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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた

東北、北陸、関東の古代人口推移


東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた(関東・東北の古代)

すでに紹介してきましたように、水田稲作は生産性が高く、水田稲作が普及すると人口が増大することが知られております。しかし、東北においては、水田稲作が何時始まり、どのように発展にしていったのかは、ほとんど報告がありません。

関連し、今回は東北の水田稲作開始時期について愚考します。

方法は、「関東の稲作開始時期」と同じで、人口が停滞から増大する時期を稲作開始期としました。

解析のために用いた古代の東北の人口はKoyama (1978)のデータによりますが、比較に関東と北陸を加え、下表に示しました。

また、この表を基に3地域の年代と人口増加の関係を上トップに示しました。

東北、北陸、関東の古代人口

東北では、2000年前頃から人口が緩やかに増大します。そして、1500年前頃から、増大が大きくなります。

北陸も、人口は2000年前頃から人口が緩やかに増大します。しかし、増大は1700年前頃から急激になり、東北よりも少なかった人口は1700年前には逆転し東北よりも多くなります。

水田稲作で何故人口が増えるのか」について既に紹介しましたが、東北と北陸のこうした人口増大は、水田稲作が普及したためと予想されます。そこで、この人口がより急速に増加に転じる年を稲作開始期としますと、次のとおりです。

まず、上トップ図で人口が増加に転じる時期を拡大しますと下図のとおりです。

東北、北陸、関東の稲作開始時期

関東の人口増大開始時期は2050年前で、この頃が稲作開始期と思われます。関東の最古の稲作遺跡は神奈川県の「中里遺跡」ですが、これは2100年前の遺跡ですので、この予想はほぼ当たっていると思われます。

同じ方法で予想しますと、東北の人口増大時期は1850年前です。稲作はその頃に開始されたと思われますが、この時期は西日本では弥生時代晩期、邪馬台国時代前の時期に当たります。

東北の最初の水田跡としては、青森県の「砂沢遺跡」(2500年前)と「垂柳遺跡」(2200年前)が知られております。2500年前の「砂沢遺跡」では水田を作った後に放棄された様子があり、このため、次の2200年前の「垂柳遺跡」が東北最初の水田跡と言われておりますが、「垂柳遺跡」の水田も長期間使われた様子はありません。

これらのことから想像しますと、東北では、水田稲作情報は西日本より少し遅れて2500年前頃から伝わっていたが、実際に開始されたのは650年遅れの1850年頃というのが真相と思われます。そして、稲作開始後も人口上昇は緩慢でしたので、水田稲作普及は緩慢に進んだと読み取れます。

一方、北陸は1950年前頃から人口が急激に増大します。このため、東北より人口が少なかった北陸は、1700年前後に人口が逆転します。

当時の稲作は、何度も述べていますが、乾田直播栽培で、乾田(畑地)に播種し、発芽したところで水を入れる方式です。この方式は漏水問題のある中山間地や、初期生育の遅れる冷涼気候に適していません。このため、東北地方、特に北部(青森、秋田、岩手)は気性条件から稲作適地とは言えません。詳しくは「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」を参照願います。

まとめますと、この冷涼気候という問題から、東北で水田稲作が開始されたのは、1850年前頃、関西と比較し500年以上の遅れ、関東と比較し200年以上の遅れがあったのが真相と思われます。

弥生時代は、稲作民族が来て稲作が急速に全国に普及していった時代と言われてきました。しかし、畑作先行の問題、冷涼気候の問題、さらには乾田直播という栽培法の問題がありました。このため、水田稲作情報は早くから東北に伝えられていましたが、実際は、緩やかに西日本から東日本、そして東北に普及していったのが真相と思われます。

なお、北方稲作には極早生品種が必要ですが、極早生種は自然突然変異でも出現することは知られておりますので、当時から極早生種はあったと理解されます。詳しくは、拙ブログ「垂柳遺跡の早生稲はどこから来たか」を参照願います。

