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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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朝鮮半島からのツングース系民族は水田作を受け入れ西日本で発展した

ツングース系王家の支配地拡大(3~5世紀、推定)


朝鮮半島からのツングース系民族は水田作を受け入れ西日本で発展した(稲と鉄)

前回まで、巨大古墳建造と関連し、近畿地域にツングース系が弥生時代に多く移住したことを指摘しましたが、ツングース系は畑作民族で、弥生時代の水田稲作との関わりは強くなかったことが予想されます。

関連し、今回は、「ツングース系民族は水田稲作を受け入れ発展したこと」について、全国的視点から愚考します。

まず、弥生時代の特徴ですが、生産性の高い水田稲作の導入があります。これは中国南部のマレー系稲作民族の「越人」が北九州に移住して、もたらした技術で、3000年前から北九州にその遺跡が認められます。しかし、人口増大の観点から見ると、それが普及し始めるのが2300年前頃です。この年代は、日本に鉄製農具がもたらされた頃です。

水田稲作には、水を引くための水路造成、水を貯めるための畔(あぜ)造成が必要であり、鉄製農具無しにはできない農法でした。その意味で、水田稲作は、栽培技術だけでなく、それを可能にする鉄製農具の導入が不可欠でした。

この鉄製農具は、朝鮮半島の鉄の産地「慶州」で作られたものと思われます。詳しくは「稲と鉄は別々に導入された」を参照願います。

そして、その鉄製農具を日本にもたらしたのが、朝鮮半島先住民族のツングース系民族です。彼らは、モンゴル人と中国人の混血から中国の東北部(満州)で発生した新民族で、モンゴル系言語を話し、畑作と狩猟を生計とする民族でした。

彼らは、高身長の民族で、そのことは6000年前の縄文時代人骨から確認できますので、縄文時代から移住してきたことが分かっています。詳しくは「縄文時代から高身長の人は居た」 を参照願います。

そして、彼らの朝鮮半島の中心地は鉄の産地の慶州(もと新羅の中心地)でしたが、日本に本格的に移住してきたのは、弥生時代、特に中期以降の2300年前頃と思われます。

その理由として、弥生時代中期ごろから人口増大が日本全国で認められます。これは明らかにツングース系民族が鉄製農具を持って移住し日本を耕した結果と思われます。

関連し、Koyama(1978)の地域別人口データを下表に示しました。

各地域の縄文・弥生人口

そして、弥生時代の人口増大を「弥生時代人口/縄文時代人口」の値で観ると、下図のとおりです。

各地域の弥生時代・縄文時代人口比(図)

この図から、特に近畿、中国、四国地域は、弥生時代の人口増加が顕著です。おそらく、ツングース系の移住により、低地では水田稲作、山間地では畑作が行われた結果と思われます。

一方、東海を含む東日本と九州は、弥生時代の人口増大が少なくなっています。特に東北は弥生時代に人口が減っています。

東日本の弥生時代人口の停滞は、採集経済という縄文社会の影響で鉄器と水田稲作の導入の遅れが原因と思われます。

また、同様に、縄文時代と弥生時代遺跡数を下表に示しました。弥生時代遺跡数の増加も、近畿、中国、四国地域で顕著です。これは上記の人口の変化と一致します。

各地域の縄文・弥生遺跡数

また、関連し、ツングース系の特徴である方形周溝墓(方墳の原型)ですが、Wikipediaによれば、弥生時代末に多くなっているとあります。

以上の結果、ツングース系は、特に近畿、中国、四国地域でマレー系の協力を得て、水田稲作を始め、人口が増えた可能性が高くなります。

そこで、当時の水田稲作ですが、その栽培法は乾田直播であることを紹介してきました。この方法は、除草後、畑状態のところに掘り棒で穴を空け、そこに種を播き、発芽した後、水を入れる方法です。詳しくは「弥生時代稲作に田植えは無かった」 を参照願います。

