日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる [2020/02/29]
海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた [2020/02/24]
最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正 [2020/02/19]
懐かしいアフリカの古民家レストラン [2020/02/14]
新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行 [2020/02/10]
継体王時代の各王国の人口と力関係 [2020/02/05]
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朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる
朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる
(日本人のルーツ)
最近のDNA情報で、日本人のモンゴル系の割合は10%でなく5%程度であることを前々回紹介しました。
一方、朝鮮半島の民族はツングース系であることが知られております。ツングース系のルーツは満州(中国東北部)で、モンゴル系と中国系の混合混血から生まれた民族ですが、日本へは、これら朝鮮半島のツングース系が移住してきたことになります。詳しくは「
北方系民族故郷の満州とツングース
」を参照願います。
また、拙ブログでは、「
ツングース系の人達は日本人の30%になった
」と紹介したことがありますが、これは前々回報告で25%に変更しました。
また、朝鮮半島には、日本人と同じくマレー系の人々が30%ほどいます。彼らは水田稲作を導入したマレー系の人々でツングース系ではありませんが、現在は朝鮮語を話し、朝鮮半島の人々の一部となっています。
今回は、新情報を基に、日本に来た朝鮮半島の人々の割合について愚行します。
まず、最近の朝鮮半島民族のY染色体ハプログループの割合(%)は下表のとおりです。なお、Wikipedia情報にはデータ数(サンプル数)が少ない問題がありますので、前回紹介の「
Y染色体で探る日本人の起源
」のデータも入れました。
そして、この表をもとに、日本と朝鮮半島におけるツングース系の「モンゴル系:中国系」の割合を計算しますと下表の通りです。
サンプル数の大きいデータ(Y染色体で探る日本人の起源)で見ますと、「モンゴル系:中国系」は、日本で1:3.5、朝鮮半島で1:3.6です。すなわち、日本と朝鮮半島の値がほぼ同じで、サンプル数の少ない他のデータも、これに準じた結果となっております。
ツングース系民族はモンゴル人と中国人の混合混血民族ですが、以上の結果は、その割合が同じことから観て、日本に来たツングース系民族は朝鮮半島の人々とほぼ同じであったと思われます。
一方、朝鮮半島にはマレー系民族もいて、これらの人々がツングース系と同じように日本に来た可能性があります。このことについて検討しますと、次のように考えられます。
前回、朝鮮半島と日本に、マレー系は、稲作系のマレー系Bと海洋系のマレー系Aが居たことを紹介しました。マレー系Bは、韓国に20%、日本に10%ほど居ますが、水田稲作を持ち込んだグループと思われます。
この理由として、日本と朝鮮半島の稲作開始時期が3000年前であり、ほぼ同時に始まったことが考えられます。そして、水田稲作農民は一度定着すると基本的に定住する傾向があることから、朝鮮半島のマレー系Bは日本へは移住して来なかった可能性が高いと思われます。
一方、マレー系Aは、韓国で10%、日本に20%ですが、前回紹介のように縄文時代から日本に居たことから、朝鮮半島から移住してきたというより、日本で増殖し、海洋交易の関係で、一部が朝鮮半島に移住した可能性があり、どちらとも言えません。
また、古代国家「百済」が水田稲作地帯にあったことから、マレー系は後の「百済国」の主要民族であったと思われます。そして、マレー系民族の国「百済」が660年に滅びたとき、多数の難民が日本に移住してきたという説がありますが、日本に亡命してきたのは記録によれば2千余人とあり、数万人というような多数でなかったようです。詳しくは「
百済亡命移民は何故東国に移されたのか
」 を参照願います。
まとめますと、朝鮮半島から日本へ来た人々にマレー系は少なく、ツングース系が主役で、その割合25%だった思われます。
ツングース系25%を大きいと見るか小さいと見るか微妙な数字ですが、先に指摘しましたように、彼らは7000年前の縄文時代から来ています。しかし、少しずつ来たため、日本語への影響は小さかったと思われます。一方、その生業であります畑作は、日本に無かったものであり、影響が大きかったと思われます。
