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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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前方後円墳体制はあったのか愚考


大和の支配地外の前方後円墳


前方後円墳体制はあったのか愚考(古墳と日本人)

前回、前方後円墳のルーツについて検討しました。

前方後円墳については、近畿で最初に生まれた大和政権が、その王墓として前方後円墳を作り、それを全国に広めたという「前方後円墳体制説」があります。その説には、前方後円墳は大和政権支配の象徴であり、大和政権の許可の基に建造され、大和政権の支配が及んでいた場所という意味があります。

この説については、「古代史つれづれブログ」が「古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!?」で論理的に検討し、否定しております。

この報告を参考に、今回は、「前方後円墳体制はあったのか」、さらに検討します。

拙ブログでは、ツングース系民族が朝鮮半島から鉄製農具をもって日本へ移住してきたこと、その結果、農業生産による食料が増え、人口が2000年前頃から急激な上昇が認められることを検討してきました。

当時、富を持ち最初の王となった者は、鉄を持ち農業生産で優位に立ったツングース系と思われます。その結果、彼らは、その富を基に、故郷の朝鮮半島と同じ方墳という王墓様式をベースに、前方後方墳を作り出し、さらには類似系の前方後円墳を作り出しました。

前方後方墳も前方後円墳も、形だけでなく外部の石垣構造も似ていることから類推しますと、前方後方墳の最初の設計者は朝鮮半島から来たツングース系民族と思われます。

これらの観点から検討しますと、前方後円墳の建造経過は次のようになります。

まず、前方後円墳は、鉄製農具で豊かになったツングース系の王や関係者が建造したことになります。

このため、前方後円墳は、ツングース系がリーダーとなった地域で多く作られ、それは鉄器伝来とも関係し、全国で認められています。

例えば、関東地方に前方後円墳が多いのはツングース系の王か関係者が多く居たためと思われます。古墳時代、関東地方は大和の支配を受けていませんので、大和政権とは関係がありません。大和政権との関係を示す三角縁神獣鏡が関東でも発見されていますが、配られただけであり、大和政権の支配下にあったかは不明です。

古代の関東地域は、大和政権の中心地の奈良とは遠く離れており、支配下にあった証拠は出ておりません。むしろ、中国の旧唐書によれば、奈良時代以前、関東は毛の国と呼ばれ、別の民族が住んでいたとあります。この情報は、初期の遣隋使または遣唐使の情報を基に中国側(唐)が書いたものと思われます。

さらに、朝鮮半島にも前方後円墳がありますが、大和ではなく北九州倭国の影響が大きいと判断されます。詳しくは「朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係」を参照願います。

一方、最初の前方後円墳ですが、前回紹介しましたが、日本最古の前方後円墳として奈良の「纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)」 が指摘されています。これが最古と認められますと、大和の地域が前方後円墳発祥の地になると思われます。

奈良(大和)は、弥生時代からツングース系の多いところと指摘してきましたが、その意味で前方後円墳が大和から建造され始めたというのは不思議でありません。

このため、前方後円墳は近畿地域から広がり、特に、巨大な前方後円墳も奈良に多いことから、前方後円墳体制が奈良の王権によってはじめられたような印象を与えたと思われます。

まとめますと、前方後円墳は、その建造を始めたツングース系民族と関係があり、この結果、大和のツングース系王家と関係があるような印象があります。しかし、詳しく観ると、大和王家と直接の関係はない関東等にも多数建造されており、冒頭の「古代史つれづれブログ」指摘のとおり、前方後円墳と大和政権は直接の関係は無い、と結論されます。

関連し、古墳時代(5世紀)の様子、特に、大和支配外の前方後円墳の場所を上トップ図に示しました。



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[ 2020/09/29 07:02 ] 古墳と日本人 | TB(-) | CM(2)

前方後円墳のルーツはツングース系の方墳


朝鮮半島日本古墳のルーツは

前方後円墳のルーツはツングース系の方墳(記事まとめ)

古墳と大王の関係について検討してきました。

関連し今回は、前方後円墳のルーツについて記事まとめをしたいと思います。

まず、墳墓と民族との関係ですが、日本には、縄文系のアイヌ系、南方由来のマレー系、北方由来のツングース系という3大民族が居ますが、巨大墳墓と関係が深いのはツングース系だけです。因みに、マレー系民族の国と言われる百済ですが、巨大墳墓は少ないことが分かっています。

