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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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弥生時代の関東・中部地域の水田作と畑作の割合

関東・中部各県の「古墳時代遺跡数・弥生時代遺跡数割合」


弥生時代の関東・中部地域の水田作と畑作の割合(関東・東北の古代)

前々回、東京の弥生時代遺跡数事例から弥生時代は水田作よりも畑作が多かったことについて検討しました。関連し、今回は、関東および中部地域の各県について東京と同じ状況であったのかについて愚考します。

まず、文化庁の参考資料: 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数によれば、各県それぞれの遺跡数は下表のとおりです。

関東・中部地域の古代遺跡数

この図表では、台地と低地の区分がありませんが、古墳時代遺跡数と弥生時代遺跡数の関係から水田稲作の多少を推定しました。その方法は次のとおりです。

まず低地ですが、生産力の高い水田稲作を行い、その結果、人口が増え、集落ができ、首長が発生し、古墳が多くなる関係になります。一方、台地は、畑作が多いので生産性が低く、人口増大は少なく、この結果、古墳を作る社会の発展が遅れます。

こうした関係は、「古墳時代遺跡数/弥生時代遺跡数」という数値で見ると分かりやすくなります。すなわち、この数値が大きいと、弥生時代から古墳時代の発展度合いが大きいので水田稲作が多いと判断されます。この計算値は上表のとおりです。

また、この数値と各県の関係を上トップ図に示しました。この図では、関東・中部各県は2群に分けられることになります。

すなわち、「古墳時代遺跡数/弥生時代遺跡数」の大きい県は、茨城、栃木、千葉、群馬、埼玉、一方、小さい県は、東京、神奈川、長野、山梨、岐阜と分類されます。

すでに、東京は低地利用が少ないことを明らかにしてきましたが、これを基準に考えると、神奈川、長野、山梨、岐阜は、山間地(台地)が多く、東京類似で畑作優先地域と思われます。一方、茨城、栃木、千葉、群馬、埼玉の5県は稲作に適した低地が多く、順調に弥生時代を経過し、古墳時代を迎えたと思われます。

関連し、弥生時代遺跡数と古墳時代遺跡数の関係を下図に示しました。この図でも、当然のことですが、関東・中部各県は上トップ図と同様に2群に分けられます。すなわち、古墳時代遺跡数が多いグループは低地平野部の多い地域(水田作適地)であったと観ることができます。

関東・中部地域の古墳時代遺跡数と弥生時代遺跡数の関係

以上のことをまとめますと、東京の遺跡から東京の台地上では弥生時代に畑作が行われていたと推察しましたが、この推察は当たっている感じがします。すなわち、関東近辺では、東京と同様な県として、神奈川、長野、山梨、岐阜が指摘され、これらの県は、山間部が多く、水田稲作に適した平野部が少ない特徴があります。



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[ 2019/10/31 09:04 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか

古代の土地利用と稲作適地


台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか(関東・東北の古代)

前回まで、東京の弥生遺跡数を基に、台地から低地への人口移動は弥生時代に認められなかったこと、台地の人達は畑作を行っていた可能性について検討しましたが、台地では水田稲作はできないのか疑問が出てきます。現在の風景から見ると台地には棚田があり、昔から棚田があった印象があります。

関連し、今回は、台地は水田稲作に適していなかったことについて検討します。

水田稲作の優位性については「水田稲作で人口がなぜ増えるのか」で検討しましたが、森から流れてくる自然栄養(肥料)を使うことができるので水田は毎年無肥料で使える長所があります。そこで、台地でも水田稲作ができれば望ましくなります。事実、棚田などを見る限り、台地でも水田稲作は可能です。

しかし、当時の技術では台地は水田稲作に適していないことが分かっています。その理由として、当時の技術では、台地は漏水が多く、水田に適していません。この漏水問題は、代掻き(しろかき)という水と泥をかき混ぜ、水漏れしないようにする作業で解決しますが、当時は、こうした技術はありませんでした。