なお、ツングース系の日本移住については「
縄文時代から高身長の人は居た
」および「
弥生時代における畑作のルーツ愚考
」も参照願います。
日本史ランキング
[ 2020/02/29 22:48 ]
日本人のルーツ
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海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた
海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた
(日本人のルーツ)
前回、最近のY染色体ハプログループ情報について紹介しました。そして、日本に渡来してきたマレー系には、マレー系A(日本に多)とマレー系B(朝鮮半島に多)の2種あることを紹介しました。
また、拙ブログでは、マレー系は海洋系かつ稲作民族であることを紹介してきました。詳しくは「
マレー系民族の日本文化への大いなる影響
」を参照願います。
関連し、今回は、「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」について愚行します。
なお、マレー系Aですが、正式にはO1b2a1a1(別名O1b2-47Z)で、日本にだけ多いマレー系の系統です。
一方、マレー系Bですが、正式には、マレー系Aを除くO1b2グループになります。このグループは朝鮮半島に多い結果になっています。(前回資料参照)
これらのハプログループと関連し、「
Y染色体で探る日本人の起源 3.日本人の構成
」は、データが大きく大変参考になります。そのデータの一部を下表に示しました。
以上の情報を整理しますと、拙ブログのこれまでの検討から、マレー系2種は、縄文時代に来た海洋系(実はマレー系A)と、弥生時代に来た稲作系(実はマレー系B)であったことが予想されます。そして、マレー系の日本移住については次のようなストーリイが考えられます。
まず、マレー系の祖先のO1bグループですが、スンダランド(現インドネシア)で発生したと思われます。詳しくは「
マレー系民族の日本への道
」を参照願います。
そして、O1b1グループは東南アジア方面に広がりました。
一方、O1b2グループは中国の海岸を北上し江南地方で稲作を始めました。そして、その中の1系統(マレー系A)だけが先に日本に向かい広がったと思われます。
その理由は簡単です。O1b2グループにいくつかの系統ありますが、マレー系Aはその中の1系統だけですので、先に来た可能性は大です。
日本に来た時期は、1.4万年前の鹿児島の稲プラントオパール遺跡から観て1.4万年前以上と思われます。この稲は陸稲ですので、水田をベースにした稲作系とは違います。このため、彼らは、日本先住民族のアイヌ系と混血し、縄文人となりました。詳しくは「
稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか
」lを参照願います。
また、彼らの主食のタロイモ(サトイモ)ですが、ブログ仲間の最新記事「
日本神話の源流(10)~タロイモは語る」
によりますと、5000年前頃には伝わっていたようです。タロイモは東南アジアがルーツでマレー系民族の主食であること、そして導入された時期から想像しますと、これもマレー系Aによって日本へ持ち込まれた可能性があります。
マレー系民族は海洋系民族であることから想像しますと、おそらく、その航海能力を生かし、5000年前の三内丸山遺跡時代の海洋交易は彼らが担った可能性が高く、そして、後の海人の祖先となった可能性も高いと思われます。詳しくは「
マレー系民族の優れた航海術
」および「
鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考
」を参照願います。
関連し、上の表で、マレー系Aは、縄文時代に栄えた関東と東北で多い傾向があります。
次いで、朝鮮半島南部と北九州に水田稲作民族のマレー系Bが3000年前に到着しました。それ以前、彼らは、江南地方で水田稲作を行い発展し、後に中国南部に越国を建設しました。彼らは、さらに一部は北上し、朝鮮半島南部と北九州に水田稲作技術を普及させたと思われます。
しかし、北九州に来た彼らは日本人の10%で、人数も少なく、また水田稲作をするための鉄器も少なく普及は北九州だけに留まりした。この結果、日本全体への水田稲作普及は700年遅れたのが真相と思われます。詳しくは「
水田稲作は鉄器導入が早かった北九州だけが先行した
」を参照願います。
以上の結果、水田稲作民族のマレー系Bは、朝鮮半島で多い結果となりましたが、日本では、先に来ていた海洋系民族のマレー系Aが20%と多く居た関係から、後に来た水田稲作系マレー系Bは10%で相対的に少なくなったものと思われます。
