Archive2021年04月 1/1
人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる

人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる(稲と鉄)前回、田植え(移植栽培)は平安時代中期に始まったことを検討しました。田植えは稲増収技術ですので、水田稲作導入時と同じように、人口増大が予想されます。そこで、今回は、田植え技術により平安時代中期以降に人口が増えたのか検討します。まず、データですが、「近代以前の日本の人口統計」がWikipediaに出ております。5例の人口推定値が紹介されています...
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田植えの始まりは平安時代中期と思われる

田植えの始まりは平安時代中期と思われる(稲と鉄)ヤマト朝廷の日本統一に関し、これまで平安時代中期の蝦夷の英雄アテルイの降伏まで見てきました。この頃、東北は低温のため水田稲作は東北南部までしか普及していません。アテルイの地域は東北北部に当たり、貧困な畑作地帯だったと推察されます。ところが、田植え稲作が普及すると、稲作は東北北部まで可能になり、その結果、平泉黄金文化時代が始まるなど、東北北部は急速に変...
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蝦夷の地域はあったのか愚考

蝦夷の地域はあったのか愚考(古代史の問題)前回、蝦夷(えみし)と呼ばれた北東北の地域が短期間で大和朝廷の支配下に入ったことを紹介しました。この理由として、蝦夷も普通の日本人仲間同士であり、戦う必要のない地域であったことが考えられます。その意味で、蝦夷と呼ばれた人々や、蝦夷という異国のような地域はあったのかが問題となります。一方、東北地域にも前方後円墳があることに関し、古墳時代、大和朝廷の支配は東北...
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蝦夷の英雄アテルイはなぜ降伏したのか

蝦夷の英雄アテルイはなぜ降伏したのか(関東・東北の古代)歴史経過を観ますと、701年に大宝律令ができ、702年には東山道の道路整備が始まっています。その後、100年後の801年には岩手県奥州市に胆沢城が建設され、蝦夷の英雄アテルイが802年に降伏し、蝦夷の抵抗がほぼ終わったと言われます。以上の経過から、ヤマト朝廷の関東および東北地域の支配は100年で完了したことになります。また、前回、関東地域がヤマト朝廷の支配下に...
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ヤマト朝廷はなぜ関東支配を簡単にできたのか

ヤマト朝廷はなぜ関東支配を簡単にできたのか(関東・東北の古代)前回、大宝律令制定(701年)前は、ヤマト朝廷の支配は関東・東北地域に及んでいなかったことを検討しました。そして、関東の奈良時代遺跡ですが、群馬県の上野国分寺(こうずけこくぶんじ)や神奈川県の相模国分寺(さがみこくぶんじ)が知られております。聖武天皇の詔を受け、いずれも天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られます。この国分...
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