日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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邪馬台国の支配者はツングース系だった [2020/08/30]
倭国の大乱の原因は民族対立だった [2020/08/25]
ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか [2020/08/20]
三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考 [2020/08/15]
朝鮮半島と日本列島の古代国家発展の類似 [2020/08/10]
日本のツングース系王家と新羅との関係 [2020/08/05]
馬とツングース系王家 [2020/08/01]
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邪馬台国の支配者はツングース系だった
邪馬台国の支配者はツングース系だった
(古代史の問題)
前回、北九州にあった邪馬台国の住民の多くは南方系稲作民族のマレー系であったが、支配していたのは北方系のツングース系であったことを、前方後方墳の存在から推察しました。
関連し、今回は、「魏」という国への朝貢という外交姿勢からも、ツングース系であったことが伺えることを愚考します。
日本の邪馬台国時代の3世紀、中国は魏・蜀・呉の三国志の時代です。すなわち、揚子江北部平原を支配していた魏、西部盆地を支配していた蜀、揚子江平原を支配していた呉がありました。
また、朝鮮半島は、北部は高句麗、南部は三韓(馬韓、弁韓、辰韓)地域に分かれていました。
そして、古代日本の外交ですが、まず、1世紀(57年)、北九州にあった奴国が漢に朝貢し、「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)という金印をいただいたという話は有名です。
続いて3世紀の邪馬台国時代ですが、女王は魏に朝貢し親魏倭王の封号を得ています。
なぜ魏に朝貢したのでしょう。三国志の時代ですので、南部の呉に朝貢することもできたはずです。特に邪馬台国が稲作民族マレー系の国なら、稲作民族の多い呉の方に朝貢したと思われます。事実、後の5世紀「倭の五王」時代、南朝(宋)に朝貢しています。
また、漢字の読み方に南方系の呉音読みと北方系漢音読みの2種ありますが、日本は南方系の呉音読みを採用しています。これは、中国の南方系と縁の強かった百済から仏教(漢字経典)を導入した影響と言われます。詳しくは「
万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字
」.を参照願います。
そこで、これらのことについて整理しますと、次のことが考えられます。
前回指摘のように、邪馬台国の時代、北九州地域を支配していたのは朝鮮半島をルーツに持つ少数派のツングース系民族の首長でした。
ツングース系高句麗の場合の外交ですが、高句麗は、魏に朝貢していたことが分かっています。そして、同じくツングース系の新羅ですが、新羅は高句麗を介して 377年に北朝(前秦)に朝貢したとあります。
すなわち、ツングース系国家が朝貢する場合、中国の北朝が一般的です。同じように、邪馬台国も首長はツングース系であり、北朝(魏)に朝貢し、魏の後ろ盾を得て、争いの多い邪馬台国を治めようとしたと思われます。
特に、邪馬台国は、南部に対立している狗奴国があり、少数派のツングース系にとって、大国からの支援は重要だったと思われます。
まとめますと、北九州は稲作民族のマレー系が多数派でしたが、最初に支配したのは鉄器を持っていたツングース系の首長でした。しかし、少数派だったため、他のマレー系首長と争いが絶えず、これが倭国の大乱の要因だったと思われます。
卑弥呼もツングース系首長グループで、南部の狗奴国との対立もあり、魏に支援をもとめて朝貢したと推察されます。
そして、前回も指摘しましたが、4世紀中ごろになると、逆に百済の支援を受けた多数派のマレー系が倭国の実権を握りました。5世紀には倭の五王時代となり、南宋に朝貢し、同胞の百済支援のため、朝鮮半島に出兵し、ツングース系の高句麗、新羅と戦うようになったと理解されます。
関連し、3世紀邪馬台国時代と5世紀の倭国時代の外交の様子を上トップ図に示しました。
日本史ランキング
[ 2020/08/30 10:46 ]
古代史の問題
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倭国の大乱の原因は民族対立だった