関連し、マレー系の日本への移住について上トップ図に示しました。
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[ 2020/02/24 19:36 ]
日本人のルーツ
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最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正
最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正
(日本人のルーツ)
日本人のルーツについては、Y染色体ハプログループ分類が分かりやすく、拙ブログでも利用しているところです。
例えば、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系が20%、モンゴル系が10%、その他5%としてきました。詳しくは「
日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血
」を参照願います。
また、朝鮮半島先住民族ですが、モンゴル人と中国人の混合混血民族のツングース系で、日本に移住してきた割合は日本人の30%(中国系+モンゴル系)としてきました。詳しくは「
北方系民族故郷の満州とツングース
」を参照願います。
以上の記事は、5年以上前のウェブ情報を基にしていました。しかし、最近、DNA情報は5年前よりも細かく分類されるようになってきました。
関連し、今回は、最近のDNA情報をもとに、5年前との違いについて検討し、従来の知見を修正します。
まず、最近のWikipedia情報ですが、「
日本人のDNA情報
」をもとに整理編集しますと上表のとおりです。
この表で、従来の知見(拙ブログの過去情報)との違いは次のとおりです。
1. ハプログループCはモンゴル系としていたが、C1が追加され、モンゴル系はC2となった。そこで新C1グループですが、パプアニューギニア地域に仲間が多く居ることが分かっていています。そこで、C1はパプア系と拙ブログでは呼ぶことにします。
2. アイヌ系はDとしていたが、D1a2になった
3. マレー系はO1bとしていたが、O1bグループは、O1b1(東南アジアに多)とO1b2(東アジアに多)に分けられた。そして、O1b2は、O1b2A(マレー系A、日本に多)とO1b2B(マレー系B、朝鮮半島に多)に分けられた。
次に、大きな修正点ですが、C(モンゴル系)がC1(パプア系)とC2(モンゴル系)に分かれたことから、モンゴル系割合が少なくなりました。この結果、ツングース系(モンゴル系+中国系)割合も減ることになります。
上の表で、日本人のツングース系(モンゴル系+中国系)割合は、日本人(1)データでは20%(3.0+16.7)、日本人(2)データでは26%(6.1+19.7)になります。
一方、C1(パプア系)ですが、パプア系が日本に来たことについては「
パプアニューギニア系の人々と日本人
」で紹介したことがあります。最近の情報で、彼らが日本に2~5%ほど居ることが確認された感じです。
結論として、新情報では、5%単位で観ますと、
日本人は、アイヌ系(D1a2)が35%、マレー系(O1b)が30%、中国系(2)が20%、モンゴル系(C2)が5%、パプア系(C1)が5%、その他が5%、となります。
なお、その他5%には、台湾に多いフイリピン系(O1a)、韓国に比較的多いチベット系(N)、シベリアからアメリカに渡る過程で日本に来たケット人(Q)等になります。
次回は、日本に来たマレー系の真相に迫ります。
DNA研究、Y染色体ハプログループ分類とは
?
参考までに、Y染色体ハプログループ分類について、初めての人のために紹介しますと、次のような感じです。
男性か女性を決める染色体にXとYがあります。XYが男性、XXが女性になるわけですが、Y染色体は男性にだけあり、父親から男の子供に引き継がれることになりますので、そのY染色体をたどると父親のルーツが分かることになります。
このY染色体は、巨大なDNA配列の塊からできておりますのでそのDNAの配列から種類を細かく分類でき、人類の祖先のDNAを分類するのに最適と言われております。
たとえば、Y染色体ハプログループがD1a型ですと、それはアイヌに多い型ですので、その人の男親のルーツはアイヌ系となります。そして、このD1a型という分類は、10万年経過しても、マイナー変化はありますが、D1a型のままで変わることはありません。
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[ 2020/02/19 20:12 ]
日本人のルーツ
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懐かしいアフリカの古民家レストラン
