Archive2020年12月 1/1
邪馬台国所在地論争のタブー

邪馬台国所在地論争のタブー(ごあいさつ)年末となりました。ひとことご挨拶申し上げます。今年もブログを続けることができました。皆様のご訪問、そしてコメントに感謝いたします。さて、今年の元旦の挨拶では「邪馬台国はどこにあったのか」と題し、次のように述べました。昨年の新年の挨拶では、令和元年に因み、邪馬台国の所在地論争の決着を期待しましたが、残念な結果になりました。奈良(大和)に邪馬台国があったという説...
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古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考

古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考(日本の古代)日本を最初に統一した大王は天武天皇であったことについて検討してきました。関連し、今回は、日本という国号を最初に使ったのも天武天皇であったこと、一方、彼に匹敵する北九州倭国の大王は倭王「武」であったことについて愚考します。まず、日本統一と関連し、日本という国号のルーツですが、Wikipedia(天武天皇) から関連の部分を引用しますと、次のとおりです。「...
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天武天皇が日本を統一した初めての天皇

天武天皇が日本を統一した初めての天皇(日本の古代)前回、壬申の乱に勝利した天武天皇(大海人皇子)が最初に天皇と名乗ったことを紹介しました。関連し、天武天皇が日本を統一した最初の大王であり、天皇制を確立した大王であったことについて今回は愚考します。まず、Wikipediaの一部紹介しますと、天武天皇は次のように紹介されています。(天皇専制と皇親政治)天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させ...
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壬申の乱は初めから東軍が優勢だった

壬申の乱は初めから東軍が優勢だった(日本の古代)壬申の乱では、地方豪族を中心とした東軍(後の天武天皇側)に西軍(朝廷軍)が何度も大敗しました。日本書紀によれば、都(飛鳥)を追われた西軍が反撃し、一時は東軍を都から追い払ったという記述もあるようですが、それは東軍の隙をみて反撃したような感じで、全体として東軍は連戦連勝だった雰囲気が感じられます。関連し、今回は、各県遺跡数を基に、当時の人口を推定し、勢...
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倭国滅亡と壬申の乱の関係愚考

倭国滅亡と壬申の乱の関係愚考(日本の古代)北九州の倭国は、663年百済再興支援のため朝鮮半島に向かい白村江(663年)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、王は陸上戦で唐軍の捕虜となり、滅んだことを前回紹介しました。このとき、北九州の倭国は、この機に乗じた大和(やまと)政権軍にも攻められ、実質的に倭国の領土は大和政権に取り込まれたものと思われます。関連し、倭国王が唐軍の捕虜になったことについては「倭国(筑紫国)...
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紫式部も日本書紀を信頼していなかった

紫式部も日本書紀を信頼していなかった(古代史の問題)拙ブログでは、日本の正史と言われる日本書紀は、真実もあるが虚構もあることを指摘してきました。関連し、今回は、中国の歴史書(旧唐書や新唐書等)を原文で読んでいる壱岐一郎氏の「日本古代史における日中史料の大きな差異(壱岐一郎 2016)」 という記事を紹介します。まず、その記事の後半部の一部を紹介すると、次のとおりです。 最後に、私は10世紀に紫式部が『源...
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