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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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邪馬台国所在地論争のタブー


歴史関係新書(2020年発刊)


邪馬台国所在地論争のタブー(ごあいさつ)

年末となりました。ひとことご挨拶申し上げます。

今年もブログを続けることができました。皆様のご訪問、そしてコメントに感謝いたします。

さて、今年の元旦の挨拶では「邪馬台国はどこにあったのか」と題し、次のように述べました。

昨年の新年の挨拶では、令和元年に因み、邪馬台国の所在地論争の決着を期待しましたが、残念な結果になりました。奈良(大和)に邪馬台国があったという説は破たんしておりますが、それを認めようとしない人たちがなんと多いことか(笑)、これは簡単ではないと感じたしだいです。

この問題は、古代史が教科書などに事実に基づいて記されているのかと関係しており、深刻で重要な課題です。そこで、今年は、この問題を引き続き検討して行きたいと思っています。関連し、拙ブログで特に検討したい課題は、次の6点です。

1. 水田稲作の始まりで人口が増え始める時期は、奈良の地域で2200年前、一方、北九州は2900年前であるが、この700年の差異をどう見るのか。

2. 魏志倭人伝では、倭人は分身(入れ墨)をしていて海南島の人達に似ているとあるが、奈良説ではそうした倭人社会の様子を説明できていない。・・・
(引用終了)

引用記事をまとめますと、邪馬台国所在地論争について結論は出ているが、これを認めようとしない人が多い。そこで、この問題を今年はさらに検討していきたいという年始の挨拶でした。

特に、魏志倭人にあります「倭人は分身(入れ墨)をしていて海南島の人達に似ている」ですが、これを認めるなら、邪馬台国がヤマトにあったという説は成り立ちません。そこで、今年の新書を検討しましたが、この問題への回答はヤマト説の著者からは、まったくありませんでした。

すなわち、ヤマト説というのは、都合のいい記事だけを取り上げ、都合の悪い記事を取り上げないという、およそ学問でない論説となっています。

関連し、上の写真は、2020年に発行された日本史や古代史関係書籍の一部ですが、邪馬台国の「倭人の風俗」に触れていません。この「倭人の風俗問題」に触れると、邪馬台国は北九州、関連し倭国も北九州にあったことになり、日本の歴史書の書き直しが必要となるため、触れることはできない、すなわち、俗な言葉で言えば、日本史のタブーになっている感じがします。

また、「日本の古代史は戦前と変わっていない」lという指摘がありますが、日本史2020年新書から観ても上記のとおりで、この問題は大きいと確信しました。

この問題に関し、「誤りと偽りの考古学・纏向(これは、第二の旧石器捏造事件だ!)」(2019 安本美典)という書籍が出ておりますが、邪馬台国ヤマト説というのは、まさにその通りだと思います。

そこで、来年の抱負ですが、安本先生指摘の「誤りと偽りの考古学」という大問題に迫りたいと思っております(笑)。ご期待ください。



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[ 2020/12/30 07:29 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(8)

古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考


倭王「武」と天武天皇


古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考(日本の古代)

日本を最初に統一した大王は天武天皇であったことについて検討してきました。関連し、今回は、日本という国号を最初に使ったのも天武天皇であったこと、一方、彼に匹敵する北九州倭国の大王は倭王「武」であったことについて愚考します。

まず、日本統一と関連し、日本という国号のルーツですが、Wikipedia(天武天皇) から関連の部分を引用しますと、次のとおりです。


「日本」という国号を採用したのも天武天皇とする説が有力である[43]。天武朝に成立し、『日本書紀』編纂に利用された『日本世記』の存在などが理由である。日本という字にこめた意義には、「日」を中心にした国という思想を表したもので、神が天から降した「日嗣ぎ」が代々の君主だとする神話に即したものとする説や[44]、単に東方の美称とみるなど諸説ある[45]。『日本書紀』の書名・編纂と密接に関係し、飛鳥浄御原令に書き込まれたのではないかと推測される。(引用終了)

また、「大宝律令と官僚制」 から関連の部分を引用しますと、次のとおりです。

日本の国号
わが国の国号は、もとはヤマト政権の中心地である「やまと」が用いられた。一方、中国ではわが国を「倭」と称していたため、外交の場ではこれが用いられた(後世にも、「倭」を「やまと」と訓んだり、「日本」を「やまと」と訓んだりしている)。

他には、「大八洲おおやしまくに」「葦原中国あしはらなかつくに」「秋津島あきつしま」などの呼称があった。しかし、基本的で国際的な国号である「倭」には、「小人」や「従順」などの意味があったので、律令制の成立とともに、新たな国号を「日本」と定めた。

