日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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巨大古墳建造は民衆を疲弊させた [2020/05/28]
巨大古墳建造のため奈良に動員された人数 [2020/05/24]
人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか [2020/05/19]
関東・東北における民族和合の象徴としての前方後円墳 [2020/05/14]
前方後円墳は人の形愚考 [2020/05/09]
前方後円墳のルーツ愚考 [2020/05/04]
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巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
(古墳と日本人)
前回、古墳時代前期(4世紀)、墳丘長が200mを超える巨大古墳が奈良(大和)地域に多数建造されたこと、その建造のために、農閑期に約3000人(人口の1%)が動員されたことを試算しました。
関連し、200mを超える巨大古墳は全国に38古墳ありますが、奈良と大阪を除く地域には、岡山に3(造山古墳、作山古墳、雨宮山古墳)、群馬に1(太田天神山古墳)、京都に1(神明山古墳)あるだけです。それだけ、巨大古墳建造は簡単ではなかったことになります。
次に、古墳時代の奈良(大和)への道ですが、上図の感じかと思われます。すなわち、岡山等中国地域の人々は大阪を経て大和へ、静岡等東海地域の人々は三重を経て大和へ徒歩で向かったことになります。
時期は、農閑期の冬の時期が多かったと思われますが、古墳周辺から、これら古墳建造従事者の居住跡は発見されていないようですので、居住設備は無く、雨露を防ぐ簡易な掘立小屋を建造中の古墳の傍に自分で建てて過ごした感じかと思われます。そして奈良は内陸にあり冬は寒かったと思われます。
こうした状況から想像しますと、巨大古墳建造のために奈良の地域に動員された人々、動員を陰で支えた人びとの疲弊はたいへんなもので、民衆の疲弊不満は相当なものだったことが予想されます。
また、当時は、古墳作りは奈良だけでなく地方でも行われていましたので、それらを含めますと、一般民衆の疲弊はさらに大きかったことになります。これの結果、民衆の不満が高まり、奈良の地域での巨大古墳建造は進めにくくなった雰囲気も出てきたと思われます。
関連し、次の5世紀になりますと、大阪湾岸で世界最大の大仙陵古墳等さらに巨大な古墳が建造されるようになりました。
このため、奈良から大阪への王朝交代説があります。しかし、巨大古墳建造は、奈良の地域で数は少なくなりますがその後も続いており、支配者(大王)の変動については不明です。また、その時代の大王の政治についても不明であり、外国との関係も不明であり、王朝と呼べる性格があったのかも不明です。関連し、これらの謎については後程検討する予定です。
次回は、奈良の巨大古墳王権は、さらに支配地を広げ巨大化し、その結果、王宮や王墓陵を大阪に移動したことについて愚考します。
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[ 2020/05/28 07:59 ]
古墳と日本人
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巨大古墳建造のため奈良に動員された人数
巨大古墳建造のため奈良に動員された人数
(古墳と日本人)
前回、古墳時代前期、巨大古墳が奈良の地域に多数建造されたことを紹介しました。関連し、今回は、建造に動員された労力について検討します。
まず、古墳建造の労力事例ですが、5世紀前期に建造された岡山の巨大古墳「造山古墳」(全長360m)があります。その「
大国主の誕生383 ―造山古墳のもう1つの謎―
」 によれば次のとおりです。
造山古墳を建造するにあたって、どれだけの労力を必要としたのか?・・・(中略)・・・
〇古墳の盛り土は約27万立方メートルで大型ダンプ約4万2千台分に相当。
〇墳丘の葺石の採取から水上・陸上の運搬・施工まで延人員は約20万人を要する。
〇埴輪の製作には延8万7千人を要する。
〇以上のような諸々の条件を含めて築成までの延人員は150万人以上と推定。ただし、これは
現在の土木用具を使用した場合での試算。
〇この150万人という数字は、当時の日本全土(東北北部と北海道、沖縄を除く)の推定労働
人口に匹敵する。
〇総工費は昭和63年の時点で約200億円以上の試算。
(引用終了)
また、世界最大の大仙陵古墳の労力は、「
NHK「知られざる大英博物館ー日本の巨大古墳の謎
」」によれば次のとおりです。
