fc2ブログ

日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
2020 09123456789101112131415161718192021222324252627282930312020 11

関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国


5世紀の倭国と関東


関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国(古代史の問題)

有名な関東地域の古代遺跡物として、埼玉県稲荷山古墳出土の碑文入り鉄剣があります。同じような碑文入り鉄剣が、熊本県の江田船山古墳から出土しています。それらは、どちらも5世紀に作られたもので、「獲加多支鹵(エカタシロ)大王」が日本に居たことが書かれております。

一方、時代が7世紀になりますが、北九州がルーツと思われる「装飾古墳」が、関東に多く認められます。

この「装飾古墳」は、ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」の「舩塚山古墳は東国2位・常陸国茨城郡の国府の近くにある」によれば、「常陸国の古墳のなかには、有明海文化圏の影響を受けた彩色装飾古墳が何か所もあります。ちょっと、気になりますね。こんなに遠く離れているのに。」とあります。

これらのことから、碑文入り鉄剣と装飾古墳が、何故、九州と関東という離れた地域にあるのか謎に満ちているとも言われます。

関連し、今回は、碑文入り鉄剣と装飾古墳が、何故、九州と関東にあるのか愚考します。

まず、碑文入り鉄剣が何故関東にあるのか検討しますと次のように考えることができます。

熊本県の江田船山古墳の鉄剣から推察しますと、これは倭国の領域ですので、そこに居た王が、北九州倭国の大王からいただいたものと思われます。同古墳から豪華な王冠等も出土しており、これらは百済の影響が確認されております。すなわち、百済と友好関係にあった倭国由来のものと思われます。

一方、埼玉県稲荷山古墳出土の碑文入り鉄剣ですが、北関東の大王(おそらく太田天神山古墳に眠っている大王)に使えた者が、その業績を認められ、その業績を残そうとした。そして、碑文入り鉄剣を倭国(北九州)で作ることができることを知り、辛亥年(471年)に倭国の関係者に依頼して作ったというのが真相と思われます。

そして、鉄剣碑文に記載されている獲加多支鹵大王(エカタシロ)大王の意味ですが、倭国はマレー系民族の国家でしたので、それをマレー語の英語訳で読むと次のとおりです。

「エカタシロ」は、エカ(eka)=single、タシ(tasih)=love、ロ(roh)=spirit、すなわち、エカタシロ=愛の精神をもった者=慈悲深い者(大王)という意味になります。詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。

その5世紀の北九州は倭国の倭王「武」の時代ですが、彼は中国南朝(宋の順帝)から「安東大将軍 倭王」という称号を478年に授与され、朝鮮半島南部と北九州を支配する大王と認められ、その名前は以前から関東まで響いていた可能性があります。

たとえば、倭王「武」が関東に来たことが常陸国風土記に書かれているという説もあります。この説については次回報告します。

また、北九州由来と推察される同様な5世紀の関東の遺跡として、茨城の「三昧塚(さんまいづじか)古墳」が知られています。こちらの方は、同じく熊本県の江田船山古墳から出土した金銅冠と同じようなものが出土しており、こちらも九州倭国と交易していたことを示すものと思われます。詳しくは「古墳時代の関東の中心地愚考」 を参照願います。

なお、「獲加多支鹵(エカタシロ)大王」を「ワカタケル大王」(雄略天皇)とする説がありますが、この説は次の6点の問題があります。

 ① 万葉仮名の専門家によればワカタケルと読めない。
 ② 「ワカタケル大王」と読めたとしても、雄略大王とは読めない。雄略天皇は「幼武」と呼ばれていたからワカタケルというのは、こじつけである。碑文に何故「雄略大王」と書かなかったのか説明が必要である。
 ③ 雄略天皇については王宮跡不明かつ王墓も不明で存在も確認されていない。
 ④ 畿内で5世紀は河内(大阪)政権で大仙陵古墳など巨大古墳建造の時代であったが、鉄剣碑文に相当するような遺跡物は出ていない。
 ⑤ 5世紀後半の畿内は、ツングース王家時代であるが、巨大古墳建造が少なくなり弱体化していた時代であり、関東に影響があったとは考えにくい。
 ⑥ さらに畿内政権が関東まで支配していた証拠は無く、後の大宝律令(701年制定)の時代でも大和政権の関東支配は書いてない。