当時の稲栽培法は、除草後、掘り棒で穴を空け、そこに播種し覆土し、発芽したら水路から水を入れるという乾田直播栽培で、稲作は漏水の少ない低地だけが適地でした。厳密には、1日当たり減水深(漏水)が5cm以下のところになりますが、当時の水田稲作はこのような場所、すなわち低地という漏水の少ない所で行われていました。

では漏水が多いと何故問題なのかですが、次のとおりです。

まず、水が抜けますので大量に水が必要になります。また、漏水のため水温が温まらないので稲の育ちは劣ります。さらには、肥料(栄養)が水と共に流れ落ちてしまい生育が劣ります。このほか、畑雑草が増え、とても良い稲の生育は期待できません。

この漏水問題は、前述のとおり、代掻きで解決しますが、これが行われるようになったのは、牛耕が行われるようになった平安時代後期以降と思われます。そして、山間地の棚田で稲作が行われるようになったのは江戸時代以降となります。

当然のことですが、代掻きをすれば田植えができるようになります。したがって、代掻き稲作=田植え稲作となりますので、田植え稲作も平安時代後期以降となります。詳しくは拙ブログ過去記事「田植えの始まりは平安時代後期」を参考に願います。

なお、古代水田の雑草を調査した「那須浩郎(2014)」 は、その場所には水田雑草よりも畑雑草が多かったこと、すなわち、畑地のようであったことを明らかにしています。これは、古代水田の多くは、低地であっても漏水が多く畑地のような状態であったことを示します。

関連し、古代の土地利用の様子を上トップに示しました。

また、下の写真はマダガスカルの棚田です。マダガスカルの棚田は5世紀頃から始まったと言われます。これら棚田を守り機能させるためには、日本の棚田と同じく、水漏れを防ぐために代掻きと畦塗が重要であることは言うまでもありません。

マダガスカルの棚田2

マダガスカルの棚田3


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[ 2019/10/26 08:49 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

弥生時代に東京は畑作の方が多かった

東京の場所別弥生時代遺跡割合


弥生時代に東京は畑作の方が多かった(関東・東北の古代)

前回、関東地方には弥生人が僅かしか来なかったことを古代遺跡数から推察しました。関連し今回は、前回紹介の「東京の遺跡」を参考に、東京の弥生時代は畑作の方が多かったことについて愚考します。

弥生時代は、生産性の高い水田稲作が急速に全国に普及し、その結果、古墳時代、そして歴史時代へと急速に日本社会は変わっていった、と教えられてきました。しかし、東京の古代遺跡数の関係からは、その様子はまったく見えません。

関連し、東京都の古代遺跡数を上図と下表に示しました。これら図表では、低地と台地上(高地)のデータを見やすくするため、斜面の利用は主として古墳時代だけであることから斜面のデータを省き、かつ、台地縁辺と沖積地を合わせて低地として扱いました。また、データを割合で示しました。

東京の台地と舘の弥生時代遺跡

これらのデータから検討しますと次のようになります。

まず、縄文時代後期の遺跡ですが、台地上の割合が約60%、低地の割合が約40%でした。台地上では山の幸を、低地では海の幸を採集し、物々交換しながら別々に生活していたと思われます。

同様なことは、弥生時代そして古墳時代まで続きました。弥生時代は水田稲作導入の時期ですので水田を作りやすい低地の方に人々が移動したと予想されますが、そうではない結果となりました。このことは、弥生時代に鉄製農具だけを受け入れ、台地では畑作を行っていた可能性があります。

そして、水田稲作適地である低地の遺跡割合が高くなるのは歴史時代(飛鳥時代)からです。歴史時代は米を祖税とする租庸調税が始まった時期で、その時期は大化の改新(646年)以降と言われます。

