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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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仁徳天皇「かまどの煙」のパラドックス


大仙陵古墳の歴史パラドックス



仁徳天皇「かまどの煙」のパラドックス(古代史の問題)

日本の巨大古墳について検討してきました。そして、巨大古墳を建造した朝鮮半島由来ツングース系王家は、その巨大古墳建造のため民衆の怒りにあい、新勢力のアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)によって滅ぼされ、王家の歴史が不明になってしまったことを指摘してきました。

一方、世界最大の大仙陵古墳に葬られていると言われる仁徳天皇ですが、日本書紀(720年完成)では110歳まで生きた伝説の人物となっており、実在の人物ではないとも言われております。

また、仁徳天皇は、民衆のかまどから煙が出ていないのを見て、心を痛め税金を3年も免除したという美談が残されており、庶民のための政治を行った天皇として評価されています。しかし、巨大古墳建造で民衆が疲弊したことから考えると、これもそのまま信じることはできない内容です。

前置きが長くなりましたが、関連し、仁徳天皇と「かまどの煙」のパラドックスについて今回は愚考します。

まず、仁徳天皇のかまど伝説ですが、「仁徳天皇|民のかまど~庶民のための政治を行った天皇」によれば次のとおりです。


天皇となった仁徳天皇は、民のための政治を進めていきます。

治水や灌漑設備に力を注ぎ、大阪府寝屋川付近にある茨田堤に堤防を作りました。

難波堀江を作ったのも仁徳天皇であり、この工事こそが日本で初となる大規模な土木工事だったとされています。

さらに新たな農耕地も開拓を進め、新たに作られた田んぼは四万余頃だとされています。

しかし民のための治水や開拓を進めていたある日、仁徳天皇はあることに気づきます。

その日、高い山から四方を眺めて町の様子を見ていた天皇は、民家から炊飯のための煙が出ていなかったのです。

煙が出ていなかった理由について、仁徳天皇は心を痛めます。

そこで仁徳天皇は民へ課していた税金を3年も免除しました。

その間、高津宮に雨漏りが起こるも、修理をせずに我慢したのです。

税金を免除してから3年後、再び仁徳天皇が山から周囲の街を見下ろすと町の家々からは炊飯のための煙がもくもくと立ち上がっていました。

そんな町の様子を見て、仁徳天皇はこんな歌を詠みました。

 高き屋に のぼりて見れば けむり立つ 民のかまどは にぎはひにけり

このエピソードは「民の竈(かまど)」と呼ばれる故事の逸話となっていますが、実は平安時代に仁徳天皇を思って誰かが詠んだ歌なのだとか。

(引用終了)

以上が仁徳天皇かまど伝説ですが、このことと年齢問題を含めて検討しますと、次のことが考えられます。

以上の引用記事では民衆が苦しんだ理由に、農耕地の開拓等の話が出てきますが、巨大古墳建造の話は出てきません。民衆から見ると、農耕地と違い、いくつもの巨大古墳建造は最も不要な事業で、民衆が疲弊したのはこちらの方で、おかしなことです。

そして、仁徳天皇が、110歳まで生き、天皇在位期間が87年間と日本書紀で言われておりますが、実在する多数の巨大古墳との関係から観ると、おかしなことです。

因みに仁徳天皇が眠っていると言われる大仙陵古墳は5世紀前期の時代です。

前回紹介しましたが、仁徳天皇陵以前の100年間(4世紀後~5世紀前)に208mを超える巨大古墳が大阪で6基建造されています。仁徳天皇が110歳まで生きたとなると、100年間、王墓建造は必要なくなります。すると、この時代に建造された巨大古墳は何のために建造されたのか分からなくなります。

以上のことから想像しますと、仁徳天皇の「かまど伝説」美談は、上記引用文が最後に指摘しているように、平安時代の創作だった可能性が高くなります。

そして、これは「歴史のパラドックス」でないかと思われます。

すなわち、「仁徳天皇」は、世界最大の巨大古墳建造で民衆を疲弊させ支持を失った5世紀の大王と推察されますが、500年後の平安時代に「庶民のための政治を行った天皇」として評価され、さらには、その陵墓は現在は世界遺産として評価されてしまいました。さらには、その年齢から存在自体も不明という指摘もあります。

