日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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月別アーカイブ [ 2020年03月 ]
日本の古代国家には2系統があった [2020/03/30]
天孫降臨神話ルーツ愚考 [2020/03/24]
日本は2000年にわたり一つの民族か [2020/03/19]
天皇家ルーツの解明と古代史俗説の再検討 [2020/03/14]
天皇家のルーツはアイヌ系の継体王 [2020/03/09]
各民族はいつ頃日本に来たのか [2020/03/04]
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日本の古代国家には2系統があった
日本の古代国家には2系統があった
(記事まとめ)
拙ブログでは、北九州には1世紀には奴国に始まるマレー系民族の倭国があったこと、一方、北九州以外の西日本には、6世紀にアイヌ系が主体と思われる継体王による畿内政権が生まれたことを検討してきました。
また、「
古代の朝鮮半島には2種の民族が居た
」ことについても紹介してきました。
関連し、今回は、記事まとめとして、朝鮮半島と同じように「日本の古代国家には2系統があった」について愚行します。なお、それらの2系統は稲作のマレー系の系統とアイヌ系を主体とした系統です。
まず、国家の定義ですが、行政組織と外交があることと思われます。
この意味で、日本の最初の国家は北九州にあった奴国と思われます。ついで北九州に邪馬台国が登場します。邪馬台国は奴国を含めた連合国家ですが、人口が増え、より本格的な政権ができたと思われます。
続いて倭の五王の時代が現れます。都は大宰府と推定されていますが、この都は中国の都を模した条里制であり、本格的な国家だったと思われます。しかも、同胞のマレー系の百済と連合し北の高句麗と戦い、中国南朝から「
新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事を司る鎮東大将軍
」 とう称号を得て、朝鮮半島南部から北九州を支配したことが分かっています。
そこで、倭国はなぜ朝鮮半島に行き高句麗と戦ったのか、何故、日本統一の事業をしなかったのかという疑問が残りますが、それは次のように理解されます。
それは倭国の民族の特徴と思われます。すなわち、倭国は稲作マレー系民族の国です。おそらくマレー語が話されていたことが北九州の方言から推察されます。詳しくは「
マレー系民族の日本文化への大いなる影響
」を参照願います。
また、一方、朝鮮半島には同胞の百済があり、そちらの結びつきが強かったと思われます。因みに、百済は稲作民族国家であり、マレー系民族の朝鮮半島の中心地でした。
関連し、百済(くだら)の読み方です。百済を「Kudara」と一般に読めないと言われます。そこで拙ブログで明らかにしたことですが、Kudaraはマレー語で同胞の意味があります。おそらく倭国の人たちもマレー系民族であり、同じ仲間の百済の人々をKudara(同胞)と呼んでいたため、百済をKudaraと呼ぶようになったと思われます。詳しくは「
古代国家「くだら」の国名由来
」を参照願います。
一方、行政組織と外交という観点から検討しますと、畿内政権では継体王(在位:507-531年)が実在した最初の王朝と観るのが妥当と思われます。継体王については、百済との外交文書など物的証拠がしっかりと確認できています。
関連し、この時代、北九州以外の西日本の地域は、言葉は現日本語に近いアイヌ系言語だったと想像されます。このため、それらの地域はマレー語と異なる文化地帯であり、マレー系倭国は興味を持たなかった地域だったと思われます。
大和政権は継体王(在位:507-531年)から始まりましたが、北九州の倭国とは民族の違いから対立を続け、倭国が百済を救うために唐と戦い白村江の戦い(663年)で敗れた時に滅ぼしてしまいました。詳しくは「
白村江の戦いの真実、日本書紀は創作
」を参照願います。
そして、倭国の存在は後の日本書紀と古事記(記紀)では無視され、大和政権だけがもともとあったというふうに歴史が改竄(かいざん)されてしまったのが真相と思われます。
以上のことから、邪馬台国はマレー系民族が北九州に作った国であり、一方、大和政権は、天孫降臨伝説から推定されますようにツングース系影響の濃い政権であります。そして、朝鮮半島のマレー系百済とツングース系新羅のように、両者は戦い、倭国は敗れ大和政権が勝ち残ったことになります。
関連し、倭国全盛時代(倭の武王時代、5世紀)の様子を上トップ図に、倭国が滅びたとき(7世紀後半)の様子を下図に示しました。
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[ 2020/03/30 10:29 ]