倭国の大乱の原因は民族対立だった
(古代史の問題)
魏志倭人伝によれば、3世紀前半に倭国の大乱があり、そのなかで「卑弥呼」が女王に推挙され、大乱がおさまったとあります。
また、北九州地域の傷ついた多数の人骨遺跡から、その大乱では激しい戦争があったことが伺えますが、何故、このような激しい大乱が起きたのか分かっていません。一説には、弥生時代が発展し、食料が増産され、その富の分配の争いが主要因と言われますが、それだけで激しい争いが起きるものなのか、すっきりとした解答は得られていません。
因みに、北関東・東北南部も弥生時代に発展し富が増えたことは明らかですが、倭国の大乱のような争いは確認されていません。詳しくは「
弥生稲作と戦いはリンクしているのか
」を参照願います。
一方、その時代の遺跡として佐賀県の吉野ケ里が有名ですが、最近、そこから前方後方墳(方墳)が3基見つかっています。
前方後方墳は方墳の一種で、ルーツは朝鮮半島ツングース系の墳墓と判断されますが、このことから、吉野ケ里の支配者はツングース系の首長だったと判断されます。
北九州は、稲作民族のマレー系が多く居たところと拙ブログでは見てきましたが、以上のことは、多数派のマレー系の上に少数派のツングース系の首長が居たという問題があった可能性を示唆します。
なお、北九州にマレー系が多かったことについては、「
邪馬台国の場所と民族
」を参照願います。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、吉野ケ里遺跡の前方後方墳と倭国の大乱の関係について愚考します。
まず、吉野ケ里のある北九州の弥生時代発展の経過について、次のように考えることができます。
北九州は、3000年前頃から南方系のマレー系が移住し、石器による水田稲作を始めた地域でした。そこへ、2300年前頃、鉄製農具を持った北方系のツングース系が入ってきました。鉄製農具は、水路や畔造成に必要な道具で、水田稲作にたいへん有用です。このため、鉄器と共にツングース系民族は受け入れられました。
その結果、水田稲作は発展し、富が生まれ、人口が増え、首長が生まれました。おそらく、吉野ケ里で首長になったのがツングース系であり、その結果、ツングース系首長のシンボルである前方後方墳が作られたのではないかと思われます。当然のことですが、他の地域にはマレー系の首長も居たと思われます。
吉野ケ里のツングース系首長の場合、少数派が多数派を支配するという矛盾がありました。さらに、他の地域にはマレー系の首長が居ました。この結果、主導権争いという戦争に発展し、これが倭国の大乱の主要因となったのではないかと思われます。例えば、ツングース系首長とマレー系首長の争いがあちらこちらで発生した等です。
卑弥呼について考えますと、鬼道に通じていたとあります。この鬼道(占い)のルーツは北方系ですので、卑弥呼はツングース系女性シャーマンだった可能性があります。詳しくは「
卑弥呼は北方系色白美人であった愚考
」を参照願います。
また、南方の狗奴国(熊本県辺り?)は女王国に従わなかったとあります。これは、狗奴国はマレー系やアイヌ系が多く、ツングース系の女王を好まなかった可能性もあります。
そして、卑弥呼が死ぬと、また大乱になったとありますが、卑弥呼の登場は一時的なもので根本解決、すなわち民族対立の解決にはならなかったと想像できます。
その後、台与を立て再度倭国の大乱はおさまりました。その後の経過は不明ですが、拙ブログでは次のように考えています。
その後、4世紀後半になりますが、多数派のマレー系はツングース系首長を追い払い、自らの政権「倭国」を立てたと推察されます。
この後ろ盾のなったのが同じマレー系の百済と思われます。「倭国」は、百済と連合し、399年~404年にツングース系「高句麗」の広開土王と戦ったとありますので、この「倭国」の建設時期は、4世紀中頃以降と思われます。詳しくは「
空白の時代があったのか
」を参照願います。
なお、百済は、歴史的に確認できるのは4世紀前半となっています。もともと百済の地域は朝鮮半島南西部の稲作地帯にあり、稲作民族のマレー系が多数居たところです。おそらく、多数派のマレー系が4世紀前半に自立したと思われます。そして、北九州のマレー系を救援し、マレー系連合関係を作り、北方の強敵「高句麗」と共同して戦ったのではないかと思われます。
まとめますと、吉野ケ里の前方後方墳の存在は、倭国の大乱に関し、少数派のツングース系首長と多数派のマレー系首長の対立という民族問題を示唆します。
関連し、3世紀の状況を上トップ図に示しました。
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[ 2020/08/25 10:34 ]