そして、当時5世紀の大王ですが、東海、近畿、中国、四国地域は大阪(河内)のツングース系大王が支配し、北九州方面はマレー系の倭の五王が居ました。一方、関東には、アイヌ系が圧倒的多数派の地域であり、アイヌ系の大王が多く居たと思われます。

民族対立から見ますと、強大なツングース系大王がアイヌ系の人々を使い奈良・大阪で巨大古墳を建造したことから想像すると、関東の大王の多くはアイヌ系であり、大阪のツングース系大王を避けていたのではないかと思われます。

次に、7世紀の装飾古墳と関東の関係ですが、6世紀に近畿では継体天皇(在位:507-531年)によってツングース系王家を滅ぼされる事件が起きました。

このことから、畿内政権は始まったばかりで、7世紀になっても都もなく、関東への影響は弱かったと推察されます。すなわち、北九州倭国が7世紀も日本の中心地であったことは変わらなかったと思われます。

それらの関係から、関東では、当時北九州で流行っていた装飾古墳を、畿内政権を通さず導入したのが真相と思われます。詳しくは「装飾古墳は九州倭国から関東に導入された」を参照願います。

まとめますと、熊本県と埼玉県で出土した5世紀の碑文入り鉄剣、そして、倭国と関東で流行った7世紀の装飾古墳は、7世紀まで日本の文化の中心は北九州倭国にあり、関東の大王が先進文化を求めて北九州倭国と交流してきたことを示すものと思われます。

関連し、5世紀の日本の様子を上トップに示しました。



日本史ランキング
[ 2020/10/28 08:00 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

倭の五王と奈良・大阪のツングース系王家は別と判断される

北九州倭の五王と大阪の大王(5世紀)



倭の五王と奈良・大阪のツングース系王家は別と判断される(古代史の問題)

現天皇家は6世紀の継体天皇(在位:507-531年)に始まりましたが、その継体天皇はアイヌ系であり、大規模古墳建造してきたツングース系王家を滅ぼしたことを検討してきました。

関連し、その前の5世紀ですが、ツングース系王家の全盛時代で、大阪で巨大古墳がいくつも建造されていました。

一方、北九州地域では、倭の五王が中国南朝に朝貢し、朝鮮半島に出兵し高句麗と戦っていた時代で、倭国も全盛時代だったと思われます。

この倭の五王ですが、畿内政権の王とする説があります。

しかし、拙ブログで検討してきましたが、この5世紀、畿内政権は、大阪に大仙陵古墳のような巨大古墳建造に忙しかった時期です。そして、5世紀後半ともなると、巨大古墳建造が少なくなり、力は弱くなっていて、6世紀には継体天皇に滅ぼされてしまいます。これらのことから、大阪のツングース系王家には、朝鮮半島に出兵する余裕は無かったと思われます。

関連し、今回は、倭の五王は北九州倭国の王であったことについて再度愚考します。

まず、倭の五王の概要ですが、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」 によれば次のとおりです。


中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王。『宋書(そうじょ)』と『南史』では讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)、『梁書(りょうしょ)』では賛・彌・済・興・武と記す。しかし、讃と賛は音通、珍と彌も一見文字の違いは大きいが、珍珎弥彌などの字形の類似から生じた誤写にすぎず、いずれも同一の王をさすとみてよい。

 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始まる。宋はこの遣使を喜び、讃に「除授」を賜った。このとき、讃が授けられた官爵号は史料に明記されていないが、その後の倭王の例からみると安東将軍・倭国王であった可能性が濃い。3世紀の「親魏倭王」以来、約1世紀の空白ののち、ここにふたたび「倭国王」が誕生したことになる。なお、宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗(こうくり)王や百済(くだら)王もその地位を進められたが、倭国王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官された。この違いは、宋の前王朝である東晋(とうしん)との交渉の有無と関係があり、倭国が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る。

 将軍に任じられた倭国王讃は将軍府を設置し、僚属として長史・司馬(しば)・参軍を置くことができるようになった。このうち長史は将軍の補佐で、文官をつかさどり、司馬は長史に次ぐ地位で、軍事に携わった。425年(元嘉2)讃が宋に派遣した「司馬曹達」は、当時の外交慣例からみて、この制度を利用したものである。つまり、司馬の曹達を遣宋使の長官に任じたことになる。これは、高句麗王や百済王が長史を遣宋使に任じたのと比べると倭国外交の一大特色であり、倭国王の外交姿勢を示すものとみることができる。なお、『宋書』には430年(元嘉7)の「倭国王」の遣使を伝えているが、この遣使も讃のものと考えられる。
(中略)

