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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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北九州倭国は新唐書からなぜ消えたのか


日本書紀と新唐書の関係


北九州倭国は新唐書からなぜ消えたのか(古代史の問題)

古代史最大の問題は、邪馬台国所在地論争とリンクし、北九州に倭国があったのか無かったのか、と思われます。

945年に完成した旧唐書によれば、「最近朝貢してきた国に日本があり、これは旧来より朝貢していた九州の倭国とは別の倭種」とあります。一方、1060年に再編纂された新唐書によれば、北九州倭国のことは記載が無く、倭国が日本国(大和政権)になったと記載されています。

すなわち、新唐書の「倭国が日本国になった」という記述は、倭国は大和にあり、それが名称を変え、日本国になったという意味になり、北九州倭国はなかったことが記載されていることになります。

関連し、今回は、「北九州倭国は新唐書からなぜ消えたのか」について愚考します。


まず、ブログ「しばやんの日々」の「唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である」の一部を引用しますと、次のとおりです。

ところで唐の時代の正史は、後に書き改められた、『新唐書』という史書がある。唐の時代の同じ時代のことを書いた正史が書き改められた理由は、Wikipediaによると「編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった」ために、北宋の嘉祐6年(1060)に再編纂されたものだという。

この『新唐書』東夷伝には、「倭国」の記録はなく、「日本国」の記録に一本化されている。

そこにはどう書かれているのか。現代語で一部を紹介したい。

原文と読み下し文は、次のURLで読むことが出来る。

「日本は古(いにしえ)の倭の奴国である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは東西は歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月の行程である。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.269)

と、『旧唐書』の倭国を紹介する文章とほとんど同じである。

もう少し読み進むと、「倭国」「日本国」の関係について書かれている。

「咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
『わが国は太陽の出る所に近いから、それで国名にしたのだ』と。
また、こういう説もある。

『日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ』

使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。またその使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向うは毛人の住む地だ、などと言っている。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.272)

とあるのだが、先ほどの『旧唐書』では「小さな日本国が倭国を併合した」という説があると書かれていた。ところが、『新唐書』では「小さな日本国が倭国に併合され、倭国が日本国の国名を奪った」という説があると書かれている。

中国と古来通交のあった倭国を日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、その違いはとんでもなく大きい。

もし前者の視点である『旧唐書』の記述が正しいとすれば、わが国の古代史は全面的に書き直さねばならなくなるだろうし、後者の『新唐書』の記述が正しいとしても、4世紀後半までに大和朝廷がわが国を統一したという話は、日本国が余程小さい国でない限りは成り立たないだろう。

わが国の歴史家の大半は、後漢書や三国志、隋書などのわが国に関する記述を重視している割には、『旧唐書』や『新唐書』の記述を軽視し、わが国の『日本書紀』の記述を重視していると思わざるを得ないのだ。

このブログで何度か書いているが、いわゆる『正史』と言われる歴史書は、自国についてはその時の為政者にとって都合よく書かれることが多くて当たり前だ。しかしながら他国のことに関しては、真実の追求に限界があるとしても、外交・安全保障観点からできるだけ正しく分析して後世に記録を残そうとする傾向にあるものであり、嘘を書く動機が乏しいものであるはずだ。したがって、わが国の歴史学会が、『旧唐書』あるいは『新唐書』の記述を軽視することはおかしなことだと思う。
(引用終了)

引用が長くなりましたが、上記引用記事を参考に、新唐書で旧唐書の内容が変わった理由を検討しますと、日本側が中国に変更を求めてきた可能性が考えられます。

日本側が、旧唐書にあった北九州倭国を無かったことにする理由は1点です。すなわち、日本の正史「日本書紀」では、昔から現王朝だけが続いていたという内容ですので、北九州倭国の存在は認められません。

すなわち、北九州倭国は無かったという日本の正史「日本書紀」を中国側に見せ、理解を求めた結果で、それは中国語で書かれており、中国側の理解は難しくなかったと思われます。

そこで、より大きな問題は、上記引記事の指摘のように「わが国の歴史学会が、『旧唐書』あるいは『新唐書』の記述を軽視していること」です。少なくない学者が旧唐書の記述を基に、北九州に倭国があったことや、大宰府にその都があったことを指摘しています。