古代史の問題
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ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか
ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか
(古代史の問題)
多数の巨大古墳を建造したツングース系王家が3~5世紀に奈良・大阪にあったことを検討してきました。このことは、実在する古墳や馬具工房跡などの遺跡からだけ言えることです。残念ながら、魏志倭人伝のような外国記録は、朝貢が無かったためか、奈良・大阪のツングース系王家についてはありません。
関連し、「ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか」について、今回は愚考します。
その理由は2点、考えられます。
第1点目は、敵対する対抗勢力はなく、外国の後ろ盾は要らなかったため朝貢は必要なかったことです。すなわち、民は、アイヌ系等の縄文人由来が大半で従順でした。一方、ツングース系王家は、近畿地域に居るツングース系民族の協力があり、強力であり、かつ一強でした。
臣下の関係を示す「三角縁神獣鏡」も製作し、東は群馬、西は福岡まで4世紀に配布しました。また、5世紀には騎馬軍団と準構造船を持ち、最強となりました。このため、外国に頼る必要はありませんでした。
なお、騎馬軍団と準構造船について、詳しくは「
馬とツングース系王家
」を参照願います。
第2点目は、外交したくても適当な外国が見当たらなかったことです。例えば、中国ですが、3~5世紀は分裂しておりました。
また、同じツングース系の仲間の国については、新羅、高句麗が考えられますが、高句麗については中国と対立しており朝貢相手として適当ではありません。一方、先に紹介しましたように、新羅は4世紀に建国したばかりで、5世紀は高句麗、百済、北九州倭国に責められ、日本のツングース系王家と交流する余裕はありませんでした。
以上のことから、奈良・大阪のツングース系王家については、外国に記録がありません。
そして、6世紀になると、時代は変わり、巨大古墳建造に対する民衆の疲弊と怒りは大きくなりました。そして、この民衆の怒りを味方にしたアイヌ系「継体天皇」(在位:507-531年)にツングース系王家は滅ぼされてしまいました。
世界遺産となった仁徳天皇陵などの巨大古墳や王宮についてのツングース系王家の記録がまったく残っていないことから想像しますと、アイヌ系出身の「継体天皇」の怒りは極めて大きく、おそらく王家記録抹殺のための焚書があったものと思われます。
また、それらの王家の末裔も確認されていません。歴史の反動と言いますか、ツングース系王家と関係していたことを名乗り出ることができないような時代が続いたと思われます。このことについて、詳しくは「
天皇家のルーツはアイヌ系の継体王
」を参照願います。
まとめますと、奈良・大阪のツングース系王家は、巨大な敵が無かったため、外国の後ろ盾は必要なかったこと、また、中国は分裂していたため朝貢はしなかったことが考えられます。そして、その王家は6世紀初(507年?)に継体天皇に滅ぼされましたが、焚書があり、記録は残らなかったと思われます。
関連し、奈良・大阪のツングース系王家の黄金時代5世紀前半の様子を上トップに示しました。
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[ 2020/08/20 10:41 ]
古代史の問題
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三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考
三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考
(古代史の問題)
初期の近畿の支配者は、朝鮮半島から鉄製農具を持ってきたツングース系民族が建設した王家であったことを検討してきました。
一方、その近畿の古墳から三角縁神獣鏡が多量に出土しています。この鏡は中国の鏡に似ていることから、これらは邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝からいただいた鏡と断定し、これを証拠に、邪馬台国は近畿(大和)にあったという説がありました。
しかし、この説は、鏡の出土した古墳は4世紀前半建造で、卑弥呼時代の3世紀前半でないこと、中国にこの種の鏡の出土例がないことから、完全に否定されています。