なお、倭の五王を『日本書紀』の伝える天皇に比定し、讃を応神(おうじん)・仁徳(にんとく)・履中(りちゅう)、珍を反正(はんぜい)、済を允恭(いんぎょう)、興を安康(あんこう)、武を雄略(ゆうりゃく)などにあてることが多い。しかし、比定の論拠となっている年時・系譜ともに問題があり、なお慎重な検討が必要である。[坂元義種]
(引用終了)

拙ブログは上記引用記事をほぼ支持しております。

拙ブログでは、さらに、次の4点から倭の五王は北九州倭国の王であったと観ています。

1) 朝鮮半島の権益に関し、北九州のマレー系倭国は百済と同胞であり、高句麗と戦ってきた経過がある。
2) 倭の五王の全盛時代の「武」は5世紀末の時代の王であり、その頃、畿内政権は継体王(在位:507-531年)と対立し、王家存亡の危機にあった。
3) 日本書紀に倭の五王に関する記載はない。
4) 当時の畿内政権はツングース系王家であり、朝鮮半島で同じツングース系の高句麗と戦う意味は弱い。


以上のことから、倭の五王を畿内政権の王とすると矛盾が多く、歴史事実と合いません。

関連し、拙ブログでは、北九州に倭国があり、白村江の戦いまで続いていたと指摘しています。詳しくは「倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権」 を参照願います。

関連し、上トップに、5世紀の倭国と大阪の巨大古墳建造の様子について示しました。


日本史ランキング
[ 2020/10/24 07:17 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

継体天皇の立像はアイヌ系の顔立ち愚考


継体天皇の容貌


継体天皇の立像はアイヌ系の顔立ち愚考(古代史の問題)

前回、現天皇のルーツはアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)であることを紹介しました。

関連し、今回は、継体天皇の容貌についてもアイヌ系であったことについて愚考します。

継体天皇の立像が福井市の足羽山公園三段広場にあることが知られております。

Wikipedia(継体天皇)から、その写真の顔立ちを上の写真に示しました。また、その立像全体を下の写真に示しました。


継体天皇の立像

この写真を眺めますと、容貌は明らかにアイヌ系です。特に、髭が濃い、眉が濃い、二重瞼(まぶた)、がっしりした鼻の特徴はアイヌ系の特徴です。

対するツングース系の特徴は、満州という寒冷地が影響し、髭が薄い、一重瞼、細い目、低い鼻、高身長が特徴的と言われますが、継体天皇立像はツングース系とは明らかに異なります。

そこで、この立像の由来について調べますと、「第26代 継体天皇の立像」によれば、「継体天皇石像は、明治17(1884)年、内山基四郎を中心とした石工たちが、多くの伝説に語られる天皇の業績を顕彰するために立てた像である。笏谷石(しゃくだにいし)製で高さは4mを越える立派な石像で、足羽山公園三段広場のシンボルとして広く市民から親しまれてきた。昭和23(1948)年6月28日の福井大震災で倒壊したが、昭和27年に再建された。」とあります。

しかし、この立像の基になった画像については、見つかりませんでした。

立像の基になった画像が分からない問題がありますが、結論として、現代に残された継体天皇立像は、アイヌ系の容貌であり、「現天皇家のルーツはアイヌ系」というDNA研究結果と一致します。

これらのことから想像しますと、継体天皇の像は実像に近く、そのもとになった画像は本物と思われます。おそらく、巨大なツングース系王家を滅ぼした偉大な英雄として、本物の画像が残されていた可能性が高いと思われます。

また、継体天皇の容貌がアイヌ系であることは、アイヌ系の支持だけでなく、ツングース系王家に不満を持っているマレー系など他の民族の支持も得やすかったと思われます。

すなわち、継体天皇の容貌は一目でアイヌ系であることが分かり、それがカリスマ性を作り、巨大なツングース系王家と戦う雰囲気を醸し出し、人をまとめるのに役立ったのではないかと思われます。