関連し、パラドックスに満ちたそれらの歴史的経過を上トップ(表)に示しました。


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[ 2020/07/28 08:20 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(4)

初期天皇と実在する巨大古墳との関係愚考


大阪に建造された古墳(陵墓)の巨大化


初期天皇と実在する巨大古墳との関係愚考(古代史の問題)

奈良・大阪の巨大古墳は朝鮮半島をルーツにしたツングース系の王家が建造したものであったこと、その結果、民衆が疲弊し怒り、その王家はアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)によって滅ぼされ、さらには、それらの陵墓(古墳)や王墓名もわからなくなってしまったことを検討してきました。

関連し、今回は、古事記と日本書紀(記紀)の天皇名と実在する巨大古墳の関係について愚考します。

まず、実在する最初の奈良(大和)巨大古墳は3世紀中期の箸墓古墳です。これを最初の畿内の大王としますと記紀情報では神武天皇がこれに当たります。

次の4世紀は奈良の巨大古墳の時代です。

次の5世紀は大阪と奈良の巨大古墳時代です。

そして、6世紀になると、実在が確認できる継体天皇が現れます。

これらを一覧表にまとめますと、下表のとおりです。

記紀情報と古代古墳合体(推定)

この表から、歴代天皇と大規模古墳の関係が分かります。すなわち、大規模古墳のほとんどが王墓になると思われます。

因みに、3~5世紀の奈良・大阪における208m以上の巨大古墳は24基あります。これらを、建造時期、場所、墳長を短から長の順に並べ、歴代天皇との関係を事例的に当てはめますと、下表のとおりです。

歴代天皇と陵墓(当てはめ事例)

この表は歴史的事実関係とかなり一致します。すなわち、初代の神武天皇陵墓は3世紀建造の箸墓古墳になります。そして、応神天皇と仁徳天皇が実在とすると、彼らは5世紀前半の王に相当し、それらの王墓名と一致します。

関連し、5世紀前半の大阪の6基の古墳ですが、次第に巨大化していきます。この様子については上トップ図に示しました。この図では、大仙陵古墳建造まで、古墳は巨大化していきました。これらのことは、ツングース系王家の発展を示すもので、5世紀前半はツングース系王家の黄金時代であったと思われます。

しかし、最後の武烈天皇ですが、6世紀初頭の天皇であり、あてはまる巨大陵墓はありません。拙ブログでは、継体天皇と争い、滅ぼされたものと推察しています。日本書紀によれば、武烈天皇は18歳没となっており、その可能性は高くなります。

以上のことから、8世紀に編纂された記紀は、おそらく、こうした3~5世紀の巨大古墳をもとに、王名と王墓を創作、または、継体天皇がこれらの大王の末裔であるように歴史改竄したと思われます。

まとめますと、巨大古墳と天皇家の関係は、初代の神武天皇の陵墓を箸墓古墳としますと、その後の経過は、天皇の人数と巨大古墳(陵墓 208m以上)の数は一致します。

そして、これらの古墳は歴史的に偉大な産物であり、後の大和王家の歴史書(日本書紀)は、現王家はこれらの古墳を残した王家の末裔として記述し、歴史改竄したものと思われます。

なお、箸墓古墳(前方後円墳 全長276m)を卑弥呼の墓とする説がありますが、それはあり得ません。もともと魏志倭人伝には卑弥呼の墓は「径百余歩の墓に葬られた」と記述され、直径30m~50mの円墳または方墳と推定され、全長が200mを超えるような前方後円墳ではありません。

このため、当然のことですが、箸墓古墳(前方後円墳)を卑弥呼の墓とする説に対しては、多くの研究者が否定しています。



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[ 2020/07/23 07:11 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

応神天皇と新羅との関係愚考


応神天皇の正体(書籍)


応神天皇と新羅との関係愚考(古代史の問題)