そこで、何故、4世紀の近畿にこれらの鏡多く出土しているのかという疑問が残ります。
関連し、今回は、三角縁神獣鏡が何故近畿に多いのか愚考します。
まず、これは国産品ということになりますが、ブログ「邪馬台国探訪」の「
三角縁神獣鏡の由来
」によれば次の通りです。
中国社会科学院考古研究所前所長の王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなく、当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」との説を唱えています。
その説によると、三角縁神獣鏡のデザインは如何にも呉的であり、鏡に使われている銅の成分も呉のものだから、呉人が倭国内で作った鏡だろうと云うわけです。
(引用終了)
上記引用記事によれば、三角縁神獣鏡は、中国の3世紀、南部にあった呉の国の人たちが日本に来て製作したものと思われます。日本での製作時期を3世紀末、古墳出土を4世紀としますと、次のような経過が考えられます。
漢が220年に滅びた後、中国は魏・蜀・呉の三国時代に入ります。しかし、内陸部を支配していた蜀が263年年に魏に滅ぼされます。その後、中央部を支配していた魏が265年に滅び、晋(西晋)に代わります。続いて、南部を支配していた呉が280年にその晋に滅ぼされます。
以上の経過から、呉の人々が日本に来たのは、呉が滅びた280年頃と歴史的経過から推察されます。
何故、日本に来たのかですが、もともと呉は中国南部の稲作地帯にあり、日本と朝鮮半島に水田稲作を持ち込んだマレー系の人々の故郷です。その意味で、呉の時代も交流は続いていたと思われます。
そして、呉が滅びると、新天地を求めて大挙して移住してきたのではないかと推察されます。当時、日本はまだ田舎であり、先進技術を持っていた人々は歓迎されたと思われます。
当時、日本を統治していたのは、北九州地域では邪馬台国後継王家、そして、近畿地域ではツングース系王家でした。
紹介してきましたように、近畿のツングース系王家は、3世紀の奈良纏向遺跡に始まり、4世紀にはいくつもの巨大古墳を建造し、発展し、支配地域を広げていました。そして、支配を強化するため、支配地と王家を結ぶ宝物を必要としていたと思われます。
この宝物は、卑弥呼が中国の魏からいただいた「銅鏡100枚」と同じようなもので、地方の首長は、それを持つことによって強大な大和のツングース系王家の臣下となり、かつ、後ろ盾を得ていることを示すことができたのではないかと思われます。
こうしたなか、呉から来た鏡職人は、その宝物、すなわち「三角縁神獣鏡」の製作者として歓迎されたと思われます。
因みに、その「三角縁神獣鏡」の都道府県別の分布ですが、「
三角縁神獣鏡の謎
」によれば、下表のとおりです。
ここから、当時4世紀の奈良のツングース系王家と他地域との関係が分かります。すなわち、近畿地域が圧倒的に多く、続いて、東海、中国地域が多く、ツングース系王家の支配地、あるいは地域首長とツングース系王家の関係が分かります。
これらの地域外では、福岡が特に多い特徴があります。これは、おそらく、奈良の大和政権は福岡各地の首長(豪族)と関係をもっていた可能性があり、この状態は北九州倭国が独立する4世紀後半まで続いていたと思われます。このことについては後程さらに検討する予定です。
また、関東では群馬に多い特徴があります。おそらく奈良王家は、群馬を関東支配の拠点にしようとし、関係を強めようとしていたのかもしれません。
そして、5世紀になりますと、奈良王家は拠点を大阪に移し、さらに大きな発展を遂げたことはこれまでの報告のとおりです。
まとめますと、三角縁神獣鏡は、3世紀中ごろに奈良に権力を確立したツングース系王家が、臣下の関係を示すシンボルとして3世紀末に呉の職人に作らせたもので、ツングース系の臣下の多い近畿地方に多く配られたものと思われます。
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[ 2020/08/15 10:06 ]
古代史の問題
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朝鮮半島と日本列島の古代国家発展の類似
朝鮮半島と日本列島の古代国家発展の類似
(記事まとめ)
日本の歴史は、縄文時代から弥生時代、そして古墳時代へと発展しました。
この発展過程には、南方系の稲作民族のマレー系と北方系畑作民族のツングース系の渡来が重要な役割を果たしました。
因みに、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系(中国系+モンゴル系)が25%、その他が10%です。詳しくは「