おそらく、邪馬台国と北九州倭国の所在地を真剣に検討すると、邪馬台国も倭国も北九州にあったという説が有力になり、大和朝廷中心の日本書紀を基にした古代史の書き換えが必要になるので、故意に『旧唐書』あるいは『新唐書』に触れないようしているのが真相と思われます。

まさに、「日本の古代史は戦前と変わっていない」という指摘は当たっています。

邪馬台国所在地論争だけでなく、倭国の所在地論争、これらの決着無しに日本古代史は見えてきません。

関連し、旧唐書と新唐書関係図を上トップに示しました。



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[ 2020/11/30 07:16 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(16)

古代日本列島の民族と日本統一の経過


朝鮮半島と日本列島の5世紀と7世紀お状況


古代日本列島の民族と日本統一の経過(記事まとめ)

日本には、アイヌ系35%、マレー系30%、ツングース系(中国系20%+モンゴル系5%)25%の3大民族がいます。アイヌ系は縄文時代の主役と思われます。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。

一方、拙ブログでは、朝鮮半島の民族に、中国南部由来のマレー系稲作民族、中国北部由来のツングース系畑作民族の2系統があり、それら2系統が日本に移住し、日本の先住民族のアイヌ系等と共存しながら弥生時代~古墳時代を作ってきたことを検討してきました。

関連し、今回は、それら2系統の影響は7世紀まで続き、白村江の戦(663年)の後に日本は統一されたことについて記事まとめします。

まず、それらの経過を下表にまとめました。

日本の3大民族と西日本の古代史

水田稲作民族のマレー系は北九州に倭国、一方、北方畑作民族のツングースは近畿にツングース系王家を建設しました。しかし、ツングース系王家は、アイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)によって滅ぼされ、一方、マレー系倭国は663年に白村江の戦いに敗れて滅び、その後、日本はアイヌ系王家(現天皇家)によって統一されました。

マレー系の存在は、岡山に陸稲遺跡が5000年前からあることから、その頃から居たと思われます。鹿児島で発見された稲花粉のプラントオパールは1.4万年前のものであり、それが確認されるなら、1.4万年前から居たことになります。中国では最古の稲作遺跡が1.6万年前から知られておりますので、その可能性はあります。

拙ブログでは、これら縄文時代から居たマレー系グループをマレー系Aと呼称しております。三内丸山遺跡時代に海洋交易したグループと思われ、彼らを海洋系マレーとも呼称しています。

一方、中国南部の水田稲作地帯から北上し、山東半島から朝鮮半島を南下し北九州に住み着き、3000年前から水田稲作を始めたグループがあります。拙ブログでは、彼らをマレー系Bまたは水田稲作系マレーと呼称しております。詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

水田稲作により豊かになると、3世紀の北九州に邪馬台国が現れます。そして、それは5世紀に倭国となり、中国南朝に朝貢し、倭の五王時代となります。最後の倭王「武」は、「六国諸軍事安東大将軍」となり、朝鮮半島南部も支配する強大な国家に発展しました。詳しくは「朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係」を参照願います。

また、彼らは朝鮮半島の「百済」と友好関係にあり、おそらく、「百済」も稲作地帯にあり、マレー系で同一民族と思われます。「百済」が唐・新羅連合軍によって660年に滅ぼされますと、倭国は再興のため援軍を送りましたが白村江の戦い(663年)に敗れ、その後は大和政権に取り込まれ、倭国の歴史は終わりました。

一方、ツングース系ですが、高身長の人骨が富山の7000年前の縄文時代遺跡に認められますので、彼らはその時代から移住していたと思われます。

彼らは、北方系畑作民族であり、弥生時代、鉄の産地「慶州」から、鉄製農具を持って2300年前頃から日本に多く移住してきました。彼らの多くは、縄文時代に人口が少なかった地域、特に近畿に多数移住してきました。その鉄農具遺跡の数や、彼らの埋葬特徴の方墳遺跡の数から、彼らは弥生時代に人口が増大したと推察されます。

そして、彼らは食料(農業)で優位に立ち、各地域でリーダーの地位を得ました。そして、その中から大王が現れますと、大王は権力の象徴である巨大古墳を奈良に建造しました。5世紀には世界最大の大仙陵古墳を大阪に建造しました。