中国の歴史書である『旧唐書くとうじょ』東夷伝日本条では、「日本国は、倭国の別種なり。其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰はく、倭国、自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と説明されている。新たな国号は、702(大宝2)年に派遣された遣唐使によって、中国に知らされたことであろうが、独自の君主号や律令、元号などと異なり、「日本」という国号は、中国の皇帝に容易に受け入れられ、承認されたものと思われる。
(引用終了)

以上の記事をまとめますと、次のような感じです。

「日本」という国号を採用したのは天武天皇とする説が有力で、その国号は702年の遣唐使で中国側に伝えられ、了承されました。

以上のことから、日本という国号を初めて採用したのが天武天皇となると、天武天皇は日本という国を統一した名実ともに最初の大王であったと思われます。

なお、上記引用にもありますが、旧唐書では、「日本国は、倭国の別種なり」とありますから、日本国は、古来より朝貢してきた北九州の倭国とは別の新しい国であることになります。

そこで、北九州倭国の大王について検討しますと、日本を統一を果たした最初の大王の天武天皇に匹敵する大王は倭王「武」と思われます。

倭王「武」については、拙ブログでは何度も記事にしていますが、彼は、478年に「六国諸軍事安東大将軍」となり、新羅を含む朝鮮半島南部を支配する大王となりました。

しかし、残念ながら、日本の古代史では、日本書紀の歴史改竄があり、北九州倭国は認められていません。


関連し、倭王「武」と天武天皇の勢力範囲について上トップ図に示しました。


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[ 2020/12/25 07:05 ] 日本の古代 | TB(-) | CM(4)

天武天皇が日本を統一した初めての天皇


北九州倭国と近畿の古代史


天武天皇が日本を統一した初めての天皇(日本の古代)

前回、壬申の乱に勝利した天武天皇(大海人皇子)が最初に天皇と名乗ったことを紹介しました。関連し、天武天皇が日本を統一した最初の大王であり、天皇制を確立した大王であったことについて今回は愚考します。

まず、Wikipediaの一部紹介しますと、天武天皇は次のように紹介されています。


(天皇専制と皇親政治)
天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という[36]。皇族は冠位26階制と別に五位までの皇族専用の位を帯びた。

しかし皇族が政権を掌握したわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した[37]。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマを持ち[38]、古代における天皇専制の頂点となった[39]。

ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、壬申の功臣でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままであった。壬申の乱が本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、日本では最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったのである[40]。

日本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である[41]。一説に、天皇はもと天武というただ一人の偉大な君主のために用いられた尊称で、彼のカリスマを継承するために、天皇を君主の号とすることが後に定められたという。『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所があるのがその根拠である[42]。
(引用終了)

引用記事をまとめますと、次のような感じです。

まず、天武天皇は、日本史上まれな権力集中をなしとげ、強いカリスマ性を持ち、東海から九州の大地域を支配した最初の大王と思われます。

また、最初に天皇と名乗った大王と言われますが、それに相応しいと思われます。

日本の歴史では、日本書紀の編纂の後、それ以前の大王も天皇と呼称されるようになりました。しかし、それ以前の大王天皇(朝廷)対しては、従う地方豪族は僅かでした。すなわち、天武天皇以前の天皇は、天皇と呼称されるには日本全体の大王のイメージは無く、少し無理がある感じがします。

壬申の乱で、天皇(朝廷)に従わなかった豪族が地方に多数居たことを前回紹介しました。

この他の例としては、磐井の乱(528年)もその可能性が高いと思われます。いわゆる継体天皇(在位:507-531年)が北九州倭国の磐井王と戦った例ですが、日本書紀では朝廷が磐井を破り、北九州倭国が滅びたようになっていますが、事実は違った感じです。

すなわち、筑紫国風土記によれば、磐井は大分の方に逃げたとあるし、北九州倭国の属国だった新羅がその後も朝貢を続けたと新羅の歴史書に書いてあります。何よりも九州最大と言われる前方後円墳(岩戸山古墳)が磐井の墓というのはおかしな話です。朝廷に反逆したなら逆賊となり、大古墳など残す余裕はありません。

詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。

すなわち、継体天皇は、それまであったツングース系王家を滅ぼしましたが、その力は西日本の全豪族を動かすことができるほどの力は無く、倭国の磐井王に勝つことができなかったのが真相と思われます。

続いて、歴史的事件として、白村江の戦い(663年)がありました。拙ブログでは、それは北九州倭国と唐・新羅連合軍の戦いであった観ていますが、日本書紀によれば、第一派:1万余人(船舶170余隻)、第二派:2万7千人、第三派:1万余人、合計4.7万人の軍隊を送ったとあります。この人数は当時の日本人口の1%以上であり、総力を挙げた戦いとも言われます。

しかし、その戦乱がすぐ終わったところから見ると、その日本書紀の内容も疑わしい限りです。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。