最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正
」を参照願います。
関連し、日本の古代、特に弥生時代~古墳時代は、マレー系とツングース系の民族がベースになって発展したことを、朝鮮半島の古代国家との関連で、今回は愚考します。
まず、日本ではマレー系民族が南方から持ち込んだ高生産性の水田稲作が3000年前から始まりました。しかし、水田稲作には水路造成や水を貯める畔造成が必要であり、それを拡大するためには鉄製農具が不可欠でした。しかし、鉄製農具は不足し、普及は遅れました。
そこへ、2300年前頃、朝鮮半島由来のツングース系民族が鉄製農具を持ち込みました。この結果、水田造成や水路造成が可能になり、北九州地域は急速に食料が増え、人口が増大し、地域リーダーの首長が生まれました。
そして、北九州地域には、首長を統合した小国家が生まれ、小国家連合の邪馬台国が生まれ、次いで、北九州地域は倭国に発展して行きました。
一方、ツングース系民族は、満州地域(中国東北部)でモンゴル系と中国系の混合混血から発生した新民族です。言葉はモンゴル系、生業は、初期は半農半猟で、しだいに南に移住し、朝鮮半島の主要民族となりました。詳しくは「
北方系民族故郷の満州とツングース
」を参照願います。
その後、彼らは、鉄の産地「慶州(もと新羅の首都)」の鉄製農具を持って弥生時代の2300年前頃から多数移住してきました。移住した場所は縄文人の少ない近畿地域等の西日本中心でしたが、この結果、縄文時代に人口が少なかった地域で農業が発展し、人口が急速に増大しました。
この人口増大を、Koyama(1986)の地域別人口変動で見ますと下表のとおりです。
この表では、縄文時代晩期人口が、近畿、中国、四国で少ないことが分かります。因みに、これら3地域の合計は、隣の東海や九州よりも少ない人口となっています。
次に、縄文時代晩期の人口に対し弥生時代人口増加程度を「弥生時代人口/縄文時代晩期人口」で見ますと、近畿、中国、四国は29.4~60.2倍、その他の地域は0.8~16.7倍と、両地域に大きな差異が認められます(上表参照)。
この近畿、中国、四国地域の弥生時代人口増加は次のように考えることができます。
すなわち、これらの地域は縄文時代人口が少なかったが、弥生時代に朝鮮半島からツングース系民族が移住し、鉄製農具で農業を行い、人口が増加した。一方、その他の地域は、縄文時代の採集経済の影響が大きく、かつ鉄製農具の導入が遅れ、人口増大が少なかった。
一方、弥生時代から古墳時代の人口増加ですが、近畿、中国、四国地域は引き続き増加が大きい傾向が認められますが、その他の地域も増加が認められ、極端な差は無くなっています。
以上のことをまとめますと、弥生時代、ツングース系は、縄文時代に人口が少なかった地域に居住し、鉄製農具の有利さから人口が増大し、3世紀には近畿地域で主役になったと思われます。その結果、近畿地域で初めてツングース系王家が生まれ、その王宮跡が奈良の「纏向遺跡」と思われます。
次いで、ツングース系王家は4世紀には、近畿のほか、東海、中国地域の一部を支配し、さらに5世紀には、瀬戸内を通過し、四国、九州地域の一部まで支配しました。これらの支配地域は、上の表で、もともと縄文人が少ない地域で、ツングース系が移住し人口が増大した地域でした。
まさに、弥生時代、古墳時代の主役は、北九州地域を除けば、ツングース系民族だったと思われます。
まとめますと、朝鮮半島にはツングース系とマレー系の2系統の流れをあることを拙ブログでは紹介してきましたが、その2系統の流れは、そのまま日本にも持ち込まれとものと思われます。
すなわち、日本の古代は、西の北九州では南方系のマレー系を中心とした小国家が誕生し、東の近畿地域ではツングース系の王家が誕生しました。
関連し、マレー系とツングース系の移住と5世紀頃の古代国家の関係について上トップ図に示しました。
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[ 2020/08/10 07:52 ]
ブログの概要(記事まとめ)
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日本のツングース系王家と新羅との関係
日本のツングース系王家と新羅との関係
(古代史の問題)
古墳時代の奈良・大阪に巨大古墳を多数建造したのは、弥生時代に渡来してきた朝鮮半島由来のツングース系民族の王家であったことを検討してきました。この歴史は、朝鮮半島由来の鉄と古墳の流れから考えますと、当然のことと思われます。
