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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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縄文人DNAはなぜ減少したのか愚考


混血による縄文系DNAの減少経過イメージ


縄文人DNAはなぜ減少したのか愚考(日本人のルーツ)

田植えは平安時代から始まったことについて検討してきました。しかしながら、田植えは弥生時代から行われていたという古代史関連書物がいまだに散見されます。この問題については後程さらに検討します。

さて、拙ブログでは、Y染色体ハプログループ分類から、現代人の男系の縄文系の人々は、アイヌ系35%、マレー系A20%、その他10%、合計65%居ることを紹介してきました。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。

一方、縄文人のDNAは現代人の中に10%程度しかない、という指摘(コメント)を受けました。

調べますと次のとおりでした。


縄文人DNAは10%

 現代の日本人は祖先の縄文人が持っていたDNAの約10%を受け継いでいるとする研究結果を、国立科学博物館のチームが13日発表した。縄文人のゲノム(全遺伝情報)はこれまで部分的に解析できていたが、初めて解読した全ゲノムに基づいて分析した。
 日本列島には朝鮮半島から3千年前に弥生人が渡来し、縄文人と混血したとみられている。現代人が受け継いだ「縄文人ゲノム」の割合は、北海道に住むアイヌ民族と沖縄に住む人で高かった。チームは「日本人の複雑な起源を知る手掛かりになりそうだ」としている。【共同通信】
(引用終了)

以上のことをまとめますと、現在の縄文系の人々は男系で見ると65%居るが、DNAでみると縄文由来DNAは10%しかないことになります。

前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、この謎について愚考します。

結論から先に言いますと、日本の縄文系男子は妻として色白のツングース系(弥生系)の女を選んだ結果、縄文由来のDNAは減少したということになります。そして、それは長期間に渡って行われた結果と思われます。

これらの結果、男系のY染色体頻度は減りませんでしたが、Y染色体以外は弥生系のDNAが増えたことになります。

人間には46本の染色体数が知られていますが、この染色体数から概算しますと、次のような感じになります。

まず、縄文時代は100%縄文人としますと、46本全部が縄文人の染色体になります。そして、混血の結果、現代人には、10%しか縄文人のDNAが残っていないということは、染色体数で見ると縄文人の染色体は46本のうち5本程度(10%)しか残っていないことになります。男系の場合は、5本のうち1本がY染色体になります。

この経過を遺伝学的に検討すると、次のような感じになります(下図参照)。

混血による縄文系DNAの減少

まず、縄文系男子が弥生系女性と結婚しますと、その子供の縄文系DNAは50%になります。次に、その男子が弥生人女性と結婚しますと、その子供の縄文系DNAは25%になります。さらに、3回目になりますが、その男子が弥生人女性と結婚しますと、その子供の縄文系DNAは12.5%になります。

現在の縄文系人口は65%ですので、日本人全体で見ると、0.125×0.65=0.08(8%)が縄文系DNAとなります。現代人の縄文系DNA10%に近い値です。

現実的には、縄文系男性全員が弥生系女性と結婚するわけではありませんが、長い歴史の中で、縄文系男性が弥生系女性と3回以上結婚しますと、単純計算で縄文系DNA割合は10%以下になります。

そして、何故、縄文系男性が弥生系女性と結婚したかですが、次のような感じかと思われます。

日本には美人の容貌として、色白であることが知られています。色白は朝鮮半島由来のツングース系の特徴です。色黒の縄文人が色白のツングース系美女を好きになることは自然のことと思われます。詳しくは「ツングース系到来と日本美女伝説愚考」を参照願います。

そして、縄文系男性が弥生系女性と結婚した事例として天武天皇の容貌があります。天武天皇のY染色体ハプログループ分類はアイヌ系になりますが、容貌はツングース系(弥生系)です。詳しくは「天武天皇の容貌はツングース系愚考」を参照願います。

また、豊臣秀吉はツングース系の「お市」の方に憧れていたことが知られています。詳しくは「信長の妹「お市」はツングース系浮世絵美女愚考」を参照願います。

以上の事例からも、日本人男子が色白のツングース系女子を好んだことは明らかです。

まとめますと、現代日本人のDNAは縄文人由来が10%しか残っていない最大の原因は、日本の縄文系男性が色白のツングース系を妻にする傾向があった結果と推察されます。

関連し、その経過イメージを上トップの表に示しました。

なお、縄文系DNAが10%しか残っていないことと関連し、アイヌ系等の縄文人が淘汰された結果という見解もあります。しかし、男系Y染色体ハプログループ分類で見る限り、アイヌ系は今でも日本人のルーツの多数派であり、アイヌ系男子が淘汰されたという証拠はありません。