(前略)・・・なぜそのような再利用をしたかというと古墳を一つ作るのにも大変な費用と労力がかかるからだ。
たとえば日本最大の仁徳天皇陵は全長486mと言う途方もなく巨大な陵で、延べ人数680万人、15年の歳月をかけて建造されたと言われている。
単純計算で毎日休まずに作ったとしても1000人強の人が毎日動員されていたことになる。
(引用終了)
以上の事例では、「造山古墳」(全長360m)に150万人、「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」(全長486m)に680万人、となっています。
これを1m当たり人員にしますと、「造山古墳」は0.4万人/m、「大山陵古墳」は1.4万人/mになります。大きな差異がありますが、これは評価の違いで、「造山古墳」は現在の土木用具を使用した場合の試算、「大山陵古墳」は規模が大きく横幅もあるためと思われます。
そこで、ここでは、中間の1万人/mを用いて、4世紀の奈良の200m以上の巨大古墳の建造人員を試算しますと次のとおりです。
まず、前回紹介の墳丘長200m以上巨大古墳ですが、4世紀には奈良で11古墳建造されています(下表参照)。
これら11古墳の合計墳丘長は2532mです。これを1万人/mという数値を使い単純計算しますと合計労力人員は2532万人となります。
さらに4世紀100年で単純計算しますと、1年当たりの労力は25.32万人です。
年間250日働くとすると、1日当たりちょうど1000人になります。また、農閑期(冬4か月)だけの作業になりますと、1日当たり3000人になります。
関連し、古代の装備ですが、今でも機械化されていないマダガスカルの事例では、掘り上げる農具としては幅15㎝程度の鍬(すき)があるだけです(上トップ図参照)。スコップも一輪車もありませんので、古代の作業効率は悪かったことが予想されます。
次に、東海、近畿、中国、四国地域の当時の人口ですが、Koyama(1978)によれば下表のとおりです。
このデータから総人口変動曲線を求めますと下図のとおりで、古墳時代4世紀のこれらの地域の総人口は約50万人と推定されます。また、当時の奈良に君臨した大王の支配地域が60%とすると、30万人が巨大古墳建造関係地域人口になります。
これらの数値が正しいか不明ですが、これらの数値から推定されることは、農閑期(12月~3月)に30万人の民衆から3000人(1%)を集めることになります。
さらに、これらの労力人数と管理する人数を合計すると、巨大古墳建造は大変な事業だったことになります。
関連し、次回は古墳建造と民衆の疲弊について言及します。
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[ 2020/05/24 07:58 ]
古墳と日本人
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人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか
人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか
(古墳と日本人)
前方後円墳のルーツについて3回に渡って検討してきました。一方、古墳時代前期(3~4世紀)に巨大古墳が、古代人口が少なかった大和地域(奈良県)に多数建造されています。
関連し、今回は、初期巨大古墳が大和地域になぜ多いのか愚考します。
まず、墳丘長が200m以上の巨大古墳ですが、Wikipedia(日本大規模古墳一覧)よれば37古墳が紹介されております。拙ブログでは、岡山県報告の1古墳(雨宮山古墳)をこれらに追加し38古墳としました(上表参照)。
これら38古墳の内訳は、奈良に20、大阪に13、岡山に3、京都に1、群馬に1になっており、奈良と大阪に合計33(87%)と集中しています。
また、時代別に見ると、3世紀に1、4世紀に13、5世紀に22、6世紀に2となっておりますので、4世紀と5世紀に合計35(92%)と集中しております。
そして、古墳時代前期の3~4世紀に限りますと、巨大古墳は14古墳あり、奈良県(大和)に12古墳、大阪に2古墳あります。大阪の2古墳は4世紀後期ですので、これらの時期と場所から想像しますと、大和に古墳時代初期(前期)から大王が居たと思われます。
次に、なぜ大王が大和に居て巨大古墳を建造したのか検討しますと、次のとおりです。
まず、巨大古墳建造のためには多大な労力がかかることが知られております。その意味で、弥生時代、水田稲作が普及し人口が増大し、この人たちを支配する王が巨大古墳建造を可能にしたと思われます。
そこで、奈良近隣、すなわち、東海、近畿、中国、四国の弥生時代と古墳時代の県別遺跡数を検討しますと、下表のとおりです。