この方法は、水管理を除くと畑作と変わりありませんので、畑作民族ツングース系の人たちも受け入れやすかったと思われます。

その結果、ツングース系は日本の主役に躍り出たのではないかと思われます。特に近畿地域は、縄文人が少なかったことと関係し、農耕により人口が増えたと思われます。

なお、水田稲作を北九州に導入したマレー系ですが、Y染色体ハプログループ分類では日本に30%居ることが分かっています。このうち、縄文時代に来たのが20%(マレー系A、海洋系)、弥生時代に来たのが10%(マレー系B、水田稲作系)と推察されます。

すなわち、水田稲作系(マレー系B)は10%という少数派で、かつ鉄製農具も持っておらず、日本全域で水田稲作を普及するパワーは弱かったと思われます。詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

まとめますと、ツングース系は畑作民族ですが、当時の「稲の乾田直播栽培法」は受け入れやすく、これが水田稲作普及に役立ったと思われます。この結果、ツングース系は弥生時代の主役に躍り出たと思われます。

そして、まず近畿地域を支配する大王が生まれ、その支配は、東は東海、北は北陸、西は中国・四国に広がっていったと思われます。そして、東海を除けば、これらの地域は、もともと縄文人が少ない地域でした。

関連し、これらのツングース系王家の広がり(推定)を上トップ図に示しました。

なお、上記データで、「弥生時代/縄文時代」の数値について、Koyama(1978)による人口比と文科省(2012)による遺跡数比の二つのデータがありますが、両者が同様な傾向を示しました。このことは、Koyama(1978)の人口推定は、40年前のものですが、ほぼ適正なデータであったことを示すものと思われます。



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[ 2020/06/29 07:08 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

近畿地域は弥生時代からツングース系が多かった


近畿地域は弥生時代からツングース系が多かった(古代史の問題)

前回、奈良・大阪に巨大古墳を残した王権は朝鮮半島由来のツングース系であったことを、大阪人のY染色体ハプログループ分類等から推察しました。このことは、近畿地域は弥生時代からツングース系が多かった可能性があります。

今回は、このことを、縄文時代と弥生時代の遺跡数の差異、そして、ツングース系の特徴である高身長性について、東海地域と比較し愚考します。

まず、下表は、近畿地域と、岐阜を含む東海地域の縄文時代と弥生時代の遺跡数です。両地域を比較しますと、東海地域は縄文時代遺跡数が多く、その割に弥生時代遺跡数が少ない特徴があります。一方、近畿地域は逆になっています。

東海・近畿地域の縄文弥生遺跡数

関連し、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の値を下図に示しました。この数値は、縄文時代に比較し弥生時代の発展度合いを示す数値ですが、特に、大阪の割合は極端に大きくなっていて、他の地域に比較し弥生稲作が極端に発展した可能性があります。

東海・近畿地域各府県の「弥生時時代遺跡数・縄文時代遺跡数比」

また、同じく、内陸県の岐阜と奈良を比較しますと、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の値は奈良で2.1、岐阜で0.3で、7倍近い差異となっています。岐阜については、山間地が多く、水田作導入が遅れ、弥生時代の発展が遅れたことを検討したことがあります。詳しくは「畑作は生産性が低かったのか」を参照願います。

以上の結果、近畿地域は東海地域とは明らかな違いがあります。これらのことを、ツングース系民族の移住で説明すると次のようになります。

弥生時代に朝鮮半島から移住してきたツングース系集団は、縄文人が少ない(縄文遺跡が少ない)近畿地域に多く移住しました。そして、持参してきた鉄製農器具を用い、低地では水田稲作、台地では畑作を行い、食料を確保し、人口が増大しました。これが近畿地域で弥生時代遺跡数が多くなった第一の要因と思われます。