まとめますと、天武天皇以前の大王は、天皇と言えるほどの権威と権力は無かったのが真相と思われます。

関連し、天武天皇による日本統一までの経過表を上トップに示しました。



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[ 2020/12/20 08:00 ] 日本の古代 | TB(-) | CM(0)

壬申の乱は初めから東軍が優勢だった


壬申の乱のころの各県人口(図)


壬申の乱は初めから東軍が優勢だった(日本の古代)

壬申の乱では、地方豪族を中心とした東軍(後の天武天皇側)に西軍(朝廷軍)が何度も大敗しました。

日本書紀によれば、都(飛鳥)を追われた西軍が反撃し、一時は東軍を都から追い払ったという記述もあるようですが、それは東軍の隙をみて反撃したような感じで、全体として東軍は連戦連勝だった雰囲気が感じられます。

関連し、今回は、各県遺跡数を基に、当時の人口を推定し、勢力図を検討し、何故東軍は朝廷軍(西軍)に圧勝したのか愚行します。

まず、人口推定法ですが、以前の報告の「古代王国の人口と稲作開始時期」と同じです。

そして、各報告から推定し、東軍は東海地域(三重、愛知、静岡、岐阜)、西軍は朝廷軍+畿内(奈良、大阪、滋賀、京都)の地域とします。

人口推定は、古墳時代遺跡数(750年頃)×129人としました。結果は下表のとおりです。

壬申の乱のときの関係各県人口

東軍地域の推定人口は約60万人、西軍地域の人口は約35万人になります。こうした人口の差異から観ると、地方豪族を中心とした東軍は最初から優勢だったと思われます。

また、西軍ですが、九州(筑紫)や中国(吉備)豪族は支援を断わっています。このことは、当時の天皇の権威と権力は弱かったことを示唆します。因みに、最初に天皇と名乗ったのは壬申の乱に勝利し、数々の実績を残した天武天皇で、天皇の権威と権力が認められたのは、この天武天皇以降と思われます。

すなわち、東軍の天武天皇側は勝つべくして勝ったことになります。当時の天皇の権威と権力が弱かったとはいえ、中央(朝廷)に抵抗し反乱するわけですから、よほどの理由がない限り、反乱軍に参加することはあり得ません。東軍は初めから勝と思っていたと推察されます。

そして、その他の地域ですが、西側の吉備国や筑紫国は中立の立場でした。当時は、天皇中心の中央集権体制を目指した大化の改新(645年)の後ですが、その改革は進んでいなかったことが推察されます。すなわち、地方の豪族は国造(後の国司)の地位にありましたが、中央とは独立した存在だったのが実情と思われます。

関連し、壬申の乱の頃の各県人口を、上の表を基に上トップ図に示しました。



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[ 2020/12/15 07:18 ] 日本の古代 | TB(-) | CM(0)

倭国滅亡と壬申の乱の関係愚考


壬申の乱の対立関係


倭国滅亡と壬申の乱の関係愚考(日本の古代)

北九州の倭国は、663年百済再興支援のため朝鮮半島に向かい白村江(663年)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、王は陸上戦で唐軍の捕虜となり、滅んだことを前回紹介しました。このとき、北九州の倭国は、この機に乗じた大和(やまと)政権軍にも攻められ、実質的に倭国の領土は大和政権に取り込まれたものと思われます。

関連し、倭国王が唐軍の捕虜になったことについては「倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権」を参照願います。

この結果、日本にあった倭国は滅び、日本は大和政権だけになり、「まつろわぬ者」は関東以北の蝦夷だけになったと思われます。この時、日本を揺るがす大事件、すなわち壬申の乱が起きます。

Wikipediaによれば、それは次のとおりです。


壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
(引用終了)

整理しますと、この争いでは、天智天皇(在位:668~672年)崩御の後、次期天皇予定の太子(息子)と天皇の弟(大海人皇子、後の天武天皇)が対立しました。

中央の豪族は天智天皇指名の太子(息子)側に付き西軍を形成、対して、伊勢など東側の地方の豪族は天皇の弟側に付き東軍を形成し、東西に分かれて戦ったという図式になります(下図参照)。そして、東軍の推す天武天皇(在位:673~686年)が勝利したことになります。

これは歴史的に何を意味するのでしょう。今回は、前回の倭国滅亡と関連し、壬申の乱について愚考します。

まず、北九州にあった倭国が白村江の戦(663年)に敗れ滅亡した直後の畿内政権ですが、都というものはなく、天皇が変わるたびに飛鳥や近辺に王宮を新設していた時代で、後の平城京や平安京と比べると、それは小さな王宮でした。中央の有力豪族や地方の豪族(国造)が王家を支えていた時代で、大和政権は寄合の小さな政権だったと推察されます。

しかし、663年に倭国が滅びると、大和政権は東海から九州までが範囲となり、領域が広くなりました。また、倭国が独占していた大陸との貿易権も得ました。すなわち大和政権の権益が大きくなったことになります。

