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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した


ヤマト朝廷の蝦夷地域支配経過


ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した(関東・東北の古代)

天皇中心の国家を目指した大化の改新(645年~)について、豪族の協力はわずかで、それは理想物語であったことを先に紹介しました。しかし、壬申の乱(673年)で勝利し、強大になった天武天皇が出現すると、豪族の力は弱まり、天皇中心の政治が可能になりました。

そこで、ヤマト朝廷の次の目標は、残された関東以北の蝦夷地域になりました。関連し、今回は、それがどのように進んだのか愚考します。

まず、奈良時代の以前のヤマト朝廷の蝦夷対策ですが、「北征(蝦夷支配)」によれば次のとおりです。

日本書記によれば、孝徳天皇の時代から斉明天皇にかけて、蝦夷支配が進められた。

大化3年(647)渟足柵(新潟市)、同4年には磐舟柵(村上市付近)が造られた。 これらの柵には、柵子と呼ばれた移民が置かれた。 皇極元年(642)には、越の蝦夷数千人が倭王朝の支配下にはいった。

これらの柵を起点に、三次の北征がなされた。

第一次は、斉明4年(658)4月、安部引田臣比羅夫、軍船180隻を率いて、蝦夷征伐に向かった。秋田・能代の二郡の蝦夷は、 この船団を見て降伏した。恩荷に官位を与え、秋田・能代の二郡の郡司に任命した。北海道の蝦夷を従えた。7月、蝦夷200人が飛鳥にやってきた。

第二次は、斉明5年(659)3月、安部臣、軍船180隻を率いて、蝦夷征伐に向かった。北海道の蝦夷を帰属させた。

第三次は、斉明6年(660)安部臣は服従した蝦夷の要請により、北海道の大河に至り、(中国大陸から)北海道にやってきていた粛慎と呼ばれる 異民族集団と交戦し、49人を捕虜にした。粛慎とは、中国大陸系統の人と言われている。日本書紀667年11月条に 「粛慎7人、(新羅の使者)清平等に従い至り」とある。

(引用終了)

以上の日本書紀の内容は、遣唐使が大型船2隻で行くのが精いっぱいだった時代から観ると、「(658年)軍船180隻を率いて、蝦夷征伐に向かった」とありますが、実証されておらず、真実かどうかは疑わしいところがあります。また、安部比羅夫の遠征が征服戦争のように日本書紀では描かれていますが、実際は交易に終わったのが実情と言われます。

そこで、日本書紀と遺跡研究などを総合しますと、大化の改新の始まった645年頃から、大和朝廷の領域拡大政策が始まり、まずは船で行きやすい北陸に向かい、647年に渟足柵(新潟市)、648年には磐舟柵(村上市付近)が造られた。さらには、658年からは安部比羅夫が、さらに北部の秋田、青森、北海道まで行き、支配地と言うよりは交易圏を広げた、のが真相と思われます。

そして、関東以北の宮城・岩手方面ですが、724年に宮城県に多賀城、801年には岩手県奥州市に胆沢城を建設しました。そして、抵抗していた蝦夷の英雄アテルイが802年に降伏しましたが、この頃、抵抗する者はなくなり、大和朝廷の東北支配がほぼ完成したのではないかと思われます。

なお、前方後円墳が多数あるから関東・東北地域は4世紀の古墳時代からヤマト朝廷の支配が及んでいたという説(前方後円墳体制説)がありますが、以上の経過から観ると、それはあり得ません。

これらの経過を上トップの表に示しました。



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[ 2021/03/26 11:04 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(6)

大宝律令(701年)に関東は含まれていなかった


大宝律令制定前の関東地方とヤマト朝廷


大宝律令(701年)に関東は含まれていなかった(関東・東北の古代)

関東に前方後円墳など古墳の多いことは知られています。このため、関東地域は、前方後円墳中心地のヤマト朝廷の支配を古墳時代から受けていたという「前方後円体制」説があることは知られているところです。

