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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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日本人の容貌とルーツ

日本への人類移住


日本人の容貌とルーツ(ブログの概要)

今回は「日本人の容貌とルーツ」について、カテゴリ「日本人のルーツ」を基に「記事まとめ」をします。

まず、日本人のルーツですが、Y染色体ハプログループ分類によりますと、アイヌ系(Y染色体ハプログループD)が35%、マレー系(O1b)が30%、中国系(O2)が20%、モンゴル系(C)が10%、その他5%と言われます(下表参照)。

日本人のY染色体ハプログループ分類

日本人と関係の深いと言われる韓国人ですが、満州(中国東北部)で中国系とモンゴル系の混血から発生したツングース系民族がベースと言われます。彼らは寒冷化に伴い南下し、朝鮮半島東部に居住し、新羅建国の中心民族となりました。日本に来たグループも同じと思われます。このことから、日本におけるツングースの割合は、「モンゴル系+中国系」で、約30%となります。

また、韓国にはマレー系が30%と多く居ます。韓国のマレー系は、日本とほぼ同時期に韓国に稲作を導入したグループと同じと思われます。彼らは、半島西部に居住し、百済建国の中心民族となりました。7世紀に新羅に滅ぼされましたが、そのDNAは今も残っていることになります。

また、東日本と西日本の人々の違いですが、Y染色体ハプログループ分類で見ますと、Nonakaら(2006)の解析(上表参照)がたいへん参考になります。すなわち、東日本(関東)ではアイヌ系が約50%と多く、一方、西日本ではアイヌ系は30%と少なく、代わりにマレー系が40%と多い特徴があります。

以上のことから、マレー系とツングース系は、日本と韓国で同一のDNAを持っています。そこで、日本と韓国で同一DNAの割合をマレー系+ツングース系の数値で見ますと、西日本は約70%、韓国は約90%で、西日本と韓国のDNAは同じ部分が多い特徴があります。これは、マレー系とツングース系が朝鮮半島を経て日本に来たことと関係していると思われます。この関係を下図に示しました。

日本人と韓国人の共通DNA

一方、それぞれの民族のルーツですが、アイヌ系は15万年前頃にアフリカを出て、台湾、沖縄を経て北上し、12万年前頃に九州に着き、主として太平洋側等に移住、マレー系は中国南部を経て1.5万年前頃に九州北部に着き、瀬戸内海等へ移住、ツングース系は朝鮮半島東部を経て北九州に0.7万年前頃に着き、日本海を北上したと思われます。

これら日本人への民族移住の様子を上トップ図に示しました。

一方、それぞれの民族の容貌と日本人の容貌の関係ですが、次のような感じかと思います。

まず、「日本人は髭の濃い民族」と思われます。このルーツはアイヌ系と思われますが、アイヌ系の多い関東以北で目立つ特徴です。

また、「秋田美人など色白の日本海美人」のルーツですが、これは朝鮮半島から日本海を北上したツングース系の影響と思われます。

一方、北九州には「博多美人」など丸顔で可愛らしい女性が多いですが、この容貌は丸顔のマレー系です。おそらく、弥生時代の稲作開始時代から北九州にはマレー系の人々が多かったことの反映と思われます。

また、吉永小百合さんなど昭和の日本的美人女優は、アイヌ系、マレー系、ツングース系の微妙なDNAのバランスの結果と思われます。

一方、三船敏郎さんなど昭和の男優は、髭の濃さ、眉の濃さ、彫りの深い顔立ちから観てアイヌ系が多いと思われます。例えば、アイヌがルーツと言われる「早坂雅賀(まさよし)さん」を見ると、まさに昭和の男優です。「日本美男子のルーツはアイヌ系」と思われます。

一方、西洋人に近い顔立ちの日本人もいます。これは、ロシアがルーツの「ケット人」の影響と思われます。日本の「ケット人」は極少数ですが、Y染色体ハプログループはQで0.4%ほど認められます。

まとめますと、日本人は、西日本では南方系のマレー系と北方系のツングース系が多く、一方、関東など東日本ではアイヌ系の割合が高くなっています。この地域差は、その容貌にも反映しておりますが、民族形成の流から観ると、縄文時代、弥生時代を通し、それぞれの民族が平和的に緩やかに混血していった結果と思われます。

俗説に、弥生人が来て縄文人を北と南に追い払ったという説がありますが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)では、そのような事実は認められません。


DNA研究、Y染色体ハプログループ解析とは?