巨大古墳を建造した王家は朝鮮半島にルーツを持つツングース系であったことを検討してきました。そして、そのツングース系王家は世界最大と言われる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を建造するなど5世紀前半に黄金時代を迎えたと思われます。

仁徳天皇陵に次いで大きい古墳は応神天皇陵です。応神天皇は仁徳天皇の父に当たりますが、まさに、この親子の時代、ツングース系王家の黄金時代であったと思われます。

拙ブログでは、この時代、この王家の支配地は、東は東海、西は九州東岸(大分県)まであったと推察しております。詳しくは「朝鮮半島からのツングース系民族は水田作を受け入れ西日本で発展した」を参照願います。

関連し、今回は、応神天皇について朝鮮半島(ツングース系)由来であったことを、古事記と日本書紀(記紀)も認めていることについて愚考します。

まず、「応神天応の正体」(関裕二 2012)という書籍が出ております(上記写真参照)。

そこには、応神天皇とツングース系新羅の関係が生々しく描かれています。例えば、第四章の見出しですが次の通りです。

第四章 応神天皇と宝の国・新羅
・・・(略)
浮かび上がった仮説
なぜ応神天皇に「新羅」の影がつきまとうのか
・・・
「古事記」は神功皇后を新羅王子の末裔と記す
・・・
応神記に残された朝鮮半島の香り
応神天皇の母・神功皇后と朝鮮半島の関係
・・・
なぜ「日本書紀」は新羅と応神を引き離したのか

(引用終了)

そこで、上記引用の「「古事記」は神功皇后を新羅王子の末裔と記す」ですが、図解すると下図のとおりです。

応神天皇の母方のルーツは新羅

すなわち、神功(じんぐう)皇后は、新羅王子のアメノヒボコの末裔であり、その子の応神天皇は新羅の王子の末裔になります。

神功皇后は女系ですので、その子の男子「応神天皇」のDNA(Y染色体ハプログループ)は父親の「仲哀天皇」の影響を受けていることになります。

すでに検討してきましたように、巨大古墳建造王家は朝鮮半島由来のツングース系と結論されますので、「仲哀天皇」もツングース系と推察されます。

ということは、応神天皇の両親ともツングース系になります。

そして、神功皇后が新羅由来であることから推察しますと、応神天皇は新羅王家の支援を得ていた大王だったと推察されます。

そこで、記紀は、なぜ、応神天皇家は新羅由来と示したのかですが、次のように考えることができます。

まず、記紀が編纂された8世紀(奈良時代)の頃、新羅は、高句麗と百済を7世紀に滅ぼし、朝鮮半島を最初に統一した偉大な国家になっていました。一方、同じころ、日本は北九州にあった倭国を7世紀に滅ぼし日本を最初に統一した国家になっていました。

これらのことから、その新羅と日本の天皇家が縁せき関係にあるというのは悪いことではないと判断したと思われます。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で分かったことですが、継体天皇(在位:507-531年)はアイヌ系で、ツングース系新羅と関係がありません。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

このため、この最近のDNA結果は、現天皇のルーツが朝鮮半島と関係の深いツングース系の応神天皇にあるという記紀の内容と異なります。また、応神天皇は111歳まで生きたとされていますが、当時の状況からすると、相当な長寿であり、これも創作の可能性があります。

そこで、これらを整理し、継体天皇以前の王家はツングース系であったが、記紀の創作により、アイヌ系の継体天皇もこの家系に入れられた、としますと問題は解決します。


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[ 2020/07/18 14:53 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

継体天皇の系譜の真実性愚考


継体天皇の系譜


継体天皇の系譜の真実性愚考(古代史の問題)

前回、日本書紀の記述、特に、26代の継体天皇以前の天皇は創作、または別の王家の大王名であったことを指摘しました。

今回は、記紀にある継体王の系譜の真実性について、さらに検討します。

まず、日本書紀では、継体天皇は、応神天皇から傍系の5代目の子孫とされています。その系譜を上トップ図に示しました。

この系譜図の流れから見ますと、継体天皇は応神天皇5代目の血縁者になります。しかし、応神天皇と継体天皇の間には天皇になった者はおらず傍系になります。

継体天皇は、大和の王家から請われて大王になったと言われておりますが、王宮は従来の大和王家と別の大阪北部等に作られていて、奈良・大阪の旧勢力と対立していた印象を受けます。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。