この説は多くの歴史解説書で散見されますが、その説には古墳以外の証拠はなく、単なる憶測の説です。

一方、拙ブログでは、奈良時代以前は、関東はヤマト政権に支配されていなかったこと、かつ、北九州の倭国との関係をもっていたことを指摘してきました。詳しくは「関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国」を参照願います。

関連し、我が国最初の体系的統治法令と言われる大宝律令(701年発令)では関東はどのような扱いだったのかについて今回は愚考します。

まず、「【大宝律令とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や制定した理由&人物・税制など」によれば次のとおりです。


大宝律令では)全国は畿内・七道の行政区に分けられました。
畿内は、天皇のいる奈良周辺の5つの国。現在でいうところの首都圏です。
大和国・山背国 (のち山城国)・摂津国・河内国・和泉国の5つの国に分けられ、五畿と呼ばれました。
畿内以外は、東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に分けられました。
さらに、各国は、「郡(ぐん)」、「 里(り)」に細かく区分。イメージは、国が都道府県、郡や里は市や区といったかんじ。
国のトップは「国司」。中央(都)から派遣された貴族が務め、中央に納める税の徴収などを行いました。
郡のトップは「郡司」。国司が地元の豪族から選んで任命。里のトップは「里長」と呼ばれました。

(引用終了)

また、関東への道と言われる東山道と東海道については、Wikipediaによれば次のとおりです。

(東山道)
律令時代の東山道は、畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路である駅路で[2]、律令時代に設けられた七道の中で中路とされた。畿内と陸奥国とを繋ぐ最短距離路としても重要だった[3]。ただし中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道である。陸奥国府・多賀城より北は小路であり、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。東山道には、駅伝制により30里(約16 km)ごとに駅馬(はゆま)10頭を備えた駅家(うまや)が置かれていた。

飛騨・出羽は行政区画で東山道に区分されていたが、国府には幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐していた。また出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。

東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝2年(702年)12月10日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録がある[2]。

(東海道)

東海道は律令時代に設けられた五畿七道駅路の一つで[注釈 1]、中路である[2]。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。
その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている[3]。

(引用終了)

また、関東・東北と関連し、蝦夷が多数居たと思われますが、蝦夷についてWikipediaによれば次のとおりです。

えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている。
(引用終了)

引用が長くなりましたが、以上の記事をまとめますと、次のようになります。

関東への道は、ほとんどが山の東山道を通る道と海沿いの東海道を通る道があるが、東山道は山の道を切り開き整備が始まったのが702年で、奈良時代以降、大和政権の関東支配が進むにつれ、道が整備されていったと思われます。一方、東海道は川が多く、多数の大河を渡ることは難儀で関東に到達するには東山道が確実だったことになります。

一方、中国の唐時代の歴史書の「旧唐書」によれば、北九州「倭国」に代って新しく朝貢を始めた大和政権について記述が有り、「その国の境界は東西南北とも数千里ある。西と南はそれぞれ大きな海が境界となり、東と北には大きな山があり境界となっている。その山の外側は毛人の国である」、と紹介されています。

関連し、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)では、アイヌ系の割合は関東地域48%、関西地域27%であることが分かっています。詳しくは「関西人のDNAとルーツ」を参照願います。

以上の東山道と東海道の状況や蝦夷(毛人)の状況、さらには最近のDNA研究は、「旧唐書」の情報と一致します。すなわち、関東地域は蝦夷の多い地域で、行くための道路が整備されておらず、大和政権の本格的な関東支配は奈良時代以降になったと思われます。

まとめますと、関東地方が大和政権の支配を実質的に受けるようになったのは奈良時代以降と観るのが妥当と思われます。大宝律令制定前は、国史は派遣されておらず、ヤマト朝廷と関東豪族との関係は、主に交易だけの関係だったことになります。