参考までに、Y染色体ハプログループ解析について、初めての人のために紹介しますと、次のような感じです。

男性か女性を決める染色体にXとYがあります。XYが男性、XXが女性になるわけですが、Y染色体は男性にだけあり、父親から男の子供に引き継がれることになりますので、そのY染色体をたどると父親のルーツが分かることになります。

このY染色体は、巨大なDNA配列の塊からできておりますので、そのDNAの配列から種類を細かく分類でき、人類の祖先のDNAを分類するのに最適と言われております。

たとえば、Y染色体ハプログループがD型ですと、それはアイヌに多い型ですので、その人の男親のルーツはアイヌ系となります。そして、このD型という分類は、10万年経過しても、マイナー変化はありますが、D型のままで変わることはありません。



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[ 2019/09/26 11:11 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(4)

これからの予定と記事まとめについて

有機菜園のキウイ9月中旬(収穫直前)


これからの予定と記事まとめについて(ごあいさつ)

秋らしい天候になってきました。

さて、「稲作と日本人」や「西日本の古代」等について記事をアップしてきましたが、これらの課題について書きたかったところは、ほぼ終わった感じがします。次回は、新たな課題として「関東・東北の古代」や関連する畑作の課題を検討していく予定です。

現在は記事アップの節目に当たります。

一方、拙ブログは、記事アップ数が280回を超え、1記事を見ただけではブログの概要が分かりにくくなっています。例えば、このブログは色々な古代記事があるが、論争中の邪馬台国についてはどのような見解なのか、等です。

そこで、「ブログの概要」(記事まとめ)というカテゴリを新たに設け、ここに、主要な課題について「記事まとめ」を入れ、ここを見ればブログ全体が見えるようにしたいと考えています。

「記事まとめ」は、一連の記事アップが終わった今回のような節目にするのが良いと思われます。

そこで、次回は、次の3課題について「記事まとめ」を行い、これを「ブログの概要」に入れていく予定です。

記事まとめ 1.日本人の容貌とルーツ(9月26日頃)

記事まとめ 2.稲作を導入した民族はマレー系(10月1日頃)

記事まとめ 3.邪馬台国はマレー系稲作民族によって北九州に造られた(10月6日頃)

どうぞよろしく。

なお、上と下の写真は、無農薬、無耕起、無堆肥、無畝立て、無追肥、無石灰、無ビニールマルチという縄文時代に近い農法を楽しんでいる我が菜園の様子です。上の写真は収穫直前のキウイ、下の写真は10月収穫のサツマイモの様子です。

有機菜園のサツマイモの茂り9月

また、下の絵は、菜園を題材にした「凡人の一句絵手紙」です。菜園のトウモロコシがハクビシンに襲われ全滅したことから、その対策に獣除けネットを張りましたが、そのときに詠んだ句です。くつろいでいただければ幸いです。


ハクビシン対策で凡人の一句絵手紙


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[ 2019/09/21 14:50 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(4)

倭人の素顔が見つかった

越人像(Wikipediaによる)


倭人の素顔が見つかった(日本人のルーツ)

中国の周王朝時代(3000年前)、水田稲作が中国南部(江南地方)からマレー系民族によって日本(北九州)にもたらされたことを検討してきました。

その江南地方ですが、2600年前頃、越国が興りました。Wikipediaによれば次のとおりです。

越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。(引用終了)

そして、そのWikipediaには越人像(浙江省博物館蔵)が紹介されていますが、その像は上トップ図のとおりです。

その越国は、上記Wikipediaによると「後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる」とあります。すなわち、長江流域の稲作民族は漢民族とは別の、上トップ図のような越人であり、そのような人たちが日本に来て水田稲作を始めたことになります。