次に、大王墳墓の東アジアのルーツですが、中国になると思われます。中国の秦の始皇帝陵(BC3世紀)は有名で、それは、350m×345mの方墳です。また、高句麗の広開土王の将軍塚の方墳(32m×33m 5世紀)も地理的関係からこの延長にあると思われます(上図参照)。

そして、日本の方墳は、全国的に多数建造され、円墳に次いで多いことが分かっています。
最初の方墳は方形周溝墓と言われております。

Wikipedia(弥生時代の墓制)によれば、「遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく」、とあります。

そして、「方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている。」、また、日本では「弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。」とあります。

すなわち、方形周溝墓のルーツは朝鮮半島にあり、ツングース系首長の墳墓だったと推察されます。

関連し、それらから発展し巨大化した前方後方墳(方墳)がありますが、Wikipediaによれば次のとおりです。

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。また、中国・四国地方にも多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれていた。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。(引用終了)

また、Goo Wikipedia(前方後方墳)によれば次のとおりです。

弥生前方後方形墳丘墓

愛知県一宮市の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40メートルもある。

前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられている。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の周壕が一周するものや方形の一辺に突出状の祭壇を設ける墓が流行した。そしてやがてその際壇部や陸橋部が発展し前方後方形が出現する。 その例としては愛知県の廻間SZ01墳丘墓があげられ、祖形と考えられる。この墳形は西は京都府から東は千葉県までひろがった。 つまり前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考えられる。

(引用終了)

以上のことをまとめますと、日本に入ってきた古墳のルーツは、朝鮮半島由来の方形周溝墓(方墳の原始系)で、その後、周辺がしっかりと石で囲まれた方墳が建造されるようになり、その方墳がより巨大化し「弥生前方後方形墳丘墓」(2世紀)となり、前方後方墳(3世紀前)ができあがったと判断されます。

そして、滋賀の「神郷亀塚古墳」が最古級の前方後方墳(3世紀前半)と言われています。

ツングース系は満州(中国東北部)から朝鮮半島を経て渡来した畑作系民族ですが、日本に鉄製農具をもって渡来し、畑作や水田稲作にリーダー的役割を果たしました。その中から首長(王)になった者は、その故郷の王墓の方墳をまねて墳墓を作ったと思われます。

また、出雲地域には「四隅突出型墳丘墓」という独特の方墳がありますが、出雲はツングース系の影響の大きいところで、これもツングース系の方墳の一種と思われます。詳しくは「出雲古代文化のルーツはツングース系」を参照願います。

前方後方墳ができた背景ですが、方墳の隣に祭壇部を作ったとき祭壇部と方墳をつないだ形が人間の形に似て大王墓に相応しい形に見えるため新しく開発されたのではないかと思われます。

その前方後方墳と後に建造された前方後円墳は形状がたいへん似ています。また、墳丘周囲の石垣構造もたいへん似ています。すなわち、前方後方墳がモデルになり、前方後円墳ができたと思われます。

そして、その前方後円墳は、前方後方墳と同じく、人型に似て大王墓に相応しい形状であること、円墳を好んだマレー系やアイヌ系と、方墳を好んだ方墳の合体でもあり、民族和合の意味もあったと思われます。

さらには、古墳建造の時に形成される周辺は溜池でもあり、夏場の農業用灌漑用水としても使えるために人気が出て、日本全国で流行したものと思われます。

まとめますと、日本独特と言われる前方後円墳のルーツは、形状が似ている前方後方墳(方墳)と思われます。そのルーツは、方墳を大王墓としていた朝鮮半島になると思われます。関連し、それら日本の古墳のルーツを上トップ図に、形状の変化の概要を下図にまとめました。


前方後円墳のルーツは前方後方墳


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[ 2020/09/24 08:26 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(0)

伽耶と稲と鉄と邪馬台国


3世紀の朝鮮半島南部と北九州


伽耶と稲と鉄と邪馬台国 (古代史の問題)

先日、拙ブログ記事「邪馬台国の支配者はツングース系だった」について、「鉄と言えば伽耶や済州島が思い浮かびます。なぜ伽耶に言及されないのでしょうか?」というコメントがありました。