古墳建造は周囲に溜池を作りますので、農業関係者には灌漑用水として歓迎された面もありますが、作りすぎますと、それは民衆の疲弊を招きます。

それらの結果、6世紀にはアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)によって、ツングース系の政権は滅びてしまいました。その結果、彼らの歴史は抹殺され、王宮跡や巨大古墳の大王名も不明になりました。

以上、まとめますと、朝鮮半島と同様、日本にもマレー系とツングース系の2系統の流れがあり、マレー系が北九州に「倭国」、ツングース系は奈良・大阪に巨大古墳王家を作りました。

しかし、ツングース系王家は多数の巨大古墳建造の結果、民衆の怒りを招き、アイヌ系の継体天皇によって6世紀前半に滅ぼされました。一方、北九州のマレー系「倭国」は、白村江の戦い(663年)に唐・新羅連合軍に敗れ滅びました。

以上の結果、日本は一つの国家に統一されました。その統一は唐による北九州倭国抹殺があった結果ですが、その経過は、唐が新羅と連携し百済と高句麗を破り、新羅が朝鮮半島を統一した経過に似ています。


関連し、5世紀と7世紀の様子を上トップ図に示しました。

なお、現天皇家のルーツがアイヌ系であり初代は継体天皇であることについては「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。



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[ 2020/11/25 08:14 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(0)

古代の朝鮮半島の民族と国家


朝鮮半島の古代国家と民族


古代の朝鮮半島の民族と国家(記事まとめ)

朝鮮半島と日本列島の古代国家について検討してきました。

現在は、朝鮮半島には朝鮮民族、日本列島には日本民族だけとなっていますが、古代には複数の民族が居て、それぞれ古代国家を建設してきました。因みに、百済はマレー系稲作民族国家、新羅はツングース系畑作民族国家と思われます。

関連し、今回は朝鮮半島の古代の民族と古代国家について記事まとめをします。

まず、現在のDNA(Y染色体ハプログループ)分類ですが、Wikipedia情報を下表に示しました。比較に日本と満州の結果も入れてあります。

朝鮮半島の民族とY染色体ハプログループ

朝鮮半島の多数派は中国系40%、続いてマレー系40%(30%という報告もあります)、モンゴル系10%、その他10%になります。なお、朝鮮半島の民族はツングース系と分類されますが、ツングース系は中国系とモンゴル系の混合混血民族ですので、ツングース系50%、マレー系40%、その他10%と分類することもできます。

これらのデータと周囲の情報から古代の状況を推察しますと、下記のようになります。

まず、マレー系ですが、マレー系の故郷のインドネシアには最古のアジア稲品種があったことが分かっています。中国南部に、1.6万年前の稲遺跡が知られておりますが、これをマレー系民族が移住し残した遺跡と推察されます。マレー系はその頃から中国に居たと思われます。詳しくは「稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか」を参照願います。

関連し、日本には、1.4万年前の稲のプラントオパールが鹿児島で発見されていることから想像しますと、マレー系は朝鮮半島から九州南部にかけて稲モミを持って1.4万年前から渡来していたと推定されます。

マレー系民族には、海洋系(マレー系A)と水田稲作系(マレー系B)の2種が知られていますが、朝鮮半島では水田稲作系のマレー系Bが多数派です。しかし、最初に渡来したのは少数派の海洋系(マレー系A)と思われます。

関連し、5000年前の日本の三内丸山縄文遺跡で海外交流の跡が多数発見されていますが、その時代に日本に渡来してきた民族ではマレー系だけが海洋系ですので、縄文時代の海外交流は海洋系マレー系Aによるものと推察されます。

なお、日本の稲プラントオパール調査によれば、上記の鹿児島のほか岡山県で5000年前の陸稲のプラントオパールが多量に発見されていることから、彼らはその頃から陸稲栽培もしていたと推察されます。

詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

一方、水田稲作系のマレー系Bですが、3000年前頃、江南地方から山東半島を経て朝鮮半島に渡来してきました。このことは、朝鮮半島の弥生遺跡「松菊里遺跡」等から分かっています。

地理的関係から、彼らは朝鮮半島南西部に居住し、少しずつ東部に居住地を広げていったと思われます。そして、稲作が発展すると、3世紀頃に百済が建国されました。

百済建国に関しては、ツングース系の夫余が建国したと言われますが、その後の経過を見ると支配者は少数派のツングース系から多数派のマレー系に変わっていったと推察されます。そして、4世紀には、北九州倭国と連合し、北の強国の高句麗と戦ったことは知られているところです。