一方、日本に影響を及ぼした朝鮮半島のツングース系国家の代表は、鉄産地の慶州を中心に展開した新羅と判断されます。
関連し、今回は、同じルーツを持つ新羅と日本のツングース系王家の関係について愚考します。
まず、Wikipedia(新羅)によれば、4世紀以降の新羅の状況は次のとおりです。
周辺諸国と新羅[編集]
377年の前秦への遣使が高句麗と共同で(高句麗の影響下で)行われたことに見られるように、新羅の登場は高句麗と密接にかかわっている。初期の新羅は高句麗に対し相当程度従属的な地位にあった。382年に新羅は再度単独で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的条件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる[3]。同時に新羅は建国初期から倭人の脅威にも晒されていた。『三国史記』「新羅本紀」は建国初期からたびたび倭人の侵入があり戦いを繰り返していたことを記録している[26]。また、西隣の百済、それに同調する伽耶諸国とも対立しており、それらに対して倭が軍事支援を行っていたとも伝えられる[15]。
4世紀末から5世紀にかけてこうした状況は『三国史記』や『日本書紀』のような歴史書、韓国で発見された中原高句麗碑などの発掘史料、そして何よりも広開土王碑など多くの史料によって良く示されている。広開土王碑は新羅を高句麗の属民として描くとともに[15]、この時期に朝鮮半島で行われた大きな戦いを記録している。それによれば高句麗は古より百済を「属民」としていたが391年に倭国が百済を「臣民」としたために出兵し倭軍を撃退した[27]。その戦いの中、400年頃には新羅の王都が倭軍に占領されたために高句麗が新羅に出兵し、倭軍を蹴散らし「任那加羅」まで追ったという[27]。この広開土王碑文の解釈を巡っては様々な議論があるが、『三国史記』や『日本書紀』にこれらと対応すると見られる記録として、新羅が高句麗と倭の両方に王子宝海(卜好)と美海(未斯欣)を送ったことが伝えられる[15][28]。また、中原高句麗碑は高句麗が新羅領内で人夫を徴発していたことを記録している[15][註釈 1]。同碑文は高句麗王と新羅寐錦(王)の関係を兄弟に擬制し、高句麗王を兄とした明確な上下関係を表現している[15]。
新羅が国力を増し、高句麗からの自立を図るようになるのは5世紀の半ば頃からである[30]。450年、新羅が高句麗の辺将を殺害するという事件が起きた[31]。これによって高句麗が新羅征討を計画したが、新羅が謝罪したため一旦問題は収まった[31]。しかし、454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘となり、翌年には高句麗と百済の戦いで百済へ援軍を送るなど新羅は次第に高句麗に対する自立姿勢を明確にしていった[30][31]。
(引用終了)
引用が長くなりましたが、新羅の歴史をまとめますと次のとおりです。
新羅建国は4世紀後半(377年)で、そのことが中国(前秦)への遣使や高句麗広開土王碑文から確認できます。そして、建国直後の5世紀前半は、北は高句麗、西は百済、南は北九州倭国から圧迫され、高句麗の属国となり自立できずにいたが、5世紀後半以降に自立発展していった。
一方、日本におけるツングース系王家の歴史ですが、まとめますと次のとおりです。
3世紀に奈良の纏向遺跡に始まり、4世紀には発展し多数の巨大古墳を建造した。さらに5世紀前半には頂点に達し、東海~西日本~九州の一部(大分当たり)を支配し、世界最大とも言われる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を大阪に建造するに至った。
そして、5世紀以降の日本のツングース系王家と新羅との関係ですが、以上の両国の歴史から、次のように考えることができます。
まず、5世紀前半は、日本(近畿)のツングース系王家の黄金時代ですが、新羅の方は周囲の圧迫が強く、日本を支援する余裕はなく、このため関係は弱かったと判断されます。
そして、5世紀後半になると関係は逆転し、新羅は自立化し、領土を拡大し、一方、日本のツングース系王家は多数の巨大古墳建造が祟り、民衆は離反し、弱体化していった時代と判断されます。
一方、5世紀後半は、北九州倭国の全盛時代で、倭王「武」が、宋書によれば478年に、朝鮮半島南部を支配する「六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の将軍号を得たとあります。このことから、北九州倭国は強く、奈良・大阪のツングース系王家は北九州倭国と戦う力は無かったと推察されます。
なお、倭王「武」について、詳しくは「