一方、東海地域は、採集経済の縄文時代の影響が大きく、鉄器導入が遅れ、農業の発達が遅れ、食糧増産が遅れたと思われます。

次に、身長の比較ですが、ツングース系は身長が高い特徴があります。その高身長性の特徴について、詳しくは「秋田美人と博多美人のルーツの違い、身長差から」、そして、「出雲にはツングース系の人々が多かったのか」を参照願います。

そこで、同じ様に近畿と東海の身長を比較しますと、下表のとおりです。


東海・近畿地域の身長差

そして、地域平均値を比較しますと下図のとおりです。近畿地域は東海地域よりも男女とも高身長で、ツングース系の特徴が明らかに表れています。

東海と近畿地域の青年の身長差


まとめますと、近畿地域は、縄文時代遺跡が少なく人口が少ない地域でした。そこへ朝鮮半島からツングース系民族が移住し、鉄製農機具で農業を行い、食料を確保し、人口が増え、先進地域になったと思われます。そして、そこから地域をまとめる大王が現れ、巨大古墳建造に走ったことになります。

拙ブログでは、近畿地域とくに奈良は、東海・近畿・中国・四国の中心地であったと観てきましたが、民族の割合の観点から見ると、弥生時代からツングース系の多い地域だったことになります。すなわち、奈良、そして近畿地域を弥生時代に支配していた集団はツングース系だったことになります。



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[ 2020/06/24 07:32 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

巨大古墳王家は朝鮮半島由来のツングース系だった

古代におけるツングース系大王の発生と滅亡


巨大古墳王家は朝鮮半島由来のツングース系だった(古代史の問題)

前回、新勢力の継体王(在位:507-531年)が、巨大古墳を多数建造した奈良と大阪の王家を滅ぼし、その結果、巨大古墳の主が分からなくなってしまったことを指摘しました。

また、旧勢力没落の最大理由として、巨大古墳建設によって民衆が疲弊したことを指摘しました。

一方、最近のことですが、現天皇家のルーツはアイヌ系の継体王(在位:507-531年)であることが明らかになり、歴史を見直す情報が出てきました。これまで、天皇家のルーツは朝鮮半島という説が従来から根強くありましたが、完全に否定されたことになります。

しかし、天皇家のルーツが、途中で入れ替わったことになりますと従来説も有力になります。


関連し、今回は、巨大古墳を建造し古墳時代をリードした王家はツングース系であったことについて愚考します。

まず、現天皇家の祖先となったアイヌ系の継体王ですが、それ以前の天皇となると、子孫はまったく見つかっていないことも分かりました。おそらく名乗ることができない何らかの理由があったことが考えられます。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」 を参照願います。

また、巨大古墳が多数建造された大阪の人々のDNAですが、現在のY染色体ハプログループ割合は下表のとおりです。この表では、大阪でツングース系は30.0%と他の地域より多く、アイヌ系の31.2%とほぼ同等です。古代も現在の状況に近いものとして見ますと、大阪はツングース系がもともと多い地域だったことになります。

大阪等のY染色体ハプログループ分類

また、最近、3世紀の奈良県(大和)の纏向遺跡で硯が発見され、その時代から文書作成があった可能性が出てきました。例えば、「歴史タイムス」の「纏向遺跡」 を参照願います。

もし大和の大王がツングース系ならば、ツングース系の新羅や高句麗と関係があり、そこから文字を導入し文書を作った可能性があります。

特に5世紀建造の大阪の大仙陵古墳の例ですが、「建造に15年間680万人の労力」という大規模なもので、動員のためには強権だけでなく組織だった系統的な命令が必要であり、そのための文書があった可能性は否定出来ません。

そして、文書があったとすれば、巨大古墳の主は分かるはずですが、無いということは焚書があったことになります。

おそらく、巨大古墳建造には縄文時代由来のアイヌ系やマレー系民衆などの多大な犠牲がありました。このため、アイヌ系の継体王の怒りは大きく、焚書により、巨大古墳建造の情報のすべてを焼き払った可能性があります。

