、福岡にあった倭国は、魏志倭人伝にあります倭国の大乱(内戦)や、朝鮮半島での高句麗と戦いで国が疲弊したことが考えらえます。一方、岡山は、戦いは少なく、西日本の中心地として栄えたものと思われます。
そして、島根は中国地域(日本海側)、宮崎は九州地域(南部)、それぞれの第二の中心地だったと思われます。
なお、奈良ですが、遺跡の数では、どの時代も少なく、地域の中心地ではなかったと思われます。すなわち、先に紹介しましたが、奈良が日本の中心地になって行くのは平城京が建造された後、古墳時代の後と思われます。
一方、福岡の人々のルーツですが、北九州の人々の容貌や言葉に稲作民族のマレー系の特徴があることから、そこにできた邪馬台国や倭国はマレー系民族の国家であったと拙ブログでは推察してきました。
関連し、福岡の人々のDNA情報を検索しましたところ、Satoら(2014)のデータがWikipediaに出ておりました。そのデータは下表のとおりです。
この表では、マレー系民族を代表するY染色体ハプログループのO1b型は、福岡で明らかに多く35%、一方、金沢と大阪は29%以下となっています。すなわち、現在でもマレー系のDNAは福岡で多いことになります。
以上の情報から、西日本、特に北九州(福岡)の古代の状況について愚考しますと次のようになります。
日本では、弥生時代、まず福岡が発展します。これには、福岡が大陸への窓口だったこと、また住民は稲作民族のマレー系が多かったこと、これら2点が考えられます。
マレー系民族は、中国南部の稲作地帯に多数の仲間がいます。このため、同じくマレー系の多い福岡は、中国南部の情報が入りやすく、鉄製農具の導入と水田稲作導入が急速に進んだものと思われます。
先に紹介しましたが、この結果、北九州では水田稲作は3000年前に始まりました。一方、他地域では700年遅れの2300年前頃に水田稲作が始まりました。他地域はマレー系民族が少なく、こうした水田稲作を積極的に導入しようとする人々は少なく、稲作開始は遅れ、国家形成も遅れたものと思われます。
この結果、北九州で国家が先んじて形成され、その国家は、3世紀の邪馬台国を経て5世紀の倭の五王時代になると、同じマレー系の仲間の居る朝鮮半島の百済と連携し、北方の大敵「高句麗」と戦いました。なお、この時期、北九州に人口の停滞に認められることから、倭国は戦争で疲弊したと思われます。
そして、こうした状況を背景に中国と朝鮮半島を含んだ東アジアの古代史を見るならば、北九州にあった倭国は、その他の日本の地域とは別に、中国、そして朝鮮半島と関係を持ち、東アジアの一部として歴史を作ってきたと思われます。そのことは、魏志倭人伝等の中国史書からも伺えます。
一方、その他の日本地域は、王は居ても、国家と言えるほどのきちんとした行政組織はなく、未開の地であったと思われます。
次回は、東海・近畿・中国地域の中心地の岡山(吉備国)の状況について検討します。
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[ 2019/06/09 11:38 ]
西日本の古代
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東海・近畿の古代中心地は静岡県と三重県か
東海・近畿の古代中心地は静岡県と三重県
か(西日本の古代)
拙ブログでは、古代最大の謎である邪馬台国の場所を解明するため、その背景となる弥生遺跡数や古墳時代遺跡数について検討してきました。
そして、奈良に邪馬台国があったとするなら、その地域近隣はどのような状況であったのかを検討してきました。その結果、九州では福岡県、中国・近畿では岡山県が突出して弥生時代と古墳時代遺跡数の多いことが分かりました。関連し、今回は、東海地域の状況について検討します。
まず、「
文化庁の参考資料:平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数
」を基に、各県の旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡数を比較してみました。東海地域の他、比較として近畿地域と岡山も含めました。
下の表は、そのデータです。上の図は関連図です。
これらの情報から、東海地域では、静岡県と三重県で、弥生遺跡と古墳時代遺跡が多く、かつ、近畿のいずれの県よりも多いことが分かります。しかし、岡山県には及びません。すなわち、岡山は、東海を含めた地域においても最大であったことになります。
また、下の図は、以上の表を基に作った弥生時代と古墳時代の遺跡数の関係で、弥生時代遺跡数が多いと古墳時代の遺跡数が多い関係にあります。これは、弥生時代に水田稲作で人口が増え、この結果、小国家が形成され、その支配者が古墳を作ったという関係にあり、弥生時代遺跡が多いと古墳数も多くなると解釈されます。
こうした背景から奈良県について検討しますと、奈良県の弥生時代遺跡数は506、岡山の2165と比べますと23%しかありません。すなわち、女王の都とする邪馬台国が奈良県にあったという背景は弱いことになります。
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[ 2019/06/04 10:18 ]
西日本の古代
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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