倭王武は百済の武寧王になった
」を参照願います。
ツングース系王家黄金時代の5世紀前半の応神天皇ですが、先に紹介しましたように、新羅と血縁関係があったことを記紀は示しております。しかし、あるのは同じツングース系という血縁関係だけで、支援関係とかの実質的な強い繋がりは無かったというのが真相と思われます。
以上のことから、日本のツングース系王家は、5世紀前半に黄金時代を迎えましたが、その歴史は新羅に残ることはありませんでした。
そして、日本のツングース系王家は、巨大古墳建造に対する民衆の怒にあい、継体天皇(在位:507-531年)に滅ぼされ、その関係の書物は焚書にあい、王陵の名前等も分からなくなってしまったと推察されます。
関連し、日本のツングース系王家は、外国との強い関係をもっていなかったため、滅亡が早まったとも判断されます。例えば、王家は、北陸出身のアイヌ系の継体天皇に滅ぼされましたが、継体天皇の力は強大ではなく、外国の支援があれば持ちこたえたかもしれません。
また、民衆を疲弊させた巨大古墳建造ですが、新羅から儒学者が来ていたら、民衆を疲弊させる巨大古墳建造はストップしていたかもしれません。
関連し、新羅、百済、北九州倭国、近畿ツングース王家の5世紀の様子を上トップ図に示しました。
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[ 2020/08/05 13:56 ]
古代史の問題
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馬とツングース系王家
馬とツングース系王家
(古代史の問題)
奈良・大阪に、3~5世紀、多数の人員を動員し巨大古墳を建造したのは、朝鮮半島から弥生時代に移住してきたツングース系民族出身の王家であったことを指摘してきました。
彼らが、日本の中心地だった奈良に王家を作ることができたのは、鉄製農具を持っていて、食料生産で有利で、かつ、近畿には先住民族が少なかったため移住し易かったことが指摘されます。
今回は、戦闘用に用いる乗用の馬を導入したのも彼らだったことについて愚考します。
まず、書籍「馬の考古学」(右島和夫監修 2019)(上写真参照)によれば、「箸墓古墳(桜井市箸中)で、4世紀初め「木製輪鎧(わあぶみ)」が出土しています。
これは馬に乗るための足受けの馬具で、その頃から乗用の馬は居たことになります。さらには、当時の用途を考えると、その馬具は戦闘用だった可能性が高くなります。
一般に、古代の戦闘では、騎馬軍団という言葉がありますが、歩兵に対し騎馬軍団が圧倒的に有利と言われます。
因みに、朝鮮半島北部では2200年前頃から馬飼育が知られ、3世紀には高句麗が騎馬軍団を持ち、朝鮮半島の支配地域を南部まで広げたと言われます。このため、朝鮮半島南部の国、当時「三韓」と呼ばれていましたが、同じく馬を飼育し、対抗したことが上記「馬の考古学」に紹介されています。
また、スペイン人のピサロですが、鉄砲だけでなく、騎馬軍団の力で、少数ながら広大なインカ帝国の支配した話は有名です。
そして、上記書籍では、5世紀に、河内(大阪)の山すそに牧場があり、馬を飼育していたこと、関連する馬具の生産工房があったこと等も紹介しています。
当然のことですが、馬飼育、馬具生産は日本では新しいことであり、関係の人々は朝鮮半島の者、すなわち、ツングース系の人々だったことになります。
また、関連し、馬を乗せ運ぶことができる準構造船が登場したのも5世紀頃だったことが紹介されています。
以上のことは、ツングース系王家は、4世紀後半には朝鮮半島の国々と同じように、騎馬軍団を持ち、かつ準構造船を持ち、それらの装備を使い、5世紀には東海~西日本の大半を支配するような大王家に発展したと思われます。
世界最大と言われる大仙陵古墳を初め多数の巨大古墳が5世紀前半に大阪に建造されましたが、騎馬軍団と準構造船はその原動力となったと思われます。そのときが、まさに、ツングース系王家の黄金時代だったと思われます。
関連し、5世紀前半に、内陸部の奈良(大和)から海岸部の大阪(河内)に王家の中心地が移動したのは、そうした馬と準構造船を使い、広い支配地を管理するために便利な場所、かつ、王家(大和)の場所に近い場所を選んだためだったとも推察されます。
関連し、5世紀のツングース系の馬と支配の様子を下図に示しました。
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[ 2020/08/01 07:00 ]
古代史の問題
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