当然のことですが、百済の言語はマレー系言語だったと推察されます。そして、その言語は日本語と同じ発音様式であることから、日本語の発音は、百済時代に日本に導入された万葉仮名と思われます。因みに、百済(くだら)はKudaraで兄弟という意味で、日本のマレー系(北九州倭国)が使った言葉と思われます。

詳しくは「万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字」および「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。

一方、中国系とモンゴル系ですが、彼らは中国東北部の満州で混合混血し、1万年前頃、ツングース系民族となりました。生業は半農半猟と思われます。詳しくは「北方系民族故郷の満州とツングース」を参照願います。

その後、彼らは、南下し、朝鮮半島北部と東部に居住し、居住地を広げていきました。7000年前にはツングース系と見られる高身長の人骨が日本で認められていますので、彼らの朝鮮半島への渡来時期は8000年前、日本への渡来時期は7000年前頃と思われます。

ツングース系民族は、満州周辺に多数認められますが、朝鮮半島北部に1世紀に建国されたのが高句麗、続いて、朝鮮半島南西部に3世紀建国されたのが新羅となります。

新羅の慶州は2300年前頃から鉄生産の中心地になり、農業に革命を起こしました。その結果、鉄と畑作農業で発展し、3世紀に新羅建国になったものと思われます。

以上のことから、3世紀には、朝鮮半島北部はツングース系の高句麗、南西部はマレー系の百済、南東部はツングース系の新羅という3国体制になり、3国の争いが7世紀の新羅統一まで続きました。

なお、百済と新羅の間に伽耶地方がありますが、マレー系とツングース系の民族対立が続き、国家としてまとまることはできなかったと推察されます。

一方、北九州では、マレー系の倭国が4世紀に建国されました。倭国と百済は同胞であり、連携しました。関連し、これら3国と北九州倭国の関係ですが、倭王「武」が5世紀に朝鮮半島南部の中心地(伽耶地方)も支配する大王となりました。これは一時期だけですが、詳しくは「倭王武は百済の武寧王になった」を参照願います。

以上のことから、朝鮮半島は、現在は朝鮮民族だけですが、古代にはツングース系とマレー系が対立した時代が続きました。現在の朝鮮民族はツングース系に分類されますが、マレー系が40%(30%のデータも有り)含まれております。

関連し、南西部の稲作地帯にある光州は、このマレー系のルーツと見られる場所ですが、民衆と政府が対立し、500人が殺されるという韓国最大の内乱(光州事件)が1980年に起こりました。拙ブログでは、そのルーツは古代からの根深い民族対立にあったのではないかと見ています。詳しくは「百済民族の怨念と光州事件」を参照願います。

関連し、朝鮮半島の3国時代の4世紀の状況を上トップ図に示しました。この時期、日本では、鉄を持参し農業で優位に立ったツングース系民族が畿内(大和)で建設した王家の時代で、巨大な前方後円墳が多数建造されました。詳しくは、最近の関連記事を参照願います。


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[ 2020/11/20 08:13 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(5)

白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったこと愚考


北九州和平会議665年と倭国滅亡


白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったこと愚考(古代史の問題)

前回、白村江の戦い(663年)に敗れ、倭国王「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」は唐軍の捕虜になり、倭国は滅亡したことを紹介しました。

このことは、北九州にあった倭国が滅び、日本は統一され、畿内政権一つになった大きな事件でした。詳しくは「「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末 」を参照願います。

しかし、「白村江の戦い」についてネット検索しますと、ほとんどが、その戦いは、日本書紀にしたがい、日本(大和政権)と中国・新羅連合軍の戦いという記事ばかりです。北九州倭国の存在は無視されています。

関連し、今回は、その経過を辿り、北九州倭国の存在と日本書紀の歴史改竄に迫ります。

まず、白村江の戦いの経過は次のとおりです。

659年: 日本(大和政権)第4回遣唐使派遣(661年帰国)。
660年: 唐・新羅連合軍に百済が敗れ、残党が北九州倭国と日本に復活のための支援を要請する。
663年: 北九州倭国軍が支援に向かい、唐・新羅連合と対戦し、白村江の戦いで大敗し、陸上の戦いでは指揮官(倭国王)等多数が捕虜となる。
665年: 唐の劉徳高が戦後処理の使節として北九州(大宰府?)に来て、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、日本は送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。