また、武烈天皇(25代)に後継者が居なかったことから想像しますと、常識的には、20代の安康天皇、22代の清寧天皇、23代の顕宗天皇、24代の仁賢天皇の子孫が次期天皇候補に挙がります(上図参照)。

また、100歳以上の天皇は創作と思われることを指摘してきましたが、継体天皇の祖先の応神天皇も111歳と100歳を超えていて年齢に疑問があり、実在性が怪しくなります。

また、最近分かったことですが、継体天皇のDNAはアイヌ系です。これまで指摘してきたように応神天皇がツングース系王家の大王であるとすると、継体天皇とは系譜が違うことになります。

以上のことから推察しますと、継体天皇が応神天皇の系譜という説明は、継体天皇を無理に応神天皇の系譜に押し入れた感じがします。

そこで、15代応神天皇~25代武烈天皇までを継体王とは別の奈良・大阪のツングース系王家としますと、次のように考えることができます。

継体天皇直前の天皇9名(17代~25代)は、年齢や在位期間がとても実在らしく見え、実在した可能性があります。特に、それら9名の在位年数の合計は103年です(下表参照)。

応神天皇由来の天皇一覧

関連し、継体天皇(在位:507-531年)前の5世紀の100年間に200mを超える巨大古墳が奈良・大阪で17基建造されています。この中のいくつかが、実在した王の陵墓とすることができ、その時代に建造された巨大古墳との関係に矛盾はありません。

問題は、それぞれの陵墓と天皇名の関係がまったく分からないことで、継体天皇とそれ以前の天皇の間に深い闇があります。

また、最後の25代の武烈天皇ですが、18歳の若さで亡くなっています。この理由として、継体天皇に滅ぼされた可能性があります。

そして、継体天皇の治世から、200mを超えるような巨大古墳建造はしばらくなくなります。その意味で、民衆を疲弊させる巨大古墳建造という悪政をストップさせたのが継体天皇になります。まさに、ここから新王朝が始まった雰囲気が感じられます。

以上の推察をまとめますと、継体天皇直前の天皇9名(17代~25代)は、朝鮮半島由来で巨大古墳建造ツングース系王家の大王となり、一方、継体天皇は、それらを滅ぼしたアイヌ系の大王となります。

結論として、前回指摘のように、日本書紀は、継体天皇を応神天皇の末裔としていますが、矛盾が多く、歴史改竄があったと思われます。


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[ 2020/07/14 07:45 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

継体天皇以前の天皇名は実名か創作か


初代~26代天皇の在位年数と年齢


継体天皇以前の天皇名は実名か創作か(古代史の問題)

アイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)が、奈良・大阪を支配していたツングース系王家を滅ぼし、新王朝を始めたことを指摘してきました。このことは、記紀に記されている彼以前の天皇名は、現天皇家とは関係のないツングース系の大王名であった可能性を示唆します。

関連し、今回は、継体天皇以前の天皇名について、実在なのか創作なのか、再度、愚考します。

まず、記紀にあります初代~26代継体天皇までの天皇を上トップ図にまとめました。

そして、初期天皇の実在性ですが、Wikipedia(天皇の一覧)によれば次のとおりです。

初期天皇の実在性[編集]

初代神武天皇から十数代の初期天皇の実在性については、諸説ある。第二次世界大戦後の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。しかしながら現代でも初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇が特に研究対象として重視された[2]。

初代神武天皇以降を実在とする説[編集]
古代から第二次世界大戦中までは日本では神武天皇は実在したと考えられてきたが、戦後になると神武天皇の実在は疑問視されるようになった。これに対し、初代神武天皇の実在性を唱える者は安本美典、森清人[3]などが存在する。古田武彦は神武天皇の大和朝廷を九州の邪馬台国の分家であると主張している。