この表から弥生時代と古墳時代の遺跡数の関係を下図に示しました。当然のことと思われますが、弥生時代遺跡数が多いと古墳時代遺跡数も多い関係が認められます。この図では、とりわけ、静岡、三重、岡山で突出して遺跡が多い傾向があり、人口も多かったことが推察されます。
一方、奈良ですが、弥生時代遺跡数は少なく、古墳時代遺跡数は中くらいで、弥生時代人口は少なく古墳時代人口は中くらいだったと予想されます。弥生時代は低地で水田が開発された時代ですので、内陸に属する奈良の弥生遺跡数は少なかったことは当然と思われます。詳しくは「
畑作は生産性が低かったのか
」 を参照願います。
これらのことから、巨大古墳が建造された奈良は人口が少ないので、よその地域から巨大古墳建造のために人が動員されたことになります。
そこで、どのような他地域から人を集め、奈良の地域に王墓と思われる巨大古墳を作ったのか検討しますと、次のようなことが考えられます。
まず、奈良は、人口の多かった静岡、三重、岡山の中心に位置します。かつ、当時の日本は、東海・近畿・中国・四国地域が一つの範囲と言われ、奈良はこれらの地域の中心に位置します。その意味で、古代の奈良は要衝の地で、ここを支配したものが、これらの地域の支配者だったことになります。
拙ブログでは、その大王の一人は神武天皇と推定しておりますが、詳しくは「
神武天皇時代の日本の地理的中心地は奈良だった
」 を参照願います。
また、当時の関東と九州ですが、後の大宝律令(701年)に関東は含まれていなかったことから、関東は奈良とは関係のない地域だったと思われます。また、九州は、北九州に倭国があり、かつ関東と同じように離れており、密接な関係は無かったように思われます。
まとめますと、4世紀の奈良の地域には、東海、近畿、中国、四国を支配していた王が居て、これらの地域から多数の人員が大王墓建設のために動員されたと推察されます。
関連し、次回は動員された人員について検討します。
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[ 2020/05/19 08:46 ]
古墳と日本人
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関東・東北における民族和合の象徴としての前方後円墳
関東・東北における民族和合の象徴としての前方後円墳
(古墳と日本人)
前回、前方後円墳の形は、アイヌ系、マレー系、ツングース系が混合していた古代に、日本民族和合のシンボルとして現れたと指摘しました。今回は、この関係を東北の事例で検討します。
まず、関東、東北に前方後円墳が多数あることは知られておりますが、何故、多いのかについては解明されておりません。しかし、民族和合合の象徴の観点から考えると分かりやすいと思われます。
関東、東北にはアイヌ系が多く居て、いわゆる縄文時代の主要な担い手になりました。そこへ、朝鮮半島に居たツングース系民族が日本海側から移住してきました。
彼らは少しずつ移住してきましたので、アイヌ語を主とする日本語への影響は弱かったと推察されます。詳しくは「
日本語のルーツはアイヌ語とマレー語
」を参照願います。
一方、ツングース系民族は北方系畑作民族ですので、大豆など重要な畑作物を持ってきました。詳しくは.「
弥生時代における畑作のルーツ愚考
」を参照願います。また、関連し、弥生時代以降、農耕に必要な鉄製農具の持ち込み、水田開発にも主要な役割を担ったと思われます。
これらのことから、ツングース系民族は、農業でリーダーシップを発揮し、少数派でしたが、関東、東北地域でリーダーになっていった者も現れたと思われます。その中から王が生まれますと、彼らの中には、ツングース系の象徴であります方墳を選んだ者が居たと思われます。
因みに、福島の「
大安場古墳群
」は東北最大の方墳(前方後方墳)であり、ツングース系のリーダーが居たと思われます。
一方、ブログ仲間「滋味コフン」の「蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(2)阿光坊遺跡/天神山遺跡)」によれば、それらの古墳は7世紀のものですが円墳です。北東北はアイヌ系が多かったことから推察しますと、アイヌ系のリーダーは円墳を選んだ可能性があります。
そこで、東北の前方後円墳ですが、宮城には、東北最大の前方後円墳「
雷神山古墳
」があり、隣の山形には、ほぼ同サイズの前方後円墳「
南森古墳
」があります。これらの前方後円墳は、まさに、方墳のツングース系と円墳のアイヌ系の合体であり、民族和合の象徴であったと思われます。
一方、関東ですが、DNA情報によれば、関東ではアイヌ系が約半分です。詳しくは「
日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血
」を参照願います。