関連し、拙ブログでは、現天皇家はアイヌ系であり、アイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)が巨大古墳を建造したツングース系王家を滅ぼしたことを紹介しています。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。


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[ 2021/05/28 08:05 ] 日本人のルーツ | TB(-) | CM(14)

田植えは東北北部にも争いの古代史を作った


東北北部への田植え導入と武士の発生・戦乱経過


田植えは東北北部にも争いの古代史を作った(関東・東北の古代)

前回、平安時代中期(10世紀頃)、田植え(移植栽培)の普及により東北北部でも稲作が可能になり、人口が増え、豊かになってきたことを紹介しました。そして、平安時代後期となると、岩手県南部の平泉に藤原三代による黄金文化が栄え、このことが、マルコポーロによって黄金の国ジャパンと紹介されるようになったとも言われます。

この黄金文化の前に、豪族と中央貴族を巻き込んだ土地(水田)争いが東北北部でも発生しました。いわゆる「前九年の役」(岩手県:1051)と「後三年の役」(秋田県:1083年)です。

今回は、これらを事例に、東北北部の古代は、稲の移植栽培導入によって争いの場に変わったことを愚考します。

移植技術が普及する前の東北では、熱帯作物の稲が生育するためには冷水・冷温が問題で、稲栽培北限は山形、宮城まででした。このため、東北北部(青森、秋田、岩手)地域では雑穀(畑作)栽培が行われていました。

先にも述べましたが、畑作では1度作ると土地が痩せ、土地が肥えるまで休耕が必要となります。一方、水田稲作は、森から水が栄養を運んでくれますので連作ができるというたいへん有用なシステムです。このため、畑作地帯は、水田作地帯と比較し貧しく、人口は少なく経過しました。

しかし、田植え技術が導入されますと、困難だった東北北部でも稲作が可能になり、人口が増えました。また、水田は富の蓄積の基となり、奪い合いという争いが、他の地域と同じように起きてきました。

このため、関東の「平将門の乱」(939年)と同じように水田を守るための武士が現れました。詳しくは「田植え開始と武士の出現関係愚考」を参照願います。

そして、そうした武士登場を背景に、前九年の役と後三年の役が起きたと推察されます。それは、まさに新しく開発された水田領地争いでした。そして、そこで運良く勝ち残った者が東北に黄金文化を築いた藤原清衡でした。

なぜ藤原清衡が勝者となったのかは、経過が複雑で一言では言えませんが、次のような感じかと思われます。

前九年の役では、岩手の豪族の安部氏が、1051年に独立を目指し反乱を起こしました、しかし、京の政府は認めず、源頼義を大将に派遣し、秋田の蝦夷豪族の清原家の助けを得て、12年の戦いの後、安部家を滅ぼしました(1062年)。

この結果、勝者の源頼義は出羽守に、また源氏を助けた清原武則は鎮守府将軍になり、安倍氏に代わって、東北地方で大きな勢いを奮うようになったと言われます。

このとき、負けた側に藤原経清(黄金文化を築いた清衡の父)が居て、経清は殺されましたが、残された妻は幼少だった藤原清衡を連れ子にし、清原家に嫁ぎ、生き延びることができました。

続いて、清原家に内紛が起こりました(1083年)。そして、この内乱に乗じて勝者となったのは源頼義の長男の義家で、清原家を滅ぼしました。しかし、その争いは身内の領地争いとし、京政府は義家に清原家の領地の支配を認めませんでした。

そこで、北東北の支配者となったのが、清原家に居た藤原清衡でした。おそらく、源義家は武力があり、それを恐れた京政府は、土地勘のある藤原清衡に岩手と秋田の地を与え、義家に対抗させたものと思われます。

いずれにせよ、岩手の豪族の安部家、秋田の豪族の清原氏が滅び、中央とのパイプがあった藤原氏が最後に残った経過は、乱を起こした者は滅ぶという、平将門の乱に似たところがあった感じがします。

そして、後に奥州藤原は源頼朝によって滅ぼされましたが、その理由には北の憂いを取り除くという鎌倉幕府の表向きの理由だけでなく、後三年の役の勝者であったにもかかわらず報償を奥州藤原家に奪われた源家の怨念があったことが感じられます。

まとめますと、奥州藤原三代は、金山を開発し、平泉(岩手県)に黄金の金色堂を残したことで有名です。しかし、その前に、東北北部では、稲移植栽培の導入と水田面積拡大で富と人口が増え、次いで水田を守るための武士が登場したことが歴史上重要と思われます。

関連し、稲移植栽培導入から武士が登場した東北の歴史的経過を上トップに示しました。


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[ 2021/05/21 10:37 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

田植え技術は東北を変えた


東北の稲研究(書籍)