第10代崇神天皇以降を実在とする説[編集]
第10代崇神天皇を実在可能性がある最初の天皇とする説がある。日本史研究の立場からは和風諡号が同一であること、事跡の共通点などから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする。なお、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、『日本書紀』に『旧辞』的記述(事績等に関する記述)がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる。

第15代応神天皇以降を実在とする説[編集]
津田左右吉によって、3世紀後半から4世紀初めにかけて在位したと考えられる第15代応神天皇が初代天皇とみなされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、第二次世界大戦後、歴史学の主流となった(「欠史十三代」)が、その後の研究により崇神以降の実在性が強まり、「欠史八代」へ変化した。

第26代継体天皇以降を実在とする説[編集]
1970年代以降の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されている。このため、6世紀前半に在位したと考えられる第26代継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として、第25代武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。

(引用終了)

以上の記事から判断しますと、拙ブログは、「第26代継体天皇以降を実在とする説(新王朝説)」という説を支持していることになります。すなわち、継体天皇は、アイヌ系であり、それ以前の王朝(ツングース系王権)とは血縁関係のない政権を作ったことになります。

なお、現天皇に繋がる継体天皇がアイヌ系であることについては「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

関連し、継体天皇新王朝開始(説)の根拠ですが、拙ブログでは次のように考えています。

まず、記紀の記述について信用することはできないことです。例えば、110歳(表では143歳?)まで生きたと言われる仁徳天皇については多くの学者が年齢に否定的です。さらには、100歳以上生きた天皇が初代の神武天皇~16代の仁徳天皇までに12人も居ます。これらも、ほとんどの学者が年齢について否定的です。

そこで、日本書紀という書籍の狙いについて検討しますと、一般に次のように言われております。

記紀ができた奈良時代は、奈良の都に外国人が訪問するようになり、それら外国人に日本の紹介が必要になった。そこで、中国と同じように古くからあった偉大な国として見せるため、それは漢文で書かれ、継体天皇以前からも天皇が居たことにした。

一方、その記紀ができる200年前に、継体天皇が新王朝を立てました。この王朝交代の最大の要因は、巨大古墳建造を続けたツングース系王家に対するアイヌ系等の人々の不満でした。

弥生時代、初めに発展し王家を作ったのは朝鮮半島由来の鉄器を持って来たツングース系民族でした。一方、多数派のアイヌ系は発展が遅れましたが、水田稲作を受け入れ、古墳時代、それらの中には、首長になる者も出てきました。

アイヌ系の首長の中には、ツングース系王家の巨大古墳建造に怒りを持ったものも居たと思われます。その結果、両者の激しい戦いもあり、その中で出てきたのがアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)だったと思われます。

しかし、その200年後、そうした対立も解け、継体天皇のルーツを古くからあったように見せるため、ツングース系王家が残した巨大古墳も継体王天皇の先祖が残したものとした、すなわち、記紀は歴史改竄したと考えることができます。

以上の結果、記紀は、天皇名を創作したことになりますが、創作でない場合もあり得ます。この場合、ツングース系王家の実際の王名だけ利用したことになります。

年齢と在位年数から見ますと、17代(履中天皇)~25代(武烈天皇)が実在の可能性があります。因みに、武烈天皇の名前は、朝鮮半島「新羅」の王名にもあり、ツングース系の雰囲気があります。

まとめますと、17代(履中天皇)~25代(武烈天皇)が実在の可能性があり、それらは、現天皇家と関係のないツングース系王家の名前だったと結論されます。すなわち、現天皇家がツングース系王家の末裔として記述している記紀は明らかに歴史改竄をしたと思われます。



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[ 2020/07/09 06:59 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(1)

朝鮮半島のツングース系言語と関西弁の関係

朝鮮半島からの言語の流れ


朝鮮半島のツングース系言語と関西弁の関係(日本語のルーツ)

南方系のマレー系民族と北方系のツングース系民族の2系統が日本に移住し、マレー系は3~5世紀に北九州に邪馬台国~倭国を建設、一方、ツングース系は3~5世紀に奈良・大阪に巨大古墳建造国家を建設したことを検討してきました