関東の古代ではアイヌ系がもっと多かったと予想されますが、関東でも民族和合の象徴としての前方後円墳が多く採用されたのではないかと思われます。因みに、群馬県にある関東最大の古墳「
太田天神山古墳
」は前方後円墳です。
まとめますと、円墳のアイヌ系、方墳のツングース系が混合していた関東、東北でも、前方後円墳は日本民族和合のシンボルとして人気があり、多数建造されたものと思われます。
関連し、福島の「大安場古墳群」、宮城の「雷神山古墳」、山形の「南森古墳」、群馬県の「太田天神山古墳」の場所とツングースの影響を上トップ図に示しました。
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[ 2020/05/14 07:01 ]
古墳と日本人
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前方後円墳は人の形愚考
前方後円墳は人の形愚考
(古墳と日本人)
前回、前方後円墳のルーツは、ツングース系の方墳と、マレー系とアイヌ系の円墳の合体で、民族の和合のシンボルであったことにについて愚考しました。
関連し、上は円墳形で下は方墳形という二段になった古墳「
上円下方墳
」がありますが、これも、円墳と方墳の合体と観ることができます。この意味で、方墳と円墳を合体した形には、「上円下方墳」と「前方後円墳」という二つの古墳様式があることになります(上図参照)。
その意味で、なぜ、前方後円墳が多く選択されるようになったのかが問題になります。因みに、「上円下方墳」は全国で6基しかありません。
関連し、今回は、前方後円墳の人気の秘密について愚考します。
まず、方墳ですが、そのルーツはツングース系にあることを先に検討しました。関連し、Wikipedia(弥生時代の墓制)によれば、「方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている」とあります。
そして、この弥生時代の方形周溝墓が進化したのが古墳時代の方墳になります。さらには、その方墳が2個繋がった前方後方墳ができたと思われます。
では、なぜ、方墳が2個繋がった前方後方墳ができたのか愚考しますと次のとおりです。
2個の方墳の間に首のようなくびれがあり人の形に似ていることから想像しますと、その形は大王の墓に相応しい形、俗な言葉で言えば、カッコいいからだと思います。
そして、その形をモデルに建造されたのが前方後円墳と思われます。前回、それはツングース系とマレー系とアイヌ系の統合統一の象徴と指摘しました。
なお、最初の建造時期ですが、Wikipedia記事によりますと、前方後方墳は弥生時代後期末(2世紀末~3世紀初)に、前方後円墳は古墳時代開始期(3世紀中)に建造されたとあります。すなわち、前方後方墳は前方後円墳より早くからあり、前方後方墳をモデルに前方後円墳ができたという拙ブログの予想と一致します。
以上のことをまとめますと、前方後円墳のルーツは、下図のとおりで、方墳→前方後方墳→前方後円墳になります。
前方後円墳のルーツについて、こうした考え方は自然であり、以前にもあってしかるべきですが、そうした報告について指摘いただければ幸いです。
そして、前方後円墳は大王墓に相応しい偉大な感じの形、また民族和合の象徴となりました。これらの意味で、前方後円墳は、全国的に古墳時代の流行になり、アイヌ系、マレー系、ツングース系に分かれていた日本民族の和合の道の始まりでもあったと思われます。
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[ 2020/05/09 07:05 ]
古墳と日本人
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前方後円墳のルーツ愚考
前方後円墳のルーツ愚考
(古墳と日本人)
先に、出雲王のルーツは朝鮮半島由来のツングース系であったことを紹介しました。そして、そのシンボルとして「四隅突出型墳丘墓」が作られたことを指摘しました。詳しくは「
出雲古代文化のルーツはツングース系
」 を参照願います。
一般に、王の葬式は個人では決められないと言われます。その意味で、出雲王の墳丘墓は、その出雲国の習慣や文化そのものだったと思われます。
例えば、ツングース系の偉大な王に高句麗の「広開土王」が知られておりますが、その王墓「
高句麗将軍塚
」 は方墳です。ツングース系の新羅には円墳も多数知られておりますが、リーダーは格式高い高句麗将軍塚のような方墳を選んだのではないかと思われます。
そして、有名な出雲の「四隅突出型墳丘墓」もその延長でより格式高い王墓と思われます。関連し、方墳は北陸、関東、東北でも多く認められますが、ツングース系が日本に移住してきたとき日本海を北上し東北広がったことから、それらの地域にツングース系のリーダーの居たことが推察されます。
