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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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水田稲作3000年の画期は鉄器導入と移植技術

水田稲作の画期は鉄器導入と田植え技術


水田稲作3000年の画期は鉄器導入と移植技術(記事まとめ)

前回、4回に渡り、古代の水田稲作普及関係について検討してきました。

関連し、今回は、水田稲作について記事まとめをします。

まず、水田稲作普及の経過概略を1000年単位で上の表に示しました。その内容は下記の通りです。

水田稲作は、中国南部で7000年前以上に始まりました。詳しくは「稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか」 を参照願います。

その稲栽培法は乾田直播栽培で、まず、雨期前に野焼きなどで除草し、畑状態のところに掘り棒で穴を空け播種します。そして、雨期初期の雨で発芽し伸長してくると、水を入れます。後は、除草しながら収穫時期を待ちます。上流から流れてくる水に含まれている栄養で稲は毎年育つことができ、無肥料栽培になります。詳しくは「古代中国の稲作は鉄製農具が無くとも可能な所で行われた」を参照願います。

そして、その江南地方の水田稲作は、マレー系民族によって山東半島を経て日本にもたらされました。そのマレー系民族は、先に来ていた海洋系のマレー系Aではなく水田稲作系のマレー系Bでした。彼らは、持参した鉄器は少なく、稲作の普及は北九州だけに留まりました。詳しくは「北九州の初期水田開発は石器で行われていた」を参照願います。

用水路建設や畔作りに必要な鉄器は、朝鮮半島の慶州でBC5世紀頃から本格的に作られるようになり、それが日本にもたらされると、BC3世紀ごろから西日本の低地平野部に水田稲作が本格的に普及するようになりました。そして、関東、南東北、北陸には1世紀頃に普及していきました。詳しくは「水田稲作開始は鉄器導入と一致する」を参照願います。

一方、中山間部ですが、こちらには縄文時代から畑作が行われていました。しかし、低地で水田稲作の優秀性が認められますと、弥生時代以降、盆地の沖積地など漏水の少ない場所でも稲作が行われるようになりました。詳しくは前々回報告を参照願います。

また、青森県など北東北ですが、ここは水が冷たく稲作期間が短い問題があり、かつ、当時の乾田直播栽培では漏水のため水が温まりにくい問題があり困難でした。しかし、水と土を混ぜ泥状態にする代掻き技術が生まれますと、漏水が少なく水が温まりやすくなり、かつ移植も可能になり、北東北での稲作が可能になりました。この時期は10世紀頃と思われます。詳しくは「田植えの始まりは平安時代後期か」を参照願います。

最後に棚田稲作ですが、棚田開発は江戸時代と言われます。水田を作る平地が無くなり、最後の水田開発場所は棚田になったと言われます。

まとめますと、水田稲作の普及には、鉄器導入と移植技術の導入という技術革新が重要であったことが重要と思われます。関連し、普及ステップは6期間に分けられると思います。それは次のようです。

1. 水田稲作導入時期(BC10世紀~):北九州だけに普及
2. 鉄器農具導入時期(BC3世紀~):南九州、西日本平野部に普及
3. 関東平野部に普及(BC1世紀~);関東、南東北、北陸に普及
4. 水田稲作定着時期(2世紀~):中部地方など内陸盆地にも普及
5. 移植技術導入時期(10世紀~):北東北にも普及
6. 棚田建造時期(17世紀~)

関連し、下のマンガ絵でくつろいでいただければ幸いです。

水田稲作と猫


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[ 2020/04/29 10:39 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(0)

なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか

マダガスカルの棚田と農家


なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか(稲と鉄)

前回、低地水田稲作と高地畑作の比較を行い、水田稲作の人口増大効果が畑作の3倍程度あったこと、そして、その高地(中山間地)には、弥生時代を過ぎた古墳時代に水田稲作は広がったことを指摘しました。

一方、日本の歴史には、10世紀頃、台地にあった古代集落の消滅が指摘されています。10世紀というのは、移植栽培(田植え)が始まった頃と拙ブログで指摘している時代です。