そこで、その経過を詳しく検討しますと、不思議なことに665年の戦後処理の内容が明らかになっていません。

一般に、敗戦国は戦勝国に何らかのものを提供しなければなりません。しかし、日本(大和政権)は何も失っていません。

前回も紹介しましたが、捕虜になったのは倭国王初め北九州倭国関係者ばかりです。日本書紀に、「指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津」等、大和の指揮官の名前が入っていますが捕虜になった者は居ません。大多数のネット記事が本当ならば、倭国王ではなく、大和の指揮官等が捕虜になったはずです。

そこで、前後関係から想像しますと、665年の戦後処理では、次のようなことが基本にあったと推察されます。

1. 今回の戦争は北九州倭国が起こしたもので、日本(大和政権)は関係がない。
2. 戦後処理として、百済を支援してきた倭国は抹殺、その領土(北九州)は日本の帰属とする。
3. 日本は引き続き唐の属国として扱われる。
4. 百済の残党には厳しく対処する。例えば、百済文化人の関東流刑です。

なお、百済人の関東流刑については「百済亡命移民は何故東国に移されたのか」を参照願います。

そして、日本側は漁夫の利を得て、次のようになりました。

1. 北九州倭国の地は日本の筑紫国として扱い、国司を置く。抵抗する者には厳しく対応する。
2. 日本は属国の証として朝貢(遣唐使)を続ける。

このことに関し北九州倭国の人々の思いですが、抵抗する気力は無かったと思われます。すなわち、今まで戦争が多く苦しかったが、これからは平和になると思ったことでしょう。

まとめますと、「白村江の戦い」は唐・新羅連合軍と百済残党・倭国の戦いであり、日本(大和政権)は中立で、その結果、漁夫の利を得たと結論されます。

そして、日本書紀はなぜ歴史を改竄したかですが、理由は簡単です。「日本には万世一系の大和朝廷があり、これに反することは表向き記述できなかった」ことと思われます。しかし、すべて嘘を書くわけにはいかず、北九州倭国兵の捕虜のことなど矛盾する記述も日本書紀に垣間見えることになったと思われます。

関連し、665年の北九州和平会議(大宰府?)の様子を上トップ図に示しました。



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[ 2020/11/15 07:16 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

白村江の戦いにおける海戦の真相


白村江の海戦の真相


白村江の戦いにおける海戦の真相(古代史の問題)

前回、遣唐使の記録を検討し、白村江の戦い(663年)は、実際は、北九州倭国軍と唐軍の戦いであったことを紹介しました。日本書紀では、大和政権が唐と戦ったとありますが、それは日本書紀の歴史改竄と思われます。

関連し、今回は、海戦の記述から、そのことを観てみたいと思います。

まず、日本書紀をベースにしたWikipedia(白村江の戦い)によれば次のとおりです。


軍事力[編集]
唐・新羅連合軍[編集]
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[1]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[4]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。
倭国軍[編集]
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした[20])。
(引用終了)

また、このときの唐軍の指揮官「劉仁軌」ですが、Wikiprdiaによれば次のとおりです

龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。(引用終了)

また、「白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?」によれば次のとおりです。

奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。(引用終了)


引用が長くなりましたが、これらから白村江の戦いの真相を探ると次のとおりです。

1. 唐軍は7000余人、船舶170余隻また、船の大きさは、単純計算で40人乗りで、中型船という感じです。

2. 一方、日本書紀の記述ですが、日本軍は1万余人。船舶は唐軍と同じく170余隻ですが、唐軍と同じ船数となっているのは作為的と思われます。また、船の大きさですが、単純計算で60人乗り(1万人/170隻)で唐軍よりも大きな船です。そこで、そのような多数の大きな船をどのように作ることができたのか、疑問が残ります。当時は、そのようなサイズに遣唐使船がありますが、数隻準備するだけで精いっぱいだった時代、170隻はあり得ません。

3. また、唐軍指揮官「劉仁軌」の記事によれば、「400余隻の軍船を焼き払って大勝」とあります。さらに関連記事を見ますと倭国軍は小舟のため唐軍の船に挟まれ苦戦したとあり、日本書紀記述のような大きな船は出てきません。

