関連し、McEvedy & Jones (1978年)の人口推定から、200年ごとの古代の人口増加をまとめますと下表の通りです。200年ごとの効果ですが、田植え開始前の増加は2.00~2.33倍で、水田稲作導入と面積拡大の効果と思われます。一方、田植え開始後の人口増大は1.67~1.76倍で、田植えの効果の大きかったことが分かります。
以上のことから、McEvedy & Jones (1978年)の人口推定は、矛盾の少ない、歴史の流れに沿ったものであり、妥当と思われます。
まとめますと、平安時代の人口は、McEvedy & Jones (1978年)によれば1000年当たりから急速な人口増加が認められます。これは、移植栽培という多収技術導入効果と思われますが、さらには、寒冷地でも稲作が可能になり、稲作面積が増えた結果と推察されます。
① ヤマト朝廷は、大宝律令制定(701年)以前の認識として、関東、東北は遠く離れた地域にあり、道も整備されておらず、これらの地域の詳細は知らなかった。特に東北のことは知らなかった。
② 前方後円墳は大和朝廷の支配の象徴という前方後円墳体制説があり、多くの書物で本当のことのように紹介されています。しかし、その説でいくと、東北の多数の前方後円墳地域もヤマト朝廷支配地域となり、律令体制で、東北を蝦夷地域と呼ぶ必要性はなくなります。すなわち、東北地域が律令体制以前からヤマト朝廷の支配をうけていたという本説は事実と合いません。
① 大化の改新(645年)頃からヤマト朝廷との交易が盛んになってきたこと ② 壬申の乱の後、強大な天武天皇(在位:673-686年)が現れたこと ③ 郡司など役職が関東の地方豪族に与えられたこと ④ ヤマト朝廷と関東住民は同じ日本語を話すグループであったこと ⑤ 古墳時代に関東と関係のあった北九州倭国が滅びたこと ⑥ 関東には以前から大きな争いが無かったこと