関連し、今回は、移植技術が、高地性集落消滅と関係していることについて愚考します。

まず、高地性集落の消滅ですが、ブログ仲間記事「平安時代の鎌倉」 によれば次のとおりです。


【失われた古代集落】

日本は九州から西日本、中部地方にかけて10世紀を境に古代集落が消えるという現象が起きている。これはヤマト時代から奈良時代、平安初期にかけて繁栄した地域が9世紀から10世紀にかけてきれいさっぱりと無くなっているのだ。これは考古学的に証明されており、自然災害など、いくつかの複合的な理由はあるが中心的な理由は社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊にあるとされている。

10世紀代において集落遺跡が台地上からほぼ消えてしまう傾向は、房総半島の広い地域において共通の現象である。・・・・・(略)

関東において10世紀とは平将門の時代である。将門の乱は、集落の変遷から見ても、社会背景として在地において確実に準備されていたと見るべきなのかもしれない。(房総半島の古代集落遺跡に見る人口動態 萩原恭一)

『10世紀の古代集落の終焉の主たる要因は、在地領主層であった郡司層の没落によって、支配のくびきを離れた住民の自立しようとする欲望、有力農民の台頭などによる農民呼び込みであったといわれる。地域内での移住を繰り返していたと考えられている。(秦野市史)』

鎌倉を含め鎌倉の周辺ではこのように、古代社会の秩序が崩れ、社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊に直面していた。沖積平野の開発が進み、相模国でも台地から寒川・平塚などの平野部に中心が移って行った。鎌倉の平野部の発展もこうした背景と関連付けて考えられるのです。
(引用終了)


上の記事をまとめますと、「古代社会の秩序が崩れ、社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊に直面していた。」、が重要と思われます。すなわち、社会が変化し自由になった人たちが増えてきたことと思われます。

当時の稲作関係記録によれば、水路を作り水田を開発しても期待したほどは収量が上がらなかった場所が多かったことが伺えます。この原因は、当時の稲作は乾田直播栽培だったので、多くの場所は漏水が多く畑のようだったことが最大原因と思われます。

そこで、この問題を解決したのが移植技術と思われます。移植技術では、水と土をこねるという作業(代掻き)を移植前にしますので、漏水が少なくなり、水が温まりやすく、かつ養分流脱も少なくなり、収量が上がることが分かっております。

この生産性の高い移植技術は、労力がかかる問題がありますが、実践すれば必ず収量が上がりますので魅力的です。このため、上の引用記事のとおり、古代社会の秩序が崩れ特に自由な武士団の多くなった関東では、労力が余り、水田開発への新たな情熱が生まれたのではないかと思われます。詳しくは「田植えの始まりは平安時代後期か」を参照願います。

以上のことから、移植技術は、新しい時代の自由になった人たちに取り入れられ、その効果が認められると、日本全域に広がっていったと思われます。関連し、北東北の寒冷地でも稲作が広がったのはこの時期と思われます。

そして、上記引用記事ですが、台地にあった古代集落とは、おそらく畑作農民集落と思われます。沖積地で移植技術を伴った水田が開発されると、そこは確実に収量が期待できますので、生産性の低い畑作を捨て、低地水田に集まっていったのは自然の流れと思われます。

関連し、それまで台地の人々が低地に移住しなかった実例は「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」を参照願います。

なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、マダガスカルの水田風景です。このような棚田が形成された時期は明確でありませんが、1200年前頃と拙ブログでは想像しております。

棚田の問題は漏水ですが、代掻きし漏水を少なくする移植技術が、棚田利用を可能にしたと思われます。

マダガスカルの棚田

また、田植え技術と関連し、下のマンガ絵でくつろいでいただければ幸いです。

田植えは猫の手も借りたい(マンガ絵)


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[ 2020/04/24 11:17 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

畑作は生産性が低かったのか

中部と東海地域の弥生時代人口増大割合


畑作は生産性が低かったのか(稲と鉄)