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天孫降臨神話ルーツ愚考
天孫降臨神話ルーツ愚考
(西日本の古代)
拙ブログでは、朝鮮半島古代には、稲作マレー系「百済」と畑作ツングース系「新羅」の2系統があったことを紹介してきました。
一方、大和政権の創った記紀に天孫降臨神話があります。これは多くの学者が指摘していますように大陸由来、すなわち、ツングース系の高句麗や新羅(朝鮮半島)に由来する神話です。
関連し、今回は「天孫降臨神話のルーツ」、そして、大和政権はツングース系側と思われることについて愚考します。
大和政権はツングース系側と思われる理由は次の5点です。
1.日本は、倭国が北九州に先に建国され、これは百済と同じマレー系民族の国家でした。詳しくは「
古代の朝鮮半島には2種の民族が居た
」を参照願います。
これに対抗したのが、アイヌ系中心の西日本の国々でした。大和政権が事実上始まったのは継体王(在位:507-531年)からですが、出雲と吉備が協力していました。詳しくは「
日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡
」を参照願います。
2.歴史的に同民族マレー系の百済を支援してきた北九州の倭国は、白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗退しました。この結果、朝鮮半島では、百済が滅びツングース系新羅は朝鮮半島の統一に成功しました。一方、日本では同じく倭国が滅び、アイヌ系中心の畿内政権が北九州を含む西日本全域の統一に成功しました。
3.大和政権の事実上の最初の王は継体王(在位:507-531年)ですが、彼は福井の出身でした。福井はツングース系の多い日本海側にありは、ツングース系の影響を受けたと思われます。
また、先に紹介しましたように、同じ日本海側にある出雲は明らかにツングース系の影響を受けた国で、国譲り神話にありますように大和朝廷の日本国統一に協力しています。詳しくは「
出雲古代文化のルーツはツングース系
」を参照願います。
4.記紀には倭国の存在が抹殺されていますが、これはマレー系民族国家の否定になります。この関係は、朝鮮半島の百済と新羅の対立関係と同じで、ツングース系新羅がマレー系百済を抹殺したことと同じになります。
5.以上のことから、記紀神話を作った時代は奈良時代ですが、その直前に北九州の倭国は滅びます。そのとき、以上の背景から新羅の成功例を参考にし、天孫降臨神話を利用したと思われます。
なお、百済抹殺による新羅の朝鮮半島統一に関連し、百済系住民はどのような扱いを受けてきたのか、詳しくは「
百済民族の怨念と光州事件
」を参照願います。
以上の5点について、歴史経過をまとめますと、次の通りです。
弥生時代以降、日本には、アイヌ系等の縄文勢力、大陸由来のマレー系、朝鮮半島由来のツングース系の3民族が居ましたが、地の利を生かしマレー系が先に国家を北九州に「倭国」を作りました。
一方、アイヌ系は、縄文時代から居たマレー系とツングース系と混合混血して日本人の中心となり、倭国より遅れて統一国家を建設し、最初の王は継体王(在位:507-531年)となりました。
倭国と畿内政権(大和政権)は、国の統一をめぐり6世紀に対立しますが、決着は尽きませんでした。詳しくは「
倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係
」 を参照願います。
白村江の戦い(663年)で敗れ倭国が弱体化しますと、時の大和政権は、倭国を滅ぼし、西日本の統一をしました。倭国が滅びますと、畿内政権は強大化しました。奈良時代には、初めての都が建造され、対外関係からも、その建国理念を作る必要に迫られました。
そこで、マレー系の百済を滅ぼしたツングース系新羅を参考に、その天孫降臨神話を導入し、1民族1王朝の建国神話を創設し、倭国はその神話に合わないことから無視・抹殺となりました。
関連し、大和朝廷の導入した天孫降臨神話のルーツを上トップに示しました。
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[ 2020/03/24 12:21 ]
西日本の古代
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日本は2000年にわたり一つの民族か
日本は2000年にわたり一つの民族か
(古代史の問題)
東京新聞1月記事(2020.1.14 2面)に、麻生氏また失言「日本2000年にわたり一つの民族、一つの王朝」という小記事が載っていました(上記新聞コピー参照)。
また、反響が大きかったのか、翌日の東京新聞(2020.1.15 2面)では、「麻生氏妄言いつまで」の見出しで、さらに大きな批判記事が出ていました(下記新聞コピー参照)。