こんななか、倭国を滅ぼすために軍を出した静岡等の豪族は何の報酬もなく不満が鬱積していた可能性があります。また、この機会に地方の豪族も中央の政治に参加できるようになりたいという欲望もあったと思われます。

なお、倭国を滅ぼすために軍を出した静岡等の豪族については「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。因みに、「指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)」とありますが、倭国滅亡の後、何の報償があったのか不明です。

そこで、大海人皇子は、こうした地方の不満を取り込み、静岡、愛知、岐阜、三重(伊勢)など地方の豪族を味方につけ東軍を形成するのに成功したと思われます。

一方、天皇になったばかりの大友皇子は西軍を形成しますが、西軍側は一枚岩でなく、例えば九州の筑紫は西軍への支援を依頼されながらも参加しなかったとあります。これは、畿内政権に潰された筑紫国(元倭国)の反感があったためと思われます。また大国の吉備(岡山)も中立を選んだと言われています。

この原因は、父の天智天皇にも問題があると思われます。天智天皇はもと中大兄皇子と言われ、大化の改新を中心人物と言われておりますが、天皇になった時が高齢、また在位は668~672年と5年しかありません。

日本書紀には激しい戦いがあった様子が描かれているようですが、大将が皇族とは言え、地方の豪族(東軍)の反乱に、天皇家が敗れたことは、天皇家の軍事力は弱かったことが推察されます。

以上のことから、大和政権というのは、それほど大きな軍事力や統率力を持っていなかったことが示唆されます。また、このことは、先に指摘しましたように、大和政権が百済支援のために大規模な軍隊を派遣したという日本書紀の記述は信用できなくなります。

まとめますと、大和政権というものは、豪族の支える小さな王権であり、支配していたのは畿内の一部だけだったというのが見えてきます。そして、地方の豪族には、大和政権の命令に従わない者も多数あった様子が見えてきます。

しかし、壬申の乱の後、豪族の力は弱くなり、勝者の天武天皇(もと大海人皇子)は強大となり、この結果、中央集権化が進み、その結果、後の藤原京、そして奈良の平城京という大きな都建設に向かう契機になったと思われます。


天皇と名乗ったのは天武天皇が最初と言われていますが、以上の事実から察しますと、彼が日本における最初の最高権力者と思われます。

関連し、下の図は壬申の乱の戦いの構図です。また、上トップに壬申の乱のときの様子を示しました。


壬申の乱の西軍と東軍の構図


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[ 2020/12/10 07:30 ] 日本の古代 | TB(-) | CM(0)

紫式部も日本書紀を信頼していなかった


紫式部画像


紫式部も日本書紀を信頼していなかった(古代史の問題)

拙ブログでは、日本の正史と言われる日本書紀は、真実もあるが虚構もあることを指摘してきました。

関連し、今回は、中国の歴史書(旧唐書や新唐書等)を原文で読んでいる壱岐一郎氏の「日本古代史における日中史料の大きな差異(壱岐一郎 2016)」 という記事を紹介します。

まず、その記事の後半部の一部を紹介すると、次のとおりです。


 最後に、私は10世紀に紫式部が『源氏物語』(蛍の段)で光源氏に言わせた「これらの物語にこそ道々しく詳しきことあらめ。日本紀なぞはただ片そばぞかし」という台詞を思い出す。しかも、19世紀末、西園寺公望は明治憲法を起草した伊藤博文・井上毅に対し「妄誕の書を重んずるは国に大いに損あり」と日記に書いた事実を重ねて銘記する。日本貴族の間ではおよそ千年も古事記・日本書紀が「でたらめ」とされていたことを証明する。遺憾ながら、西園寺の日記は百年眠っていて、発見されたのは京都・立命館大学において、なんと1990年秋であった。私たちは日本史上の2大文化人の警告に耳を傾けることが求められていよう。(引用終了)


この記事をまとめますと、日本史上の大文化人と思われる紫式部(上の図参照)や西園寺公望(下の図参照)の記述から、日本貴族の間でおよそ千年も古事記・日本書紀が「でたらめ」と判断されていたことが分かったこと、と思われます。

これは、前回紹介の旧唐書や新唐書が日本の古代史関係者からあまり評価されていないという問題の続きにもなりますが、日本書紀は信用してはいけないということだと思われます。

関連し、Wikipediaにありました紫式部と西園寺公望の画像を上と下に示しました。

西園寺公望画像

前回の続きになりますが、まさに、そのような日本書紀を現在も中心に据えている日本古代史に対し、「日本の古代史は戦前と変わっていない」 という指摘がありますが、それは当たっています。

なお、このような日本古代史の虚構に興味のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリの「古代史の問題」をクリックしますと、今までの関連記事を見ることができます。



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[ 2020/12/05 07:25 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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