邪馬台国と朝鮮半島の関係を観る上でたいへん重要な指摘と思われます。関連し、今回は「伽耶と稲と鉄と邪馬台国」について愚考します。

まず、伽耶地域を含む韓国のY染色体ハプログループですが、マレー系が約30%、ツングース系(モンゴル系と中国系の混血)が60%、その他が10%です。詳しくは「朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる」を参照願います。

そして、伽耶の古代ですが、拙ブログでは「伽耶はマレー系民族の国」で、北九州、百済と並んで稲作マレー系民族の国であったことを指摘しました。

そして、「伽耶は日本のルーツ」(改定新版 澤田洋太郎 2006)を参考に、伽耶は、鉄も産し、古代においては重要な鉄の供給源であったこと、さらには、王冠とか古代遺跡の埋蔵品では日本の古代遺跡と同じものが産出しており、日本と密接な関係があったことを紹介しました。

邪馬台国の時代は3世紀ですが、朝鮮半島は馬韓(後の百済)、弁韓(後の伽耶)、辰韓(後の新羅)の三韓時代です。Wikipediaによれば、「伽耶または加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す」とあります。

すなわち、邪馬台国時代の3世紀の伽耶は小国家群で、北九州と同様な小国家群の地域だったと思われます。そして、稲と鉄があり、朝鮮半島南部では、最も豊かな地域だったと推察されます。

しかし、伽耶は小国家群の時代が続き、国家としてまとまることができませんでした。そのことについて検討しますと、次のことが考えられます。

まず、伽耶では地域と稲作の関係からマレー系の多い地域だったと思われます。そこへ隣の鉄の産地の慶州からツングース系が鉄製農具を持ち込み、稲作が発展し、人口が増えました。伽耶は鉄が豊富というのは、鉄産地の慶州が傍にあったためと思われます(上記地図参照)。

この状況は北九州とほぼ同じですので、両者はほぼ同様に発展したと思われます。

しかし、伽耶地域が、百済や新羅のような国家に発展しなかった理由は、民族対立の争いが続き、小国家群の状態が長く続いたためと思われます。おそらく、マレー系とツングース系をまとめる強力なリーダーが現れなかったのではないかと思われます。そして、結果として、百済、新羅、倭国の支配を受けることになってしまったと思われます。

因みに、三韓時代後の4世紀、百済はマレー系国家、新羅はツングース系国家としてまとまることができました。また、北九州の邪馬台国ですが、伽耶と同じように小国家群の時代が続きましたが、4世紀にマレー系が「倭国」として独立しました。

まとめますと、伽耶は稲と鉄を有し豊かな国であったが、マレー系とツングース系の割合が拮抗し、小国家群の状況が続き、マレー系の百済、同じくマレー系の倭国、ツングース系の新羅のように国家として発展することができなかったと判断されます。

関連し、3世紀の朝鮮半島南部の様子を上トップ図に示しました。



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[ 2020/09/19 10:09 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(4)

狗奴国は縄文系の多い熊本にあった


狗奴国は縄文系の多い熊本にあった(古代史の問題)

邪馬台国を含め北九州は、当初、少数派のツングース系が支配し、後に、多数派のマレー系が支配するようになったことを検討してきました。

一方、魏志倭人伝によれば、邪馬台国(女王国)南方に狗奴国があり、女王国に従わなかったとあります。

この理由については明確になっていませんが、可能性の一つとして、狗奴国はもともとツングース系が少なく、ツングース系の女王国に従いたくない勢力だったことが推察されます。

関連し、今回は、狗奴国の場所を、最も支持されている熊本県と想定し、ツングース系が少なかったことを古代遺跡数から推察します。

方法は、「近畿地域は弥生時代からツングース系が多かった」に準じます。すなわち、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の九州各県値(比)をもとめます。そして、この値が大きいと、ツングース系が鉄を持ち込んだため弥生時代が発展した、すなわちツングース系が多く移住したと判断します。

まず、文科省の参考資料(2012)の九州各県の縄文・弥生時代遺跡数は下表のとおりです。

九州各県の縄文・弥生遺跡数

次に弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数の値(比)を算出し、図にしますと下図のとおりです。

