日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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岡山県の稲作民族ルーツ愚考 [2019/07/29]
岡山の縄文稲作は弥生稲作とリンクしている [2019/07/24]
世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か [2019/07/19]
日本の古代史は戦前と変っていない [2019/07/14]
記紀は倭国と富士山を何故無視したのか [2019/07/09]
空白の時代があったのか [2019/07/04]
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岡山県の稲作民族ルーツ愚考
岡山県の稲作民族ルーツ愚考
(西日本の古代)
前回、岡山県では6000年前から陸稲が作られていたことを紹介しました。今回は、この稲を導入した民族について愚考します。
日本人のルーツは、アイヌ系35%、マレー系30%、ツングース系(韓国系)30%の3民族ですが、拙ブログでは、日本に稲を持ちこんだのは、稲作民族のマレー系と確信しております。
岡山県で6000年前の稲遺跡が見つかった場所が海岸部であったことから推察しますと、彼らは、まず海岸部に住み、先に住んで居たアイヌ系民族や、その頃に日本に移住してきたツングース系民族と共存していたと推察されます。
関連し、日本に稲が持ちこまれた時期ですが、「
鹿児島県の1.2万年前の火山灰層からイネのプラントオパールの発見
」という情報から、1.2万年以前にマレー系民族は日本に来ており、同時に稲も持ちこまれたと思われます。
一方、マレー系民族の故郷のインドネシアのジャワ島では、「
2万年前のグヌング・パダン巨石遺構
」が知られております。この巨石文化は、全貌が明らかになっておりませんが、世界最古で最大のピラミッドを残しており、世界最古の高度な文明だとも言われております。
これらの情報から推察しますと、ジャワの巨石遺構は、そこに居たマレー系民族が作ったものであり、当時の世界最高の文明であります。そして、その地域に最古の稲品種があったことから推察しますと、その食文化のベースは稲作だったと思われます。
当時の稲作は「
河川敷を利用した乾田直播による原始稲作
」と思われます。すなわち、乾期に播種し、発芽後、雨期になり増水し、その後、雨期が明け乾期になり稲を収穫するという方法になります。
一方、その遺跡は2.5万年前以上からあるものですが、2万年前という時期は間氷期にあたり、水面が向上し、陸地だった低地は海になっていた時代でした。すなわち、低地の稲栽培は水没のため困難になっていた時代です。このため、低地に居たマレー系民族は移住をよぎなくされていた時代と思われます。
そして、周辺状況を見渡しますと、中国に1.4万年前の稲作遺跡「
玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡
」があることが分かっています。これらことから、2万年前~1.4万年前、マレー系民族は稲籾を携えて周辺に移住したと思われます。
そして、日本に1.2万年前の稲の痕跡があることから、日本にもそれ以前から来ており、稲だけでなく、縄文土器、船作りや航海術にも影響を与えた可能性があります。
吉備との関係ですが、稲作遺跡が海岸部にあることから、マレー系民族が船で移住してきた感じがします。その海路ですが、中国南部から朝鮮半島西部を経て、北九州に辿り着き、ついで、瀬戸内方面にも移住し、吉備に辿り着いたと思われます。また、マレー語でKibi(吉備)は叔母(aunt)という意味があり、マレー系民族が残した言葉かもしれません。
これらの関係「マレー系民族の稲伝播経路」を上トップの図に示しました。
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[ 2019/07/29 09:08 ]
西日本の古代
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岡山の縄文稲作は弥生稲作とリンクしている
岡山の縄文稲作は弥生稲作とリンクしている
(西日本の古代)
岡山県は弥生時代遺跡が突出して多いところであったこと、その結果、古墳時代には西日本の中心地になったことを先に紹介しました。
一般に弥生時代は水田稲作導入と関係しております。関連し今回は、岡山県の弥生時代稲作のルーツ、特に縄文時代稲作について愚考します。
まず、縄文時代稲作ですが、「
ゆらぐ縄文時代 稲作はどこまでさかのぼる?