4. また、日本書紀では倭国軍は北九州以外の兵力で構成されていたとありますが、日本書紀の別のところでは「北九州筑紫国の農民兵が690年に帰国した」とあります。これは、白村江の戦いの主役は北九州倭国の兵士だったことを示唆しております。

5. さらには、捕虜の帰還に関し、Wikipediaによれば、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の名前があります。彼らは、北九州倭国の高僧、王、豪族です。

6. 以上のことをまとめますと、白村江の戦いは唐軍(中型船)と北九州倭国(小型船)との戦いであったと見ると矛盾がなくなります。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」 を参照願います。

まとめますと、前回の遣唐使内容と同様、白村江の海戦いの内容からも唐軍と戦ったのは北九州倭国であったことになります。

繰り返しますと、日本書紀では、大和政権が唐と戦ったとありますが、それは日本書紀の歴史改竄になります。これは、北九州倭国は無かったことにしている日本書紀の編集方針と思われます。

関連し、倭国王「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」は捕らえられ、唐軍の捕虜となり、倭国は滅びました。詳しくは「「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末」を参照願います。

関連し、白村江の海戦の真相を上トップ図に示しました。



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[ 2020/11/10 07:18 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

大和政権は白村江の戦いに参加しなかった、遣唐使の記録から


白村江の戦い前後の遣唐使


大和政権は白村江の戦いに参加しなかった、遣唐使の記録から(古代史の問題)

日本古代の最大の対外関係事件は、663年の白村江の戦いです。北九州にあった倭国が百済支援に向かい敗戦し、滅び、その結果、西日本が大和政権に統一された事件と評価されます。

その背景ですが、日本の状況は次のようであったと拙ブログでは観ています。

日本には邪馬台国以来の倭国が北九州に4世紀からありました。一方、朝鮮半島由来のツングース系王家の支配が続いていた大和地域には、継体王(在位:507-531年)が現れ、ツングース系王家を滅ぼしました。そして、6世紀、両雄であった倭国の磐井王と大和の継体王が528年に戦いました。「磐井の乱」と呼ばれている事件ですが、決着は尽きませんでした。

日本書紀では「磐井の乱」で磐井王は殺されたことになっていますが、筑紫国風土記には磐井王は豊後の方に逃げたとありあります。

また、新羅の歴史書によれば、磐井の乱の後も、倭の武王時代から続いてきた倭国への朝貢を続けていたとありますので、磐井の乱の後も倭国は続いていたと観るのが妥当と思われます。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。

以上のことから、日本には6世紀、2国が並立する時代になりましたが、これら2国が大和政権によって統一されたのが、663年の白村江の戦いで倭国が滅びた後になります。

一方、この白村江の戦いの時代、大和政権は、遣唐使を派遣し、唐の先進文化を積極的に導入しようとしていました。すなわち、大和政権は唐と友好関係にあり、唐と戦う理由はありませんでした。

前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、「遣唐使全航海」(上田雄著 2006)という書籍(下の写真参照)を参考に、白村江の戦いで畿内政権が本当に戦ったのかについて検討します。

遣唐使全航海(書籍)

まず、その書籍から、白村江の戦い前後の遣唐使の様子を要約すると次のとおりです。

第4回遣唐使(659~661): 人数は240人ぐらい、船2隻に分乗し出発したが、東シナ海で逆風を受け、1隻は漂着した後、南海の島で島民の攻撃に合い、5人だけが逃げることができた。一方、残りの1隻は、都(長安)に659年に無事着いた。

当時、唐は660年に百済への総攻撃を予定していたため、百済の隣国である日本に情報が洩れることを恐れ、使節一行は唐の都に幽閉され、百済征討が終わった翌年(660年)に開放され、帰国した。

第5回遣唐使(665~667): 唐が百済を攻め滅ぼした後の663年、百済に占領軍を置き、664年に唐の百済鎮将が部下を北九州に派遣した。さらに665年に唐の使節254人が北九州に再来したが、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣唐使であった。

これら遣唐使の内容から見ますと、白村江の戦いで日本側が唐と戦ったことは、まったく触れられていません。すなわち、唐と戦ったのは北九州の倭国軍であり、日本書紀にある倭国(日本軍)で無かったと判断されます。