すなわち、前方後方墳があるから関東地域は古墳時代からヤマト朝廷の支配下にあったという説がありますが、実態は交易だけだったというのが真相と思われます。


なお、関東以北の地域の前方後円墳古墳ですが、これらは朝鮮半島由来のツングース系民族がルーツと思われますが、ヤマト政権と直接の関係はないグループと思われます。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

関連し、大宝律令前後の東山道・東海道と関東の様子を上トップに示しました。



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[ 2021/03/19 09:35 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

壬申の乱の背景には滅亡した蘇我家の怨念があった


壬申の乱の背景と豪族の盛衰


壬申の乱の背景には滅亡した蘇我家の怨念があった(記事まとめ)

壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇が、巨大な権力を握り、初めての都建設や大宝律令制定など天皇中心政治のための日本骨格を創ったことを検討してきました。

今回は、記事まとめとして、天皇中心政治の契機となった壬申の乱の背景について愚考します。

まず、Wikipediaによれば壬申の乱の背景次のとおりです。

乱の原因

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。

皇位継承紛争

天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。

白村江の敗戦(略)

額田王をめぐる不和(略)
(引用終了)


上記Wikipediaをまとめますと、天智天皇と弟の大海人皇子(後の天武天皇)の間に対立が起き、そのため両者が戦ったことになります。しかし、その対立が東国グループ(反朝廷側、大海人皇子側)と西国グループ(朝廷側、天智天皇の子供の大友皇子側)の対立という大きな戦いに発展した原因については説明できていません。

そこで、当時の豪族と天皇の力関係状況を愚考すると次のとおりです。

まず、朝廷側(天智天皇側)ですが、天智天皇はもと中大兄皇子で、中臣鎌足と共同して、当時のリーダーであった蘇我入鹿の暗殺(乙和の変 645年)を企てた本人です。さらには、上記にありますように、その後、当時の孝徳天皇やその皇子に対し、無礼な行為をしています。

そこで、問題となるのが、そのクーデター(乙和の変)は豪族に支持されていたかです。当時は、天皇+豪族の合議制で国は運営されていましたが、そのリーダーは蘇我家でした。蘇我家の横暴は知られているところで、そのため滅ぼされたという理由は分かります。

しかし、そのクーデターに参加した豪族は中臣家以外に無く、その他の豪族の支持は得られていなかった可能性があります。また、天智天皇(在位:668年~ 672年)が天皇に即位する時期が遅れたのは、周囲の支持が少なかった可能性もあります。

拙ブログでは、アイヌ系の継体天皇がツングース系王家を滅ぼしたとき、蘇我家も同じアイヌ系で重要な役割を担っていて、そのため大豪族となり、豪族のまとめ役になっていたと観ています。詳しくは「蘇我家のルーツ愚考」を参照願います。

蘇我家がアイヌ系となると、そのルーツはアイヌ系の多いところ、言い換えると縄文遺跡の多いところ、すなわち、ヤマト(奈良)の近くでは、岐阜、静岡、愛知、三重の地域がこれに当たります。これらの地域は、壬申の乱で東国グループ(反朝廷側)と同じ地域に当たります。詳しくは「壬申の乱は初めから東軍が優勢だった」を参照願います。

もし、蘇我家滅亡に関し、アイヌ系と同胞の東国グループが怨念を持っていたとすれば、東国グループは反朝廷側に着きやすい雰囲気があったことになります。そして、こうした東国の怨念を利用し、反朝廷側の大海人皇子は東国を味方に付けたのではないかと思われます(下表参照)。

壬申の乱の対立構図

一方、朝廷側(西国グループ)ですが、天智天皇を支えた豪族は、天智天皇の横暴もあり、味方する豪族は少なかったことは知られているところです。

以上の結果、西国グループ(朝廷側)は、人数でも勝る東国グループ(反朝廷側)に圧倒されたのではないかと思われます。

そして、この一連の戦いで、蘇我家、中臣家など大豪族の力は弱まり、これらの戦いに勝利した天武天皇は強大となりました。その結果、大化の改新(645年~)では天皇中心政治という目標は理想に終わりましたが、壬申の乱の後に強大な天皇を中心とする律令国家が実現したものと思われます。