これらのことから想像しますと、巨大古墳の否定には、民衆の疲弊問題の他に、ツングース系(弥生系)対アイヌ系(縄文系)という民族対立問題があったことが感じられます。

そこで、大和の最初の大王がツングース系であった由来ですが、次のように考えることができます。

当時、朝鮮半島から2300年前頃から移住して来たツングース系は、畑作民族で、鉄製農具を持っており、先住民族のアイヌ系等に対し、農業で先進的な立場にありました。そして、奈良の地は台地にあり、縄文人が少なく、畑作民族が移住しやすい環境でした。

一方、マレー系が3000年前に導入した水田稲作ですが、2300年前まではほとんど普及しませんでした。しかし、ツングース系の鉄製農具の普及の結果、その普及は進みました。詳しくは「水田稲作開始は鉄器導入と一致する」を参照願います。

さらに、ツングース系は北方系民族であり馬も導入し、また高身長で体格もよく、鉄器も有しており、戦争にも有利でした。

また、日本語(アイヌ系言語)とツングース系言語の関係ですが、両者の言語の基本型は「主語+目的語+動詞」で、文法が似ており、ツングース系とアイヌ系の間にコミュニュケーションに大きな問題はなかったと思われます。

以上の有利性から、ツングース系は先住民族のアイヌ系や稲作民族のマレー系の上に立った可能性があります。詳しくは「関東・東北における民族和合の象徴としての前方後円墳」を参照願います。

そうした関係から、奈良の地で支配者の地位を得て、地域を支配する大王となる者が現れました。大王はツングース系は少数派であることが分かっており、このため、当時流行していた巨大な前方後円墳を建造し、権威と権力を民衆に見せようとしたと思われます。

また、巨大古墳ですが、朝鮮半島由来の方墳をベースにした石垣の構造があり、その古墳建造のルーツもツングース系と思われます。

一方、6世紀に現れた継体王ですが、北陸(福井)出身のアイヌ系で、多数派のアイヌ系や縄文時代から居たマレー系等の人々の支持を得て大王となったと思われます。詳しくは「新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行」 を参照願います。

また、朝鮮半島との外交ですが、継体王は、ツングース系の新羅や高句麗でなく、マレー系の百済と関係を持ちました。継体王はアイヌ系であり、ツングース系との対立関係から、そのようにツングース系以外の国と外交した可能性があります。

まとめますと、世界遺産にもなった大仙陵古墳等の王墓名が不明なこと、この理由として巨大古墳建造に対する民衆の怒りを第一に指摘してきましたが、さらには、その王家が少数派のツングース系だったこともあると思われます。

関連し、以上の経過を上トップ図に示しました。

以上、「巨大古墳王家はツングース系だった」愚考でした。



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[ 2020/06/19 08:38 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

巨大古墳建造を続けた大王の末路愚考

新勢力継体王(6世紀)


巨大古墳建造を続けた大王の末路愚考(古墳と日本人)

日本の巨大古墳建造について検討してきました。そして、その巨大古墳建造を続けた大王の末路がどうなったのか、今回はクライマックスになります。

前回、民衆を疲弊させた巨大古墳建造が、3~4世紀には1地域(奈良)、5世紀には3地域(奈良、大阪、岡山)で行われたことを紹介しました。

また、奈良と大阪には居住者が少なかったことから、巨大古墳建造には他地域から多数動員され、民衆が疲弊したことも指摘しました。

関連し、これら巨大古墳建造を止めた大王と思われる継体王(在位:507-531年)の登場と、巨大古墳を建造し続けた大王(旧勢力)の末路について今回は愚考します。

まず、大阪の5世紀の巨大古墳従事者の数ですが、4世紀の奈良以上だったと思われます。

因みに、墳丘長が200m以上の巨大古墳数と合計墳丘長ですが、4世紀の奈良は11古墳、合計墳丘長が2532mです。一方、5世紀の大阪は10古墳で合計3005mです(前々回の資料参照)。