また、665年に唐の使節254人が来ましたが、場所は北九州です。すなわち、彼らが来た理由は実際に戦った北九州倭国の戦後処理であったと推察されます。

関連し、当時倭国は「阿毎王権」でしたが、白村江の戦いの後、北九州倭国政権は中国の歴史書から消えます。また、倭国王だった「倭王の筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」が唐軍に捕らえられたことも知られております。詳しくは「倭国はいつ滅びたのか」を参照願います。

そこで、拙ブログでは、白村江の戦いで戦ったのは北九州の倭国(当時阿毎王権)であり、大和政権が軍を出したのは唐軍と戦うためでなく倭国を滅ぼすためであったと指摘しています。詳しくは「白村江の戦いの真実」を参照願います。

まとめますと、白村江の戦いの前後に関する遣唐使派遣の状況から判断し、白村江の戦い(海戦)は唐軍と北九州倭国軍の間で起こった戦争と判断されます。

関連し、白村江の戦い前後の遣唐使派遣の様子を上に示しました。

なお、「遣唐使船の時代」(2010 遣唐使船再現シンポジウム)という書籍も出ております(下図参照)。こちらは、遣唐使の日本文化への影響が中心課題と観られ、白村江の戦いについての情報はまったくありません。

遣唐使の時代(書籍)

冒頭で示したように、白村江の戦いは朝鮮半島と日本(倭国)の歴史を変えた重要な事件です。この書「遣唐使船の時代」がそれを無視していることは、北九州倭国が無かったという前提で作られた書と思われます。



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[ 2020/11/05 07:53 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

北九州の倭王「武」は関東に来ていた


倭王武と関東の古代


北九州の倭王「武」は関東に来ていた(古代史の問題)

前回、北九州の倭王「武」は、中国南朝(宋の順帝)から「安東大将軍 倭王」という称号を478年に授与され、朝鮮半島南部と北九州を支配する大王になったこと、関連し、その名は関東まで響き渡っていたことを埼玉県出土の鉄剣碑文から推察しました。

一方、ブログ「うっちゃん先生の「古代史はおもしろいで」」が「「常陸の国風土記」に「倭武天皇」太宰府に拠点、皇后も登場、睦まじく遊ぶ」を紹介しております。

この記事では、北九州の倭王「武」が関東に実際に来ていたことが「常陸の国風土記」に書いてあることを紹介しております。

関連し、今回は、北九州の倭王「武」は実際に関東に来ていたことについて愚考します。

まず、上記記事の一部を紹介しますと次のとおりです。


最後の「倭(い)の武」は列島の「史書」にも登場していることを思い出してほしい。これまでに何回かふれたが『常陸国(ひたちのくに)風土記』だ。

この「風土記」の中心にいるのは「倭武天皇」で、そのままの名で登場する。びっくりするのは「景行天皇」もこの地を訪れていたという記述だ。『記』にはまったく記されていない。

この「風土記」の中身を見てみよう。

①≪常陸の国司、解(上申)して申す。古老相伝の旧聞の事≫倭武天皇、東の国を巡狩し、新治縣(にいはりのあがた)に幸(いで)ます。(派)遣していた国造ヒナラスの命(みこと)に新たな井(戸)を掘らしめるに、流泉浄(きよく)澄み、いと好く愛(うま)し。時に(倭武)、乗輿(みこし)を止めて、水をめで、手を洗う・・・
②≪筑波郡≫古老曰く、筑波の縣は古(いにしえ)「紀の国」と謂(い)ひき・・・
③≪筑波郡≫筑波の岳は往き集い、歌舞し飲み食いすること今に至るまで絶えざるなり(歌垣)
④≪信太(しのだ)郡≫大足日子(おおたらしひこ=大帯彦=景行)天皇、浮島の帳宮(かりみや)に幸ます。水の供御無かりき。即ち卜者(うらないのもの)を(派)遣し占を問わしめて穿(ほら)しむ・・・
⑤≪信太郡≫古老曰く「倭武天皇、海辺を巡幸し、乗浜に行き至る。この時浜浦に多く海苔(のり)乾かせり。是により名をノリハマの村と
⑥≪茨城郡≫昔、倭武天皇、丘の上に停留し、御膳を進め奉る時、水部に新しい清井を掘らしむ。出泉浄(きよ)く飲喫にいと好かりき
⑦≪行方(なめかた)郡≫倭武天皇、天下を巡狩し、海北を征平す・・・よろしくこの地を行細(なめかた)の国というべし、と
(中略)