九州各県の縄文・弥生遺跡数比

これらのデータから、その値(比)が4.99と大きく、弥生時代が大きく発展したのは福岡だけとなります。その他の県は0.28~1.02です。
福岡が大きい値を示したのは、稲作民族のマレー系民族が居たこととツングース系民族が持参した鉄の効果と思われます。

次いで、比較的大きい値は大分県の1.02です。大分は縄文時代遺跡が最も少なく、その意味でツングース系民族が入りやすかった地域と思われます。

関連し、拙ブログでは、奈良・大阪のツングース系王家の全盛時代、その支配地は九州東部(大分)まで及んでいたと推察しましたが、それは上記結果から推察したものです。

次に、狗奴国と推察される熊本ですが、値は0.56で0.51の佐賀に近い値です。縄文時代遺跡が宮崎に次いで大きく、縄文人が比較的多かったところと思われます。その意味でツングース系民族は少なく、逆に、縄文系のアイヌ系等が多かった地域と思われます。

以上の結果は、熊本は弥生時代にツングース系が少なかったことを示しますが、このことは、そこの人々はツングース系の女王国に同調する雰囲気が弱かったことを示唆します。すなわち、その意味で、狗奴国は熊本以南の縄文人の多かった地域とするのが妥当と思われます。

まとめますと、狗奴国が縄文人の多かった熊本だったとすると、弥生系、特にツングース系が支配していた女王国に従わない雰囲気は理解でき、狗奴国は熊本にあったという説が有力になります。

そして、そのことは、狗奴国は邪馬台国から軽蔑されていたことと関係していたと思われます。因みに、狗奴(こど)はマレー語でバカという意味です。詳しくは「狗奴国はバカ国愚考」を参照願います。

以上、狗奴国は熊本にあった愚考でした。



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[ 2020/09/14 07:40 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

卑弥呼の墓はツングース系由来の方墳だった愚考


邪馬台国時代の状況と卑弥呼の墓


卑弥呼の墓はツングース系由来の方墳だった愚考(邪馬台国と日本人)

邪馬台国は北方系(ツングース系)首長の国であったことを、方墳という首長墳墓様式と中国への朝貢様式から前回検討しました。

また、女王となった卑弥呼ですが、鬼道(祈祷)を得意とするとあります。祈祷は北方系にルーツがありますので、卑弥呼もツングース系の仲間だったと推察されます。詳しくは「卑弥呼は北方系色白美人であった愚考」を参照願います。

関連し、今回は、卑弥呼の墓はツングース系の方墳だったことについて愚考し、その場所を特定します。

まず、邪馬台国の場所については、畿内説と北九州説があると一般に言われますが、実際は北九州説を支持している研究者が大半です。その意味で、この場所論争は決着がついています。

拙ブログでも、魏志倭人伝の「倭人は分身(入れ墨)をしていて海南島の人達に似ているという南方的特徴」から、北九州にあったことを支持しています。詳しくは「邪馬台国はどこにあったのか」を参照願います。

しかし、卑弥呼の墓となると、諸説あり、未だに決着がついていない感じです。

そこで、卑弥呼はツングース系だったことから、その墓は北方系に多い方墳、サイズは魏志倭人伝の「径百余歩の墓に葬られた」から直径30m~50m、場所は同じく魏志倭人伝の通説にしたがい「伊都国から水行10日または陸行1月」の場所で検索しますと次のとおりです。

まず、これらの条件に適合する古墳は祇園山古墳になります。

関連し、「祇園山古墳(ぎおんやまこふん)」 について引用しますと、次のとおりです。


祇園山古墳(ぎおんやまこふん)は、福岡県久留米市御井町字高良山に所在し、福岡県指定史跡に指定されている方墳である[1][2]。3世紀中頃の築造と推定される。築造時期や規模から、宝賀寿男や地元研究者などにより、この古墳を邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかとする意見がある[3]。

