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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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我が国最初の都は大宰府愚考


倭の五王時代の都は大宰府


我が国最初の都は大宰府愚考(西日本の古代)

これまで、倭国滅亡(663年)と壬申の乱(672年)を経て、関東および東北地域を除く日本がヤマト朝廷によって統合されたことを検討してきました。関連し、今回は、ヤマト朝廷と北九州倭国の都について愚考します。

拙ブログでは、現天皇家の始まりは継体天皇(在位:507-531年)と観ています。その理由は、記紀に記載されている天皇について、継体天皇以前の王については、王宮場所、王墓の場所が確認されていないこと、天皇として存在した物的証拠が巨大古墳以外にないためです。

このため、巨大古墳を残した王家は歴史的に抹殺されたと拙ブログでは観ています。その理由は簡単で、いくつもの巨大古墳建造のために疲弊した民衆の怒りが大きく、その王家は抹殺されたためと思われます。詳しくは「巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰」を参照願います。

そして、継体天皇以降の王宮場所を示しますと下表のとおりです。Wikipediaの報告をまとめたものですが、王宮遺跡が確認されていない場所もあります。そして、王宮が固定されている年数は少なく、一代の王が何度も王宮を変えている場合も見受けられます。

古代の王宮場所(継体天皇以降)

これらのことから、26代の継体王から39代の弘文天王までは小さな王宮であったと推察されます。これは、王権はあっても支配地は小さく、このため、平城京のような大きな都建設はできなかったためと推察されます。

そして、中国に習い条里制をもった都がヤマトに現れるのは40代の天武天皇からで、藤原京が初めてです。

天武天皇が壬申の乱の後、巨大な支配地域と力を持つようになったことを先に検討してきました。藤原京は、その巨大な権力を持った天武天皇が676年に建造を始め704年に完成させたものですが、それが我が国最初の都と言われております。その意味で、天武天皇は名実共にヤマト政権の大王になったと理解できます。

一方、ヤマト政権と並んで政権をもっていた北九州の倭国の都について検討しますと、それは大宰府と言われております。また、大宰府の条里制は藤原京のモデルになったとも言われております。

そのことに詳しいブログ仲間の記事「太宰府は、倭国の都だった! 太宰府遺構が物語ること」によれば、その都の建造時期は5~6世紀で、条里制に基づいて作られていました。5世紀は倭の5王の時代で、倭国全盛時代であり、それは歴史的事実とも合致します。

まとめますと、畿内政権の本格的な都は、8世紀初頭の藤原京(704年完成)ですが、倭国は、それより250年早い5世紀に条里制に基づく都(大宰府)を建設したことになります。

関連し、5世紀の様子を上トップ図に示しました。

なお、倭国の都「大宰府」が歴史から消えた理由に言及しますと、少なくない研究者が指摘していることですが、ヤマト政権を我が国唯一の政権と見せるため、国史である日本書紀で倭国の歴史を抹殺したためと思われます。

このことは、継体天皇が奈良・大阪にあったツングース系王家の歴史を抹殺したことと同じことです。そして、ツングース系王家が残した巨大古墳ですが、それらは現ヤマト朝廷が残したものとして日本書紀で扱われております。

日本書紀は、ヤマト王朝が我が国唯一の王朝であったというストーリイを創るため歴史改竄したものと思われます。

日本の古代史は戦前と変わっていない」と言われます。この日本書紀の歴史改竄は日本古代史解明の阻害になっていることは明らかです。そうした指摘を歴史学会は無視してきましたが、21世紀になっても科学が無視されているのは驚きです。

関連し、日本書紀の歴史改竄の最大の事例です。現天皇家は、万世一系なら朝鮮半島由来のツングース系になるはずですが、実際はアイヌ系であることが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で明らかになっています。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。



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[ 2021/02/26 11:01 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(0)

高松塚壁画女史像はツングース系の顔立ち愚考


高松塚壁画女史像(原画)


高松塚壁画女史像はツングース系の顔立ち愚考(日本人のルーツ)