また、拙ブログでは、マレー系が北九州倭国を建設したことと関連し、「そうやろ」、「ばってん」等の北九州方言はマレー系言語に由来することを指摘しました。詳しくは「古代北九州ではマレー語が使われていたようだ」を参照願います。

同様に、大阪・奈良にツングース系国家があったとすれば、言語への影響もあるはずです。

関連し、今回はツングース系言語の関西弁への影響について愚考します。

まず、「関西弁に似たイントネーション?釜山と済州島の韓国語・方言集10選」 という記事があります。引用しますと、次のとおりです。

まるで大阪?男らしい口調が特徴の釜山の方言


釜山は有名なビーチがあることでも知られており夏には世界各地から多くの観光客が訪れます。しかし、釜山で使われている方言は関西弁のようにイントネーションが大きく異なり、語尾も変化します。

1.어디가노?(オディガノ)/ どこ行くの?
標準語は「어디가?(オディガ)」です。釜山の方言の特徴は語尾に「ノ」がつくことです。これと同じような形で「뭐해?(モヘ)」が「므하노?(ムハノ)」になります。日本語では「何してるの」という意味です。

2.밥 먹나?(パッ モンナ)/ ご飯食べた?
標準語は「밥 먹었어?(パッモゴッソ)」です。このように。語尾が「ナ」に変わることもあります。これは、疑問形で「yes」か「no」で答えられる質問の時に限ります。

3.아이가?(アイガ)/ 違う?
標準語は「아니야?(アニヤ)」です。標準語ではこのように語尾を上げ下げするだけで意味が通じるのですが、釜山の方言では語尾が少し変わるのが特徴です。ちなみに「아이다(アイガ アイダ)」は「違うよ」という意味の方言になります。

4.므하노?(ムハノ)/ 何してるの?
標準語は「뭐해?(モヘ)」です。日常会話で頻繁に使われる単語ですが、方言になるとかなり違うので注意が必要です。

5.맞나?(マンナ)/ そうなの?
標準語は「그래?(クレ)」です。釜山では、この言葉が相槌を打つ時によく使われます。上手く発音するコツは最初の音を強く発音することです。

(引用終了)

引用が長くなりましたが、まとめますと、釜山の方言には、関西弁に近いイントネーションがあるとのことです。

そこで釜山と日本の関係です。釜山はツングース系「新羅」の都だった慶州のすぐ南にある大きな港で、いわばツングース系民族が日本へ移住するとき一時居留した港、あるいは、鉄の産地の慶州から、日本へ鉄を送るとき港になった場所と思われます。

ツングース系民族が日本で支配者になれたのは鉄製農具を持っていたためと指摘してきましたが、その意味で、関西(大阪)で日本の支配者になった人々の言語が釜山方言に似ていることは、おかしなことではないと思われます。

また、奈良に古くからある日本語には、大和(やまと)、飛鳥(あすか)など、そのままは読めない漢字があります。もし、これらの言語がツングース系言語に由来するとなると、古代史の謎が解けることになります。

また、初代の神武天皇~25代の武烈天皇は、ツングース系大王と拙ブログでは見ていますが、これらがツングース系の名前となると、ツングース系と日本の古代史の関係が見えてきます。因みに、神武、武烈は新羅王朝の王名に同じ名前を見ることができます。

まとめますと、関西弁が釜山方言に似ているということは、古代に釜山人(ツングース系)が大阪居たことを示唆する重要な情報と思われます。これからさらに検討していきたいと思います。

関連し、釜山と関西の関係を上トップ図に示しました。

なお、日本語のルーツですが、これは、アイヌ系言語がベースになり、これに万葉仮名の発音(マレー語の発音)が加わったものと思われます。詳しくは「日本語のルーツはアイヌ語とマレー語」を参照願います。

また、拙ブログ左側にあります「カテゴリ」の「日本語のルーツ」をクリックしますと、これまでの関連記事を見ることができます。



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[ 2020/07/04 07:20 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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