弥生時代の特徴に、生産性の高い水田稲作の導入があったことが知られております。このため、稲作が始まると、高地(台地)の人々の多くは稲作適地の低地(平野部)に移住したと言われます。

しかし、東京の遺跡事例では、台地の人々は弥生時代になっても低地に移住しなかったことが分かりました。詳しくは「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」 を参照願います。

このことは、弥生時代、低地稲作が必ずしも魅力的でなかったこと、逆に、畑作の魅力もあったことを示唆します。

関連し、今回は、「畑作は生産性が低かったのか」について検討します。

方法は、山間地が多く水田稲作適地が少なかった地域と推定される中部地方(山梨、長野、岐阜)と、低地が多く水田稲作適地が多かったと推定される東海地方(静岡、愛知、三重)の人口増加割合を比較します。両地域は近接地域であり、比較する上での問題は少ないと判断されます。

なお、中部地域が稲作適地でなかったことは「弥生時代の関東・中部地域の水田作と畑作の割合」と「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」を参照願います。

人口推定方法は、「古代王国の人口と稲作開始時期」と同じです。

まず、基になった古代遺跡数は下表のとおりです。

中部と東海地域の古代遺跡数

この表を基に推定された人口は下表のとおりです。

中部と東海地域の古代人口(推定)

この表から、縄文時代(BC900)から弥生時代(200)への人口増加割合を計算しますと、東海地域(低地)は12~20倍、中部地域(高地)は2~6倍であり、明らかに低地で人口増大が多い結果となりました。これは明らかに、水田稲作導入の結果、低地で人口が多くなった結果と思われます。

一方、弥生時代(200)から古墳時代(750)への人口増加割合を計算しますと、東海地域(低地)は6~12倍、中部地域(高地)も6~12倍であり、地域差異は無くりました。これは、山間地でも盆地など漏水の少ない水田適地に水田が開発されていった結果と思われます。

まとめますと、弥生時代、高地では畑作が主体でしたが、古墳時代には盆地など稲作適地に水田が開発されていったと思われます。

なお、高地(中部地域、畑作)も縄文時代~弥生時代に人口増加が認められますが、その人口増加倍数を高地と低地で比較しますと、下表のとおりです。

中部と東海地域の古代人口変動

この計算値を比較しますと、高地(中部):低地(東海)=4.4倍:14.6倍=1:3.3、すなわち、畑作は水田稲作の3分の1程度の人口増加でした。これは、畑作と水田作の生産力の差異と観ることができると思われます。

一般に、水田作は連作ができること、一方、畑作はヨーロッパの三圃式農法から分かりますように3年に1回だけしか作物を作れないことから、水田作は畑作の3倍程度の生産力があると言われます。今回の古代人口増加割の数値は、そのことを偶然にも証明したと思われます。なお、詳しくは「水田稲作で人口が何故増えるのか」 を参照願います。

関連し、中部地域と東海地域の弥生時代人口増加の差異を上トップに示しました。



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[ 2020/04/19 08:59 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

北九州の初期水田開発は石器で行われていた

弥生時代ってどんな時代だったのか(書籍)


北九州の初期水田開発は石器で行われていた(稲と鉄)

前回、朝鮮半島で生産された鉄器の導入について検討しました。そして、3000年前に北九州で始まる稲作に、僅かですが南方由来の鉄が使われたと愚考しました。

一方、弥生時代の鉄について、「弥生時代ってどんな時代だったのか?」(藤尾慎一郎編 2017)に最近の情報が詳述されています。(上の写真参照)