前々回、天武天皇(在位:673-686年)は朝鮮半島由来のツングース系の容貌であったことを紹介しました。

関連し、今回は、同時代の高松塚壁画の女史像(上の画像参照)も、ツングース系の容貌であったこと、関連し、日本美人画への影響について愚考します。

まず、Wikipediaによれば、高松塚古墳は次のとおりです。

高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。(引用終了)

下の鮮明画像は「高松塚壁画館」からお借りしました。

高松塚壁画女史像(修正画)

そこで、これらの女史像の容貌ですが、細い眼、一重瞼、小さい口元、平べったい顔が特徴的です。また、身長も高身長の感じがします。前回も指摘しましたが、これらは、寒地に適応したモンゴル系の容貌で、かつ、モンゴル系と中国系の混合混血から満州(中国東北部)で発生したツングース系の容貌とも言われています。

その後、ツングース系は南下し、現朝鮮半島の主要民族となり、その一部が日本に移住したことが知られています。詳しくは「朝鮮半島由来の日本人は25%と思われる」を参照願います。

そして、この壁画に描かれている衣装は、高句麗や新羅のものと同じと言われています。

すなわち、この壁画は新羅由来であることは間違いありません。そこで、当時の日本と新羅の関係について愚考しますと次のような感じです。

新羅は、唐と連合し、660年に隣国のマレー系百済を滅ぼし、668年には北の大国であった高句麗を滅ぼし、朝鮮半島の統一に成功しました。

一方、日本は、白村江の戦い(663年)で唐軍に敗れた北九州の倭国を滅ぼし、日本統一に成功しました。そして、その後の壬申の乱に勝利した天武天皇(在位:673-686年)は、強大な力を背景に、朝鮮半島を統一に成功した新羅をモデルに新たな国作りを進めようとしたのではないかと思われます。

そして、そのような新羅と日本の有効関係の雰囲気が現れたのが、この高松塚壁画と思われます。

なお、6世紀前半、ヤマト朝廷の大王となった継体天皇(在位:507-531年)は、当時、朝鮮半島の先進国だったマレー系百済と関係を持ちました。しかし、百済滅亡前後からはヤマト朝廷は新羅と交易するようになっていった様子が、この壁画からも感じられます。

そして、その絵に表現された細い目や高身長の美人の特徴ですが、その後の浮世絵等の美人画の特徴と同じ感じを受けます。すなわち、日本美人の特徴はツングース系美人という感じは、この頃からあったと思われます。

因みに、秋田美人もツングース系と思われます。詳しくは「信長の妹「お市」はツングース系浮世絵美女愚考」や「ツングース系到来と日本美女伝説愚考」を参照願います。

また、その古墳に埋葬された人物ですが、諸説あるようですが、その壁画の内容から観て、新羅と関係した人物と観るのが妥当と思われます。



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[ 2021/02/19 10:19 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(0)

藤原家のルーツはマレー系A愚考


藤原(中臣)家のルーツは?


藤原家のルーツはマレー系A愚考(日本人のルーツ)

前回、蘇我家のルーツについて検討しましたが、このとき、藤原家の男系ルーツ(Y染色体ハプログループ)はO1b2a1a(マレー系)という興味深いコメントが入りました。

有名人のハプログループ(Y染色体O1b2a1a系統)」によれば、これは本当のようで、この情報を基に作成したのが上の系譜図です。

関連し、今回は、藤原家のルーツについて愚考します。

なお、O1b2a1aというハプログループは、ジャワ島(もとスンダランド)由来のマレー系で、5000年前の三内丸山遺跡時代に活躍、5000年前の岡山で陸稲栽培、日本に20%居るグループで、拙ブログではマレー系Aと分類しております。

マレー系Aの他に、日本には、中国の江南地方から水田稲作を導入したマレー系Bが10%ほどいますが、詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

まず、藤原家のルーツの中心となる藤原不比等ですが、その父は、乙和の変(645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)と共同して蘇我蝦夷を暗殺した藤原鎌足(もと中臣鎌足)です。