そして、5世紀の大阪は大仙陵古墳などのような超巨大なものも有り、かつ平地建造が多く、全体として4世紀の奈良地域よりかなり大規模な土木工事が行われたものと推察されます。

因みに、大仙陵古墳は「建造に15年間680万人の労力」という大規模なもので、動員された人数は年当たり45万人以上と推定されています。

以上のことから、これらの大王に支配されていた3~5世紀の民衆の疲弊はたいへんなものだったと予想されます。

そして6世紀になり、そこへ、北陸(福井県)出身のアイヌ系の新大王「継体王」(在位:507-531年)が現れました。継体王の誕生年は450年頃とされていますので、おそらく、5世紀後期のこれら巨大古墳作りに熱心な大王と疲弊した民衆の対立を見たと思われます。

継体王は、実在を確認できる天皇(大王)の始まりとして拙ブログで指摘している大王ですが、初めて外交を行った大王、初めて文書を導入した大王、国造制度など初めて地方管理の制度を作った大王として知られております。詳しくは「新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行」を参照願います。

そして、継体王の陵墓は「今城塚古墳」と分かっています。場所は、奈良でもなく大阪湾岸でもなく、大阪府北側、滋賀・京都寄りのところ、その墳丘長は190mで、従来の大王墓より小さくなっています。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。

また、継体王は奈良・大阪の旧勢力とは別の「今城塚古墳」の近くに王宮を構えました。以上の経過から、おそらく、奈良・大阪の旧勢力とは対立していたと思われます。

そして、継体王治世の6世紀前期ですが、大阪、奈良、岡山から巨大古墳建造が突然として消えます。これらのことから、大阪、奈良、岡山の旧勢力は没落し、継体王単独の政権になっていった感じを受けます。おそらく、民衆は旧勢力から離反し、このため、継体王は労せずして権力を得た感じです。

そこで、それら巨大古墳建造を続けた旧勢力の末路ですが、次のようになったと思われます。

1. 奈良と大阪の旧勢力は民衆の支持を失い没落し、新勢力の継体王が支配者になった。
2. 旧勢力は継体王と対立していたこともあり、それらの王家の歴史は否定され不明になった。
3. 旧勢力没落200年後に日本書紀と古事記(記紀)が編纂され、継体王家(天皇家)の歴史を長く見せるため、旧勢力が残した巨大古墳は継体王家由来のものとして描かれた。このため、記紀の内容は史実を改竄したものとなった。

以上の関係から、巨大古墳については、その主の王名はすべて不明となってしまったというのが真相と思われます。

因みに前回紹介の世界最大の大仙陵古墳は仁徳天皇陵と指定されていますが、実際は誰の陵墓か分かっていません。詳しくは「世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か」を参照願います。

関連し、現在指定されている巨大古墳の陵墓名のほとんどがでたらめということが指摘されています。詳しくは、「日本古代史つれづれブログ」の「古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎」を参照願います。

まとめますと、日本の歴史では、空白の4世紀~5世紀という言葉がありますが、この原因は、この時代は大規模古墳建造の時代で、その支配者(大王)の治世を新勢力の継体王が徹底的に否定した結果と思われます。このことについては後にさらに検討します。

関連し、継体王時代(6世紀前期)の勢力図を上トップに示しました。

また、巨大古墳建造~日本書紀編纂の歴史を下表にまとめました。


巨大古墳建造~日本書紀編纂の経過


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[ 2020/06/15 06:53 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(2)

世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考

最大古墳建造悔過



世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考(古墳と日本人)

奈良の地域では、4世紀、度重なる巨大古墳建造に民衆が疲弊したことを先に指摘しました。

そして、5世紀、世界最大規模の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が、大阪の地に建造されました。民衆を疲弊させる巨大古墳建造を諦めず、さらに巨大な古墳がなぜ建造されたのでしょうか。