その記事では、縄文時代の鉄器発見、すなわち、北九州の水田遺跡(福岡県の板付遺跡、佐賀県の菜畑遺跡、福岡県曲田遺跡)で鉄器の発見があったことを紹介しています。

しかし、結論として、水田稲作の始まる3000年前からの約600年は石器の段階(石器時代)としています。

これは、拙ブログの結論と同じですが、関連し、今回はさらに愚考します。

まず、弥生時代遺跡の多かった東海~西日本3県の古代人口推定値を下表に示しました。この古代人口推定方法については「古代王国の人口と稲作開始時期」を参照願います。

福岡、岡山、静岡の古代人口

まず、上の表を基に、3県の人口増加曲線を求めますと、下図のとおりです。

福岡、岡山、静岡の古代人口変動

稲作が先行した福岡の人口増加ですが、稲作が始まったと見られる3000年前から増加が認められますが、これはたいへん緩やかな増加です。

そして、鉄器導入を2300年として、それ以降の状況を見ますと、明らかに、急激な人口増大が1800年前頃(AD200年)に全ての3県で認められます。

この状況から判断しますと、鉄器導入以前は、鉄器は少量あったが不足しており、上記書籍のとおり、石器で水田を開発していた時代と思われます。このため、水路や畔の造成は容易でなく、目に見えて水田稲作が有利な状況ではなかったと判断されます。

そして、2300年前頃になり鉄器が導入されますと、水田稲作の開発が進み、新時代と言われる弥生時代が始まったと思われます。

以上のことから、3000年前に水田稲作は始まりましたが、その効果は農耕用の鉄製の鍬(すき)などが無かったため小さく、人口が飛躍的に増大し、新しい時代に入るのは鉄器導入から500年後の2世紀頃と思われます。その意味で、弥生時代という新時代も実際には2世紀頃に始まったと観ることができます。

以上のことを総合しますと、水田稲作開始(3000年前)~鉄器導入(2300年前)の時期は、弥生時代助走期と観るのがふさわしいと思われます。


 
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[ 2020/04/14 11:21 ] 未分類 | TB(-) | CM(1)

稲と鉄は別々に導入された

鉄の生産と稲普及


稲と鉄は別々に導入された(稲と鉄)

前回、海人族のルーツについて検討し、その正体は日本人の20%を占める縄文時代から居る海洋系マレー(マレー系A)であったことを指摘しました。

一方、マレー系には日本に水田稲作をもたらした稲作系マレー(マレー系B)も居たことも指摘してきました。水田稲作民族は中国江南地方から3000年前頃から来ていたことが明らかになっていますが、水田稲作には水路造成など鉄器が不可欠であることも指摘してきました。

関連し、今回は、「稲と鉄は別々に導入された」について愚行します。

まず、関連書籍に「稲作渡来民」(池橋 宏 2008 下の写真参照)があります。それには、朝鮮半島南部および九州北部の稲作は中国南部の越人によってもたらされたことが詳しく指摘されています。

稲作渡来民(書籍)

この資料と拙ブログのこれまでの指摘から、稲作民族の越人はマレー系民族で、故郷のインドネシア(もとスンダランド)を北上し、江南地方に水田稲作を広めたと思われます。そして、さらに北上し、山東半島辺りから朝鮮半島と日本に水田稲作技術を持ち込んだと思われます。

次に、日本での普及ですが、水田稲作は朝鮮半島南部とほぼ同じ時期の3000年前に北九州で始まりましたが、周囲にはすぐには広がりませんでした。

例えば、北九州の次に弥生時代遺跡の多い吉備(岡山県)ですが、水田稲作遺跡は2500年前頃から認められています。しかし、人口の増大が認められるは2200年前からです。詳しくは「古代王国の人口と稲作開始時期」を参照願います。

このすぐには普及しなかった理由として、稲作民族のマレー系が少なかったことも考えられますが、北九州以外は鉄器の導入が遅れたことが一番の要因として指摘されます。

前回紹介の「海の古代史」(布施克彦 2018)によると、朝鮮半島南東部の慶州(後の新羅の都)で紀元前3世紀頃の製鉄遺跡が見つかっていて、この地域に一大製鉄産業があったことを明らかにしています。そして、後に新羅はこの製鉄技術をベースに発展したとあります。

以上のことから推察しますと、3000年前の北九州の鉄器は、朝鮮半島南部で生産されたものでなく、中国本土、おそらく南部の越国等で生産されたものがマレー系民族によって直接導入されたものと思われます。このため、量はごく僅か、そして、品質も不良であったことが推察されます。