すなわち、関東地方が大和朝廷に組み込まれて租税(米)を納めるようになったのは大化の改新以降で、この時期は東京で低地遺跡が増える時期と一致します。

しかし、東京の遺跡では歴史時代に入っても台地の方の遺跡が多かったことから推察しますと、実際に租税(米)を納めるようになったのは飛鳥時代からと言うよりも律令体制が確立する奈良時代頃からと観るのが妥当と思われます。

すなわち、東京の台地に居た住民は、奈良時代になると班田収授法に従い、大和朝廷に租税(米)を納めるために、いやいやながら低地に移住しなくてはならなくなったと推察されます。

まとめますと、奈良時代以前は水田作よりも畑作が多かったが、その時代以降は低地の水田作の方が多くなっていったのが真相と思われます。

なお、租庸調税の「祖」は稲籾のことで、Wikipediaによれば次のとおりです。


租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された(年料舂米)。

また、戸ごとに五分以上の減収があった場合には租が全免される規定(賦役令水旱虫霜条)があり、そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあったが、当時の農業技術では、全免・比例免を避けることは困難であった。そこで、1つの令制国内において定められた租の総額に対して7割の租収入を確保することを目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入されたが、これを達成することも困難であったため、大同元年(806年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。
(引用終了)

次回は、「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」について愚考します。


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[ 2019/10/21 08:54 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

東京に弥生人は来なかった

東京の弥生時代前後の場所別遺跡数


東京に弥生人は来なかった(関東・東北の古代)

東京の遺跡」という資料があります。この資料には、東京の古代遺跡について詳しい解説があり、かつ、弥生時代前後の遺跡数が台地、低地、斜面に分けられており、低地への水田稲作導入と関連し、興味深い内容となっています。

先に「関東に弥生人が来なかったこと」について検討しましたが、今回は、この「東京の遺跡」を基に、「東京に弥生人は来なかったこと」について愚考します。

まず、東京の全遺跡数は、下表のとおりです。

東京の場所別古代遺跡数

続いて、弥生時代前後の遺跡数だけを表示しますと上トップ図のとおりです。

これら図表では、遺跡数が縄文時代晩期よりも弥生時代前期で少なくなっておりますが、これは、前回紹介の縄文時代の富士山爆発の影響が残っており、それが弥生時代前期まで続いていたためと思われます。

そして、台地斜面以外は、それぞれの時代の遺跡数順位に変動が見られません。縄文時代は、台地に多く遺跡があり、台地に多くの人が住んで居たと思われますが、弥生時代、そして古墳時代になっても変わりがありません。

弥生時代は水田稲作が始まり、水田に適した低地(台地縁辺や沖積地)に人が移動した時代であることが予想されますが、その様子はまったく認められません。稲作の適地と思われる沖積地ですが、この地域に遺跡数が増えてくるのは弥生後期からで、それも僅かな上昇です。

これらのことから想像しますと、弥生時代になっても、また、古墳時代になっても、生活の主体は台地にあったことになります。すなわち、東京に稲作を持った弥生人が来ても僅かだったため、その影響は小さく、稲作は低地でゆっくりと広がっていったと考えられます。

因みに、「関東における最初の稲作遺跡は2100年前の神奈川県の中里遺跡」 です。

一方、台地に住んで居る人達ですが、弥生時代に鉄器だけを受け入れ、縄文時代から続く畑作を行っていたことが推察されます。

また、斜面の遺跡ですが、古墳時代だけ多くなっています。このことは、古墳の多くは斜面に多く建造されたことが理由と思われます。関東地方は古墳数が最も多い地域となっていますが、おそらく、斜面を利用し、低コストで作ることができたことが一つの理由と思われます。

まとめますと、弥生時代、稲作民族の弥生人が来て縄文人を北と南に追い払ったという説がありましたが、東京の古代遺跡から観るかぎり、そのような人々の移動状況は見られません。弥生人は来なかったというのが真相と思われます。

次回は台地の畑作について検討します。


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[ 2019/10/16 08:45 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

縄文時代晩期、関東は富士山噴火で壊滅的打撃を受けた

縄文時代暗記の富士山噴火の影響


縄文時代晩期、関東は富士山噴火で壊滅的打撃を受けた(関東・東北の古代)