前置きが長くなりましたが、今回は、上記Wikipediaにあります越人像(浙江省博物館蔵)が、マレー系民族であったこと、かつ、魏志倭人伝に記述されている倭人であったことについて愚考します。

まず、その越人像は、上トップ図のとおりですが、一方、私が見たマダガスカルのマレー系の人々は下図のとおりです。

マダカスカルのマレー系の人々

これらの図を比較しますと、上トップ図の越人像はたいへんマダガスカルのマレー系の人々に似ています。主な類似点を指摘しますと、やや小柄、やや丸顔、小さな口元、つぶらな瞳、男子は髭が薄いなどです。

また、この越人像で興味深いのは、刺青が目立つように彫られていることです。魏志倭人伝で、倭人は刺青があり南方の海南島人に似ていると表現されているのは、この男子のようであったためと思われます。

まとめますと、魏志倭人伝にあります倭人の様子は、越人に似ており、かつ、越人はマレー系の民族であったと推察されます。

このような稲作民族マレー系の人々の顔から想像しますと、邪馬台国の場所は同じく水田稲作が始まった北九州にあったと思われます。

そして、後に日本の中心となる大和国(奈良)ですが、北方系の天孫降臨神話からも想像されますように南方よりも北方系(ツングース系)の民族の影響が強く、稲作民族とは別系統であったと思われます。

また、余談ですが、上記越人像は正座をしており、日本人の正座のルーツもマレー系にあるのかもしれません。

そして、さらに余談ですが、越国には、古代4大美人の西施(せいし)が知られております。傾国の美女と言われ、呉越が対立していた時代、宿敵呉国を滅ぼすために越国から呉国に贈られた絶世の美女です。Wikipediaにあります西施像は下図のとおりです。

西施とマダガスカル華僑少女

この図を見ますと、目尻がやや吊り上がっております。この特性は中国系ですので、おそらく、西施は純潔の越人(マレー系)でなく、中国系とマレー系の混血美人と思われます。

例えば、私がマダガスカルで見た中国系とマレー系混血の華僑の少女(同図右下顔写真参照)ですが、彼女は、なんとなく西施に似た雰囲気があります(笑)。

 
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[ 2019/09/16 10:03 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(14)

福岡県はなぜ弥生時代人口が増えたのか

弥生時代における福岡県への人口集中


福岡県はなぜ弥生時代人口が増えたのか(西日本の古代)

前回、弥生時代開始時期に稲作民族が大挙して日本に移住してきた事実はないことを紹介しました。一方、福岡県は、日本で稲作が最初に始まり、弥生時代遺跡数が最大であったことも紹介してきました。

関連し、今回は、稲作民族が来たのは少数でありながら、福岡県の弥生時代遺跡数が最大であった理由について、九州の県別古代遺跡数から検討します。

まず、九州各県の人口変動状況です。

文化庁の参考資料(平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数)を基に、九州各県の縄文時代晩期と弥生時代晩期の遺跡数から人口を推定しました。

なお、その資料には縄文時代晩期の遺跡数データはありませんので、おおよその値として、縄文時代は5つの時代に分けられていることから縄文時代の晩期遺跡数は全縄文遺跡数の5分の1の20%としました。人口推定は、Koyama(1987)の方法、すなわち、縄文時代は遺跡数x24人、弥生時代は遺跡数x63人としました。

その結果は下表と下図のとおりです。

九州各県の縄文時代と弥生時代の人口(表)

九州各県の縄文時代と弥生時代の人口(図)

縄文時代晩期(2900年前)から弥生時晩期(1800年前)までの1100年間の人口増大、すなわち「弥生時代人口/縄文時代晩期人口」は、福岡県が66倍、その他の県は4~13倍で、福岡県の人口増大が圧倒的でした。

これを年あたり人口増加率で見ますと、福岡県が1.004、その他が1.001~1.002となっています。この福岡県の人口増大は当時として大きく、二つの要因が考えられます。一つは、稲作導入による食糧増加、もう一つは、隣の3県(長崎、佐賀、熊本)からの移住者が増えたことです。