そして、有名な話ですが、藤原不比等を生んだ藤原鎌足の妻は天智天皇の女官であり、妻になったとき、すでに腹が大きくなっていました。このため、藤原不比等は天智天皇の子供と言われ、そのため、大宝律令や日本書紀の編纂など重要職に抜擢されたとも言われております。詳しくは「藤原不比等の謎」を参照願います。

しかし、最近のDNA分類(Y染色体ハプログループ分類)は、彼は天皇の子供でないことを明らかにしました。すなわち、Y染色体ハプログループ分類で、天皇家はアイヌ系(D2)ですが、藤原家はマレー系(O1b)です。

言い換えますと、藤原鎌足は天智天皇の女官を妊娠させ、その後、妻としたことになります。

以上の結果、藤原不比等については天智天皇の子供という説がありましたが、これはDNA研究の結果、否定されたことになります。

次に、藤原家の始まりとなった中臣鎌足の正体ですが、朝鮮半島由来説があります。中臣鎌足=百済皇子という説です。確かに、Y染色体ハプログループ分類からしますと、マレー系Aであり、朝鮮半島にもマレー系Aはいますので否定できません。しかし、存在時期が同等以外に物的証拠は無く、有力な説の感じはありません。

一方、マレー系A(海洋系、縄文系)とマレー系B(水田稲作導入、弥生系)の関係から見ると、朝鮮半島に多いのはマレー系Bで、水田稲作が発展し百済が建国されたという経過を見ると、百済皇子=マレー系Bとなり、藤原家のマレー系Aと異なります。

一方、歴史上、明らかなのは、中臣家は中大兄皇子と共同して豪族の蘇我家を滅ぼしたことです。すなわち、藤原家(もと中臣家)と蘇我家は対立関係にあった豪族になります。

現天皇家はツングース系王家を滅ぼした継体天皇(在位:507-531年)から始まりますが、このとき協力関係にあったのが、アイヌ系の蘇我家、縄文時代から居たマレー系A(中臣家?)と思われます。

例えば、当時も現在と同じ割合と見ますと、当時の日本民族割合は、アイヌ系35%、マレー系A20%、マレー系B10%(北九州倭国グループ)、朝鮮半島由来ツングース系25%、その他10%、になります。

アイヌ系の継体王グループが、ツングース系王家と戦うために縄文時代から居たグループをまとめたとすると、アイヌ系35%+マレー系A20%=55%になります。これは、強大だったツングース系25%を圧倒できる数値になります。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。

すなわち、継体王はアイヌ系だけでなく縄文時代から居たマレー系Aの協力を得て、ツングース系王家を滅ぼしたと観ることができます。このマレー系Aの代表が中臣家(後の藤原家)と見ると、中臣家の存在意義が見えてきます。

そして、中臣家の順位は蘇我家に続く第2位だったとすると、天皇家と親しかった蘇我家に対する中臣家の憎しみが見えてきます。

日本書紀によれば、乙和の変(大化の改新 645年)の目的は、天皇家をも凌ぐようになった巨大な蘇我家を滅ぼし天皇中心の律令政治を行うこととあります。しかし、当時は有力豪族の合議制で行われていた状況から観ると天皇中心の政治にしようとする勢力は弱く、真相は蘇我家を滅ぼすために仕組まれた中臣家の陰謀だったことになります。

後の壬申の乱(672年)で中臣家を含む天智天皇側が、地方豪族中心の大海人皇子(後の天武天皇)に敗れたのも、そうしたクーデターが支持されていなかったことになります。

一方、そのとき、天智天皇側だった藤原不比等は、少年時代だったため直接の関わりは無く、運よく難を逃れることができ、後に復活することができたのは知られているところです。

そして、藤原家が正義で蘇我家は悪党という日本書紀のストーリイは、日本書紀が藤原家由来の藤原不比等によって編纂されたことから想像すると、真相が見えてきます。そして、ここにも日本書紀の歴史改竄が見えてきます。

関連し、藤原家のルーツのマレー系A(海洋系、縄文系)が日本に移住した経過を下図に示しました。


藤原家のルーツはジャワ島


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[ 2021/02/12 11:22 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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