」によりますと次のとおりです。
ごく最近まで、稲作が始まったのは弥生時代の初め、年代でいうと紀元前4~5世紀と推定されていた。 ところが平成15年の国立歴史民俗博物館の報告によると、弥生時代の土器に付着している「ふきこぼれ」の放射性炭素を加速器質量分析法(AMS法)によって測定したところ、考えられていたよりも500年も時代をさかのぼるという結果が出たというのだ。これが正しいとすれば稲作が紀元前10世紀ごろに始まったということになる。 この報告は考古学の世界を震撼させている。 紀元前10世紀から5世紀までは縄文時代晩期そのものであり、稲作の始まった弥生時代と縄文時代晩期が全く重なってしまう事になるからである。考古学の世界で長い間信じられてきたことをもう一度検証しなければならなくなったため、この問題をめぐって考古学界はいまや大論争の渦中にある。
岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり18日、灘崎町教育委員会が発表した。 この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。イネの栽培をうかがわせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をはるかにさかのぼる可能性がある。縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。 同教委によると、プラントオパールの数は土壌1グラム中2000-3000個。岡山理科大の小林博昭教授と、ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されているという。 当時、貝塚は海岸部にあり、イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。貝塚には墳墓があることやイネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、祭祀(さいし)の際の宴会や脱穀などの共同作業で持ち込んだと推定されるという。 高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネではないか」と話している。 縄文時代のイネについてはこれまでも同教授らのグループが調査。4500年前(縄文中期)の姫笹原遺跡(岡山県)や6000年前の朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールを検出してきた。しかし微量だったことから、上層からの混入や中国大陸から風で飛ばされてきたのではないかなどという疑問の声も根強かった。 (2005.2.18 共同通信) 小林達雄国学院大教授(考古学)の話 縄文時代を考える上で重要な成果であり、努力に大いに敬意を表したい。縄文時代の中期や前期に、断続的にイネが入ってきたとしても不思議ではない。重要なことはイネがあったかなかったではなく、あったとしても縄文経済や食生活に影響を与えなかった点だ。農耕とは呼べず栽培という程度であり、イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのだろう。(2005.2.18 共同通信)
(引用終了)
引用が長くなりましたが、この報告をまとめますと、岡山県では6000年前から海岸部(下図参照)で稲が作られていたことになります。この稲は、縄文時代の稲ですので、陸稲だったと思われます。
関連し、岡山県周辺の古代遺跡数を下図に示しました。この図から、岡山県は、旧石器時代、縄文時代を通じて遺跡が多く、中国近畿地域の中心地域だったことが分かります。
そして、以上の縄文時代稲作は、次の弥生時代水田稲作と関連していると思われます。事実、弥生時代水田稲作遺跡も縄文時代稲作跡のあった灘崎町彦崎貝塚近辺に多いことが分かります(上図参照)。
言い換えますと、こうした縄文時代稲作の経験があったから、岡山は水田稲作を中国地域で一早く導入し、弥生遺跡数も多くなったと思われます。
関連し、岡山県灘崎町の縄文時代稲作(陸稲)が弥生時代水田稲作へ発展し、それが近辺に普及していく様子を上トップ図に示しました。
次回は、岡山県の稲作民族は誰だったのかについて愚考します。
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[ 2019/07/24 07:01 ]
西日本の古代