数値を詳しく検討しますと、これら隣の3県は、縄文時代人口(遺跡数)が福岡よりも多いにもかかわらず、弥生時代人口増大は福岡県の66倍と比べ4~7倍と僅かでした。同じ九州の大分と宮崎の増加(12~13倍)と比較しますと少なすぎますので、縄文人が水田稲作に惹きつけられ、これら隣の3県の住民が福岡県に移住したためと思われます。

拙ブログでは、稲作民族のマレー系が縄文時代から北九州や瀬戸内に居住していたことを指摘してきましたが、これらマレー系の人々が水田稲作に惹きつけられ、周囲から福岡に集中した感じを受けます。同じ民族どうしであったので、これらの移動は困難でなかったと思われます。

以上の状況から推察しますと、福岡県の弥生時代人口増大は稲作開始による自然増と周囲からの移住増で説明が付きます。すなわち、稲作民族が北九州にさえも大挙して大陸から移住してきた可能性は低くなります。

結論として、北九州に来た稲作民族は僅かで、従来からのマレー系の人々の交流交易で水田稲作は徐々に広がっていったと推察されます。そして、中国からの鉄製農具の移入が2300年前頃から知られていますが、この導入は交易の関係から朝鮮半島に近い福岡に集中し、水田稲作普及と一体となって人口が福岡に集中していったことが推察されます。

なお、鉄製農具については、2300年前頃から普及となっていますが、水田稲作普及に不可欠の農具ですので、水田稲作開始と同時に少しずつです普及していった可能性があります。

まとめと関連し、弥生時代における福岡への人口集中の様子を上トップ図に示しました。



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[ 2019/09/11 11:25 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(8)

稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか

江南地方からの稲作導入


稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか(稲作と日本人)

水田稲作がマレー系民族によって3000年前頃から北九州で始まったことを検討してきました。一方、日本で出土した稲籾や稲プラントオパールから、その稲品種は日本型であり、江南地方の古代の稲と同じであることが分かってきました。このため、江南地方は日本稲作のルーツとも言われております。

また、弥生時代は、稲作民族が大挙移住してきて始まったとも言われております。

関連し、今回は、江南地方の稲作民族が、その籾を携えて日本(北九州)に大挙して移住してきたのか愚考します。

まず、中国の南部(江南地方)と日本の稲作状況について、Wikipediaの記事を基に下表に示しました。

江南地方と日本の古代稲遺跡

この表をまとめますと、日本の北九州と朝鮮半島南部で水田稲作が始まった頃(3000年前頃)、江南地方には国家としての王朝はありませんでした。一方、北部は周王朝時代で、その影響で、国家建設の動きが江南地方にも出てきた頃と思われます。事実、その後、江南地方に越国(BC600~BC306)が生まれました。

一方、江南地方では、越国以前、多くの稲作関連の遺跡が出ております。これらは長江文明と呼ばれております。まず、16000年前に湖南省の玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡で稲籾出土が確認されていますが、この頃から稲作が始まったことを感じさせます(上の表参照)。また、9000年前の彭頭山(ほうとうざん)遺跡で稲の散播農法が知られていますが、稲作は直播稲作から始まったことが推察されます。

極め付きは、7000年前の大規模な河姆渡(かぼと)遺跡と思われます。Wikipediaの記事は次のとおりです。

河姆渡文化(かぼとぶんか、拼音: Hémŭdù Wénhuà)は、中国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚市の河姆渡鎮(中国語版)の河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる。

河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見された。
(引用終了)

一方、日本の稲遺跡ですが、それぞれ中国遺跡に対応しています。例えば、鹿児島の1.4万年前の遺跡ですが、その頃、中国では稲作が始まっており、その時期に日本に稲が持ち込まれたと推定できます。

この担い手はマレー系民族と思われます。そして、稲作遺跡は、1万年以上前から中国と日本にあり、稲作民族のマレー系は1万年以上前から日本と江南地方の間を往来していたことになります。

関連し、江南地方と周辺のマレー系民族の割合ですが、Y染色体ハプログループ分類データを下表に示しました。華南全体としてはマレー系(Y染色体ハプログループ O1b)の割合は17%ですが、華南に居るヤヲ族は40%もあり、現在でもマレー系のDNAは先住民族で観るなら高い頻度で中国南部に確認できます。古代は、地域全体のマレー系の割合はもっと高かったと思われます。