卑弥呼の墓説

古代日本では、『魏志倭人伝』や『記紀』の中に殉死・殉葬に関する記事が見られるものの、実際の弥生墳丘墓や古墳において、確実に殉葬が行われたと捉えられる出土人骨や遺構の事例は確認されていない。福岡県糸島市平原遺跡の3号墓周濠を、底部で見つかった朱や掘り込み形状から16人分の殉葬溝と見る原田大六の見解もあったが[17]、今日の再検討報告では殉葬溝とは見なされておらず[18]、同遺跡4号墓周溝内土坑墓1基のみに対し殉葬墓の可能性が指摘される[注 1]以外は全て追葬墓と見なされている[20]。祇園山古墳の発掘調査報告書でも、墳裾外周で検出された66人分以上の墓群について、半世紀ほどの期間で造営されたとみられることから、祇園山古墳の被葬者を盟主とする集団の集団墓と捉えている[9]。

これについて宝賀寿男は、この墓群を1つの棺に「差し違い2体葬」があることや、墳丘築造前の棺が見られないこと、全ての棺が墳丘裾内に存在することなどを挙げてこれらを同時期の埋葬ではないかとして、殉葬者の墓ではないかとしている。また大塚初重の意見に賛同し、弥生時代の築造ならば集団墓ではなく個人の墓であろうとしている[3]。ただし「差し違い2体葬」については1棺への2体葬が必ずしも同時埋葬ではなく、追葬と考えうる時間差がある事例が多いことは、祇園山2号墳石蓋土壙墓例などから指摘されている[11][21]。

また宝賀は、墳墓の形状、主体部(石棺)、築造時期が3世紀中期であると考えられること、規模が一辺約23メートル・斜辺32メートルで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪がなく墓群があること(殉葬者と仮定)、そのうちの第1号甕棺墓(K1)からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1号墓からは鉄製の武器や農具が出土し、時期的に矛盾が無いことなどが『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載と一致するとしている。また魏朝の薄葬令や朝鮮諸国、帯方郡の墳墓がいずれも30メートル前後の方墳であったことなど、国際的観点から照らし合わせても同墳の規模に不自然さが無く、さらにこの古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台に占地することをあげて、卑弥呼の墓ではないかとの説を示している[3]。

そのほかに、村下要助・廣木順作が同古墳(弥生墳丘墓)を卑弥呼の墓であると主張している[22][23]。また石野博信は畿内説論者であるが、邪馬台国を筑紫に想定した場合、同古墳が卑弥呼の墓として「有力候補になってくるのかもしれない」と述べた[24]。このほか、田中幸夫は様相が卑弥呼の墓に類似するとした[25]。学術論文ではないが作家の足立倫行は、2011年に『週刊朝日』に掲載した紀行文の中で、築造を卑弥呼没年より半世紀後としつつも、卑弥呼の墓を彷彿させると述べた[26]。

(引用終了)

引用が長くなりましたが、まとめますと、次のとおりです。

祇園山古墳は、場所、規模、形態(方墳)、鏡など副葬品、殉葬者など、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載とほぼ一致しています。

結論として、この祇園山古墳は卑弥呼の墓として最有力候補と思われます。

拙ブログでは、「邪馬台国の場所と卑弥呼の墓」で伊都国の平原(ひらばる)遺跡を卑弥呼の墓と指摘したことがありますが、祇園山古墳の方が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載と一致し、よりふさわしいと結論されます。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の状況を上トップ図に示しました。



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[ 2020/09/09 09:25 ] 未分類 | TB(-) | CM(0)

北九州倭国と大和のツングース系王家の関係


北九州3~4世紀の状況


北九州倭国と大和のツングース系王家の関係(古代史の問題)

三角縁神獣鏡は、4世紀初期に、奈良(大和)のツングース系王家が呉の技術者に作らせ地域首長に配布したものであり、それは王家と地域首長の臣下の関係を示すものであることを先に指摘しました。

そして、三角縁神獣鏡は、王家の中心地だった近畿に圧倒的に多く出土し、地方では福岡に多く出土していることを紹介しました。詳しくは「三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考」を参照願います。

三角縁神獣鏡の出土するのは4世紀の古墳ですが、この時期は、北九州では邪馬台国時代(3世紀)の次の世紀に当たります。

関連し、今回は、邪馬台国後の北九州と大和ツングース系王家の関係について愚考します。

魏志倭人伝によれば、女王「卑弥呼」が亡くなった後、再度大乱が起き、同じく女王「台与」を立て収まったとあります。「台与」は鬼道(占い)を得意とする「卑弥呼」の後継者ですので、同じく女性シャーマンだったと思われます。

