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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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出雲にはツングース系の人々が多かったのか

鳥取、島根、福岡の伸長(図)


出雲にはツングース系の人々が多かったのか(西日本の古代)

前回、出雲国の特徴は、朝鮮半島由来のツングース系の影響が大きかったところにあると指摘しました。

関連し、今回は、現在の出雲の人達にも、その影響があるのか検討します。

まず、DNAですが、「DNA鑑定・因幡の弥生人」 によれば、2世紀の弥生時代末期の青谷上寺地遺跡(因幡)から出土した人骨でY染色体ハプロタイプ分類可能な4人について調べたところ、3人はアイヌ系、1人は渡来系(おそらくツングース系)とあります。

また、「関東在住の出雲出身者のDNA分析」によれば、データは示されていませんが、「その結果は、予想とは大きく異なり、関東ヤマト人よりも縄文人に遺伝的に少し近く、東北の人たちの位置と似てるということがわかりました。」とあります。

データが示されていないので明確でありませんが、現在の島根県人はY染色体ハプロタイプはD型(アイヌ系)が多いということと思われます。

次に、出雲と近い地域にY染色体ハプロ分類例がないか探しますと、金沢市と福岡市があります。拙ブログで以前に紹介した「福岡と金沢2地点の解析事例」ですが、再度紹介しますと下表のとおりです。

福岡市と金沢市と日本人のY染色体ハプロタイプ分類

金沢は越国とも呼ばれ、四隅型突起古墳も多くあり、古代は出雲に近い状況にあったと推察されます。一方、福岡は、拙ブログで稲作民族マレー系の多い地域と観ている地域です。

ツングースはモンゴル系と中国系の混合混血民族ですので、そのツングース系の割合は「モンゴル系+中国系」になります。すなわち、ツングース系の割合は、金沢で32.2%、福岡で24.6%、日本人全体(平均)で28.6%ですので、金沢は福岡よりツングース系が多いと判断されます。また日本人平均よりもやや多い傾向があります。

以上のDNA情報から、島根と金沢市を古代遺跡から同じグループと見ますと、島根は金沢市と同じくツングース系が比較的多い地域だったと推察されます。なお、拙ブログでは、日本海側はツングース系民族の多かった地域と観ています。詳しくは「色白高身長、秋田美人のルーツ愚考」を参照願います。

一方、ツングース系の特徴として高身長性が知られておりますが、出雲地域も高身長か検討しますと次のとおりです。

鳥取、島根、福岡の17歳男子身長ですが、下表とおりです。データは「都道府県別!日本人の全国平均身長一覧」から得ました。

鳥取、島根、福岡の男子身長

また、平均身長を棒グラフにしますと、上トップ図のとおりです。

鳥取と島根は、福岡と比較し、高身長の傾向があり、高身長ツングース系のDNAが残っている可能性があります。逆に、マレー系は低身長の傾向がありますが、福岡はマレー系の影響の多い地域とも推察されます。

まとめますと、出雲人は、福岡人と比べると、ツングース系のDNAが現在でも多い傾向にあります。すなわち、古代の出雲国は、ツングース系民族割合が相対的に大きく、朝鮮半島東側(後の新羅)のツングース系の影響が強かった地域と思われます。

なお、ツングース系民族に興味のある方は、拙ブログ左側にあります検索欄に「ツングース」と入れクリックしますと、今までのツングース関連の記事を見ることができます。



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[ 2020/01/30 08:25 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(4)

出雲古代文化のルーツはツングース系

日本の古代3世紀の状況


出雲古代文化のルーツはツングース系(西日本の古代)

前回、出雲は、吉備や大和よりも人口増加が少し遅れ、水田稲作導入が少し遅れたことを指摘しました。一方、出雲は、銅剣など多量の青銅器が出土し、かつ、独特な「四隅突出型墳丘墓」が建造され、独特の古代王国があったことが多くの研究者に指摘されています。