江南地方と周辺民族のY染色体ハプログループ分類

まとめますと、稲作民族が稲籾を携えて日本に来たのは事実ですが、稲作と江南地方の関りは長期に渡っており、稲作民族が来た時期について特定はできないと思われます。

また、大挙して来たかですが、前回報告で紹介しましたように、2900年前に北九州で始まった稲作は、その拡大普及が250年間ほとんど進まなかったことが分かっています。これは、江南地方の稲作民族(マレー系)が大挙して日本に移住してきたのではなく、少数の移住者により北九州で始まり、稲作は少しずつ西日本に広がっていったことを示します。

結論として、弥生時代開始時期に稲作民族が大挙して日本に移住してきた事実はないと思われます。

関連し、3000年前の状況を上トップ図に示しました。


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[ 2019/09/06 12:42 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

水田稲作普及はなぜ遅れたのか

稲作と畑作の導入と民族


水田稲作普及はなぜ遅れたのか(西日本の古代)

前回、弥生時代開始と関連し、水田稲作は、北九州で2900年前頃に始まったが、北九州に250年間留まり、他の西日本地域にすぐには普及しなかったことを紹介しました。

関連し、今回は、「水田稲作普及はなぜ遅れたのか」について愚考します。

結論から行きますと、二つの理由が指摘されます。第1は北九州以外では畑作が先行していたため、第2は、水田稲作の水路造成などに必要な鉄製農具普及の遅れです。

まず、第1の理由ですが、拙ブログでは、北九州には稲作民族のマレー系民族が多数いて、このため水田稲作の普及が早かったことを指摘してきました。一方、他の地域の民族構成について検討しますと次の通りです。

日本人のルーツは、Y染色体ハプログループ分類によれば、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系(韓国系:中国系とモンゴル系の混血)が30%、その他5%となっています。そして、移住経路の関係から、アイヌ系は太平洋側に、マレー系は西日本に、ツングース系は日本海側に多い特徴があります。

そして、民族の生業ですが、アイヌ系は自然採集、マレー系は稲作、ツングース系は畑作に特徴があります。マレー系が北九州で水田稲作を始めたのは3000年前頃ですが、その頃、その他の地域では、おそらく、アイヌ系とツングース系が畑作に馴染んでいた頃と思われます。畑作については拙ブログでは次の課題として検討中ですが、畑作は縄文時代からあったことが分かっています。

すなわち、日本には、稲作民族のマレー系が南方から北九州へ、畑作民族のツングース系が朝鮮半島から北陸など日本海沿いに移住してきましたが、水田稲作を開始したのはマレー系でした。水田開発は水路造成など土木工事が必要なことから、それができたのは、水田稲作を知っていた北九州のマレー系だけでした。

一方、北九州を除くその他の地域は、マレー系は少なく、ツングース系とアイヌ系が主体でしたので、縄文時代からあった畑作が優先しており、もともと水田作への関心は無かったのが実情と思われます。

関連し、水田稲作が始まった3000年前頃の、稲作民族のマレー系と畑作民族のツングース系の様子について上トップ図に示しました。

第2の鉄の普及ですが、鉄製農具が3000年前からあったのか検討しますと次のとおりです。

大陸では殷王朝時代(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)からあるのが知られております。しかし、実際に普及したのは中国でも春秋時代(BC770 - BC450)と言われています。

一方、日本の状況ですが、鉄の輸入は青銅器と一緒でBC300年(2300年前)と言われています。このことから、鉄製農具の普及は早くても2300年前以降となります。鉄製農具は水田稲作に不可欠ですから、その意味で本格的に稲作が普及するのは2300年前以降となります。

まとめますと、稲作が始まった北九州においてさえ、水田稲作に不可欠な鉄製農具との関連で観るなら、稲作が本格的に普及したのは2300年前以降、他の地域においては、鉄製農具に加え畑作先行が水田稲作の普及をさらに遅らせたと思われます。


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[ 2019/09/01 20:06 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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