因みに、大仙陵古墳は「建造に15年間680万人の労力」 という大規模なもので、動員されたのべ人数は年当たり45万人以上(1日当たり1000人以上)と推定されています。

そして、先に検討しましたように、奈良と同じく大阪も人口は少なく、巨大古墳建造のためには他地域からの動員は不可欠でした。

今回は、そのような地域に大仙陵古墳が建造された経過を愚考します。

まず、5世紀の新大王は、前々回指摘のように、支配地域が、北九州倭国を除く西日本地域、すなわち、これまでの近畿、東海、中国に加え、四国、九州東岸まで広がり最大勢力となった可能性があります。このため、これらの地域の中心により近い大阪に王宮を移した可能性があります。

そして、新大王は、巨大化した新支配地を背景に奈良よりも大きい古墳、さらには先に建造された誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を超える古墳を建造し、新支配者としての権威を示したくなった可能性があります。

因みに、最大古墳との関連で巨大古墳建造の流れを見ると上表のとおりです。

次に動員態勢ですが、最大勢力となった最強の大王が大阪に居て、全国から動員したと思われます。大阪は海に面しており、動員に船を利用できるので、古墳建造用の人員を瀬戸内方面から集めやすくなった可能性があります。

この海洋活動いついては、吉備国とリンクしていた瀬戸内の海族マレー系の協力があったことを前回紹介しました。ブログ「東国の古代史」が「海人族の末裔「海部氏」の遺跡」について最近紹介しておりますが、それは大仙陵古墳建造と同時代の遺跡であり、大仙陵古墳建造と関わりのある遺跡と思われます。

また、関連し、ブログ「3D京都」が「なぜ、前方後円墳でなければならなかったのか? 仁徳天皇陵をめぐる3D的考察 後編」で大仙陵古墳建造物の内部の様子を再現しています。その豪華さは圧倒的です。

この画像を見ると、その建造物は、特に古墳の外壁の石の使い方ですが、朝鮮半島のツングースの影響が強く感じられます。この方面は後に検討したいと思います。

一方、大仙陵古墳の主ですが、記紀では「仁徳天皇」となっていますが、本当の大王名は不明です。この謎についても後程検討します。

関連し、大阪の巨大古墳建造のために動員された人々の予想地域範囲を下図に示しました。


大阪巨大古墳建造のための動員経路


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[ 2020/06/10 07:02 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(1)

5世紀の頃、大阪、奈良、岡山の3地域に大王が居たと思われる

大阪、奈良、岡山の5世紀の巨大古墳


5世紀の頃、大阪、奈良、岡山の3地域に大王が居たと思われる(古墳と日本人)

先に、墳丘長が200mを超える巨大古墳が38古墳建造されたことを紹介しました。それらは、3~4世紀は奈良を中心に建造され、続いて、5世紀には、奈良、大阪、岡山等に建造されました。

関連し、今回は、5世紀に、北九州倭国とは別に、奈良、大阪、岡山の地域に大王が居たことと、それらの力関係について愚考します。

まず、それぞれの地域の巨大古墳ですが、上表のとおりです。

5世紀を前・中・後と分けますと、それぞれの地域に連続して古墳が建造されており、それぞれ一つの王家(支配者)が続いていた可能性があります。

これら5世紀建造の古墳の合計墳丘長を見ますと、大阪は10古墳で3005m、奈良は7古墳で1603m、岡山は3古墳で852mです。これらの数値をそれぞれの王家の勢力と観ますと、最強は大阪、続いて奈良、そして岡山の順になります。

これらの力関係から、奈良も岡山も大阪には抵抗できず、従っていたことになります。その意味で、大阪の大仙陵古墳古墳などの巨大古墳建造には、全地域から動員されていたと思われます。