なお、当然のことですが、混血が進みますと、DNA(Y染色体ハプログループ)と容貌の関係は一致しなくなります。近年の天皇の容貌は一重瞼でツングース系(朝鮮半島由来)という指摘がありますが、それは、天皇家がツングース系の女性と結婚した結果と思われます。

拙ブログでは日本美人のルーツの一つに日本海美人があり、そのルーツはツングース系であることを指摘してきました。こうした事情から、継体天皇以降の天皇家がツングース系美人と結婚したことは自然のことで、天皇家はツングース系に似た容貌が多くなった理由はその辺にあると思われます。

日本の美人のルーツについて、詳しくは「日本人の容貌とルーツ」、および「色白高身長、秋田美人のルーツ愚考」を参照願います。


日本史ランキング
[ 2020/10/19 07:09 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

継体天皇を生んだ福井の古代環境の特異性


継体天皇を生んだ福井の古代環境の特異性(古代史の問題)

拙ブログでは、福井出身のアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)が、大古墳を建造してきたツングース系王家を滅ぼし、アイヌ系を中心とした新王朝を開始したことを検討してきました。

しかし、継体天皇が、なぜ、そのような偉業を成し遂げることができたのか分かっていません。

関連し、今回は、福井の古代事情から、そのことを愚考します。

まず、文科省の参考資料(2012)によれば、福井を含む北陸と近畿の古代遺跡数は下表のとおりです。

北陸と近畿地域各県の古代遺跡数

そして、弥生時代の発展度合いを示す「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数」の値で見ますと、福井は1.49で、北陸地域で最も大きく、近畿地域より小さい値となっています。

この値は、大きいと弥生時代の発展度が大きいことになります。言い換えますと、弥生時代発展は鉄製農具とリンクしており、この値が大きいと鉄製農具を持ってきたツングース系の割合が多いと判断されます。詳しくは「近畿地域は弥生時代からツングース系が多かった」を参照願います。

すなわち、福井はツングース系民族の影響が近畿ほどではないが、北陸の中では多かった地域と判断されます。

次に、古墳時代の発展度合いを「古墳時代遺跡数/弥生時代遺跡数」の値で見ますと福井は1.41、で奈良は1.56で、奈良並みの発展だったと思われます。

関連し、北陸と近畿の合計平均を下図に示しました。この図から、近畿と比べ、北陸は弥生時代の発展は遅れましたが、古墳時代は同等以上の発展をしたと思われます。

北陸と近畿地域の古代い整数比較

以上の数値と図から推察しますと次のことが考えられます。

まず、福井は、弥生時代はツングース系の多かった近畿の隣に位置し、ツングース系の圧迫を受けながら発展し、古墳時代には奈良と同じように発展しました。

福井の場合、弥生時代と古墳時代の発展は、縄文時代からあった敦賀湾という良港があったことが考えられます。すなわち、弥生時代になると、鉄の導入など朝鮮半島からの新情報を知ることができました。さらには、朝鮮半島の情勢、例えばマレー系の「百済」がツングース系の「高句麗」や「新羅」に対抗し発展している様子などの情報も入ったと思われます。

こうした海洋交易に関しては、海洋系のマレー系が主役であったと拙ブログでは観ていますが、そのマレー系の影響は、後の継体天皇と百済との密接な関係から想像すると、いろいろな意味で大きかったと思われます。

例えば、福井の豪族に生まれ育った継体天皇は、若いとき、マレー系民族国家の百済を訪問し、その繁栄に驚いたことも想像できます。そして、継体天皇は、百済の後ろ盾を得て、奈良・大阪のツングース系王家と戦う決意を固めていったのではないかと思われます。

また、継体天皇は、ツングース系王家の横暴に批判的な多数の仲間に支持され、さらには、東海、中部など縄文系の多い地域の支持も得て強大となり、奈良・大阪のツングース系王家や出雲王国、吉備王国と対立できるようになったと思われます。これらの詳しい情勢については「新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行」を参照願います。

まとめますと、アイヌ系の継体天皇の出身地の福井は、もともとは縄文時代から、敦賀湾という伝統的な良港があり、海洋系のマレー系も来る先進的地域でした。弥生時時代に入りますと、北陸の中でも比較的ツングース系の多い地域として発展し、また、先進地域の朝鮮半島(百済)の影響も受けました。こうした刺激的環境が、継体天皇を強大なツングース系王家を滅ぼすような英雄に育てあげたのではないかと思われます。