なお、当然のことですが、東北の南部と北部では気候が違いますので、今回の情報は、東北全体を平均して観た場合の値であることは言うまでもありません。関連し、次回は、東北各県の水田稲作普及状況について検討します。



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[ 2019/11/30 08:44 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

大河が古代の関東を分けた

古代の関東を分断した河川と地域方言の形成


大河が古代の関東を分けた(関東・東北の古代)

前回、古墳時代の関東は、群馬グループ、茨城グループ、東京湾グループの3地域に分かれ、それぞれの中心地があったこと、そして、地域を分けたのは大河川であったと推察しました。

関連し、今回は、関東の言葉の違いから、3地域のルーツについて愚考します。

まず、私ことで恐縮ですが、私は福島県中通り(郡山)出身です。茨城県(つくば市)に住んだ時、言葉が同じと言われたことがあります。因みに「おめ、茨城出身か」なんて言われました(笑)。一方、埼玉(鴻巣市)には8年間住みましたが、茨城と言葉が違うことを感じました。

そこで関東方言について調べますと、Wikipediaでは次のとおりです。

関東地方の方言は西関東方言と東関東方言に大別するのが通例である。文法において両者は「ベー」を用いるなど共通点は多いが、音韻、アクセントは大きく異なる。西関東方言は東京式アクセントで東海東山方言や共通語に近いのに対して、東関東方言は無アクセントで中舌母音があるなど、東北方言(南奥羽方言)と連続している。「関東方言」を定義したのは方言学者の東条操[1]だが、都竹通年雄[2]や奥村三雄[3]の区画では関東方言にあたるものはなく、東関東方言は東北方言(南奥羽方言)の中に入れられている。中心都市である東京の方言で関東方言を代表させることがあるが、実際には東京方言は西日本方言的な要素を強く持つなど、周囲の伝統的な関東方言と比較すると特殊な方言である(言語島)[4]。

現代の関東地方の若年層では、旧来の関東方言に代わり首都圏方言(共通語をベースにした新方言)が圧倒的優勢である。関東方言、特に首都圏方言と共通語を混同する例が一部で見られるが、関東方言と共通語はいずれも異なる言語学的概念である。
(引用終了)

このWikipediaの記事をまとめますと、関東方言は大きく3つのグループに分けられ、それは西関東方言(上州弁)、東関東方言(茨城弁)、東京方言(江戸弁?)となる感じです。

前回の記事「関東の古代は3地域に分けられる」、そして、今回の「関東の方言は3地域に分けられる」をまとめますと、この関東方言地域分布は古墳時代の地域分類と一致します。すなわち、関東の地域性は、古墳時代、あるいは、それ以前からあったことになります。

そして、大河は人の移動妨げることは昔から知られていることですが、それらの地域性を作ったのは関東を流れる古代の大河、すなわち、利根川、渡良瀬川、鬼怒川だったと思われます。

関連し、関東方言分布と河川の関係を上トップ図に示しました。

次に、古墳時代の関東の大王について検討しますと、前回指摘のように関東全体をまとめるような大王は出現しませんでした。その理由には次のことが考えられます。

まず、古墳時代末期の7世紀に、北九州の倭国が白村江の戦い(663年)に唐に敗れて滅び、大和朝廷に取り込まれました。これは、関東と関係のあった倭国が滅び、北九州を含む西日本全体が統一されるという画期的事件でした。

そして、その直後、巨大化した王権の支配をめぐり日本を東西に分けた大戦争(壬申の乱 672)が起こりましたが、その戦いを制した天武天皇(在位:673-686年)が登場します。天武天皇は地方の豪族の支援のもとに即位し、事実上、強大であり、初めて天皇と名乗ります。

この結果、関東の各大王は、倭国という後ろ盾を失い、かつ強大な大和政権を前にして、しだいに大和政権に取り込まれていったのが真相と思われます。すなわち、関東をまとめる大王出現前に、関東は大和朝廷に取り込まれていったことになります。これらの関係を下図に示しました。

なお、白村江の戦いですが、詳しくは、拙ブログ記事「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。次回は、東北の弥生時代について愚考します。


古墳時代末期と関東


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[ 2019/11/25 09:37 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

古墳時代の関東の中心地愚考

関東の古墳時代の各県遺跡数


古墳時代の関東の中心地愚考(関東・東北の古代)

北九州や畿内よりも関東に古墳数が多いことを前回検討しました。しかし、日本の古墳時代については西日本中心の解析が多く、関東の古墳時代については検討が少ない印象を受けます。このためか、関東の古代については、その中心地さえも不明です。

おそらく、大王が居たところが中心地と思われますが、今回は、関東の古墳時代の大王墓と中心地について愚考します。

まず、文化庁の参考資料: 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数によれば、関東各県の古代遺跡数は下表の通りです。

関東各県の古代遺跡数

そして、古墳時代遺跡数を上トップ図に示しました。

これらのデータから、古墳時代遺跡数が最も多いのは群馬県になります。そして、「関東の大王は太田天神山古墳に眠っている」で紹介しましたが、関東最大、全長210mの太田天神山古墳が群馬県にあります。さらに、碑文入り鉄剣が見つかったのはその近くの埼玉古墳群です。

これらのことから想像しますと、関東の中心地の一つは群馬~埼玉の平野部辺り一帯と思われます。事実、群馬~埼玉は平野部でつながっており、両県の古墳数は合わせると関東最大で、この地帯が古墳時代関東の最大の中心地だったと思われます。その意味で、関東最大の天神山古墳は象徴的存在と思われます。

次に、2位の茨城県ですが、関東で2番目に大きい全長186mの舟塚山古墳(石岡市)があります。また、その近くの南東の行方(なめかた)市の三昧塚(さんまいづじか)古墳からは八頭馬形飾金銅冠が出土しており、この冠を被った地域の王が居た可能性があります。

隣に栃木県がありますが、両県を遮るものはなく平坦な大地でつながっていることから想像しますと、茨城と栃木を合わせた古墳時代遺跡は、群馬・埼玉に続いて多く、茨城・栃木は関東第二の中心地だったと思われます。

以上、関東の中部平原地帯は東西の2地域に分けられますが、この地域を分けたのは利根川や鬼怒川の大河川だったと思われます。

次に、古墳数3位の千葉県があります。大古墳は認められませんが、芝山古墳など特徴ある埴輪出土の古墳があり、独自の勢力があったことを感じさせます。

もともと、近くの東京湾一帯は、旧石器時代~縄文時代に貝塚が全国一多いところで、長期に渡って人類の足跡のある地域です。そして、弥生時代になると、稲作に有利な平野部の多い千葉県北部に中心地が移動したと思われます。

しかし、千葉県の北側は霞ケ浦や鬼怒川の大河で分断されており、北側との交流は少なく、独自の発展をした可能性があります。このため地域としての広さに欠け、群馬や茨城のような大王は生まれなかったと思われます。

以上のことから想像しますと、関東の古墳時代は三つの勢力と中心地があったと思われます。すなわち 第一が群馬から埼玉にかけての平坦部と、第二が茨城から栃木にかけての地帯、第三が千葉県など東京湾岸地帯です。そして、これらの地域を分けたのは大河川だったと思われます。

まとめますと、弥生時代に入り、関東の平野部では1世紀頃から水田稲作が発展し、4世紀頃から古墳時代に入り、上記3地域に大王が出現しました。

関連し、これらの関係を下図に示しました。

関東の古墳時代の中心地

なお、この古墳時代の西日本と関東の関係ですが、次のようであったと思われます。

日本の先進地は倭の五王の居た北九州地域でした。そこで、関東のそれぞれ大王は北九州の倭国と関係を持ちました。その遺物が、埼玉で発見された碑文入り鉄剣、茨城で発見された八頭馬形飾金銅冠と思われます。また、後には装飾古墳が入ってきました。