そして、大阪と奈良の関係ですが、前回紹介しましたように、奈良の地域で4世紀に続き5世紀も巨大古墳建造が続けられていたことから想像しますと、王家の断絶は無く、大阪に本家が移り、奈良は分家として続いていたと思われます。

一方、岡山(吉備)の王家ですが、岡山は縄文時代から人口が多く、弥生遺跡も多い地域でした。縄文時代に陸稲栽培が行われ、弥生時代遺跡も多く、マレー系民族の影響の大きい地域でした。詳しくは「弥生時代最大墳丘墓のある岡山県の「楯築遺跡」と邪馬台国」を参照願います。

また、奈良の纏向遺跡からは吉備の影響のある土器が発見されております。さらには、マレー系民族は海洋系民族でもあり、四国や離島部を支配するために彼らの協力が必要でした。その意味で、大阪・奈良とは別の王家ですが、岡山は先進地域でもあり、協力を条件に共存が認められていたのではないかと思われます。

なお、マレー系は稲作民族だけでなく海洋系民族であることについては「古代海人族のルーツは海洋系マレーと思われる」 を参照願います。

関連し、これら3大王の支配地域の様子を下図に示しました。

大阪、奈良、岡山の大王の拠点と勢力(5世紀)

次回は大仙陵古墳の謎に迫ります。



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[ 2020/06/05 10:02 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(2)

巨大古墳王権は5世紀に最盛期を迎えたと思われる

巨大古墳王家の4~5世紀の支配地域(推定)


巨大古墳王権は5世紀に最盛期を迎えたと思われる(古墳と日本人)

前回、奈良の王権は、4世紀に度重なる巨大古墳を建造し、民衆を疲弊させたことを指摘しました。その結果、奈良の地域では巨大古墳が建造しにくくなった事情を指摘しました。

しかし、一方、次の5世紀には場所を変え、さらに大きな古墳が建造されました。

関連し、今回は、奈良の巨大古墳王権は、さらに支配地を広げ、巨大化した結果、王宮や王墓陵を大阪に移したことについて愚考します。

まず、奈良と大阪の関係ですが、巨大古墳の数と規模(墳丘長)について下表に示しました。

奈良と大阪の巨大古墳建造の時期と数

この表から、奈良の巨大古墳の数は4世紀(4C)に頂点を迎え、その後、減っていきます。一方、大阪は5世紀に頂点を迎えます。

そして、その後の6世紀、両者の巨大古墳建造は突然無くなります。6世紀に古墳が各1建造されていますが、これらは6世紀後半の建造であり、断絶が感じられます。

そして、この表から見えてくることは、奈良から大阪へ王朝が変わったというより、奈良の王権が支配地を広げ巨大化し、その結果、それらの新しい地域支配に便利な場所、すなわち大阪に王宮や王墓陵を建造した印象を受けます。

そして、巨大古墳王家の新支配地域ですが、大阪が海に面していることから推定しますと、その新支配地は、四国や九州沿岸の可能性があります。

そして、奈良ですが、分家となり、本家は大阪に移動した感じを受けます。奈良に分家を残したことについては、その王権にとって奈良は歴史的に重要な場所だった可能性があります。この方面は後に検討します。

そして6世紀になり、両地域で巨大古墳がまったく建造されなくなったことから推定しますと、これらの王家は5世紀に頂点になり、6世紀に没落したと思われます。

その没落の原因は2点考えられます。1点目は古墳建造で疲弊した民衆の怒りが絶頂になったこと、2点目は6世紀に現れた新勢力の継体王(在位:507-531年、現天皇の祖先)の登場です。この方面も後に検討します。

そして、世界遺産の世界最大の大仙陵古墳の例ですが、新支配地からの動員も可能になり、巨大古墳は奈良の地よりも建造しやすくなったと思われます。この方面も後に検討します。

関連し、この巨大古墳王家の4~5世紀の支配地を上トップ図で示しました。


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[ 2020/06/01 07:30 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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