このシャーマンのルーツは朝鮮半島のツングース系にありますので、3世紀後半、北九州は引き続きツングース系が支配者だったと思われます。

そして、4世紀になりますと、奈良(大和)のツングース系王家は多量の「三角縁神獣鏡」を製作し、地方の首長に配りました。先に述べましたように、この鏡が福岡でも多数発見されていますが、このことは、福岡の首長の多くが大和の王家と臣従の関係を結んだ可能性があります。特に、少数派ツングース系首長は、地位の安定を求め進んでその関係を持った可能性があります。

一方、朝鮮半島では百済が4世紀中頃現れます。Wikipedia(百済)によれば、「百済は4世紀後半の近肖古王の治世下、371年に高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた」とあります。

百済は、稲作地帯の朝鮮半島中西部にありますが、中国南部のマレー系民族が渡来し、水田稲作を始めた場所です。その後、広開土王碑文によれば、百済は倭国と連合し、4世紀末(399-404年)に高句麗と戦ったとありますので、おそらく、4世紀中ごろ、マレー系民族の国として独立していたと思われます。

以上の広開土王碑文は、百済と同じようにマレー系の多い北九州倭国も4世紀後半にはマレー系国家として独立していたことを示します。これには、近隣で同胞の百済の援助があったことが推察されます。

関連し、魏志倭人伝にあります卑弥呼と対立した南部の狗奴国(熊本県辺り?)ですが、もともと縄文系のアイヌ系やマレー系の多い地域ですので、4世紀には倭国の一部となったと思われます。この結果、倭国は福岡、佐賀、熊本を中心とする中規模国家になり、朝鮮半島の高句麗だけでなく、東側の大和ツングース系王家とも対立するようになったことが推察されます。なお、熊本県の古代の状況については後に検討する予定です。

この倭国独立の時、福岡のツングース系グループは追い払われたか、または服従したと思われます。

関連し、そのときの大和のツングース系王家の対応ですが、4世紀前半に臣下の関係を示す三角縁神獣鏡を福岡の首長に贈った関係があります。しかし、北九州の首長を助けるための支援はなかったことが推察されます。この理由として、4世紀後半、支配地域は近畿と周辺だけで、まだ力は弱く北九州という遠くの地域の仲間を支援する余裕はなかったことが挙げられます。

そして、4世紀までの北九州の支配者の状況ですが、奈良・大阪のような200mを超える巨大古墳はありません。このことは、首長が分裂していて、奈良・大阪のツングース系王家のような巨大王家はなく、首長連合のような状態が続いていたことが推察されます。

また、4世紀後半に独立した北九州「倭国」は、マレー系の国であり、ツングース系に特徴的な巨大古墳建造には関心が弱かったことも推察されます。因みに、倭国地域の最大古墳は、6世紀に建造された磐井王の墓と言われる「岩戸山古墳」ですが、墳長は135mで、奈良・大阪にあるような200mを超える巨大古墳ではありません。

また、卑弥呼の時代ですが、邪馬台国連合と言われている状態で、巨大な権力者は居なかったと推察されます。これは、マレー系、ツングース系ともに分裂しており、強力なリーダーが現れなかったためと思われます。

まとめますと、3世紀に邪馬台国のあった北九州地域は、4世紀も引き続き少数派ツングース系首長連合の支配が続きましたが、4世紀中頃、百済の支援を受けた多数派のマレー系が実権を握り、「倭国」となり、百済と連合して高句麗と戦うようになったと推察されます。

一方、4世紀の奈良のツングース系王家は始まったばかりで、かつ北九州とは離れた場所にあり、倭国との直接の対決は無かったことが推察されます。

関連し、北九州倭国の3~4世紀の状況を上トップ図に示しました。

なお、こうしたことが日本の歴史資料に現れない理由ですが、8世紀に作成された古事記と日本書紀(記紀)では万世一系の歴史観の方針があり、奈良・大阪のツングース系王家と北九州の「倭国」の歴史は抹殺され、それらの歴史は見えなくなってしまったことが最大の理由と思われます。



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[ 2020/09/04 10:06 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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