前回まで、関西における稲作導入から古代国家成立について検討してきましたが、今回から、関東・東北の古代について検討します。

今回は、関東縄文時代晩期の最大問題であります人口激減要因について再度愚考します。

縄文時代晩期の最大の事件は寒冷化です。これは4000年前~3000年前のことですが、この結果、繁栄していた関東以北の縄文社会は大被害をうけました。因みに縄文時代最大の三内丸山遺跡が放棄されたのはこの時期でした。

この様子は人口の変化に現れました。遺跡数を基にしたKoyama (1978)の人口推定によれば、関東を含めた全国の様子は下図のとおりです。

縄文時代各地域人口変動

この図から、4300年前頃から人口低下が起こりましたが、人口の変化は3地域に分類されます。すなわち、人口低下極大地域(関東、中部)、人口低下少地域(東北、北陸)、人口低下無地域(九州、その他:東海、近畿、中国、四国)です。

この図から、縄文時代晩期、最も栄えていた関東と中部ですが、壊滅的影響を受けたことが分かります。寒冷化は東北ほど厳しかったことから予想しますと、関東・中部では他の大きな要因も重なったことが考えられます。

そこで、関係する要因として検討しますと大規模な富士山噴火が考えられます。Wikipediaによれば次のようです。

新富士火山中期 (須走-b期) 紀元前3600年頃から紀元前1500年頃まで 
 現在の円錐状の山体を形成。ほとんどが玄武岩からなる。

新富士火山旧新期前半 (須走-c期) 紀元前1500年頃から紀元前300年頃まで
 噴火様式が「山頂・山腹からの溶岩流出」から「山頂山腹での爆発噴火」に移行した。
 
(引用終了)

この記事から、はっきりとは分かりませんが、3500年前(紀元前1500年)頃から2300年前(紀元前300年)頃までのとき、噴火様式が「山頂・山腹からの溶岩流出」から「山頂山腹での爆発噴火」に移行した。この爆発の影響がとてつもなく大きく長期間だったことと思われます。

爆発噴火が何時おきたのかはっきりしていませんが、噴煙が上がり、太陽光が少なくなり、植物の生長が抑えられた印象を受けます。

例えば、八ヶ岳を中心とした中部高地は美しい縄文土器やビーナス像の出土で有名ですが、この縄文中期に繁栄した文化地帯が突然崩壊します。この突然崩壊がおこった原因についてYahoo知恵袋に質問があり、「次のような専門家の回答」が出ていました。たいへん説得力があります。

縄文晩期であれば富士山の大噴火の影響ではないでしょうか。紀元前3900年ごろから活動期に入り、山体崩壊さえも冒すほどの爆発的噴火が少なくとも4回以上おこっています。溶岩は駿河湾に流れ込み、(現在でも溶岩が海で固まった状況が確認できます。)噴煙も1万メートル以上に到達して、太陽光は数年も遮られたと思います。火山灰は関東平野まで飛んで関東ローム層の最終形成したのもこのころです。
とても縄文人が住めるような環境ではなくなったのではないかと推測できます。
(引用終了)

このような大噴火による気象変化は、世界の歴史で知られているところです。最近ではフイリピンの1991年のピナツボ山の噴火が知られております。その影響は広範囲で、この噴火の影響で、日射量が減り、日本の1993年大冷害はこの影響とも言われております。

日本の古代については、「7300年前(縄文中期)の鬼界カルデラ爆発」が有名です。この影響で九州南部の縄文集落は壊滅的打撃を受けたと言われております。

まとめますと、関東と中部は、寒冷化の他に富士山噴火の影響でさらに環境が悪化し、これらが長期に渡り、植生の変化が起き、当時、食糧としていた栗が壊滅的被害を受け、人口激減の要因となったと推察されます。

関連し、縄文時代晩期の様子を上トップ図に示しました。

 
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[ 2019/10/11 09:08 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(4)