一方、北九州以外の日本の水田稲作が2200年前に始まるということは、朝鮮半島南部生産の鉄器が導入され、普及した結果と思われます。

鉄器生産地の新羅はツングース系民族の国です。また、拙ブログで、この時代ツングース系民族が畑作系民族として西日本や北陸、関東・東北に縄文時代から居たことを指摘してきました。したがって、鉄器は、ツングース系民族によって、その出身地の朝鮮半島南東部(後の新羅)から日本に導入された結果と思われます。

そして、ツングース系民族は、この鉄器を使い、畑作だけでなく、水田稲作も始め、弥生時代の中心的民族として活躍したものと思われます。

言い換えますと、当時の日本は、アイヌ系、マレー系、ツングース系の混合混血民族地帯でしたが、農耕に重要な鉄器を導入したツングース系民族を中心に、稲作民族のマレー系、多数派のアイヌ系も協力して水田稲作が行われ、弥生時代が形成されていったものと思われます。

関連し、鉄器生産と稲作、ツングース系民族の関係について、上トップに示しました。


 
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[ 2020/04/09 08:41 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

古代海人族のルーツは海洋系マレーと思われる

海洋系マレーの日本とマダガスカルへの道


古代海人族のルーツは海洋系マレーと思われる(日本人のルーツ)

拙ブログでは日本人のルーツについて検討してきました。関連し、今回は、「古代海人族のルーツは海洋系マレー」だったことについて愚考します。

まず、海人族と呼ばれる人々は海神(わたつみ)の子孫と呼ばれ、福岡県の宗像大社など関りのあるいくつかの神社が海神の神社として知られております。

その海神の言われですが、《 「記紀」に見る日本の原点 》によれば下記のとおりです。


まずは、日本の原点が「海人族」であることを「記紀」からご紹介いたします。

『古事記』も『日本書紀』も、この内容は一致しています。

「国生み」を終えたイザナギ(伊邪那岐神、伊弉諾尊)とイザナミ(伊邪那美神、伊弉冉尊)は、最後に敵対します。
『古事記』にいわく、イザナミの黄泉の国「いな しこめ しこめき 穢(きたな)き国」から帰ってきたイザナギは、「小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)」で禊ぎ祓いをします。
このエピソードが重要なのです。
ともに「国生み」を行なったイザナギが、イザナミと訣別して、禊ぎ祓いをすることによって独立国「新生日本」がはじまるためです。
「禊ぎ祓い」というのはそういう意味です。
そのため、イザナギの禊ぎ祓いによって、皇祖神「天照大御神」と「建速須佐之男命」(素戔嗚尊)が誕生しています。
それはいいのですが、その前に「禊ぎ祓い」によって生まれた神々がいます。
次の3種、計9柱(10柱)の神々です。

繰り返しますが、天照やスサノオより先なのです。
1、八十禍津日神(大禍津日神)、神直毘神、大直毘神 … 海向こうとこちらの神。
2、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神 … 安曇三神。
3、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命 … 墨江大神(住吉三神)。

「八十禍津日神」(やそ まがつ ひの かみ)というのは、「瀬織津姫津」(せおりつひめ)や「與止日女」(よとひめ=與止姫、淀姫)に習合されていることから、海の向こうからくる津波の神を象わします。
直毘神や大直毘神は、そこからの復興や新生と立て直しの神々です。

残りの「安曇三神」と「住吉三神」の計6柱の神々は、ご存じのように「海人族」を象わし、その神々です。
なので、禊ぎ払いによって最初に生まれたこれら9柱の神々は、いずれも「海」や「海人族」を象わしています。
「日本の原点」がここにあるためです。
(引用終了)


また、関連し海の神の宗像三女神が知られておりますが、「宗像三女神とはどのような神なのか?」によれば次の通りです。

高宮祭場と沖ノ島祭祀:

