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Archive2020年11月 1/1

北九州倭国は新唐書からなぜ消えたのか

北九州倭国は新唐書からなぜ消えたのか(古代史の問題)古代史最大の問題は、邪馬台国所在地論争とリンクし、北九州に倭国があったのか無かったのか、と思われます。945年に完成した旧唐書によれば、「最近朝貢してきた国に日本があり、これは旧来より朝貢していた九州の倭国とは別の倭種」とあります。一方、1060年に再編纂された新唐書によれば、北九州倭国のことは記載が無く、倭国が日本国(大和政権)になったと記載されてい...

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古代日本列島の民族と日本統一の経過

古代日本列島の民族と日本統一の経過(記事まとめ)日本には、アイヌ系35%、マレー系30%、ツングース系(中国系20%+モンゴル系5%)25%の3大民族がいます。アイヌ系は縄文時代の主役と思われます。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。一方、拙ブログでは、朝鮮半島の民族に、中国南部由来のマレー系稲作民族、中国北部由来のツングース系畑作民族の2系統があり、それら2系統が日本に移住し、日...

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古代の朝鮮半島の民族と国家

古代の朝鮮半島の民族と国家(記事まとめ)朝鮮半島と日本列島の古代国家について検討してきました。現在は、朝鮮半島には朝鮮民族、日本列島には日本民族だけとなっていますが、古代には複数の民族が居て、それぞれ古代国家を建設してきました。因みに、百済はマレー系稲作民族国家、新羅はツングース系畑作民族国家と思われます。関連し、今回は朝鮮半島の古代の民族と古代国家について記事まとめをします。まず、現在のDNA(Y染...

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白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったこと愚考

白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったこと愚考(古代史の問題)前回、白村江の戦い(663年)に敗れ、倭国王「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」は唐軍の捕虜になり、倭国は滅亡したことを紹介しました。このことは、北九州にあった倭国が滅び、日本は統一され、畿内政権一つになった大きな事件でした。詳しくは「「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末 」を参照願います。しかし、「白村江の戦い」についてネ...

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白村江の戦いにおける海戦の真相

白村江の戦いにおける海戦の真相(古代史の問題)前回、遣唐使の記録を検討し、白村江の戦い(663年)は、実際は、北九州倭国軍と唐軍の戦いであったことを紹介しました。日本書紀では、大和政権が唐と戦ったとありますが、それは日本書紀の歴史改竄と思われます。関連し、今回は、海戦の記述から、そのことを観てみたいと思います。まず、日本書紀をベースにしたWikipedia(白村江の戦い)によれば次のとおりです。軍事力[編集]唐...

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大和政権は白村江の戦いに参加しなかった、遣唐使の記録から

大和政権は白村江の戦いに参加しなかった、遣唐使の記録から(古代史の問題)日本古代の最大の対外関係事件は、663年の白村江の戦いです。北九州にあった倭国が百済支援に向かい敗戦し、滅び、その結果、西日本が大和政権に統一された事件と評価されます。その背景ですが、日本の状況は次のようであったと拙ブログでは観ています。日本には邪馬台国以来の倭国が北九州に4世紀からありました。一方、朝鮮半島由来のツングース系王家...

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北九州の倭王「武」は関東に来ていた

北九州の倭王「武」は関東に来ていた(古代史の問題)前回、北九州の倭王「武」は、中国南朝(宋の順帝)から「安東大将軍 倭王」という称号を478年に授与され、朝鮮半島南部と北九州を支配する大王になったこと、関連し、その名は関東まで響き渡っていたことを埼玉県出土の鉄剣碑文から推察しました。一方、ブログ「うっちゃん先生の「古代史はおもしろいで」」が「「常陸の国風土記」に「倭武天皇」太宰府に拠点、皇后も登場、睦...

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