関連し、今回は、その出雲の独自性のルーツについて愚考します。

結論から言いますと、出雲は朝鮮半島のツングース系の影響の濃い地域であったことかと思います。

例えば、「祟る出雲(八百万)の神々 神話から青銅器・鉄器の王国へ」によれば次の通りです。

学校の日本史の教科書は、ほぼ7世紀から始まっている。これは、『日本書紀の記述は6世紀以前は全く信憑性が無い、ましてや神話なんて、、』というのが史学会の常識だったからであろう。今山陰地方の考古学が進展したことにより、『出雲王国』が実在していたことが確証できた。古事記には、葦原中国(出雲王国)はわが子が支配する国だとして、神々を次々に降臨させるが、帰伏させる事が出来ず、ついに天照大御神は天鳥船神と建御雷(たけみかずち)神を大国主神のもとへ遣わした。そしてこの国は『天照大御神のご子孫に差し上げましょう』と言わせたのである(天孫降臨より)。8世紀の大和朝廷は、出雲王国の実在を知っていたからこそ、出雲を神話にしてしまい、日本の歴史を抹殺しなければ政権の正当性と正統性を証明出来なかったのだ。すなわち大和朝廷が出来る以前に日本には別の王国、出雲王国が存在していたことを、神話が語っているのである。この王国が倭国の中心として、日本海沿岸はもちろん遠く瀬戸内海や中国,朝鮮半島と盛んに交易が行われていた。

日本で文字による記録が残されるのは奈良時代の古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年天武天皇の命を受け、舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)である。しかし古事記の内容は、大化改新(クーデター)を起こした天智天皇と藤原鎌足の正当性を主張し、蘇我氏と須佐之男命を悪者扱いにしているが、その内容からは古代の人々の考え方や習慣が読み取れる。古事記の神話の1/3は出雲に係わった神話で占められている。 出雲の神様は、大国主命(別名大黒様)、恵比須様などの現世利益の神様と、須佐之男命のように祟りと暴れん坊の神様がいる。何故出雲の田舎(?)に日本一大きな出雲大社が出来たのであろうか?

出雲風土記は713年五月に中央政府から出された命令により製作に着手させ、733年に完成した。出雲の由来が『八雲立つ出雲』とか、国引き『新羅の岬が余っているから綱をかけて引いて縫い合わせた』とか記載されている。

島根半島と朝鮮半島は300Kmの距離である。冬を除けば波穏やかな日本海であり、大陸との往来や西は九州、東は東北ともつながっていた。このように出雲は僻地ではなく、大陸や半島との文化の玄関口であった。
(引用終了)

また、ブログ仲間の最近の記事「国引き神話と見返りの鹿(島根県松江市 八雲立つ風土記の丘展示学習館/岡田山古墳群)」では次の通りです。

出雲国風土記には、記紀には見えない独特の神話として「国引き神話」があり、意宇の地名の由来が語られている。登場するのは「八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコト)」で、一説には大国主命はこの神の孫だそうであるが、この神が「国来、国来(くにこ、くにこ)」と新羅や隠岐、越の国などから余った土地を手繰り寄せた後、持っていた御杖を衝き立てて「意恵(オヱ)」と仰ったことから「意宇(オウ)」と名付けられた、とされる。「オヱ」は感動詞だそうだが、「終えた」という意味であろうか。平野のほぼ中央、国府跡の北東に御杖を衝き立てた址とされる「意宇の杜」の伝承地が今でもあるらしい。(引用終了)

また、「出雲地方は大和と違う古墳をつくった」によれば次の通りです。

弥生時代中期以降、出雲地方を含む山陰は後の邪馬台国や大和政権と同族であった。また、大和、北九州、瀬戸内海の各地域のような在地勢力が無く抗争を起こす事がなかった。銅鐸、銅剣、銅矛を埋納し、自由な文化を花開かせ、古墳時代になっても前方後円墳なんか作る必要が無かった。

玉造にある「花仙山」では良質なめのうが採れ、その付近ではめのう細工の職人達が集落を作り、暮らしていたと言います(参考)。
高句麗・新羅には方墳が多い、出雲の方墳のルーツのひとつは新羅か!出雲神話の国引きに、新羅から土地を引っ張って来ている(参考)。
(引用終了)


引用が長くなりましたが、これらの記事をまとめますと、出雲の由来は新羅(朝鮮半島)であったことが出雲風土記に書いてあることかと思います。

拙ブログでは、朝鮮半島には2系統があり、1つは東側の北方畑作系のツングース、もう1つは西側の南方稲作系のマレー系が居たこと、そして、ツングースは縄文時代に日本へ来て日本海を北上したことを指摘してきました。詳しくは、「山口県の土井ケ浜遺跡出土の弥生人骨は北方系民族」を参照願います。

また、「四隅突出型墳丘墓」ですが、この墳丘墓の原型は方墳であり、上記引用のとおり、方墳は朝鮮半島にルーツがあることが指摘されています。また、多量の青銅器ですが、これも朝鮮半島由来であることが指摘されています。

そして、出雲の独自性のルーツについてまとめますと、次のようだと思われます。

出雲には朝鮮半島から渡ってきたツングース系民族が多く居て、縄文時代には先住民族のアイヌ系と混合混血していました。このため、出雲は、ツングース民族の居た朝鮮半島(特に東側)と繋がりが強く、その影響を受け易い場所だったと思われます。

また、ツングース系は畑作民族であり、そのためか水田稲作の始まりは他の地域より少し遅れた感じがします。それでも、水田稲作を導入し余剰農産物が生まれますと、朝鮮半島の仲間と交流するなかで、王が生まれ、青銅器の製造、古墳の製造など、他の地域にはない独自性が作られていったと思われます。

また、大和(畿内)との関係ですが、ツングース系の影響多少の違いはありますが、同じ民族です。国譲り神話に見られますように、出雲は小国でもあり平和を優先し、無用な戦いはせず、6世紀以降の畿内政権の日本統一事業に参加していったと思われます。

一方、邪馬台国のあった北九州地域との関係ですが、そこはマレー系が多く言葉が違います。詳しくは「古代日本と韓国にマレー系民族が多数住んで居た」を参照願います。

このことから、北九州地域は、同じマレー系の朝鮮半島西部の稲作地帯(後の百済)と関係が深く、ツングース系の出雲とは関係が弱かったと思われます。

関連し、3世紀頃の様子を上トップ図に示しました。


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[ 2020/01/25 08:45 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(3)

古代王国の人口と稲作開始時期


古代王国の人口と稲作開始時期(西日本の古代)

水田稲作は余剰農産物が多く人口増大と関係していることから、人口が停滞から増加に向かう時期を稲作開始時期と拙ブログでは観てきました。

また、日本には4~5世紀頃の古代王国として、倭国(福岡県+佐賀県+長崎県+熊本県)、吉備国(岡山)、出雲国(島根県+鳥取県)、大和国(奈良県+大阪府+滋賀県+京都府)の4か国があったと言われております。これら古代王国は弥生時代の発展、すなわち生産性の高い水田稲作発展の後に人口が増加し、形成されたと思われます。

関連し、今回は、これら古代王国稲作の稲作開始期について検討します。

推定に用いたデータは、「文化庁の参考資料(2012): 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数」の各県データ、および、先の報告「古代人口推定は改訂が必要だ」と同方法です。すなわち、1遺跡数当たり人口は、縄文時代が8人、弥生時代が18人、古墳時代が129人です。

これらのデータを用いた各王国の人口は下表の通りです。

古代国の遺跡数と人口

次に、これらの人口と年代を基に各古代王国の人口増大曲線を求めますと下図の通りです。この図では、これまでの報告とほぼ同じです。すなわち、人口が先に進んだのが倭国、次いで吉備、大和、出雲へと続きます。

古代国の人口変動

次に、人口増大時期と邪馬台国時代(1750年前)の人口を観るために、上の図を拡大しますと下図の通りです。

古代国の稲作開始時期と人口

この図から、人口が停滞から増大に向かう時期は、倭国は3000年前、次いで吉備が2200年前、次いで大和が2150年前、出雲が2100年前(BC100年)となります。

また、邪馬台国があった1750年前(西暦250年)頃の人口は、倭国は11万人、次いで大和と吉備が5万人、出雲3万人です。

これらの結果をまとめますと下表のとおりです。


古代国の稲作開始時期と人口(表)

以上の水田稲作開始時期と邪馬台国時代の人口から推察しますと、魏志倭人伝にあります邪馬台国は北九州にあり、その地域は後の倭の5王時代に向かって発展していったと思われます。



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[ 2020/01/20 08:38 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(2)

水田稲作は鉄器導入が早かった北九州だけが先行した


水田稲作は鉄器導入が早かった北九州だけが先行した(西日本の古代)

前回、地域では九州だけが水田稲作が先行したことを指摘しました。拙ブログでは、それは九州の中でも北九州だけのことであることを指摘してきました。

関連し、今回は、倭国の地域と言われる北九州(福岡、佐賀、長崎、熊本)とその他の九州(大分、宮崎、鹿児島)に分け、これらの地域の人口変動の違いを検討し、北九州の先行性について愚考します。

方法は、「古代人口推定は改訂が必要だ」と同方法です。すなわち、1遺跡数当たり人口は、縄文時代が8人、弥生時代が18人、古墳時代が129人を使い、人口を推定し、水田稲作開始時期を人口が停滞から増大に転じる時期にしました。

まず、人口推定に用いた遺跡数データと推定人口は下表のとおりです。

北九州と南九州の古代遺跡数と推定人口

次に、人口変動は下図の通りです。

北九州と南九州の人口変動と稲作開始時期

この図から、北九州はBC1000年から人口が増加し、この時期から水田稲作が開始されたと思われます。一方、南九州の人口増加はBC300年頃で、北九州より700年の遅れがあります。

この結果と前回の結果をまとめますと、下表の通りです。

各地域の稲作開始時期と九州

まとめますと、南九州も水田稲作開始は遅れ、中国地域と変りません。すなわち、水田稲作に関し、北九州だけが先行し、その他の地域は約700年以上の遅れがあったことになります。

この遅れの要因は、前回と同じく、水田開発に必要な鉄製農具の導入の遅れと思われます。おそらく北九州だけが、大陸に近い関係から鉄製農具を独占できたこと、さらには、中国南部稲作地域由来のマレー系民族が多かったことも関係していると思われます。


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[ 2020/01/15 08:35 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(2)

水田稲作開始は鉄器導入と一致する


水田稲作開始は鉄器導入と一致する(稲作と日本人)

これまで、稲作が始まると弥生時代が始まり、それは急速に全国に拡大したと言われてきました。最近では、その稲作は3000年前に始まったが普及は遅れたという指摘も出ております。

弥生時代の始まりと関連し、水田稲作開始時期は重要な課題ですので、整理も含めて、全国的視点から今回は再度検討します。

まず、稲作開始時期を人口が増大する時期とする例を、関東地域をモデルに紹介しますと、関連する人口増加関係は下図のとおりです。

人口動態から見た水田稲作開始時期も出る
この図は先に紹介しましたKoyama(1978)のデータを用いた関東地方の例ですが、人口停滞期はBC200年頃まで続き、人口増加開始時期はBC100~50年です。関東最古の水田稲作遺跡は「中里遺跡」ですが、この時期はBC100年で、人口増大時期を稲作開始時期とするモデルに合っていると思われます。

そして、東北、北陸、関東については「東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた」で紹介したとおりです。

同じくKoyama (1978) のデータを用い、同様な観点から、その他の地域を検討しますと、下図のとおりです。

中部、東海、近畿の稲作開始時期

中国、四国、九州の稲作開始時期

これらの結果をまとめますと下表の通りです。

各地域樹の水田稲作開始時期

まとめますと、人口が増大し始める時、すなわち水田稲作開始時期は、東北は1850年前、北陸は1950年前、関東は2050年前、中部は1800年前、東海は900年前、近畿は2100年前、中国は2200年前、四国は1900年前、九州は2900年前となります。

なお、九州以外の地域で2200年前より以前の水田稲作遺跡が見つかっておりますが、人口増大に結びついていないことから、これは試作であって、人口増大を可能にするような水田稲作栽培では無かったと思われます。

そして、九州以外の地域で水田稲作開始が遅れた理由ですが、鉄製農具が不十分であったことが最大の理由と思われます。因みに、Wikipediaによれば、鉄の輸入は青銅器と一緒でBC300年(2300年前)と言われています。このことから、鉄製農具の普及は早くても2300年前以降となり、以上の水田稲作開始時期と一致します。

拙ブログで何度も指摘していますが、鉄製農具は水路造成など水田稲作に不可欠です。その意味で、西日本で本格的に稲作が普及するのは2300年前以降となり、この鉄器導入時期は稲作開始時期と一致します。

一方、北九州は、大陸と接しており、鉄器導入が他の地域よりも早かったことが知られておりますが、このため、水田稲作開始も早かったのが真相と思われます。



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[ 2020/01/10 08:25 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

魏志倭人伝の倭国の戸数は実態の10倍に誇張されていた

魏志倭人伝時代の倭国と中国の状況


魏志倭人伝の倭国の戸数は実態の10倍に誇張されていた(西日本の古代)

発見遺跡数が増えた現在、古代人口推定に関して、1遺跡当たり人口については、Koyama(1978)の推定は使えないことを先に指摘しました。詳しくは「古代人口推定は改訂が必要だ」を参照願います。

しかし、拙ブログでは、Koyama(1978)の1遺跡当たり人口を使い、邪馬台国の人口を推定したことがあります。

関連し、それを修正する意味で、今回は邪馬台国の人口を再検討します。

まず、文化庁の参考資料(2012): 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数を用い、前回指摘の「弥生時代1遺跡数当たり人口は18人」を使いますと、九州各県の弥生時代人口は下表のとおりです。

九州各県の弥生時代遺跡数と人口

魏志倭人伝の内容から、邪馬台国連合の範囲は福岡県、佐賀県、長崎県、そして対立していた南部の狗奴国は熊本県当たり、また、南へ水行20日の投馬国は宮崎当たり、と予想されます。