邪馬台国の場所と民族

邪馬台国の場所と民族


邪馬台国の場所と民族(ブログの概要)

前回は、「稲作民族のルーツと水田作の普及」について、記事まとめを行いました。

その続きになりますが、今回は、「邪馬台国の場所と民族」について、カテゴリ「邪馬台国と日本人」を基に記事まとめをします。

拙ブログでは、邪馬台国の場所は北九州、その民族は稲作民族と言われるマレー系民族であることを指摘してきましたが、その理由は次の6点です。

1. 邪馬台国は稲作が発展した弥生時代末期に造られた国であるが、邪馬台国時代、稲作が最も発展していたのは福岡県で、それを反映して弥生時代遺跡数も福岡県で最も多い。

2. 北九州の北方に朝鮮半島があるが、この半島南西部にも弥生稲作遺跡が多くあり、「水田稲作は北九州と朝鮮半島南西部で同時期に始まった」可能性が高く、これらの地域は稲作民族マレー系の主要な居住地帯であったと思われます。

3. 魏志倭人伝によれば、邪馬台国のある地では、倭人が居て、海産物をよく食べ、入れ墨をしており、この習性は南方の海南島人に似ているとありますが、この特徴はマレー系の特徴であり、かつ、「海南島近辺の地域の人々には今でもマレー系の人が多い。

4. そこで、北九州に倭人(マレー系民族)が居たのか検討すると、魏志倭人伝にある倭人は低身長の人を表す意味があるが、「北九州の人々の身長は北陸と比べると低身長」の傾向が認められます。これはマレー系の特徴でもあり、倭人とはマレー系民族のことと推察されます。

5. 北九州方言の「よか、ばってん等はマレー語がルーツ」と推定され、マレー系民族が残した方言と思われます。

6. Y染色体ハプログループ分類によれば、「福岡県はマレー系の割合が他県より多い」。

以上のことから、福岡県は弥生時代遺跡数が最も多く、かつ朝鮮半島の近くで大陸との関係も近く、福岡県近辺は邪馬台国のあった地域と推定されます。また、その民族(倭人)は、容貌や言葉から、マレー系民族であったと推定されます。そして、この指摘は、魏志倭人伝の記述からみても、最も矛盾が少ない結論と思われます。

そして、一般に知られていることですが、魏志倭人伝の後に編纂された中国の史書「旧唐書」によれば、倭国は九州を指し、その他の地域は倭種と違う人々が住んで居て、さらに東側には毛人が住んで居た、とあります。これは、倭国の邪馬台国は北九州にあったことを示します。

一方、戦前から指摘されている「邪馬台国畿内説」ですが、北九州の福岡と比べると、弥生時代遺跡数は、福岡県の3000点に対し、奈良県は500点で、ここから推定される人口も少なく、奈良(畿内)は相当な田舎だったと想像されます。

また、刺青を付けた南方系の民族が居た様子はまったくありません。

例えば、畿内で後に作られた記紀によれば、その天孫降臨の思想は北方系ツングース系の神話が基になっており、南方系とは違います。邪馬台国が南方系とするなら、畿内は北方系となります。

すなわち「邪馬台国畿内説」は根拠の乏しい俗説と思われます。

以上のことから、邪馬台国が北九州にあったことは、ほぼ間違いないと思われます。

関連し、マレー系民族と北九州(倭国)の関係、ツングース系と畿内(大和)の関係を上トップ図に示しました。


 
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[ 2019/10/06 09:04 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(10)

稲作民族のルーツと水田作の普及

マレー系民族の世界移住


稲作民族のルーツと水田作の普及(ブログの概要)

前回、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)による日本人のルーツについて検討し、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系(韓国系:中国系とモンゴル系混血)が30%、その他5%であることを指摘しました。