懐かしいアフリカの古民家レストラン
(アフリカと日本人)
ブログ訪問者の記事をみていたら、「
古民家
」という記事で、魅力的な「古民家カフェ」が紹介されておりました。
その記事を見て、懐かしい日本だけでなく、10年前、西アフリカのベナン国に居たときの古民家レストランを思い出してしまいました。
そこで、古民家カフェに因んでその思い出をコメントしたところ、「アフリカの古民家カフェっというのは気になりますね。どんなだろう?」というコメント回答がありました。
関連し、閑話休題になりますが、今回は、そのコメント返しのための記事として「懐かしいアフリカの古民家レストラン」を紹介します。
まず、上の写真は、そのアフリカの古民家レストランです。日本風に言えばカヤぶきという感じでしょうか。暑いなか涼しげな感じです。中は薄暗い土壁になっていて、入り口と反対側と天井のすそだけが空いているという質素な作りです。
中で食べたのは、ヤンピレー餅という西アフリカで最も美味しい現地料理です。餅の原料はヤム芋で、日本のサトイモのような感じです。下の写真はその料理で、白いヤンピレー餅とヒツジの肉が見えます。
この餅を独特のカレー風スープ味で食べますが、柔らかく味があり、大変美味しいです。ヒツジやウシの肉を添えますが、最高の御ちそうは野ネズミ(アグチ)の肉だと言います。小生も食べましたが、豚肉と鶏肉の中間の味で、柔らかく美味しいと思いました。詳しくは「
美味しそうな野ネズミ
」を参照願います。
下の写真は、レストランの奥での餅つき風景です。注文があるたびにするようですが、おばちゃん達が座ってする餅つきはのんびりしたものです(笑)。
また、下の写真は別の場所の餅つき風景です。こちらは若い女性たちが立ってついており、雰囲気は日本の餅つきと変わりありません。
下の地図は、ベナン国の場所で、紹介したレストランは北西部にあるロコサという田舎町にありました。そこには、現地試験圃場があり、たびたび訪れ、楽しみはヤンピレー餅昼食だったのを懐かしく思い出しています。
関連し、有名な野口英世ですが、ベナン国左側にありますガーナという国で、アフリカ黄熱病の研究に命を捧げました。
なお、このようなアフリカ記事に興味のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリ欄の「アフリカと日本人」をクリックしますと今までの記事を見ることができます。
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[ 2020/02/14 16:46 ]
未分類
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新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行
新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行
(西日本の古代)
前回、畿内地域の新リーダーとなった継体王(在位:507-531年)の勢力範囲について検討しました。関連し、今回は、新リーダーと旧勢力との関係について愚行します。
なお、継体王を継体天皇と呼称している場合がありますが、天皇という呼称は後の天武天皇からのこと、天武天皇以前の王は支配地域が小さく天皇と呼称するには問題もあることから、拙ブログでは、そのときの状態を優先し継体王と呼称しています。
さて、前回紹介の「継体天皇と即位の謎」によれば、継体王は福井出身で、その支配地域は、愛知、岐阜、滋賀、大阪当たりだったようです。そして、王宮ですが、大和(奈良)に置かず、大阪に置きました。大和に入らなかったのは、反対勢力があったなど諸説ありますが、記紀に記されていることは曖昧で何とも言えません。
また、継体王は、畿内政権では初めて百済と外交関係を持ち、百済から五経博士を受け入れ文書部を作り、最初に文字を導入した政権でした。また、地方支配の制度として「国造」(後の国司)の制度を作ったことが知られております。
以上の支配地域や外交関係から推察しますと、大阪は、支配地域に近いだけでなく、港があり、百済との外交の場としても執行し易い場所だったと思われます。詳しくは「
継体王、小さな王宮、初代天皇か
」を参照願います。
以上の状況から新リーダー継体王と旧来勢力の関係について愚行しますと次のような感じかと思われます。
1. 大和(奈良)との関係
大和は、地理的に日本の中心と思われる。このため、日本を支配しようとした王が巨大王墓をいくつも作った歴史がある。しかし、巨大古墳建造の結果、民衆は離反し、現在は強い王も居ない。そのうち何もせずとも継体王の支配下に入る地域と思われる。
2. 吉備との関係
吉備は西の中心地であり、ここの協力無しには中国地域の支配はできない。昔と違い、現在は、我が国の方が大きくなっている。「国造」(地域の王)の役職で日本統一に協力してもらおう。また出雲攻略にも協力してもらおう。