田植え技術は東北を変えた(関東・東北の古代)

前回、田植え(稲移植栽培)は平安中期(900年頃)に始まったことを指摘しました。そして、この稲移植栽培は、代掻きによる漏水防止があるため水が温まり、春の寒い時期の稲の生育を大幅に改善することも紹介しました。

このため、移植栽培は、水が冷たく稲の生育が抑制されてきた地域、すなわち、東北や中山間地域の稲作を可能にしました。

そこで、今回は、東北、特に北東北(青森、秋田、岩手)の稲作はこの移植栽培の導入により平安中期から始まったことについて愚考します。

なお、東北の最初の水田跡としては、青森県の「砂沢遺跡」(2500年前)と「垂柳遺跡」(2200年前)が知られておりますが、これらの稲作は広がらずに終わりました。このことから、北東北における本格的な水田稲作は平安時代中期の移植栽培と共に始まったと判断されます。

なお、青森の弥生時代稲作遺跡についは、「東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた」を参照願います。

我が国における初期の稲栽培は、乾田直播栽培方式、すなわち、畑状態のところに播種し、芽が出てきたところで水を入れる方式であったことを検討してきました。しかし、この方式ですと、水の冷たい東北では稲の生育が遅れることが知られております。

すなわち、当時の栽培技術では、稲栽培は山形、宮城が限界であったことになります。この区分は、実際、前方後円墳という大型の古墳が実在する地域と一致し、稲栽培で豊かになり、その結果、古墳建造が可能になったと思われます。

一方、「東北の稲研究」(編集代表:赤間芳洋 1996)という書籍が「東北農業試験場稲作研究100年記念事業会」から出版されています(上記写真参照)。そこに、東北地域が日本の主要稲作地帯になった技術的経過が紹介されています。

また、拙ブログで初期の稲作方式は乾田直播栽培と指摘してきましたが、その方式が本著では低コスト稲作技術として研究されてきたことも紹介されています。

この直播栽培を熱心に研究したのが東北では福島県でした。しかし、低温による生育停滞、かつ、雑草多発の問題があり、従来の移植栽培の収量を超えることはできなかった、と結論されています。

このことは、また、当時の乾田直播栽培は、福島では可能で、宮城、山形辺りが北限だったこと、そして、移植栽培技術によって稲栽培可能地が北東北まで広がったことを示します。

関連し、私は秋田の地(大仙地域)で稲の試験研究をしたことがありますが、そこで乾田直播栽培と移植栽培の比較を見たことがあります。乾田直播栽培では、苗立ちは可能ですが、漏水多く水持ちが悪いため、冷水と寒風の影響で稲の生育は遅れ、穂の出る時期は著しく遅れ、実らず終わったことを経験しています。

また、私は、低コスト稲作技術の乾田直播栽培を関東で研究したことがありますが、関東の5月播種の普通期稲作方式では、稲は順調に育ち、冷温の影響はないことも経験しました。

しかし、乾田直播栽培は漏水や雑草が問題でした。雑草は除草剤で解決しましたが、漏水問題は決定的で、さらには関連して地力低下問題も明らかになりました。すなわち、初年目は移植と同じく多収でしたが、地力低下と関連し年々低収になっていく問題が残りました。

以上の結果、乾田直播栽培は、低コストであるが、漏水だけでなく地力低下もあり、移植よりも低収という結論になりました。

関連し、このことは、古代稲作においても、移植栽培は東北だけでなく西日本でも増収効果があったことを示すものと思われます。

まとめますと、移植栽培は、移植前の代掻きによる漏水防止による保温効果が大きく、これまで稲作が困難だった青森、秋田、岩手の北東北3県の稲作を可能にしました。この結果、東北の全地域が平安時代中期以降、発展するようになったと思われます。

余談ですが、この時期、小野小町という美女が秋田に現れますが、なぜこの時期なのか不思議に思っておりました。しかし、これは、田植え稲作が広がり、北東北も豊かになってきたことを示すエピソードとして捉えれば不思議でありません。


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[ 2021/05/14 11:17 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

田植え開始と武士の出現関係愚考


稲移植栽培普及と武士登場の関係


田植え開始と武士の出現関係愚考(稲と鉄)

前回、稲移植栽培(田植え)は、田植え前に水と土を混ぜるという代搔き(しろかき)作業があるため、漏水が少なくなり、この結果、水が温まり、稲の成長が早まる多収技術であること、それは平安時代中期頃(900年頃)に始まったことを指摘しました。

また、その増収効果は、人口増大からみると、200年当たり1.7倍近くあったことを人口増大曲線から推察し、その効果が大きかったことを推察しました。

一方、田植えという移植栽培が始まった平安時代中期というのは、中央集権の律令国家体制が壊れ、地方に武士が出現し、武士勢力が拡大していく時代でもあります。例えば、関東で起こった「平将門の乱」(939年)は、武士発生の始まりと言われます。

関連し、「平将門の乱」を事例に、武士の発生と田植え技術の関係について今回は愚考します。

まず、その舞台となった荘園ですが、【荘園制とは】によれば次の通りです。

(わかりやすく解説!!日本史における意味や歴史(起源・崩壊)など)

①(省略)

②律令国家の形成
645年大化の改新をきっかけにし、豪族の力を抑え権力を集中させた国家の形成が進められていきます。
土地・人は公地公民として国家が直接支配するものとし、各地には「国」を置き、都から国司が派遣され、地方の豪族を郡司として指揮し、地方政治を行います。
701年大宝律令の制定で律令体制が完成され、その決まりに基づき戸籍が作成されました。
そして登録された6歳以上の人々に身分に応じた土地(口分田)が支給され、死後は返却することになります。これが班田収授法ですが、人々には口分田の面積に応じた租税他、様々な税(庸調など)が課せられたのです。

③税収の確保
その後、人口の増加や重い税負担による農民の逃亡で、口分田が不足し、税収も減少してしまいます。多くの農民が、口分田を所持してなければ課税もないということで、土地を捨てていたわけですね。
政府は税収増加を図るべく、723年三世一身法を制定し、新規開墾を行った人、その子と孫の代までの耕地の所有を認めます。
さらに743年墾田永年私財法によって新規開墾地の永久私有まで法律で認めてしまうのです。

④私有地の拡大
この法律を利用したのが、貴族や寺院でした。
公地公民の下、最初から彼らに対しては、元々の私有地の所有を認め、税免除もあり、さらに高い給料や多くの土地も与えておりました。まさに特権階級で余裕も十分にあったのです。
そこで、周りの農民や逃亡した農民などを使い大規模な土地開墾を推し進め、私有地を広げていったのです。これが、「荘園」の始まりで、このころの荘園を初期荘園(墾田地系荘園)といいます。

(引用終了)

引用が長くなりましたが、まとめますと、平安時代中期になると、土地や人民は国家(天皇)に属するという公地公民制(律令社会)の維持が困難となり、発展は停滞したが、私有地としての荘園(水田)が認められと、地方の国司や郡司などの役人が荘園を競って開墾した、という感じでしょうか。

そして、稲移植栽培の効果で紹介しましたように、その開墾した水田には、田植え技術が導入され、従来と異なり確実な収穫があり、水田を持てば富の蓄積が容易にできるようになった時代と思われます。すなわち、水田はたいへん価値あるものとなりました。

そして、平将門ですが、Wikipediaによれば次の通りです。

平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。(引用終了)

その生涯を見ますと、若いときに京の都に行き、官位を得ようとしたが失敗した。失意のうちに実家に帰ると、父は亡くなっており、自分の家の水田は叔父に奪われていた。そこで、新たに開墾を行い、新田を開発したが、その水田も叔父たちに狙われ、一族の争いに発展していった。

しかし、武力に優れた平将門は、叔父たちとのその争いに勝ち抜き、その結果、負けた叔父たちは平将門を中央に訴えたが、その争いは一族のもめごとと判断され、罰は受けなかった。その後、地域のもめごとの仲裁も行うなど地域のリーダーになっていったが、最後は時の権力と対立し、滅ぼされた、という感じでしょうか。

以上の状況を、稲移植栽培普及後の水田(荘園=私有地)との関連で観ますと、水田は高い価値があり、それを開墾した地方の豪族は、それを守るためには武力が必要であった。そして、その武力を公的なものとするため、中央(京の都)の官僚の後ろ盾が必要となり、それをできる者が武士の頭領になっていった、という感じでしょうか。

関連し、当時、律令制度の重税の苦しむ農民の逃亡、および、高地性集落の崩壊というものが知られております。移植技術には代掻きと田植えとう重労働がかかりますが、この問題は、これら自由民を荘園が抱え込むことで解決したことを先に検討しました。そして、彼ら自由民は、荘園における水田稲作栽培の担い手であり、かつ警護者(武士)になっていったと思われます。

まとめますと、移植栽培という新たな増収技術が、水田の価値を高め、さらに、新たに始まった私有地制度(荘園制度)は新水田開発意欲を高め、さらには、その水田を守るために武士が出現したと結論されます。

まさに、移植栽培技術は、停滞していた平安時代(中世社会)を変え、武士の登場という新たな近世社会の扉を開いた感じがします。

関連し、稲移植栽培技術と武士登場の関係を上トップ図に示しました。



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[ 2021/05/07 11:33 ] 未分類 | TB(-) | CM(7)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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