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世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か
世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か
(西日本の古代)
今月(2019年7月)、大山(だいせん)古墳が「仁徳天皇陵古墳」として、世界遺産に登録されます。そこで問題となるのが、「仁徳天皇陵古墳」の名称です。歴史的事実として、その古墳が誰の古墳か分かっていません。
関連し、東京新聞(7月3日3面)に「世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か」という表題で、解説が出ておりました(上の新聞コピー参照)。今回はこの問題について愚考します。
まず、その新聞記事では、歴史民俗博物館教授の松本武彦氏が、「呼称ふさわしくない 伝説の人物」と題し、次の様に述べています。「仁徳天皇は、日本書紀で140年以上も生きたとされる人物。実在したかは分かりません。大山古墳を仁徳天皇陵として世界に発信するのは、考古学的にはふさわしくない。・・・」
一方、近つ飛鳥博物館名誉館長の白石太一郎氏は、「典拠たぐれば実在やむをえない」と題し、次のように述べています。「(墓は)仁徳天皇でいいと考えます。古市古墳群の中で、宮内庁が応神天皇陵に定めている権田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)から推定できます。この古墳は出土品の年代や文献を基に応神陵と言える。その直後に造られたと推定できる巨大古墳が大山古墳。応神を継いだのは仁徳だから、大山古墳は仁徳陵の可能性が高い。・・・」
後者(白石氏)の意見は、仁徳天皇が実在したか分からないが、宮内庁の説明(典拠:記紀)によると大山古墳は仁徳天皇陵の可能性が高い、という感じでしょうか。これは、物的証拠の無い話で学問(考古学)ではありません。
続いて東京新聞(7月7日2面)は、「考古学会の声届かず」と題し、関連記事(下の新聞コピー参照)を載せています。残念ながら、その呼称はふさわしくないという考古学会の声は無視されたことになります。
関連し、さらに東京新聞(7月18日)は、特報面で、「天皇陵も調査を」(下の新聞コピー参照)と題し、学問的(考古学)観点から、その調査の必要性を提案しています。
そして、その記事では、継体王(継体天皇)の陵墓ですが、考古学会は、それは今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)であることを遺跡出土品や資料を基に結論しています。しかし、宮内庁は、従来どおり三嶋藍野陵(大阪府茨木市太田3丁目)であるとし、こちらでも学会の結論を無視しています。
前回、「日本の古代史は戦前と変っていない」という記事をアップしましたが、今回の一連の新聞記事は、そのことを如実に示すものとなりました。たいへん残念です。
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[ 2019/07/19 09:45 ]
西日本の古代
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日本の古代史は戦前と変っていない
日本の古代史は戦前と変っていない
(古代史の虚像と書籍)
我が国古代史研究の問題点を指摘している「捏造の日本古代史」(相原精次 2017)を読み終えました(上トップ写真参照)。拙ブログの内容と一致するところも多く勉強になりました。
今回はその読後感想を述べてみたいと思います。
まず、作者の狙いは、「はじめに」にある次の言葉と思われます。
戦争史でもあった「戦前」という背後に据えられていたのは「古代史」の虚像だった。こんな大きなテーマが、戦後70年間「言わぬが華」として、意図的に追及することを回避してきたのではないか。そんなことを思いながら、言わずに来てしまった問題とは何かを、本書で考えてみたいと思うのである。
(引用終了)
そして、その本書の内容は次のとおりです。
第2章「日本書紀の解体」では、日本書紀の内容を全体的に観ると、日本書紀には「日本」が付けられているが、まつろわぬ者が相当居て、当時(8世紀)、「日本」の範囲に関東以北は含んでいなかったという認識が必要であることを強調しております。そして、日本書紀には我が国のことよりも朝鮮半島の記事の方が多いが、百済、新羅のことは戦前には無視されてきたことを指摘しています。