3. 出雲との関係
出雲は最近大きくなってきた地域で、新羅の後ろ盾もあるようだ。しかし、我が方は、新羅よりも強い百済と外交関係があり、かつ国力も明らかに大きい。吉備と連合して攻めると脅かし、出雲と同じく「国造」の役職で日本統一に協力してもらおう。
4. 倭国との関係
倭国は古くからある国、「国造」の役職で日本統一に協力してもらえれば良いが、戦いもやむをえまい。そして、実際に知られているのが、倭国の磐井王と継体王の戦い「磐井の乱」(527年)です。詳しくは「
倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係
」を参照願います。
まとめますと、継体王は、東海、北陸、近畿にまたがる地域を支配した最初の大王と思われます。その地域の人口は、当時先進国だった倭国と同等以上でした。また、朝鮮半島の強国だった百済と外交関係を持ち、百済を参考に「国造」など地方管理制度も作りました。こうした力を背景に、大和、吉備、出雲を支配し、日本統一の先駆けとなったと思われます。
そして、倭国とは527年に戦い、決着は付かず、日本統一は、倭国が「白村江の戦い」(663年)で唐軍に敗れ滅びた後に実現したことになります。詳しくは「
白村江の戦いの真実、日本書紀は創作
」を参照願います。
関連し、継体王時代のそれぞれの国の人口と対立関係を上トップ図に示しました。
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[ 2020/02/10 08:00 ]
西日本の古代
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継体王時代の各王国の人口と力関係
継体王時代の各王国の人口と力関係
(西日本の古代)
前回、出雲の人々のルーツについて検討しましたが、出雲は小国だったため畿内政権に取り込まれたと推定しました。
一方、拙ブログでは、実在する畿内政権(ヤマト王権)は継体王(在位:507-531年)からと観ています。詳しくは「
継体王より前の天皇は創作か
」を参照願います。
そして、記紀に出雲国と畿内政権の戦いは記載されていないことから想像しますと、出雲国が畿内政権に取り組まれたのは、その継体王時代と思われます。
関連し、今回は、継体王時代の各地域の人口を推定し、出雲国など各王国の力関係について愚行します。
人口推定はいつもの通りです。すなわち、「
文化庁の参考資料(2012): 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数
」を用い、1遺跡数当たり人口、すなわち、縄文時代は8人、弥生時代は18人、古墳時代は129人を使います。詳しくは「
古代人口推定は改訂が必要だ
」を参照願います。
まず、使ったデータは下表のとおりです。
ここでは、地域分類として、継体王支配地域は愛知県、岐阜県、福井県、滋賀県、京都府、大阪府としました。その根拠として、「継体天皇と即位の謎」(大橋信弥 2007、下記写真参照)を参考にしました。また、継体王は王宮を大阪の地に置きましたが、大和には根拠がなかったようですので奈良(大和)は入れませんでした。
なお、奈良の旧勢力も継体王に最後は取り込まれたと思われますが、明確になっていませんので、今回はこれでいきます。
その他の地域分類は従来どおりです(上表参照)。
そして、計算された人口は下表の通りです。
この表を基に人口変動を示しますと、下図の通りです。この図から継体王時代(520年頃)の人口を推定し、結果を上トップ図に示しました。
以上の図表から、継体王時代の人口は、継体王地域で24万人、となりの大和は5万人、出雲は12万人、吉備は16万人、倭国は24万人です。
そして、出雲が畿内政権の継体王と戦わなかった理由ですが、出雲は小国であり、無駄な戦いはしなかったのが最大の理由と思われます。因みに、出雲は人口が12万人、継体地域は24万人です。
また、ブログ仲間の記事「
大和の出雲攻略ルート
」によれば、3本の出雲攻略ルートがあり、2本は吉備国を通る道です。
このことは、16万人の吉備国は畿内政権に先に取り込まれていたことを示唆します。もし畿内政権と吉備国が連合していたとなると、出雲国の勝つ見込みはわずかです。すなわち、出雲は戦わずして畿内政権に取り込まれていったという説が有力となります。
これらのことについては、次回さらに検討します。
日本史ランキング
[ 2020/02/05 08:27 ]
西日本の古代
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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