なお、畿内政権ですが、確認できるのは継体王(在位:507-531年)からです。それ以前の記紀に記されている王(天皇)については王宮跡不明、王陵不明、在位期間不明、記録文字(文書)不明で、居たとも居ないとも言えない状況です。詳しくは「空白の時代があったのか」を参照願います。

そして、畿内政権が関東に影響を持つようになったのは、壬申の乱(672年)に勝利し、西日本全体を支配する大王(天武天皇 在位:673-686年)が出現した7世紀末からと思われます。

次回は、これら3地域と言葉の関係について愚考します。


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[ 2019/11/20 08:55 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

関東でなぜ古墳が多いのか

古墳時代遺跡数の地域差


関東でなぜ古墳が多いのか(関東・東北の古代)

日本の歴史は、鉄器と水田稲作導入発展期のBC500年~AD200年を弥生時代、その後の大王時代~畿内政権確立までの200年~700年(3~7世紀)を古墳時代と分類しています。この古墳時代の関東を見ますと、古墳が他地域よりも突出して多い傾向があります。

関連し、今回は、「関東でなぜ古墳が多いのか」について愚考します。

まず、文化庁の参考資料: 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数によれば、地域別古墳時代遺跡数は上の図のとおりで、関東地域が一番で17166か所、次いで近畿が5499か所、九州が4881か所、中国が4817か所です。

次に、関東でなぜ古墳が多いのか考察しますと、次の二つの理由が考えられます。

一番の理由は、東京の遺跡数の例で紹介しましたが、斜面を利用した横穴古墳遺跡が多いことが考えられます。一般に、斜面を利用した横穴古墳は、盛り土の必要はなく、小人数で作ることができます。

関連し、鬼頭(1996)が推定した725年(奈良時代)人口を用い、古代時代1遺跡数当たり人口(人口/古墳時代遺跡数)を古墳の規模とすると、これらのデータは下表のとおりです。

各地域の古墳時代遺跡数と人口

そして、古墳時代1遺跡当たり人口は下図のとおりです。この図から、関東は1古墳当たり人口が45人と著しく少ない結果となりました。四国の356人を除くと、他地域では100人~200人でした。すなわち、関東の古墳は規模が小さく、作りやすかったことになります。

古墳時代1遺跡当たり人口

二番目に、稲作開始時期の遅れが考えられます。

関東では、神奈川県の「中里遺跡」が最も古い稲作遺跡で、これは2100年前です。このことは、富を生み出す稲作が西日本より200年以上遅れて弥生時代が始まったことになります。

弥生時代というのは水田稲作により余剰農産物が生まれ急速に人口が増大した時代で、200年の遅れというのは大きな差異です。

この結果、地域を支配する強大な大王の発生も遅れ、強力な支配者が居なかったため富の有る者は、西日本で当時流行していた古墳を、小規模ですが自由に作ることができたのではないかと思われます。

因みに、関東最大の全長210mの太田天神山古墳が群馬県にありますが、建造時期は5世紀前半~中期です。一方、西日本では、同程度の古墳は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀前半)には建造されています。さらに、太田天神山古墳と同時期の5世紀には、全長300mを越すような世界的巨大古墳が建造され、西日本には強大な王が居たことが推察されています。

次回は、古墳時代における関東の中心地について愚考します。



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[ 2019/11/15 09:05 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

日本畑作民族ルーツ愚考

畑作のルーツと関東人と関西人のDNAの違い


日本畑作民族ルーツ愚考(関東・東北の古代)

前回、東京の遺跡の事例から、関東には畑作が根強くあり、弥生時代に入ってもその傾向が変わらなかったことを検討しました。今回は、その畑作民族のルーツについて愚考します。