ツングース系は、鉄器や畑作農耕などの文化が先行していた朝鮮半島由来出身者ですので、アイヌ系が多い地域でもリーダー(地域首長)になるのは困難では無かったと思われます。
一方、日本には、王墓に関し、前方後円墳という独特の墳丘墓があります。そのルーツは諸説がありますが、ツングースの墳墓と同じように習慣や文化として捉えると分かりやすいかと思われます。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、前方後円墳のルーツについて愚考します。
Wikipediaによれば、前方後円墳のルーツは次のとおりです。
最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる。
(引用終了)
この説では、「円形墳丘墓の周濠の陸橋部分(通路部分)」が方形に拡大したものと言うことになります(上図参照)。しかし、王の墳墓が、このように勝手に変えられるものなのか疑問が残ります。また、この説で行くと、前方後円墳の方墳部分が何故大きくなったのか、何故、陸橋部分の方墳部が、もともとは陸橋部分だったのに、水で囲まれているのかは説明できていません。
そこで、別の観点から考察しますと、その時代背景が重要と思われます。すなわち、前方後円墳が現れた3世紀は北九州では邪馬台国の時代、その他の地域では地域の王が出現し、古墳時代に入っていった時代でした。邪馬台国では大乱がありましたが、この大乱は、おそらくは西日本全域に知られていて、対立や戦乱の無い平和な社会が求められていた時代と思われます。
因みに、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、現在の日本人はアイヌ系35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来のツングース系が25%、その他が10%という状況です。古墳時代以降、大きな民族移住はなかったことからしますと、古墳時代も同じ状況であったと思われます。
これらのことから想像しますと、民族の対立は一般に知られていることですが、この対立が激しくなった時代が水田稲作で豊かになってきた弥生時代後期~古墳時代初期の頃と思われます。
この中で、ツングース系は前回紹介しましたように方墳を選んでいました。また、方墳が発展し、二つの方墳が合体した前方後方墳という新型も現れました。これは、前方後円墳より早いか、ほぼ同時期に建造されています。そして、そのルーツを方墳としますと、これもツングース系がルーツと思われます。
一方、円墳ですが、古墳の90%は円墳と言われます。この意味で多くの地域リーダーが円墳に葬られていますが、マレー系と思われる邪馬台国の卑弥呼の墓が円墳だったこと、マレー系の多かった百済国の大王「武寧王」の「
武寧王陵
」 は円墳だった等から想像しますと、マレー系は円墳を好んだ可能性があります。
また、ブログ仲間の「北東北(青森)の古墳」によれば、その古墳は小円墳がほとんどです。北東北はアイヌ系が多かったことから推察しますと、アイヌ系のリーダーも円墳を選んだ可能性があります。
これらのことから想像しますと、当時の民族対立を背景に、ツングース系の方墳とマレー系やアイヌ系の円墳を合体させた形は、民族和解の象徴的墳墓と観ることができます。そこで、方墳が二つ合体した前方後方墳をモデルに前方後円墳ができ、民族和解をもとめていた当時のリーダーは、前方後円墳を積極的に選んだのではないかと思われます。
また、墳墓の周濠はため池になりますが、ため池の水は水田や畑作の灌漑水として利用できます。古墳を作る人々の大半は農民ですので、その灌漑水を利用できるようになることは古墳建造に協力しやすくなります。
この灌漑水のアイデアは「
水田と前方後円墳
」に紹介されています。
また、「前方後円墳は円墳と方墳の合体」という説は「
前方後円墳は、出雲と九州の統合の象徴!
」に出ております。出雲はツングース系、九州はマレー系と観ますと、その合体は民族の統合という拙ブログの考えと同じになります。
まとめますと、前方後円墳は、3世紀に始まりますが、日本は、方墳のツングース系、円墳のマレー系とアイヌ系に分かれていた多民族国家でした。このため、地域のリーダーであった王は、これら民族の和合の象徴であり、かつ、灌漑水を貯蔵できる建造物として前方後円墳を建造したのではないかと思われます。
関連し、3世紀当時の墓様式のルーツを下図に示しました。
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[ 2020/05/04 06:56 ]
古墳と日本人
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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