また、戸数は、魏志倭人伝の情報では、邪馬台国7万、奴国は2万、その他周辺国約6万としますと、邪馬台国連合は戸数15万と予想されます。一方、投馬国は5万となっています。次に、これらの国の人口、戸数、1戸当たり人口をまとめますと、下表のとおりです。

邪馬台国連合、狗奴国、投馬国の一戸当たり人口

この表から、1戸当たり人口は、邪馬台国連合で0.5人、投馬国で0.6人となります。当時の1戸当たり人口は5~6名程度と予想されますので、この0.5~0.6人という数値は実態と合っていません。すなわち、実態の戸数が10倍に誇張され報告されていたことになります。

そこで、この誇張の理由について調べますと、多くの指摘がありますが、まとめますと次のような感じかと思われます。

まず、邪馬台国ですが、自国を大きく見せ、魏の支援を得るために人口(戸数)を誇張して魏の使者に報告した。

一方、魏ですが、当時、魏は南部の呉と対立しており、そのため、倭国など南方の国々を魏の味方に付けようとして倭国に使者を送った。倭国の人口(実は誇張)は魏の使者には「大国」に見えるため、その目的に合致しており、そのまま報告し、魏志倭人伝に記述されるに至った。

そして、従来のこれらの指摘は矛盾が少なく当たっていると思われます。そして、今回の指摘では、さらに踏み込み、人口が10倍に誇張されていたことになります。この10倍という誇張は、いかにも誇張らしく、本当かもしれません。

関連し、当時の状況を、上トップに示しました。



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[ 2020/01/05 09:13 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(2)

邪馬台国はどこにあったのか


邪馬台国はどこにあったのか(古代史の問題)

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

拙ブログは、2017年4月に始まりましたので、今年は4年目に入ります。記事アップ数は300回を越え、ブログ「日本人の縄文思想と稲作のルーツ」の目標としているところについては、ほぼ書き終えた感じがします。そこで、これからは、さらに内容を豊かにし、そのエッセンスについては書籍化を目指したいところです。

一方、昨年の新年の挨拶では、令和元年に因み、邪馬台国の所在地論争の決着を期待しましたが、残念な結果になりました。奈良(大和)に邪馬台国があったという説は破たんしておりますが、それを認めようとしない人たちがなんと多いことか(笑)、これは簡単ではないと感じたしだいです。

この問題は、古代史が教科書などに事実に基づいて記されているのかと関係しており、深刻で重要な課題です。そこで、今年は、この問題を引き続き検討して行きたいと思っています。関連し、拙ブログで特に検討したい課題は、次の6点です。

1. 水田稲作の始まりで人口が増え始める時期は、奈良の地域で2200年前、一方、北九州は2900年前であるが、この700年の差異をどう見るのか。

2. 魏志倭人伝では、倭人は分身(入れ墨)をしていて海南島の人達に似ているとあるが、奈良説ではそうした倭人社会の様子を説明できていない。

3. 中国に朝貢するには文書が必要であり、関連し、北九州奴国の遺跡で硯が発見されている。一方、奈良説では硯など文書があったことを証明するものがまったく無い。調べると、ヤマト政権で文字が使われるようになったのは継体王(在位:507-531年)からである。

4. 継体王以前のヤマト政権の王については証明する王宮跡等の物的証拠がまったく無い。すなわち、物的証拠のない歴史となっているが、これで良いのか。

5. 北九州の倭国の存在については、中国、高句麗、百済、新羅の歴史書や遺跡に残されている。しかし、ヤマト政権の歴史書(記紀)では北九州倭国の存在を無視しているが、これで良いのか。

6. 北九州では、大宰府に条里制に基づいた都(倭京)が5世紀(430年頃)に建造されたことが炭素同位体年代推定で明らかになっている。一方、大和政権の都は7世紀末(694年)の藤原京からである。倭京を無視しても良いのか。


アケビの実

なお、上の写真は、縄文思想に因んで、自給自足の菜園を楽しんでいる我が菜園の様子で、縄文人も食べていたアケビです。たいへん甘くてジュウシイ、美味しいです。

一方、下の写真はクコです。不老長寿の薬草をもとめて中国の徐福が日本に来たという徐福伝説がありますが、クコは、その不老長寿の薬草ではないかとも言われています。

小生は、それを集め、乾燥させ、クコ茶にして飲んでおりますが、その薬草効果なのか、ここ10年はカゼひかずです(笑)。今年も、こう行きたいところです。


クコの実


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[ 2020/01/01 07:45 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(10)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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