こうした保守政治家の発言は時々耳にしますが、この発言は、戦前に作られた日本古代史の虚構そのもので、戦前の歴史観が戦後75年過ぎても変えられていない問題です。この問題は大きく、拙ブログでも検討してきたところです。詳しくは「
日本の古代史は戦前と変っていない
」 を参照願います。
関連し、今回は、この麻生氏の発言が事実と合っているのか検討します。
まず、東京新聞(2020.1.14 2面)の記事は次のとおりです。
昨年4月に法律として初めてアイヌを「先住民族」と明記した「アイヌ民族支援法」が成立しており、麻生氏の発言は不適切との批判を浴びる可能性がある。
(引用終了)
東京新聞の指摘「アイヌ民族も居て日本が一つの民族とは言えない」はそのとおりですが、拙ブログで問題にしたいのは、「日本2000年にわたり一つの民族」の「2000年」の部分です。
拙ブログで何度も指摘していることですが、現天皇の政権は、継体王(在位:507-531年)からです。継体王の前の王(天皇)が記紀に記されておりますが、物的証拠はなく存在は確認されていません。詳しくは「
日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡
」を参照願います。
また、最近のDNA情報(Y染色体ハプログループ分類)によれば、天皇のルーツで確認できるのは継体王までで、それ以前の天皇については子孫が確認されていません。詳しくは前々回の報告を参照願います。
また、日本は遣隋使を中国に派遣し、「日本」という国名を使いましたが、日本の地域は、奈良時代直前まで、関東は含まれていません。関東・東北も含めて日本と言われるようになったのは、蝦夷の英雄アテルイが802年に降伏し東北の抵抗がなくなった平安時代初期(9世紀)からです。詳しくは「
毛人の国愚考(アイヌ系と日本人)
」を参照願います。
これらのことから、琉球地域と北海道を除く地域が日本になったのは約1200年前からです。
また、日本人のルーツですが、これも何度も指摘していることですが、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系が25%、その他10%です。詳しくは「
最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正
」を参照願います。
これらの民族が日本に居住し始めたときは、言葉は違います。とても一つの民族とは言えません。
そこで、これらの民族が混合混血し、何時頃、現日本語に近い言葉が生まれ一つの民族になったかですが、平仮名やカタカナ表記が生まれ、発音が文字化したときが始まりと思われます。それも平安時代と思われますが、詳しくは「
日本語のルーツはアイヌ語とマレー語
」を参照願います。
以上の最近の資料から判断しますと、麻生氏の「日本2000年にわたり一つの民族、一つの王朝」は、残念ながら史実と異なり、東京新聞指摘のとおり「妄言」になります。
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[ 2020/03/19 10:03 ]
古代史の問題
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天皇家ルーツの解明と古代史俗説の再検討
天皇家ルーツの解明と古代史俗説の再検討
(天皇家のルーツと日本文化)
前回、日本建国のリーダー(天皇家)がアイヌ系の継体王であったことを紹介しましたが、このことは古代史の闇に光をあてました。
関連し、今回は、下記3点の俗説の問題を指摘します。
1. 稲作民族の弥生人が弥生時代の主人公となり、その後、日本の支配者になった。
これは間違いです。
事実は、縄文由来のアイヌ系を中心とする日本人が、北九州で始まった水田稲作を受け入れ、弥生時代を発展させ、古代国家を作ったことになります。
なお、稲作を導入した民族はマレー系ですが、彼らは、朝鮮半島のマレー系と同じマレー系Bで、割合は日本人の10%と推察されます。詳しくは前々回の報告を参照願います。
その水田稲作ですが、3000年前頃に北九州だけに広がり、日本全体には700年遅れの2300年前頃普及しました。詳しくは「
水田稲作開始は鉄器導入と一致する
」を参照願います。
2. 稲作民族が弥生時代に渡来してきた結果、先住民族のアイヌ系は北方と南方に追いやられた。
これも間違いです。
事実は、アイヌ系の人びとは、南方由来マレー系や北方由来ツングース系と縄文時代に混合混血し、日本人となり、古代国家の中心民族となり、日本語のルーツもアイヌ語になったと結論されます。詳しくは、前回報告を参照願います。
3. 騎馬民族が来て日本の支配者になった。
これも間違いになります。
騎馬民族と思われるツングース系の人びとは、朝鮮半島から移住してきましたが、アイヌ系民族と混合混血し、日本人になりました。リーダーになった人々は居たと思われますが、日本の支配者とはなっていません。
なお、彼らは、朝鮮半島から鉄器と畑作を導入しました。彼らツングース系の割合は25%になりますが、縄文時代から来ており、実際に弥生時代や古墳時代に来た割合は10%程度と思われます。詳しくは「
朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる
」 を参照願います。
関連し、アイヌ系の大王「継体王」がリーダーになった状況を上トップ図に示しました。
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[ 2020/03/14 12:39 ]
天皇家のルーツと日本文化
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天皇家のルーツはアイヌ系の継体王
天皇家のルーツはアイヌ系の継体王
(天皇家のルーツと日本文化)
これまで日本人のルーツについて検討してきました。
そして、最近のDNA情報(Y染色体ハプログループ分類)によれば、天皇家のルーツはアイヌ系という結果が出ております。
関連し、今回は、その結果について愚行します。
まず、「
有名人のハプログループ」の「Y染色体D1a2a1b系統
」によれば、現天皇の祖先「継体王」(在位:507-531年)の男性子孫のY染色体ハプログループはD1a2a1であり、アイヌ系(D1a2)です。
調べられた有名人は、聖徳太子、桓武天皇(在位:737-806年)、東山天皇(在位:1675-1710年)、後村上天皇(在位:1328-1368年)、近衞文麿(1891-1945)等の男性子孫です。これら子孫のY染色体ハプログループは、すべてがD1a2a1bであることが判明しました(上図参照)。
以上の結果から想像しますと、継体王(天皇)のY染色体ハプログループはD1a2a1b(アイヌ系)で、ほぼ間違いないと思われます。
一方、継体王より前の天皇、すなわち記紀にある神武天皇由来の天皇の子孫ですが、情報が少なく、不明です。Y染色体ハプログループ分類のための子孫がまったく見つかっていないのです。
継体王より前の天皇の子孫がまったく見つかっていないということは、拙ブログで指摘してきたとおり、やはり実在していなかった可能性が大になります。
次に、なぜアイヌ系の継体王がリーダーになったのかですが、前回の報告を参考にしますと、次のように推察されます。
継体王の時代、言語として3グループあったと思われます。縄文時代からのアイヌ系言語グループがほぼ全国に、稲作民族のマレー系のグループが北九州に、北方畑作民族のツングース系グループが出雲や北陸など日本海側に居ました。そして、アイヌ系言語グループは縄文時代から居た人びとで、明らかに多数派だったと思われます。
因みに、マレー系は全体として30%居ますが、前々回検討しましたように、縄文時代に来ていた海洋系のグループ20%(マレー系A)と後の弥生時代に来た水田稲作系のグループ10%(マレー系B)に分けられます。おそらく、海洋系マレー系A20%は縄文時代から居た関係から縄文人になっていましたので、言語として縄文系のアイヌ系言語グループに属していたと思われます。
また、パプア系5%ですが、彼らも古くから居る民族で縄文系と思われますので、同じくアイヌ系言語グループだったと思われます。
一方、朝鮮半島由来の畑作民族ツングース系25%ですが、縄文時代から少しずつ来ていた関係から、彼らの大半(15%)は同じくアイヌ系言語グループだったと思われます。
すなわち、当時の多数派は、言語として縄文由来のアイヌ系言語グループ(実は日本語)で、その内容はアイヌ系35%、縄文系のマレー系20%、縄文系のパプア系5%、縄文系のツングース系15%で、合計75%になります。
そこで、そうした背景で、縄文系の継体王が押され、まとめ役になったと推察されます。その結果、同様な背景をもっていた吉備国、出雲国も取り込まれていったと思われます。
一方、北九州の倭国ですが、彼らは水田稲作系のマレー系です。彼らは言葉も違います。何よりも、朝鮮半島の百済など同じマレー系と結びつきが強く、アイヌ系言語グループとは違っていて、一緒になることはありませんでした。詳しくは「
なぜ倭国は日本統一の事業をしなかったのか
」 を参照願います。
そして、継体王100年後の子孫に聖徳大使が現れ、仏教や儒教の教えを入れた「17か条の憲法」を残しましたが、その17か条トップの言葉には、仏教や儒教でなく「和」の重要性が記されております。
この「和」の精神、それは縄文思想をベースにしたものと思われますが、継体王には縄文時代人の思想があり、それが聖徳大使にも引き継がれていたのではないかと思われます。詳しくは「
聖徳太子の17条の憲法と縄文思想
」を参照願います。
また、その後の日本社会を観ますと、強大な宗教、すなわち仏教、儒教、キリスト教が日本に持ち込まれました。しかし、それらは主流とはならず、縄文時代からの自然崇拝宗教が今でも優勢です。
こうして観ると、継体王は、縄文時代からの仲間をまとめ、日本統一の先駆けとなった偉大な王に見えてきます。
DNA研究、Y染色体ハプログループ分類とは?