関連し、壬申の乱の背景、および豪族合議制から天皇中心の律令国家になった経過を上トップに表で示しました。



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[ 2021/03/12 12:08 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(4)

天皇中心政治は大宝律令制定後に実働した


律令国家形成の経過


天皇中心政治は大宝律令制定後に実働した(日本の古代)

「強大な万世一系の天皇が居て日本を統治してきた」、という古代史観が戦前にありました。この観点は根強く、現在も変わっていません。

しかし、現実を観ると、天皇家は、朝鮮半島由来の弥生民族と思われてきましたが、DNA分類の結果は継体天皇(在位:507-531年)由来のアイヌ系であることが明らかになりました。このことは、天皇家は万世一系ではなかったことになります。

また、現天皇家の王家が天皇と名乗ったのは天武天皇(在位:673-686年)が初めてで、それ以前は大王(おおきみ)でした。そして、政治は豪族を入れた合議制で行われていました。これも初めから強大な天皇がいたわけではないことを示します。

そして、そうした豪族合議制を変え、天皇中心の政治を目指たのが、大豪族の蘇我家を滅ぼした乙和の変(645年)でした。しかし、乙和の変の天皇中心政治という目標は失敗に終わりました。そのことを証明したのが「壬申の乱」(672年)でした。

「壬申の乱」では、正当な天皇側(天智天皇側)を支持する豪族が少なく、東側の豪族連合(後の天武天皇側)に圧倒されました。このことは、天皇側でなく豪族側が勝利したこと、すなわち、天皇中心の政治は否定されたものと思われます。

しかし、歴史のパラドックスなのか、以上の結果、天武天皇が天皇になりましたが、天皇と並ぶ大豪族は無くなり、天皇が強大な権力を初めてもつことができるようになりました。そして、その強大な権力を背景に、中国と同様な条里制に基づく都「藤原京」を日本の中心地の奈良の地に建造したことを前回検討しました。

さらに、天武天皇は、天皇を頂点とする日本国家統治機構の基本となる「大宝律令」(完成701年)の制定を起案したと言われます。

大宝律令は、その後の政治体制の基本となりましたので、まさに、天武天皇時代に天皇を中心とする統治体制が出来上がったと思われます。

前置きが長くなりましたが、関連し、大宝律令が、どのようなものであったのかについて、今回は愚考します。

まず、Wikipediaによれば、大宝律令制定の背景は次のとおりです。


大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。

この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。

また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
(引用終了)


引用記事をまとめますと、この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立したことになります。

一方、乙和の変(645年)~大宝律令制定(701年)に行われた「大化の改新」を律令国家の始まりと観る説があります。しかし、その後の壬申の乱(672年)を観ると、中央に対する地方豪族の反乱であります。すなわち、「大化の改新」はほとんど実施されていなかったのが実情と思われます。

因みに、大豪族の蘇我氏を滅ぼし天皇中心の政治にしようとした「大化の改新」ですが、それを行ったのは天智天皇(もと中大兄皇子)でした。しかし、天智天皇崩御後の壬申の乱(672年)で、天智天皇グループ(天皇側)が東海・東山地域の豪族グループ(後の天武天皇側)にあっけなく敗北したのは、「大化の改新」が豪族に支持されていなかったことを示します。

その意味で、「大化の改新」は理想物語だったことになります。そして、壬申の乱(672年)を経て大豪族の力は弱まり、その結果、天武天皇によって日本が統一され、「大化の改新」の仕組みが大宝律令(刑法)の発足とともに実際に始まったのが真相と思われます。

関連し、乙和の変(645年)~大宝律令制定(701年)の歴史経過を、上トップ図に示しました。


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[ 2021/03/05 11:33 ] 日本の古代 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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