第3章「古墳が語る古代史の真実」では、近畿よりも関東の方で古墳数が多い現実はあるにもかかわらず、それは、「関東にまで大和朝廷の勢力の波及を物語るもの、古墳=大和文化という認識」が今でも強いこと、かつ、関東の古墳はそのような扱いを受け続けてきたことを指摘しています。
そして、「関東の古墳文化を見なそう」という語りで、関東に、3世紀建造という最古級の前方後円墳(横浜市海老名秋葉山古墳群)など多くの個性的な古墳があることを紹介しています。
すでに拙ブログでも一部を紹介してきましたが、それら関東の古墳遺跡から、独特の人物はにわ(千葉県芝山古墳出土の西洋人風の顔立ち、表紙絵のはにわ参照)や、王冠、碑文入り鉄剣などが出土しております。
拙ブログでは大和朝廷は6世紀の継体王から始まったと観ていますが、その意味で、これらは、大和朝廷ができる前に作られたものであり、大和朝廷の勢力の波及を物語るものではないと思われます。
また、「明治が隠した古墳文化」では、古墳研究の先駆者イギリス人W・ゴーランドの業績を紹介し、それが戦前に無視されてきたことも取り上げています。
本書とは別に、現在、邪馬台国論争というものがあります。邪馬台国が何処にあったのかという論争ですが、邪馬台国が大和(奈良)にあったという戦前からの説は最近の研究では完璧に否定されております。因みに、拙ブログが所属しております「人気ブログランキング(日本史)」ですが、邪馬台国は大和にあった、と主張しているブログはありません。
それでも、表向きはまだ決着ついていないことになっています。偉い先生の言うことを否定できない、いかんともしがたい絶望的な焦燥感が日本の考古学研究に満ち溢れ、本書の言う「捏造の日本古代史」が終わっていないことを感じさせます。
時代は、平成を過ぎ、令和という新時代に入っています。令和の意味は、万葉時代に戻り聖徳太子の説いた和の精神で行こうという意味もあるようですが、その和の精神で、事実に基づいた学問(考古学会)の結論が尊重され、戦前の歴史認識から解き放たれることを願っています。
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[ 2019/07/14 08:09 ]
古代史の虚像と書籍
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記紀は倭国と富士山を何故無視したのか
記紀は倭国と富士山を何故無視したのか
(邪馬台国と日本人)
日本書紀と古事記(記紀)は、日本の正史が書かれていると言われる歴史書ですが、北九州にあった邪馬台国(倭国)について書かれていないこと、関東・東海の人々の富士山信仰について書かれていないことが指摘されています。何故なのか、今回は、これらの問題について愚考します。
まず、邪馬台国存在の無視です。
拙ブログでは、邪馬台国は稲作民族のマレー系の作った国であることを指摘しています。大和政権は、どちらかと言えば、天孫降臨神話から推察されますように北方系ツングース系民族の多い国で、先進国の倭国を認めることはできません。
特に日本書紀ですが、奈良の都を訪れた外国人に、日本は中国と同じように古くからあった国であることを見せるために作られたもので、漢文で書かれており、天皇も紀元前から居たように大層なことが書かれています。このため、日本(畿内政権)より古い国であった倭国は認められません。
関連し、大和政権は継体王(在位:507~531年)が始まったという説を拙ブログでも支持しております。これ以前の王(天皇)については、王宮跡も王墓も不明で、実在を証明する物的証拠がありません。
また、継体王の王宮跡が調査されておりますが、場所は集落だったような感じで、奈良の平城京のような都と言えるものでありません。継体王の王宮サイズからみて、その支配地域は大きく見ても近畿・中国地域程度であったと思われます。
一方、富士山信仰の無視ですが、これも記紀では記すことが認められません。すでに、天孫降臨の山は高千穂と決まっておりますので、富士山を大和朝廷の信仰の山とすることはできません。
特に、古事記ですが、それは主として万葉仮名で書かれており、天皇のルーツを示したものです。古事記の編集方針から見て神々しい富士山を記すことはできなかったのは当然と思われます。
なお、富士山は大和朝廷に従わなかった蝦夷の象徴の山なので認められなかったという説があります。しかし、記紀が作られた奈良時代ともなると、富士山が間近に見える静岡は大和朝廷の領域になっています。
また、奈良時代の関東地方は大和朝廷を受け入れ始めた時代で、朝廷は関東の蝦夷を使い東北の蝦夷を征服しようとしていた時代でもあります。その意味で、富士山は蝦夷の山だから認められない、という感情は弱かったと思われます。