参考までに、Y染色体ハプログループ分類について、初めての人のために紹介しますと、次のような感じです。
男性か女性を決める染色体にXとYがあります。XYが男性、XXが女性になるわけですが、Y染色体は男性にだけあり、父親から男の子供に引き継がれることになりますので、そのY染色体をたどると父親のルーツが分かることになります。
このY染色体は、巨大なDNA配列の塊からできておりますのでそのDNAの配列から種類を細かく分類でき、人類祖先のDNAを分類するのに最適と言われております。
たとえば、Y染色体ハプログループがD1a型ですと、それはアイヌに多い型ですので、その人の男親のルーツはアイヌ系となります。そして、このD1a型という分類は、10万年経過しても、マイナー変化はありますが、D1a型のままで変わることはありません。
関連し、最初のDNAハプログループはアフリカで発生したことについては「
アイヌ系民族のルーツはアフリカ
」 を参照願います。
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[ 2020/03/09 13:25 ]
天皇家のルーツと日本文化
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各民族はいつ頃日本に来たのか
各民族はいつ頃日本に来たのか
(記事まとめ)
最近のDNA情報を基に日本人のルーツについて3回に渡って検討してきました。
今回は、まとめとして、それぞれの民族がいつ頃来たのか愚行します。
まず、人類の起源はアフリカですが、Y染色体ハプログループ調査の結果、CグループとDグループは、最初にアフリカを出たグループと言われています。
日本には10万年以上前から人類の足跡が知られておりますので、C1a1(パプア系)とD1a(アイヌ系)は、その頃から居たと想像されます。どちらが先に日本に来たかは不明です。彼らは旧石器時代と新石器時代(縄文時代)の中心民族と思われます。詳しくは「
旧石器時代の日本人は何処から来たのか
」を参照願います。
現在のY染色体ハプログループ分類で、パプア系は5%、アイヌ系は35%ですので、現在の日本人の40%は、その頃から居たことになります。
次いで、日本に来たのは、O1b2a1a1(マレー系A)と思われます。1.4万年前の稲遺跡が鹿児島で見つかっており、その頃から彼らは居たと思われます。詳しくは「
稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか
」を参照願います。
マレー系民族は小柄な特徴があります。彼らも縄文人になりましたが、縄文時代人の人骨に小柄な人が多いというのは、その影響があったと思われます。
また、マレー系民族は、インドネシアから遠くアフリカのマダガスカルまで移住したことが知られていますが、彼らは海洋系民族であり、5000年前の三内丸山時代の海洋交易の中心民族であったと思われます。詳しくは「
マレー系民族の優れた航海術
」を参照願います。
マレー系Aの割合は20%です。パプア系5%とアイヌ系35%と合わせると60%になります。彼らが縄文時代人とすると、アイヌ系が圧倒的に多数であり、日本語のルーツもアイヌ語というのは自然の流れと思われます。詳しくは「
日本語のルーツはアイヌ語とマレー語
」を参照願います。
次いで来たのはツングース系民族と思われます。彼らのルーツは満州で、モンゴル人と中国人の混合混血民族です。ツングース系民族は、モンゴル人に似て高身長の特徴があり、その特徴をもった縄文人が6000年前から居たことが分かっています。詳しくは「
縄文時代から高身長の人は居た
」を参照願います。
こうしたツングース系民族の移住は、その後も続き、彼らは日本海側の出雲、北陸、東北を中心に畑作など北方系文化を広げた中心民族だったと思われます。彼らの割合は全体として25%になりました。
最後に来たのは、水田稲作を日本に導入したマレー系Bと思われます。彼らは、当初、江南地方で水田稲作を始めたことで有名ですが、人口が増大すると北上し、朝鮮半島南西部と北九州に3000年前頃から移住し、同じく水田稲作を行い、弥生時代の先駆けとなりました。詳しくは前回の記事を参照願います。
まとめとして、彼らの移住の経路を上トップ図に、これらの関係を下表に示しました。
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[ 2020/03/04 16:31 ]
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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