この風土記には計14カ所に倭武天皇の行動や事績が伝えられている。⑦「天下を巡狩した」「海北(朝鮮半島)を征平す」と書いているからこの天皇が『宋書』などに記す「倭武天皇」であることがわかる。もちろん、倭武天皇が常陸の国に都を置いていたわけではないことは⑬「皇后が倭(い)より降り来てこの地で(天皇と)会う」などの表現からも明らかだ。

(引用終了)

一方、倭武天皇は北九州の倭王武ではなくヤマトタケルのことという記事が多くあります。例えば、「常陸国風土記にヤマトタケル「天皇」が登場するのはなぜか・・」によりますと次のとおりです。

常陸国風土記には、「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)」という、日本書記にも古事記にも出てこない天皇が登場します。日本書記には日本武尊(やまとたけるのみこと)という名の、古事記には倭建命(やまとたけるのみこと)という名の人物が登場しますが、天皇ではなく夭折する皇子として描かれています。

これに対し、常陸国風土記では、なぜ「天皇」として語られているのでしょうか。「古事記や日本書記のヤマトタケルの伝えでは、常陸国は通過点としてしか存在せず、ほとんど無視されている。それなのに、常陸国風土記では、一方的なかたちで倭武天皇への熱い思いを寄せるのである。これはどう考えても、現存する中央の歴史とは別の歴史認識が存在したと考えるほかはない」。
(引用終了)

引用が長くなりましたが、上記2点の引用資料をまとめますと、常陸国風土記の倭武天皇は、北九州の倭王「武」説と、古事記にある伝説上のヤマトタケル説という対立した説があることになります。 

そこで二つの説についてまとめますと下表のとおりです。

常陸国風土記の倭武王は誰

いわゆる従来の伝説のヤマトタケル説は、まず、天皇でないことに問題があります。また、風土記の書かれた時期が8世紀ですので、ヤマトタケル説の3~4世紀の話となると、風土記としては古すぎる時の話で事実でない印象を受けます。「倭武」の読み方を古事記にある伝説のヤマトタケルとすることも難点があります。決定的な問題は、「常陸の国風土記」の内容は、井戸など治水の話が中心で、若くして亡くなったヤマトタケルという武勇伝の話ではないということです。

一方、倭王「武」説ですが、遠くから来たところ以外に難点はありません。もともと倭国は海洋系マレー人の多い所ですので、船で移動したとすれば関東への移動は困難でありません。例えば、倭王武は、中国南朝に朝貢しておりますが、こうしたことを考えれば、関東は遠くの地ではありません。

特に決定的なのは、上記引用のとおり、倭武天皇について「「天下を巡狩した」「海北(朝鮮半島)を征平す」と書いてあることと思われます。この内容は倭王「武」のことです。

また、茨城県(常陸国)では、行方(なめかた)市の三昧塚(さんまいづじか)古墳からは八頭馬形飾金銅冠が出土していますが、この金銅冠と同様なものが北九州の遺跡からも出土しており、茨城の金銅冠は北九州倭国由来と推察されますので、北九州倭国との深い関係、すなわち倭王「武」との関係が感じられます。 

また、関東に来た理由ですが、5世紀後半、当時、倭国と畿内のツングース系王家は対立していました。関東を味方につけ、強大なツングース系王家を北九州と関東で挟み、抑えようとしていた戦略があった可能性もあります。

また、常陸国風土記の背景ですが、作られた奈良時代は、天皇という呼称が使われ始めた時代です。倭王「武」は、何度も指摘していますように北九州だけでなく朝鮮半島の南部も支配した大王です。その大王が関東にも来たとすれば、倭武天皇と記載して風土記に残すことは不自然でありません。

以上、まとめますと、常陸国風土記に記載されている倭武天皇は、従来説のヤマトタケルではなく、新説の倭王武の可能性が高いと思われます。そして、この説が有力になりますと、埼玉県出土の鉄剣碑文の「エカタシロ大王」は倭王「武」の可能性がさらに高くなります。

なお、鉄剣碑文について詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。

関連し、5世紀倭王武の時代の日本の様子を上トップ図に示しました。



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[ 2020/11/01 07:39 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)
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「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

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Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

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