日本史ランキング
[ 2020/10/14 07:02 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(4)

ツングース系王家からアイヌ系王家への変貌


北陸の継体王とツングース系王家の対立


ツングース系王家からアイヌ系王家への変貌(古代史の問題)

奈良・大阪の巨大古墳は、鉄製農具を持って朝鮮半島から渡来してきたツングース系民族の王家が建造したものであることを検討してきました。

一方、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、現天皇家のルーツはアイヌ系であり、その系譜は継体天皇(在位:507-531年)まで辿れることを明らかにしました。

これらのことは、現天皇家が朝鮮半島由来のツングース系王家でないことを示し、「天皇家は朝鮮半島由来」という説を完璧に否定した画期的な発見と思われます。さらには、「天皇は万世一系」という説とも一致しません。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

関連し、今回は、奈良・大阪のツングース系王家が、どのようにアイヌ系王家に替わったのか愚考します。

まず、現天皇家ですが、分かっていることは継体天皇まで辿れることです。そして、それ以前の日本書紀に記載されている天皇については、王宮跡不明、王墓陵不明で、物的情報がまったくないことです。

これらのことから想像しますと、継体天皇以前の王は継体天皇によって滅ぼされ、それらの歴史も抹殺された可能性が高くなります。そこで、その理由を推察しますと次のとおりです。

東海・近畿・中国・四国地域を支配した巨大なツングース王家が滅ぼされた原因は、4世紀~5世紀の200年にわたり民衆を使い巨大古墳を多数建造し、民衆を疲弊させ民衆の支持を失った結果と思われます。さらに、その後、ツングース系王家の末裔が現れてこないのは、民衆の前に現れることができなくなるような経過もあったことが考えられます。

また、継体天皇は、百済と外交を行ないましたが、これは、争ったツングース系王家と同じ系譜の新羅や高句麗を避けたためとも思われます。

日本書紀に、第26代継体天皇直前の天皇として武烈天皇と記載されていますが、18歳の若さで亡くなっています。しかし、その理由は書いてありません。おそらく継体天皇によって若くして滅ぼされたことを暗示しているのではないかと思われます。

また、継体天皇の王宮ですが、Wikipedia(継体天皇)によれば、次のとおりです。


皇居
※『日本書紀』に拠る。
507年2月?、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。
(引用終了)

すなわち、継体天皇は、最初の王宮を従来の大和(奈良)や河内(大阪)でなく大阪北部に構えましたが、これは、ツングース系王家(大和・河内王家)と争そった経過であり、大和・河内とは関係のない政権だったことを暗示させます。

以上のことをまとめますと、日本書紀では、継体天皇はツングース系王家の末裔にしていますが、これは明らかに歴史改竄です。詳しくは「継体天皇の系譜の真実性愚考」を参照願います。

次に、巨大なツングース王家を滅ぼした継体天皇について検討しますと次のとおりです。

継体天皇は、大阪に王宮を構えましたが、その確認された王宮は小さな王宮で、従来の仁徳天皇陵など巨大な墳墓を建造したツングース系王家の繁栄と異質です。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。

また、継体天皇は、日本統一と関連し倭国の磐井王と戦いましたが、決着は付きませんでした。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。

これらのことは、継体天皇は巨大なツングース系王家を滅ぼしましたが、強大ではなかったことを感じさせます。むしろ、ツングース系王家が、度重なる巨大古墳建造などをして民衆の支持を失い、かつ内部から腐敗し弱体化していったため滅びたと思われます。似たようなことは世界の歴史にも見ることができます。

また、継体天皇は、五経博士受け入れなど百済と親密な関係が知られております。百済は、当時、ツングース系の高句麗と新羅と争っていましたので、日本のツングース系王家の滅亡に関し、継体天皇に百済の支援があった可能性は否定できません。百済と継体天皇の関係について詳しくは「五経博士受け入れによる文書作成と継体王」を参照願います。

すなわち、継体天皇は、ツングース系王家が滅びた後の外交や内政について百済という先進国の後ろ盾を持っており、その意味でも強大だったツングース系王家と小国ながらも有利に戦うことができたと思われます。

関連し、6世紀の継体天皇時代の様子を上トップ図に示しました。



日本史ランキング
[ 2020/10/09 07:07 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)

巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰


奈良・大阪の巨大古墳建造盛衰


巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰(古代史の問題)

奈良と大阪の巨大古墳は、鉄製農具を持って朝鮮半島から渡来してきたツングース系民族の王家が建造したことを検討してきました。

関連し、今回は、ツングース系王家の盛衰を巨大古墳建造との関係で愚考します。

まず、200m以上の巨大古墳建造から、その盛衰を見ますと、上トップ図のとおりです。

この図は、「人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか」にあるデータを基に、巨大古墳38基のうち奈良・大阪にある3世紀~5世紀前の31基の巨大古墳について、1世紀を前と中~後に分けて作成しました。

この図から、巨大古墳建造は、3世紀中~後に始まり、5世紀前に絶頂期を迎えます。そして、6世紀前には無くなります。このことは、奈良・大阪のツングース系王家は、5世紀前に絶頂期を迎え、5世紀中~後に衰退し、6世紀前には滅びてしまった可能性を示唆します。

何故滅んだのかについて想像しますと、いくつもの巨大古墳建造に対し、民衆の疲弊と怒りが背景にあったと思われます。

次に、ツングース系王家の発展を検討しますと、次のとおりです。

ツングース系王家の支配地域は、その200m以上の巨大古墳建造の数と場所から推察しますと、3世紀は近畿だけ、4世紀は近畿+東海+中国地域の半分、そして5世紀は、中心地が河内(大阪)に移ったことから、近畿+東海+中国+四国と推察されます。

そして、Koyama(1978)の報告を基にツングース系王家の支配地域の人口、比較として北九州地域の人口を下表に示しました。なお、Koyama(1978)のデータには北九州地域のデータはありませんので、北九州地域人口は九州地域の半分としました。

ツングース系王家の支配地域と北九州地域人口

ツングース系王家の支配地域の人口は、3世紀は15万人、4世紀は45万人、5世紀は94万人となります。

北九州地域は、3世紀は邪馬台国、5世紀は倭国の時代に相当しますが、近畿のツングース系王家と比較しますと、人口の差異は大きく、5世紀はツングース系王家が94万人、北九州地域が15万人となっています。

この数値の差異から見ますと、ツングース系王家は、5世紀には西日本を支配する大王家になっていたと評価されます。そして、いくつもの巨大古墳建造は、その大王家の権力の象徴であったと思われます。

次に、古墳建造に係る動員数を下表にまとめました。

古墳建造のために動員された人数は、「巨大古墳建造のため奈良に動員された人数」と同じく、墳長1m当たり1万人動員として計算しました。

そして、先に示した人口を基に、巨大古墳建造に動員された人口割合を推察しますと、次のとおりです。

まず、1世紀を100年、1人当たり年間労働日数を農閑期の100日として、1年当たり動員数を算出しますとは下表のとおりです。

ツングース系王家の巨大古墳建造経過と動員数

動員されるのは青年か壮年の男性という実際場面から推察しますと、動員される対象の青壮年は総人口の約4分の1となります。この数値を基に、各地域の青壮年100人当たりの年当たり動員人数を推定しますと、3世紀は1人(0.8人)、4世紀は3人(2.8人)、5世紀は2人(2.0人)になります。

3世紀の場合は1人で、支配地域は近畿だけで大きな問題は感じられませんが、4世紀は3人と5世紀は2人と動員人数も多くなります。遠距離動員や移動のこと、毎年のこと、陰で支える者たちのこと、労働環境等を想像しますと、民衆にとって厳しいものであったことと判断されます。

さらに、以上の結果は、200m以上の巨大古墳だけの数値ですが、200m以下の古墳も多数あります。これらの古墳を含めると、動員人数はさらに多くなり、民衆の負担はさらに多かったことは言うまでもありません。

まとめますと、奈良と大阪に巨大古墳を建造したツングース系王家は、近畿、東海、中国、四国を支配地とする大王家に発展し、5世紀前期に最盛期を迎えました。しかし、巨大古墳建造に対する民衆の疲弊と怒りから、5世紀後期に衰退し、6世紀前半には滅ぼされたと推察されます。

巨大なツングース系王家を滅ぼした主役は、福井出身のアイヌ系豪族の継体王、後の継体天皇(在位:507-531年)と思われます。この方面は次回、報告します。



日本史ランキング
[ 2020/10/04 07:38 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(0)
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR