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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる


近代以前の日本の人口変動(3例)


人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる(稲と鉄)

前回、田植え(移植栽培)は平安時代中期に始まったことを検討しました。田植えは稲増収技術ですので、水田稲作導入時と同じように、人口増大が予想されます。

そこで、今回は、田植え技術により平安時代中期以降に人口が増えたのか検討します。

まず、データですが、「近代以前の日本の人口統計」がWikipediaに出ております。

5例の人口推定値が紹介されていますが、前回指摘のとおり田植え時期を「栄花物語」の時期(平安時代)としますと、田植え開始は800年~1100年頃が予想されます。

5例のうち、社会工学研究所(1974年)とFarris(2006,2009年)のデータは800年以前のデータが1個と少なく、平安時代の人口変動を検討するにはデータが少ない問題があります。そこで、残りの3例について人口変動曲線を図示しますと、上の図のとおりです。

この図では、鬼頭宏(1996)の赤色曲線とBiraden(1993,2005)の緑色曲線はほぼ同じです。そして、両者とも1600年頃、異常な人口増加が認められますが、1600年頃というのは戦国時代終わりの時期で、このような人口増加は不自然です。

次に、最後のMcEvedy & Jones (1978年)の人口データですが、上記のような異常なデータは無く最も自然な感じがします。

そこで、McEvedy & Jones (1978年)の人口データを用い、平安時代前後について詳しく見ますと下図のとおりです。

田植え開始と古代の人口変動

この図では、0年~800年に増加が認められ、これは水田稲作導入と面積の増加によるものと推察されます。

次いで、800年~1000年に停滞します。これは、生産を刺激するものが無い律令社会の停滞を意味するものと思われます。律令社会というのは公地公民制で、民衆は土地に縛られ、税金を納めるだけの社会で、停滞はやむを得なかったと思われます。

次に1000年以降に、より大きな増加が認められます。まさに、これが田植えの効果と思われます。田植えにより収量増加が認められるだけでなく、それに係る人が増え、自力で開発した荘園(水田)を守るために武士が登場し、律令制度が壊れていく様子が読み取れます。

また、東北では、移植栽培技術により稲作適地が増え、人口が急速に増えていく時代でもあり、社会発展とマッチしています。

関連し、McEvedy & Jones (1978年)の人口推定から、200年ごとの古代の人口増加をまとめますと下表の通りです。200年ごとの効果ですが、田植え開始前の増加は2.00~2.33倍で、水田稲作導入と面積拡大の効果と思われます。一方、田植え開始後の人口増大は1.67~1.76倍で、田植えの効果の大きかったことが分かります。

稲移植栽培による人口増加

以上のことから、McEvedy & Jones (1978年)の人口推定は、矛盾の少ない、歴史の流れに沿ったものであり、妥当と思われます。

まとめますと、平安時代の人口は、McEvedy & Jones (1978年)によれば1000年当たりから急速な人口増加が認められます。これは、移植栽培という多収技術導入効果と思われますが、さらには、寒冷地でも稲作が可能になり、稲作面積が増えた結果と推察されます。

そして、前回報告を加味して結論しますと、移植栽培技術は、900年頃始まり、100年後の1000年から本格的に普及したと見るのが妥当と思われます。


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[ 2021/04/30 10:57 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

田植えの始まりは平安時代中期と思われる


田植えを支えた自由農民の発生(10世紀)


田植えの始まりは平安時代中期と思われる(稲と鉄)

ヤマト朝廷の日本統一に関し、これまで平安時代中期の蝦夷の英雄アテルイの降伏まで見てきました。この頃、東北は低温のため水田稲作は東北南部までしか普及していません。アテルイの地域は東北北部に当たり、貧困な畑作地帯だったと推察されます。

ところが、田植え稲作が普及すると、稲作は東北北部まで可能になり、その結果、平泉黄金文化時代が始まるなど、東北北部は急速に変わっていきます。

関連し、今回は、田植え稲作がいつ頃始まったのか愚考します。

まず、日本の水田稲作ですが、中国南部の江南地方から移住してきた越族によって3000年前頃に北九州で始まったと見られています。拙ブログでは、越族は、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)からマレー系民族であったと見ています。

そして、その水田跡は畑作雑草が多いことから、漏水の多い乾田直播であったと推察されています。

乾田直播という方式は、水の無い畑に播種し、芽が出たところで後に水を入れる培様式です。

一般に、稲が発芽し10㎝ぐらいになったところで水を入れますが、このとき、当時の水田は畑状態(乾田)であったため漏水が多く、冷水を何度も入れていたと推察されます。この結果、特に春は水が温まりませんので稲の生育が遅れます。また、根の発達も悪く、栄養吸収も劣り、良好な生育は困難です。この結果、収量は著しく低かったと推察されます。

このため、乾田直播栽培が適した地域は、漏水の少ない低地、具体的には低地や内陸盆地の底辺だけとなります。詳しくは「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」を参照願います。

そこで、田植え技術の優秀性に言及しますと、乾田直播と比べ、稲が生育し易い条件と思われます。

移植栽培には、田植えをできるようにするため、水と土を混ぜてこねる代掻きという作業があります。この代掻きは重労働ですが、畑状態であった水田を泥で固めるため、漏水が少なくなります。

このため、田植え後、溜まった水が温まりやすく、こうした条件を好む稲の生育がダントツに良くなります。特に、漏水の多い中山間地や低温がネックとなっている東北地域で効果を発します。

以上のことから、田植えは、従来の漏水が多いという乾田直播の弱点を変えた画期的稲作技術で、砂地以外はどこでも活用できる技術でもあります。

そこで、この田植え(移植栽培)がいつから始まったかですが、古文書では平安時代に書かれた「栄華物語」に最初に現れます。

Wikipediaによれば、次の通りです。

平安時代に書かれた『栄花物語』には田植えの風景として歌い躍る「田楽」が描かれており、大江匡房の『洛陽田楽記』によれば、永長元年(1096年)には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたという。(引用終了)

おそらく、田植えが田楽で演じられるのは、田植えという技術が新しく、かつ稲の多収技術として流行したためと思われます。

一方、田植えには、代掻きと田植えという重労働の問題があります。この重労働を考えると、乾田直播栽培に慣れてきた律令体制下の農民には困難なことです。

そこで、その重労働を誰が担ったのか検討しますと、当時の律令制度から離れていた高地性集落の畑作農民がいます。

高地性集落の人々は山間地で畑作をしていた人々が大半ですが、拙ブログでは、古墳時代になっても高地の遺跡数は弥生時から変わらないことを東京遺跡から検討しました。

詳しくは「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」を参照願います。

高地性集落農民を支えた畑作というのは、栄養が水田のようには水で運ばれてきませんので連作はできず、休耕が必要になります。しかし、休耕しても畑が肥沃になるには年数がかかり、貧しいままです。

そして、高地性集落が、平安時代中期に崩壊していくのが知られていますが、その原因は田植えに動員された結果ではないかと思われます。

当時の律令社会では租庸調税を払うことが求められています。おそらく、こうした人々が、税(庸)として代掻きや田植えに動員され、かつ、その過程で低地に定住するようになり、高地の集落は崩壊していったのではないかと思われます。

なお、高地性集落の崩壊については「なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか」を参照願います。

一方、律令社会の重税に苦しみ、逃げ出した農民も多く知られています。こうした人々は、新しくできた荘園の中に逃げ込み豪族の庇護を受けたとも言われます。これらの人々も代掻きや田植えに動員されたことは確実と思われます。

まとめますと、平安時代後期の「栄花物語」の「田楽」田植え踊りから察しますと、田植えは平安時代中期おそらく10世紀頃に始まり、そのなかの代掻きと田植えという重労働は、高地性集落の人々や荘園に逃げ込んだ自由農民が担ったと推察されます。

関連し、高地性集落民と自由農民と田植えの関係を上トップ図に示しました。



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[ 2021/04/23 12:41 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

蝦夷の地域はあったのか愚考

大和朝廷と蝦夷地域


蝦夷の地域はあったのか愚考(古代史の問題)

前回、蝦夷(えみし)と呼ばれた北東北の地域が短期間で大和朝廷の支配下に入ったことを紹介しました。この理由として、蝦夷も普通の日本人仲間同士であり、戦う必要のない地域であったことが考えられます。その意味で、蝦夷と呼ばれた人々や、蝦夷という異国のような地域はあったのかが問題となります。

一方、東北地域にも前方後円墳があることに関し、古墳時代、大和朝廷の支配は東北地域まで及んでいたという前方後円墳体制説があり、この説を多くの書籍が支持しておりますが、この説が正しいのかも問題となります。

関連し、今回は、「蝦夷の地域はあったのか」について愚考します。

まず、関連する見解として、「古墳時代から飛鳥・奈良時代に かけての東北地方日本海側の様相」(藤沢 敦 2013) という論文報告があります。内容(一部)は、次のとおりです。


古墳時代から飛鳥・奈良時代に かけての東北地方日本海側の様相[論文要旨]

文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側 では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が 広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実 は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求して いる。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「わ れわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」 という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。
(引用終了)

この報告をまとめますと、「律令国家による「蝦夷」 という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる」がポイントになります。そして、この指摘は当たっていると思われます。

すなわち、大宝律令制定(701年)後、ヤマト朝廷は、関東、東北支配に入るわけですが、このとき、東北地域を、野蛮な人の居る地域としての蝦夷の地域と分類したに過ぎないと思われます。

しかし、実際に蝦夷と呼ばれた地域に入ってみますと、特に、福島、宮城、山形ですが、古墳時代があり、同じように日本語を話すグループであった、というのが真相と思われます。

そして、このことは、古代の歴史認識として、次の2点が重要になると思われます。

① ヤマト朝廷は、大宝律令制定(701年)以前の認識として、関東、東北は遠く離れた地域にあり、道も整備されておらず、これらの地域の詳細は知らなかった。特に東北のことは知らなかった。

② 前方後円墳は大和朝廷の支配の象徴という前方後円墳体制説があり、多くの書物で本当のことのように紹介されています。しかし、その説でいくと、東北の多数の前方後円墳地域もヤマト朝廷支配地域となり、律令体制で、東北を蝦夷地域と呼ぶ必要性はなくなります。すなわち、東北地域が律令体制以前からヤマト朝廷の支配をうけていたという本説は事実と合いません。


関連し、東北の前方後円墳については「関東と東北の古墳建造時期は同じ」を参照願います。

なお、Wikipediaによれば、「蝦夷」の意味は次のとおりです。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。(引用終了)

関連し、上トップに、蝦夷地域について示しました。



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[ 2021/04/16 10:56 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)

蝦夷の英雄アテルイはなぜ降伏したのか


アテルイ降伏の経過


蝦夷の英雄アテルイはなぜ降伏したのか(関東・東北の古代)

歴史経過を観ますと、701年に大宝律令ができ、702年には東山道の道路整備が始まっています。その後、100年後の801年には岩手県奥州市に胆沢城が建設され、蝦夷の英雄アテルイが802年に降伏し、蝦夷の抵抗がほぼ終わったと言われます。

以上の経過から、ヤマト朝廷の関東および東北地域の支配は100年で完了したことになります。また、前回、関東地域がヤマト朝廷の支配下に入った理由について検討しました。関連し、今回は、蝦夷の英雄アテルイの降伏を事例に、東北地域の抵抗も弱かったことについて検討します。

まず、ヤマト朝廷は、724年に東北支配の拠点として宮城県塩釜丘陵上に多賀城を創建しました。次いで、801年には北東北支配の根拠地として岩手県の入り口にある奥州市に胆沢城を建設しました。

大宝律令制定は701年、宮城県に多賀城を創建が724年ですので、これまで23年という速さです。

この速さの理由ですが、先に紹介しましたが、安部比羅夫の658年の遠征がありました。安部比羅夫の遠征が征服戦争のように日本書紀では描かれていますが、実際は交易に終わったのが実情と言われています。こうした交易があり、関東と大和の関係は友好的に進んだものと思われます。

また、拙ブログでは「関東と東北の古墳建造時期は同じ」で関東と東北南部は繋がっていたこと、例えば、関東地域と東北南部は水田稲作の発展は同時に進み、前方後円墳の建造時期もほぼ同じであったことを検討しました。すなわち、関東と東北南部は同地域だったため、ヤマト朝廷の東北南部進出は関東と同時に進んだと観ることができます。

しかし、その後、岩手県の井沢城建設801年で77年かかっています。この理由として、岩手県は畑作地帯で水田稲作は無くヤマト朝廷の律令国家方針に合わなかったことが考えられます。

なお、岩手県以北の水田稲作については後程検討しますが、寒冷地稲作を可能にする移植技術が始まった平安時代中期頃から水田稲作が始まったと拙ブログでは観ています。

以上のことから、奈良時代、岩手以北は寒冷地で、畑作中心の集落ばかりでした。このため、ヤマト朝廷の租庸調の租税(コメ)は徴収できない地域でした。言い換えると、これらの地域は、貧しい地域でもあり、魅力のない地域だったことになります。そして、無理に支配し、税を取り上げるとなると、抵抗が大きくなったと観ることができます。

この抵抗で最大の事件は789年の巣伏の戦い(すぶしのたたかい、すぶせのたたかい)でした。朝廷軍が1061人の死者を出すという大事件でした。

一方、蝦夷の胆沢地域の様子ですが、Wikipedia(巣伏の戦い)によれば、次のようです。


胆沢の蝦夷の損害[編集]

巣伏の戦いでの胆沢の蝦夷軍の人的被害は不明である[6]。『続日本紀』によると朝廷軍は「十四村、宅八百許烟」を焼き討ちしているが[原 3]、宅八百許烟は竪穴住居800棟を指すものと考えられ、当時の胆沢地方の平均的な規模の竪穴住居は床面積20平方メートル前後であったと考えられているため、1棟に4~5人が住居したと仮定すると3200~4000人ほどが住み家を失った計算になる[9]。
奥州市水沢にある杉の堂・熊之堂遺跡群は奈良時代後期のものとみられる竪穴住居で、発掘調査により一時に火災で焼亡していたことが推測されている[9]。火災痕跡の年代観や、巣伏の戦いでの朝廷軍の進軍ルートとの一致から、朝廷軍による焼き討ちに遭った可能性が指摘されている[9]。

胆沢の蝦夷にとって巣伏の戦いでは勝利を収めたともいえるが、14ヶ村800戸が焼き討ちされているため決して微々たる損害ではなかった[10]。
(引用終了)

以上のことから、巣伏の戦いにおける蝦夷の損害は「14ヶ村800戸が焼き討ち」というたいへんなもので、これらの結果、蝦夷は抵抗を止め、降伏します。有名な「802年の蝦夷の英雄アテルイの降伏」です。

なぜアテルイの降伏したのか、まとめますと次の3点かと思われます。

① 抵抗したのは侵略されたためで侵略がなければ戦う必要はない。すなわち、朝廷方の坂上田村麻呂の侵略しないという和睦条件に従う。
② ヤマト朝廷は強く、戦っても無駄である。
③ もともと同じ日本人どうしである。


まず、①の坂上田村麻呂の和睦条件ですが、彼が多賀城に派遣されたのは多くの死者を出した巣伏の戦いの後です。彼の任務は、関東と同じように平和裏に大和朝廷の支配を進めることであったと思われます。このため、侵略的姿勢や行為は改め、和睦を優先させたと思われます。

Wikipedia資料には、アテルイには名字があり、これはヤマト朝廷から授与されたと言われています。また、坂上田村麻呂は人徳があったと言われます。すなわち、こうした人間関係からアテルイは、無益な争いはさけ降伏したのだと思われます。

坂上田村麻呂はアテルイを許すよう朝廷に嘆願したと言われます。しかし、死刑という残念な結果になったのは有名な話です。

次に②のヤマト朝廷は強いということですが、それは東北にも知れ渡っており、関東と同じように和睦を進める雰囲気を作ったと思われます。

また、③の同じ日本人どうしというのも、無益な争いをさける雰囲気を作ったと思われます。

当時、東北にはアイヌ系が多かったと思われますが、蝦夷と言われた北東北の人たちもアイヌ系です。また、朝廷方の多くの兵士は関東中心の部隊であり、アイヌ系です。同じ民族であり、初めから争う雰囲気は無かったのが実情と思われます。

なお、関東にアイヌ系が多いということは日本書紀にも書いてありますが、詳しくは「日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血」を参照願います。

まとめますと、北東北のヤマト支配は、関東と比較すると、朝廷方に侵略的行為があり少し時間がかかりましたが、坂上田村麻呂の人徳のある和睦行為で対立は無くなり、アテルイの抵抗を除けば大きな労もなく進んだと言うのが真相と思われます。

関連し、蝦夷の英雄アテルイの降伏の経過を上トップの表に示しました。



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[ 2021/04/09 11:18 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

ヤマト朝廷はなぜ関東支配を簡単にできたのか


ヤマト朝廷の関東・東北南部支配経過


ヤマト朝廷はなぜ関東支配を簡単にできたのか(関東・東北の古代)

前回、大宝律令制定(701年)前は、ヤマト朝廷の支配は関東・東北地域に及んでいなかったことを検討しました。

そして、関東の奈良時代遺跡ですが、群馬県の上野国分寺(こうずけこくぶんじ)や神奈川県の相模国分寺(さがみこくぶんじ)が知られております。聖武天皇の詔を受け、いずれも天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られます。

この国分寺の例からも、奈良時代に入り、争いもなく、関東は大和朝廷の支配を受け入れたと思われます。

関連し、今回は、なぜヤマト朝廷は関東の支配を争いもなくできたのか愚考します。

その理由ですが、次の6点が考えられます。

① 大化の改新(645年)頃からヤマト朝廷との交易が盛んになってきたこと
② 壬申の乱の後、強大な天武天皇(在位:673-686年)が現れたこと
③ 郡司など役職が関東の地方豪族に与えられたこと
④ ヤマト朝廷と関東住民は同じ日本語を話すグループであったこと
⑤ 古墳時代に関東と関係のあった北九州倭国が滅びたこと
⑥ 関東には以前から大きな争いが無かったこと


まず、①の関東と関西の交易ですが、文献的には安部比羅夫の658年の遠征が最初と言われます。安部比羅夫の遠征が征服戦争のように日本書紀では描かれていますが、実際は交易に終わったと言われております。こうした交易があり、奈良時代の関東とヤマト朝廷の関係は友好的に進んでいったと思われます。

次に②強大な天武天皇の出現です。関東の王や豪族には、これまでのヤマト朝廷と戦ったことはありませんが、支配を求めてきたヤマト
朝廷(天武天皇)が強大であることを知ると、戦えない雰囲気があったと思われます。なお、関東の大王については「古墳時代の関東の中心地愚考」を参照願います。

次に③ 郡司など役職が関東の地方豪族に与えられたことですが、この処置で、関東の王を支えていた豪族の地位はより明確になり、不満はなかったと思われます。これらの結果、関東の王もヤマトの支配を受け入れたと思われます。

次に④ヤマト朝廷は同じ日本語を話すグループであったことですが、これは、同じ仲間が一緒になることですから、一般民衆から観ると重要であったと思われます。

すでに検討してきましたように、日本はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%います。それぞれ独自の言語をもっています。そして、関東はアイヌ系が50%近く居る地域です。おそらく、現代日本語に近い言葉が使われていたと思われます。

一方、ヤマト朝廷ですが、その大王(天皇)のルーツはアイヌ系であることが分かっています。すなわち、関東もヤマト朝廷も同じ仲間だったことになり、異民族の支配という雰囲気はなく、この方面でも戦う雰囲気は無かったものと思われます。なお、詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

次に⑤北九州倭国が滅びたことですが、倭国は日本の先進地域として関東にも影響があったことを指摘してきましたが、この倭国が滅びたことは、ヤマト朝廷に対抗する勢力が無くなったことを意味します。このことは関東の王にも影響があったと思われます。

最後に、⑥関東には大きな争いが無かったことですが、これも大きな要因であったと思われます。弥生時代の争いと関連し、環濠集落が西日本に多かったことが知られていますが、関東の環濠集落は僅かで平和であったことが伺えます。すなわち、関東の古代に争いごとはもともと少なく、ヤマト政権とあえて戦う雰囲気は無かったと思われます。

関連し、関東の弥生時代と争いについては「弥生稲作と戦いはリンクしているのか」を参照願います。

まとめますと、大宝律令頃から強大となったヤマト朝廷と戦う雰囲気は関東には無かったと思われます。そして、その雰囲気は、弥生時代から古墳時代にかけて関東と同じように歩んできた東北南部も同じだったと思われます。なお、この方面は「関東と東北の古墳建造時期は同じ」を参照願います。

これらの結果、ヤマト朝廷は、大きな争いもなく、東北支配の拠点と言われる宮城県の多賀城まで一気に駆け上ることができたと思われます。因みに、大宝律令制定は701年、多賀城創建は724年となっています。

参考までに、Wikipediaによれば、「多賀城」は次のとおりです。


奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。(引用終了)


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[ 2021/04/02 11:16 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(3)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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