まず、日本人のルーツですが、Y染色体ハプログループ分類によりますと、アイヌ系(Y染色体ハプログループD)が35%、マレー系(O1b)が30%、中国系(O2)が20%、モンゴル系(C)が10%、その他5%となっています。

以上のDNA分類から観ますと、中国系だけが畑作民族です。そして、彼らが朝鮮半島から来たことから想像しますと、日本へは朝鮮半島の中国系畑作民族が来たことになります。

朝鮮半島の中国系畑作民族というのは満州をルーツに持つ、「モンゴル系と中国系の混血のツングース系民族」で、韓国人は、その末裔にあたります。すなわち、韓国人の彼らが日本に来たことになります。

ツングース系民族の生業は主として北方系畑作で、彼らは日本に来て、日本畑作民族のルーツになったことになります。そして、日本人のツングース系の割合は中国系20%とモンゴル系10%合計で30%と推定できます。

このツングース系民族の特徴の一つに高身長がありますが、拙ブログでは、「6000年前からその高身長の人々の存在が認められること」を紹介したことがあります。

そこで、韓国と関東と西日本におけるY染色体ハプログループ分類ですが、下表のとおりです。以前にも紹介しましたが、西日本は地理的関係から韓国に近い数値になっています。

韓国人と関西人と関東人のルーツ

一方、日本先住民族はアイヌ系です。彼らの生業は中山間地で栗を主食にしていた自然採集経済ですが、彼らは、弥生時代に入り鉄製農具が入ってきますと、ツングース系の影響で自然採集の生活に加え畑作も本格的にするようになった可能性があります。

そうなると、関東の畑作民族の割合は、アイヌ系48%+ツングース系19%(中国系15%+モンゴル系4%)=67%、すなわち、約7割が畑作系です。同じ様に関西の畑作系は、27%+24%+7%=58%、すなわち約6割が畑作系になります。このことは、関東では畑作系が元々優勢で、水田稲作が入りにくい環境があったと思われます。

関連し、上表をもとに、水田稲作系(マレー系)、畑作系(ツングース系+アイヌ系)に分け、これらの関係を上トップ図に示しました。

また、関連し、水田稲作が先行した福岡と水田稲作が遅れた金沢について、Satoら(2014)のY染色体ハプログループ分類結果がありますので紹介しますと下表のとおりです。

福岡市と金沢市と日本人のルーツ

この結果は事例的ですが、福岡と金沢の違いは上記の関東と関西の違いと同じ傾向が認められます。すなわち、福岡は水田稲作系(マレー系)が金沢より多く、一方、金沢は畑作系(アイヌ系+ツングース系)が福岡より多くなっています(下図参照)。

福岡と金沢の稲作系と畑作系の割合

まとめますと、鉄器導入時代(弥生時代)、日本には、水田稲作を主とするマレー系民族と畑作を主とする畑作系民族(ツングース系+アイヌ系)が居て、水田稲作はマレー系の多かった北九州で先行しました。しかし、畑作系が多かった関東や中部では、弥生時代に入っても中山間地では豆類栽培などの畑作が続いたと推察されます。


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[ 2019/11/10 08:49 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(0)

弥生時代における畑作のルーツ愚考

大豆のルーツと日本への伝播


弥生時代における畑作のルーツ愚考(関東・東北の古代)

前回まで、東京の遺跡の事例から、台地上(山間地)の人々が弥生時代~古墳時代において、水田稲作に適した低地にほとんど移動していないことから、台地では縄文時代からの畑作が続いていたのではないか、と検討しました。

弥生時代に入りますと、大陸から鉄の農機具が入ってきました。このため、水田作だけでなく畑作もやり易くなったと思われます。そこで、何を作っていたのか想像しますと、豆類が考えられます。

Wikipedia「日本の豆類の歴史は縄文時代まで辿ります」によりますと、次のとおりです。

原産地[編集]

原産地は東アジアである。日本にも自生しているツルマメが原種と考えられている。

遺伝学的研究によれば、東アジアの複数の地域で野生ツルマメからの栽培化が進行し、日本も起源地のひとつである[9]。2010年代の考古学的研究では、アジアでも他の地域に先駆けてダイズの栽培化が進行した可能性が判明しており他の起源地は中国や朝鮮半島である[10]。縄文時代中期、紀元前4000年後半より日本列島での栽培が見られることが2015年の研究で判明し、この時期以降に野生種からの人為的な栽培に特徴的な種子の大型化がみられる[9]。2007年には、縄文時代後期中頃[11]。日本列島においては縄文時代においてアズキやリョクトウなどの炭化種実が検出されているためマメ類の利用が行われていたことが判明していた。山梨県の酒呑場遺跡から出土した土器のダイズ圧痕は蛇体装飾の把手部分から検出されており、これは偶然混入したものではなく意図的に練りこまれた可能性が想定されており、その祭祀的意図をめぐっても注目されている。 中国や日本などでは米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)を五穀として重用されている。(引用終了)

関連し、さらに、豆類のなかで最も需要の多い大豆栽培の歴史ですが、「大豆の歴史について」によれば次のとおりです。

大豆の起源は中国

大豆が登場したのは中国からとされています。

中国の遺跡からは、中国黒竜江省の大牡丹屯や吉林省烏拉街の遺跡などから、いずれも紀元前1,000年頃の炭化した大豆が見つかっています。これによって少なくとも今から4千年前には大豆が栽培されていたことが明らかになっています。

他にも紀元前の書物「逸周書」や「史記」、「詩経」などにも大豆についての記述があり、古代中国の人々の生活において大きな影響を与えていた作物だったことが想像できます

ただし幾つか説があり、今でも起源となった場所ははっきりしておらず今も研究者たちが大豆の起源地を探っています

日本での大豆の歴史

大豆の伝来

5000年以上も前から栽培されていた大豆ですが、日本ではいつごろから栽培されていたのでしょうか。

最古の大豆栽培の時代は

最近まで日本の遺跡から発掘された大豆出土品で最も古いものとされていたのは、山口県宮原遺跡から出土したもので、弥生時代前期のものとされていました。

昭和47年に山陽新幹線の工事中に発見されたもので、ここから4粒の大豆が発見されたのです。

それ以前にもいくつかの大豆の出土品が遺跡から見つかっていましたがいずれも弥生時代より後のもので弥生時代が最古とされていました。

しかし2007年から縄文時代中期の井戸尻式土器から大豆の圧痕が見つかったと発表されました。

この発見により縄文時代中期(約5,500~4,500年前)には、日本の中部地方か西関東あたりで大豆の栽培が始められ、その後西日本へ拡散していったとされています。
(引用終了)


引用が長くなりましたが、まとめますと、次のとおりです。

大豆のルーツは満州(中国黒竜江省)当たり、拙ブログで紹介しているツングース系民族の故郷です。大豆栽培が始まった5000年前頃というのは、日本では縄文時代最盛期の三内丸山時代です。この時期、中国大陸と交易があったことを、拙ブログでは紹介しておりますが、その過程、あるいは、ツングース系民族が日本に移住するとき、持ち込んだ可能性があります。

そして、その栽培遺跡として山梨県北杜市にある酒呑場(さけのみば)遺跡が知られていることは、その近くの東京の台地でも豆類が作られていた可能性は大と思われます。

いずれにせよ、豆類栽培は縄文時代中期から関東であり、それが細々と続けられ、弥生時代に農耕に必要な鉄製農具が導入されると、大豆栽培を中心とする畑作も盛んになった可能性があります。

特に豆類は交易品としても人気があり、この結果、稲作のため低地に移住する必要は無かった、というのが真相かもしれません。

関連し、上トップに大豆の日本への導入の経過を示しました。


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[ 2019/11/05 08:45 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(1)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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