また考古学的視点で見て行くと、宗像大社には、貴重な古代祭祀跡が現存しており,文献史学のミッシングリンクを繋ぐ様々な遺物が出ている。海を生活の場とする古代海人族の祭祀遺跡は,今でも神聖な祈りの場として敬いと畏れを持って祭られている。

 まず、本殿から奥へ進むと高宮祭場がある。宗像大神降臨の地とされている。沖ノ島と並び宗像大社の中でももっとも神聖な場所であり、古神道の原型たる磐座の姿を今に伝える稀な祭場である。同様の磐座を宇佐神宮や三輪神社に見ることができる。おそらく8世紀にアマテラスを皇祖神とする「神の体系」ができる以前の、地域ごとの部族、氏族の自然崇拝の姿を現しているものだろう。すなわち海の民である宗像族が、危険の伴う航海や、漁労の安全や生活の安定を祈って、神が降臨する磐座を守ってきたのだろう。稲作農耕の神とは又違った祭祀の形態があったのだろう。
(引用終了)


また、関連書籍として「海の古代史」(布施克彦 2018)が知られておりますが(下写真参照)、沖縄諸島や朝鮮半島南部との倭人の交易などが詳しく紹介されています。

海の古代史(書籍)


引用が長くなりましたが、以上の報告をまとめますと、次のような感じかと思います。

まず、海神(わたつみ)は、記紀神話にも登場し、日本人の祖先の一つであり、航海と漁労の守り神であり、このため、それを祭っている宗像大社があります。そして、この海神を祭る宗像大社は福岡県にあること、その祭祀は近くの沖ノ島で行われていることかと思います。

そして、海神は海人族の守り神になったわけですが、海人の容貌は入れ墨(刺青)をしていて南方の越人が祖先と思われます。この入れ墨は、海中は危険なので作業する場合の防御のためにしているもので海人ならではのこととも言われております。

この入れ墨は、魏志倭人伝にあります倭人の容貌と同じであり、海人=倭人と思われます。関連し、倭人の入れ墨の様相については「倭人の素顔が見つかった」 を参照願います。

一方、日本人のルーツですが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、アイヌ系が35%、マレー系が30%、北方系のツングース系が25%、その他10%です。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」 を参照願います。

そして、日本に来たマレー系は、海洋系のマレー系(マレー系A)と水田稲作系のマレー系(マレー系B)の2種居ることを検討してきました。詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」lを参照願います。

記紀の記述の「海人族は神話時代から居ること」は、言い換えると縄文時代から居たことになります。そして、海洋交易で栄えた5000年前の「三内丸山遺跡」が知られておりますが、この記紀の記述は縄文時代から海洋交易に関わってきたマレー系が居たことを示唆します。詳しくは「マレー系民族の優れた航海術」を参照願います。

これらのことから総合しますと、海人族は、ルーツがインドネシア(もとスンダランド)由来の海洋系マレー系(倭人)に当たると思われます。

そこで、問題となるのが、マレー系は、倭人とも呼ばれ、倭国を作り、大和朝廷と対立してきたため、記紀で倭国は抹殺されていることです。言い換えますと、マレー系は大和朝廷と対立してきたのに、何故海神として祭り上げられたのかです。

そこで愚考しますと、マレー系には海洋系(マレー系A)と水田稲作系(マレー系B)の2種居ますが、マレー系Aは縄文時代から居て、三内丸山遺跡時代の海洋交易に関わってきた縄文人です。その意味でアイヌ系と同じ仲間です。すなわち、水田稲作系(マレー系B、倭国)は認められないが、縄文時代から居た海洋系のマレー系(マレー系A)は問題なかったのではないかと思われます。

そこで、記紀は、縄文時代から居た海人族の倭人の存在を、神話になりますが、海人としての倭人を記録し、海神の神社を祭り上げるようにしたのではないかと思われます。

関連し、海人族となったマレー系Aの日本への移動、そして、海洋系の特徴を示すマレー系のマダガスカル移住について上トップ図に示しました。

 
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[ 2020/04/04 09:15 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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