今回は、カテゴリ「南方系と日本人」および「稲作と日本人」を基に「稲作民族のルーツと水田作の普及」について「記事まとめ」をします。

まず、それぞれの民族の生業ですが、アイヌ系は自然採集、マレー系は稲作、ツングース系は畑作です。すなわち、これらの民族のなかで、稲作民族と言われるのはマレー系だけです。

一方、「日本型稲品種のルーツ」ですが、最も古いタイプがインドネシア(もとスンダランド)にあることから、そこがルーツと思われます。その担い手は、同じく、インドネシア辺りがルーツのマレー系民族と思われます。

彼らは、スンダランドが水没する2万年前頃から中国南部の江南地方に移住し、稲作の先駆者となりました。その後、彼らは、朝鮮半島と日本にも移住し、それぞれの国へ稲作を持ち込みました。

日本に移住した彼らは、同じマレー系民族として中国南部の稲作地帯と強い結びつきがありました。中国では3000年前以前から稲作文明(長江文明)が知られておりますが、その稲作が日本に持ち込まれ、3000年前頃から水田稲作が始まり、北九州、特に福岡で人口が増えました。

水路造成など水田稲作に必要な鉄製農具ですが、Wikipediaによれば2300年前頃導入とあります。しかし、2300年前は本格導入時期で、細々とではあるが水田稲作とほぼ同時期の3000年前から導入されていたと拙ブログでは観ています。

そして、1世紀には国家が作られ、それらのなかの「奴国」が中国に朝貢し金印を授与された話は有名です。

一方、北九州を除くその他の西日本ですが、民族的に稲作民族のマレー系は少なく、畑作系のツングースの影響が大きく、畑作が先行しました。このため、北九州を除く西日本の地域では、水田稲作が、北九州に比べ500年近く遅れ、2300年前頃定着しました。

北九州を除く西日本で、最初に発展したのは「吉備(岡山)」でした。吉備は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代に西日本で最も遺跡数が多く、地域中心地でした。

また、吉備は、6000年前の縄文時代稲作(陸稲)が確認され、マレー系稲作民族が古くから居たと思われます。このため、北九州よりも大幅に遅れましたが、水田稲作がいち早く始まった地域と思われます。

なお、このマレー系民族が古くから居たという事実は、稲作民族が弥生時代に来たのではなく、古くからの大陸との交易交流の過程でマレー系が水田稲作を導入したと判断されます。

一方、後の中心地の奈良ですが、弥生時代遺跡数も古墳時代遺跡数も少なく、弥生時代の地域の中心地とは考えることはできません。関連し、福岡、岡山、奈良の弥生時代遺跡数と古墳時代遺跡数を下図に示しました。

奈良、岡山、福岡の弥生時代・古墳時代遺跡数

なお、日本に稲作を持ち込んだマレー系民族ですが、アフリカの「マダガスカルにも移住した民族」であることから海洋系民族としても知られております。彼らは、どちらかというと小柄であり、小型のボートの操縦に適していた可能性があります。

関連し、マレー系民族の世界移住について上トップ図に示しました。この図では、ペルーで縄文土器が発見されていること、ペルーのインカ人の容貌と言葉がマレー系の人々に似ていることから、仮説ですが、ペルーへの道も示しております。

なお、「水田稲作を導入した弥生人は高身長の新民族」という説が古くからあります。これは、弥生時代遺跡「山口県土井ケ浜遺跡」の高身長人骨等の例から、低身長の縄文人に代り新しい高身長の弥生人が朝鮮半島から渡ってきたという説です。彼らはツングース系民族と推察されますが、先に述べましたように、彼らは北方系畑作民族であり、稲作民族でありません。

また、高身長の彼らは7000年前頃から日本に渡ってきていることが、「富山県小竹貝塚」の人骨調査から分かっており、彼らが弥生時代から移住してきたわけではありません。

以上のことから、「水田稲作を導入した弥生人は高身長の新民族」という説は俗説であり、正しくはありません。

次回は「邪馬台国の場所」について「記事まとめ」をします。


 
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[ 2019/10/01 09:16 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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