まとめますと、日本の正史と言われる記紀ですが、日本は中国と同じように古くからある大国として扱う編集方針があり、それに合わない邪馬台国や富士山信仰は無視されたというのが真相かと思われます。
関連し、奈良時代様子を上トップに示しました。
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[ 2019/07/09 07:02 ]
西日本の古代
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空白の時代があったのか
空白の時代があったのか
(西日本の古代)
日本の古代史で「4世紀は空白の時代」と言われることがあります。
例えば、「
初心者のための日本史研究
」によれば次のとおりです。
空白の古代日本
日本における初めての歴史書は、「古事記」および「日本書紀」である。
これらはいずれも奈良時代(古事記は712年、日本書紀は720年)に完成している。
しかし神話的な記述も多々あるため、全ての記述を歴史的事実として扱うことはできない。
中国の歴史書にある日本に関する記述は、266年から412年までの間はまったくの空白となっている。
そのため、「空白の4世紀」「謎の4世紀」と呼ばれ、古代史のなかで最も謎の多い時代となっている。
この間に邪馬台国の時代は終わり、いつのまにか大和朝廷が誕生していた。
古代日本の重要局面であったはずだが、確かな事は何一つわからない。
歴史に「もしも」はないが、邪馬台国から大和政権への移行の様子が記録された文献が残っていれば、「弥生時代から古墳時代へ」ではなく、「邪馬台国時代から大和政権時代へ」あるいは「ヤマタイ時代からヤマト時代へ」という時代区分になっていたかもしれない。
(引用終了)
関連し、今回は、この空白の4世紀に、何があったのか愚考します。
まず、拙ブログで指摘しているところの北九州の倭国、そして、後の近畿の畿内政権の成立過程について知られていることは下の年表のとおりです。
この年表では、倭国と大和政権を分けて表示しています。しかし、倭国を無視している記紀では、中国の歴史書にある卑弥呼時代と倭の五王時代は名前を伏せて、当てはまる天皇が居たかのように記述しております。そして、3世紀~5世紀のことは、何も無かったかのような 感じになっています。
拙ブログでは、大和政権ができたのは「
継体王(在位:507~25)
」からと判断しております。すなわち、継体王については、文書部があり、外国とも交渉があり、王宮跡も発見されており、存在が確認できますが、それ以前の王は記紀に記されているだけの王であり、実在を証明する物的証拠がありません。
そこで、継体王以前の王を地方の王として観る、そして、大和政権以前には、中国の歴史書にある倭国が九州に存在したことを認めれば、「4世紀は空白の時代」では無くなると思われます。
事実、北九州では、3世紀に邪馬台国があり、女王卑弥呼の後にトヨが女王となったことが分かっています。そして、その後、倭国に統一王朝ができ、倭国は朝鮮半島に出撃し399~404年に高句麗と戦ったことが広開土王碑文に書かれております。
なぜ倭国が高句麗と戦ったのかですが、倭国は稲作民族のマレー系民族の国だったためと思われます。朝鮮半島には同じルーツを持つ百済という国があり、高句麗に圧迫された同胞の百済を支援するため、朝鮮半島で高句麗と戦ったというのが真相と思われます。
因みに、Kudara(百済)のマレー語の意味は同胞(Kudara=Brother)です。倭国の人々は、百済のことをクダラ(Kudara、同胞、仲間)と呼んだため、日本では、これが百済の読み方になったと思われます。
また、朝鮮半島の民族のルーツを調べますと、「
マレー系のDNA(Y染色体ハプログループ O1b)は約30%
」あります。これは日本とほぼ同じ割合です。朝鮮半島に水田稲作を持ち込んだのはマレー系民族ですが、弥生時代稲作は百済方面(韓国西南部)に多いことが分かっています。
一方、日本ではマレー系のDNAは北九州に多いことが指摘されています。
以上のことから、北九州にあった倭国の存在を認めれば、日本史に「4世紀は空白の時代」では無くなると思われます。
関連し、4世紀の状況を上トップに示しました。
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[ 2019/07/04 07:48 ]
西日本の古代
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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